第九話
◎ 第九話
この小さな悶悶薬局は受け入れ処方箋は主に水位病院メインと近隣の私立病院数枚、歯科処方数枚という非常に楽な職場だった。しかも水位病院は小児科と内科がメインで重篤な患者は大きな病院へ紹介状を書くというから込み入った処方はほぼなかった。
つまり風邪や簡単な病気、つまり薬剤師としての技量が問われる粉砕処方や水薬調剤がほとんどないのである。小児科があるので、ドライシロップと言う甘い薬の計量調剤はあるもののほとんどが臨時処方で日数は少ないながらもやりかたが決まってくる。それも薬子もしくは夏野、社長がいるときは社長も調剤をする。
張名は何をするのか、というと患者に薬を出してとおりいっぺんの説明をしてその説明をとおりいっぺんに服薬指導記録と称したPCに入力するだけなのである。
これで薬剤師といえるのなら、社長も夏野も立派な薬剤師だ。
薬子は張名がいつも一生懸命入力している服薬指導記録を除きこむ。また自分が服薬指導するときにはその患者に以前対応したのは張名であるから過去の記録も見る。だが時間をかけて書いているわりには次につなげる指導らしき文言は皆無といってよかった。
服薬指導記録というのはその薬局に処方箋をもってきた患者にとっての個人情報の宝庫である。そして調剤薬局の命綱でもある。服薬指導記録をちらっとみただけで薬剤師としての能力も分かる。つまりその患者に対して何を「指導」 したかという記録でその指導力がみてとれるのだ。
ちなみに大部分の薬局ではソープ形式といって四つの部分に分かれて書かれることが多い。病院のカルテ記録でもそうだ。医師、看護師、薬剤師、臨床検査技師、栄養士、リハビリ整復師、一人の患者を取り巻くすべての医療従事者が見るものだ。だから共通事項としてそれぞれソープで書くのだ。
ソープ=SOAP
つまりサブジェクション(患者が何を言ったか主観的な事実) がS
次のオブジェクション(客観的な事実、つまりレントゲン映像、血液像などの検査結果など) がO
Aがアセスメントつまり患者にもしくは患者の家族に対する説明、昔でいうムンテラということになるか。
最後にP.
ソープ形式ではこれが一番重要視される。
Pがプラン。今後の指導計画もしくは問題点の解決アクセス、ポイントを書く。調剤薬局では院内カルテはまわってこないためにあまりページをさいて書くことはないというのも事実だが、だからといって軽視してよいことなんかない。
カルテがみれないというのは患者にとっても調剤薬局に勤務する薬剤師にとっても大いなる欠点でもあるがそれでもたった一枚の処方箋から医師の治療方針を読み取り、個々の患者にあわせた服薬指導を工夫してやっていくという職務の楽しみもあり、苦労もある。調剤薬局の薬剤師は薬を作って出したら出しっぱなし。そういう仕事ではないはずだ。
薬子は別のPCで張名が一生懸命書いているある患者の服薬指導記録をみてその幼稚さにため息をついた。
S=体調変わりません
O=処方前回と変化なし
A=続けてお飲みください。
Pの記載なし。
万事がその調子である。それだけなのに、時間がかかるのである。それとなく見れば書きだす前にその患者の住所や最初の問診書に書いてもらった記録などをひっくりかえして一読してからおもむろに書きだす。患者にたいしたことは話していないがまあとにかく書いていくわけである。
書けばいいのだろう、真面目にはやっている。大人しくて真面目。
薬剤師ではない人は張名の服薬指導記録に目をとおすことはない。だからやっていけるのである。夏野事務員も仕事はあくまで医療事務だから張名の文面を見ることはない。社長も薬局開設者でありながら薬剤師ではないので、張名の指導記録に疑問はもっていないようだ。
そういう指導記録を一生懸命やっているのである。そのため残業もし、次の日の朝にもやっていく。その繰り返し。
張名の仕事は監査してから指導、投薬。
薬子が入ってから調剤は薬子メインでやることになっている。
張名はそういう状態に疑問はないようで座っているだけで管理薬剤師としての職務は果たしたと思っているようだった。薬子は張名が全く理解できない。
近隣の少し込み入った処方箋がくると張名は処方箋を放り出したまま手を出そうとしない。薬子はさっさと調剤してまわった。
今日は水薬の処方箋が来たが薬子は十四日分投薬の場合は水薬びんを二本に分けて調剤した。もちろん七日分ずつの二本である。それを張名はどうして二つに分けて小分け調剤をするのかと薬子に聞いたのだ。
水を入れて調剤する水薬の場合は長期投薬時には注意を払う。水分を入れると効果が落ちることもあるからだ。暑くなる季節にはくさることも心配だ。最初の七日もしくは公約日数分を調剤し後の分は原液のままで患者に渡す。最初の水薬びんを飲みきってから、原液のまま渡した水薬びんを飲むように説明する。患者自身か家族に原液の入っているびんの指定するところまで水を入れてもらうのだ。そう説明すると張名は「そういうやり方もあるのですね」 と感心したようにいう。
薬子は思わず張名に「今までどうしていたの?」 と聞くと平然と「そのままどばっと渡してスポイドや薬杯をつけて○ccずつ飲むように言ってました」 と堂々と言う。張名は調剤室の出入りに霧状の消毒剤もきちんと置いてあるのに全く消毒をせずに調剤するし、つばつけ調剤といい衛生観念と薬剤師のプライドが全くないといってよい人なんだと思った。
ここまで考えがおよぶと薬子は全く迷わない。
張名を教育?
今からこの人を教育?
私はそんなことはしない。
次の日は雨も降り交る荒天だった。
こういう日は足元が頼りない。足腰が弱いお年寄りなどはまず来ない。病気を治すために病院へ行ったのに、転んでけがをしたら何もならないからだ。薬子は患者が来ない空白の時間帯を見計らい、張名に声をかけてある質問をした。




