第六話
◎ 第六話
社長は座がなごやかになって安心したようだった。
「藤原先生、昼からは三時から診察なんです。だから気楽にしてください。ただ火曜と金曜日だけは近くの老健施設からの処方箋がくるので多少は忙しいかと思います。今日はゆっくりでいいです。雑誌や新聞は待合室にあるので気楽にみてください」
見ればもう張名はヘッドホンをかぶっている。話は終わったと思っているのだろう。あれだけの会話でも苦痛に感じる大人しい人なのかもしれない。薬子も何となく気楽になり、一日でやめた人もいるから一体どういう職場なんだろうと身構えてきたのがバカバカしくなった。
あとで社長がそっとやってきて「張名くんはああいう口の重たい人だけどいい人だから。藤原先生なら大丈夫でしょう、私は本当に安心しましたよ」 と言ってきた。
それからやおら白衣を脱ぐ。
「私は喫茶店の経営もしているんです。ほら昨日会ったあの喫茶店です。ウエイターもしているんです。それでまた診察時間終了までにも手伝いに来ます。夏野くんには患者がたてこんできたら携帯ならすように言ってあるのでいつでも来ます、よろしくお願いします」 とあいさつしてきた。
あらまあ多角経営なのね、と思いつつ薬子は悶悶のはげ頭を見つつこの調剤薬局ではこの人数でも多いくらいだろうなと思った。
だが患者が狭い待合室に三名もくると夏野はそれを混んでいると判断するらしく社長を呼ぶのだ。社長と夏野は調剤補助にまわり、服薬指導を主に薬子がした。張名がする時もあるが基本的に彼の服薬指導は処方箋の指示通りの用法を口頭で繰り返して言うだけだった。薬の名前や服薬方法は薬が入っている袋を読めばわかる。口頭でいってきかせないとわからない人もいるが薬品情報提供用紙と称した薬の説明用紙にはカラー印刷で一目で薬の識別や服薬がわかるようにもなっている。張名のすることはまるで動く説明用紙だった。「日本人の識字率はほぼ百%なんですよ」 と言いたくなるぐらい通り一遍のことしか言わない。
患者が何か聞いてくるとおうむ返しに「医者に相談してください」「様子見てまた受診して下さい」 しか言わない。薬子が夏野にいつもああなのか、と聞くと夏野は社長と同様薬剤師でないので薬子のいうことがイマイチわからないようだ。そうです、張名さんは無口な人なのであれで精いっぱいなのでしょうという返答だった。
終了間際に近医の歯科の処方箋を飛び込みでもってきた患者は新規だった。
新規に来られた患者さんには連絡先や今までの服薬歴や副作用歴を聞くことにしている。ゆっくり聞く時間はないのでアンケート形式であらかじめ印刷しているシートに書き込んでもらうことになっている。
ちょうど薬子が別の患者と話をしていてそれが終わった時に、ちょうどその新規来局者と張名が話をしていた。薬子は聞くともなしに聞いている。
「昔ケモノールでじんましんができたのですが、これだったら大丈夫ですよね」 と患者。
「今日でたのはフロロクスですから多分大丈夫でしょう。万一蕁麻疹ができたら飲むのをやめてお医者さんにかかってください」 と張名。
「わかりました」
「お大事にしてください」
「ちょっと待ってください」
薬子は思わず口をはさんで、その患者に話しかけた。本来薬剤師と患者が話をしていてそれが終わってから別の薬剤師が同じ患者に話しかけることはまずない。
でも薬子は話さないといけなかった。なぜならケモノールで過去じんましんという副作用をおこした履歴があるなら今日歯医者で処方された抗生剤のフロロクスは飲ませてはいけないのだ。
なぜなら抗生剤というのは種類があってある一種の薬で副作用を起こした場合、同種の薬剤は全部絶対禁忌になる。名前は違っても副作用を起こす可能性が大なのである。だから飲ませてはいけない。
「あの、今のお話ではケモノールでダメだった場合はフロロクスもだめです。二つとも同じセフェム系の抗生物質ですから。申し訳ないですがその歯科医の先生に疑義照会といって別の抗生剤に変更できないか聞いてみますのでもう少しお待ちいただけますか」
患者は三十代の男性だったが怪訝な顔をして張名と薬子を交互に見た。薬子は患者に恐縮しながらも「申し訳ありませんがなるべく早くしますのでもう少しお待ちください」 と重ねて言い頭を下げる。
「わかりました」
患者はそういって薬子のいた投薬台に行き薬の入った袋と領収書を返した。薬子はすぐに夏野にその処方箋を持って来させその歯科医に直接電話してその患者の副作用履歴を話した。
幸いその歯科は電話を待たせることなく、即答でペニシリン系のサワサルに変更指示を出してくれた。
薬子は夏野に医療事務の計算のやり直しを命じて薬袋の書き直しをする。夏野は無駄な行動は一切なく手際よく事務処理をしてのけた。薬子は新しい薬を出し患者に再度説明をして薬の変更したことを言う。
患者は快く「わかりました」 と言ってくれてほっとした。
薬子は再度恐縮しながらも患者を送りだした。一度説明したはずの薬を変更させたのである。張名のミスであることは明白ではあるがとりあえずたまたまであっても私が聞いていてよかったと思った。
その間は張名は何をしていたかというと、調剤室にのそっとした感じでつったっていた。薬子の顔を見ても何も言わない。薬子はつとめて冷静に言った。
「あのう、あなたが出されたのはセフェム系なんですよ、まめに疑義照会をしないと迷惑するのは患者さんです」
「そうらしいですね、私はケモノールの薬がセフェム系とは知らなかったんです。こっちでは取り扱ってなかったのでね」
「だったら最初にケモノールが何の薬かを調べるべきなんですよ。知らない薬の名前があがったらまず何の薬か調べるのが常識でしょう?」
張名は突然薬子に向かって頭を深く下げた。
「そうですね、知らない薬が出たら今度からちゃんと調べるようにします。すみません、すみません」
……今度からってあなたはおいくつですか、何年薬剤師をやってたのですか、しかも薬局長までしていた薬剤師がこんな初歩的なミスを……と言いかけたがもう終わってしまったことだ。また勤務初日でそんなこと言えるはずがない。第一張名本人があんなに頭を下げたのだから。また薬子は謝っている人間に対してがみがみいうタイプの人間ではない。
薬子が黙りこむといつのまにか来ていた社長が明るい声で「これで今日の患者さんは終わりかな、店仕舞いしようか」 と言った。夏野はほっとしたように「そうですね、カーテンしめまーす」 と言った。社長はレジを大きくあけてお金の勘定を始める。
張名は、今日の服薬指導分の処方箋を手に持っている。そこから自分が服薬指導を受け持った患者の処方箋のみ引き出してPCの前にまた座った。
今からまた新たに打ち直すのだ。みれば十枚はあるだろう。今日できねばまた明日の朝、打ち込むのだろうか。今朝は昨日の処方箋の打ち込みをしていたのだから。
ちなみに薬子は夏野から簡単な説明を受けたうえで服薬指導記録をすでに入力済みである。記録の書き方はそれぞれの薬局のやりかたと言うものがあろうが、張名はそういうことに関しては無頓着なようで一切の説明はなかった。社長がおまかせします、と言った以上は薬子はこの記録法がベストかな? というやりかたで指導記録を書いてみた。これでいいかどうかの確認もすべきだったかもしれないが、薬子は張名には何も言わなかったし聞かなかった。こういうタイプの薬剤師には初めてであったからだ。
そして張名には薬子にとって、これだけは許せないという癖があった。




