第一話
◎ 第一話
薬子はただ今L県にいる。車を三十分も走らせば海が見える。
夫の藤原彫須はサーフィンもするのでこの地に引っ越してからは特に夏が待ち遠しいようだ。よいスポットがあるのを聞いたのだろう。
しかしながら彫須の今度の仕事も公安関係で組織潜入時場合によっては一カ月で引き上げることもある。一カ月でひきあげるなら夏にサーフィンするのは無理だ。だって今は五月だもの。
でも彫須は落ち着いたらサーフィンするぞ、あれは季節に関係なくできるものだ。ラバースーツ着てやるのさ、と張り切っている。
まあ仕事は水もの、人生も流れていく。
だからどうなったって生きていれば……生きていくしかないのだ。
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薬子は例によって引っ越しから落ち着くとハローワークで仕事さがしだ。今回は特に夫の仕事が不安定としかいいようがないので、派遣でも雇ってもらえないかもしれない。
だが薬剤師という職種は人手不足でいつでも求人をしている。だから夫の仕事の関係でいつ異動になるかわかりません、つまりすぐやめるかもしれませんという我がままとしかいいようのない仕事探しにもなんなく見つかった。こういう我がままとしかいいようのない条件でも快諾して雇ってもらえる……そういう職場では何らかの問題がある。というのがお約束。
今度の薬局の名前は悶悶薬局。
小規模の病院の門前薬局だ。競合相手がいないという絶好の立地なのに、百戦錬磨の薬子も一体これはどうしたらいいんだろうと思う職場にあたってしまった。
今回はその話。
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悶悶薬局は一店舗だけの経営、つまりチェーン薬局ではない。しかも経営者は薬剤師ではなく、薬剤卸の業者だったが定年退職をきっかけに株式会社・悶悶を設立したという。よくベッドのある内科病院の門前の立地がとれたな、という感じではある。
しかしながら設立者つまり経営者の悶悶毛裸は実は病院とそこにつながる土地の地主でもあったのだ。そこの先生が夫の院長の死をきっかけに院外処方線を出すつもりだからよい薬局をさがすと言いだした。折よく家主の自分が候補にと名乗りをあげたわけだ。つまりこの悶悶社長が地主の立場かつ薬剤の卸で培えた経験もあるので調剤薬局経営を思い立ったというわけ。
開設当時は長年病院に勤務していた薬剤師をそのまま雇い入れた。なのでこれ以上ない人材にめぐまれ薬局経営も順調だった。設立して五年目だった。
薬子は悶悶社長からまず面接を受けた。
面接の場所は調剤薬局ではなくその近くにあるという喫茶店を指定された。こういうのも珍しい。
だが薬子は後でいきなり職場を見せないのは理由があったと納得できた。
指定された時間通りに現れた悶悶社長はきちんとスーツをきて薬子をみるとさっと名刺を取り出してあいさつした。
「やあやあ、あなたが藤原薬子さんですか、はじめまして。私はあなたを一目みただけで、よい薬剤師さんだとわかりますよ! 短期とはいわず、どうか末長く勤めてください。あなたの希望する時間も曜日もすべて条件をのみますから、どうか頼みますよ」
まず上記の発言をしてから、横にいたウェイトレスに「ホットコーヒー一つお願いします」 と頭をさげた。さげるとつるつるのはげ頭がきらっと光った。そう、悶悶社長の頭にはもう一本の毛髪もなかったのだ。
目じりのしわもいい感じで、体型もほっそりとしてしなやかな感じ。姿勢もよい。あとで聞くと社交ダンスを夫婦で長年楽しんでいると言う。それも納得の体型だった。
彼の年は七十歳も近いだろう。目に輝きがあり肌にも艶があった。ループタイがよく似合う年若いおじいちゃんといったところか。
快活な性格がわかり薬子も好感をもった。悶悶は薬子を前に言った。
「なんでも聞いてくださいよー、できる限りのことは答えますし、時給の希望もかなえますからこちらに長く勤めてくださいよー」
それから声をひそめて愚痴を言った。
「いや実は薬剤師の人材確保に困ってましてね、開局当時の最初はよかったんだが……藤原さんあなたはしっかりした人だ。履歴書を見る限り本来ならうちのような小さな調剤薬局ではなく大きな病院でばりばり働く先生ではないでしょうか、だからこそうちに欲しい人材です」
悶悶は抜け目なく薬子をほめまくる。それからおもむろに薬子に事情を打ち明けた。




