第二話
薬子は黒元夫婦に話しかけてみた。しかし彼らも明らかに会話は聞いていたはずだが、こちらを気にするそぶりは全くない。自分の職場の話である。気にならないのだろうか。だが新入りの人間が何か言っても誰も聞いてくれないのは当たり前だ。薬子の言ったことは間違いではないがやり方がまずい。自分はもう病院監査の人間でも指導者でも何でもないのだ。常勤薬剤師の助っ人でしかない。ただの派遣薬剤師にすぎない。
時刻は六時をまわっている。煮子さんはすでに退勤。久我はむくれて乱暴な態度で錠剤やカプセルを調剤棚に充填していっている。薬局長の和中は向こうの方で病棟からの電話を受けている。
黒元夫婦はお互い会話なく、黙々と薬品を充填していく。明日の調剤に備えて手際よく、効率よく。充填すべき薬剤はまだ残っている。散薬や水薬も手つかずだ。薬子は声をかけた。
「黒元さん、あの、こっちの仕事は終わったので……何か手伝いましょうか」
奥さんの方、黒元秀美の方がふりかえった。
「じゃあ、こっちの棚の充填をお願いします。余りがあれば調剤棚の上に箱ごとあげてくれていいから、ごみはこっちに」
「わかりました」
夫の方は無言で黙々と薬をつめている。
久我はまだ薬子をにらみつけている。
薬子は久我そのものを攻撃したのではなく、ここのやりかた、仕事のありようを批判したのだ。初日からではまずかったかもしれないが、薬子はどうにも我慢できなかったのだ。
ごく普通の薬剤師ならここはこうなのだから、とヘンだとわかっていても自分に言い聞かせて仕事をするだろう。またもっと気骨のある薬剤師なら啖呵を切って喧嘩してやめるかもしれない。
薬子はどちらでもなかった。自由だった。
だからやめるのは簡単だが、裏の仕事もある。ついでだから人間観察、というものをしてみようかと思った。
久我のキャラクターもそうだが、それを唯々諾々と従う和中薬局長、そして知らないふりをする、黒元夫婦この三人だけが百床ある病院の薬局の常勤薬剤師なのである。こんな狭い世界でいがみあいたくはないが、ちょっとここに身をおいても、おもしろいかもしれない。そう思った。
充填しているうちにパートとしての勤務時間が終わり、和中が「藤原さんはこれであがってください」 と言いに来た。薬子は聞いた。
「和中さんはまだ帰れませんか」
和中は微笑した。
「今日はまだ外来が終わってないのです。あと四人ぐらいです。こちらは当番を決めて居残りしますので大丈夫です。今日の当番は黒元くんと久我さんだから。だから私も帰ります」
「そうですか、それじゃあ、遠慮なく。明日もよろしくお願いします」
薬子がにっこりとしたら和中は更に笑顔を返してきた。元来性格が穏やかなので無資格調剤者である久我におしきられてしまったのだろう。それが長年続いてきたためこうなったのかもしれない、そう思った。
ロッカー室で先に着替えていたら和中が入ってきた。二人して白衣を脱いで着替える。薬子は和中に話しかけた。
「今日は空気を悪くしましたね、すみませんでしたね」
「いえ、それはいいのです。ただあなたは見てるとベテランだし、いずれは注射製剤の方も病棟もしてほしいと思いました。なのであまり久我さんともめるのは困ります」
「万一のことがあって最悪新聞記事になるようなことがあれば、薬局長である和中さんが責任を負うことになります。トップの院長もただではすみません。ここはその危機管理意識ができてなくて私は心底怖いと思いましたよ。私は久我さんのことは好きでも嫌いでもありません。空気を悪くしたことはすみませんが、でも悪いことをしたとは全然思いません」
「実はあなたのような人もいて、二,三日でやめられた薬剤師さんもいます。全部久我さんがからんでいましてこの点困っています」
「無資格調剤者がここを納めているのが不思議だしおかしいと思う。そういうことでしょ。それは薬剤師として当然だと思いますけど」
「はあ、でも……だけど常勤薬剤師が三人だけだと業務で手いっぱいで本当にもうキツキツで。ここは給料が激安なんでなかなか来てもないし、困っていたんです」
「久我さんをやめさせるという案もないですか」
「あの人は私よりも長いしそれは考えてないです」
「じゃあいつまでたってもここは変わりませんね。無資格調剤者が影の薬局長というのは私ここが初めてです。万一のことがあって患者に迷惑がかかると責任をとるのは和中さん、あなたなのに」
薬子の率直な意見にも和中は困ったように笑うだけだった。




