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第十一話

第十一話


 薬子は小川に心から感謝しつつ、エレベーターに乗った。五十五階の広報部、そして烏賊のいる広報部長室はもう三十秒とかからない。烏賊はもう部屋に戻っているだろうか。

 五十五階まであがると広報の矢内と初対面の部下らしき人が数名エレベーターホールにいた。矢内はアタッシュケースをもっている。薬子を見ると手をふった。

「これから営業だよ、きみは初日だから部屋に戻って。机はまだ用意してないが下里にいいつけている。それと……」

 薬子は矢内をさえぎった。

「私は広報部長の烏賊さんのところに用があるのです、すみませんが」

「ああいいよ、もちろん」

 下りのエレベーターがすぐに降りてきた。矢内たちはエレベーターに乗った。乗りながら「じゃあ」 と言った。矢内はいかにも敏腕そうな広報マンだった。薬子はやれやれと思った。ぼろを出さないうちにさっさと仕事をしてしまおう。薬子はもう広報も戻る気は全くなかった。さっさと仕事を片付けてしまおう。

 製薬会社の仕事も悪くはないがどうにも薬に囲まれていないと落ち着かない。私の居場所はやっぱり薬まみれの薬局もしくは無機質な滅菌製剤室や有機溶剤の匂いがどことなく充満する研究室なのだ。

 製薬会社の広報だって薬の知識が必要な職場だとはわかるがやはり自分には臨床現場が似合っていると思った。

 さて薬子は広報部長室まで行った。

 秘書らしき女性が部屋の前の机にいた。薬子はかまわず「私は田崎楠子ですがどうしても今、烏賊部長に会いたいです」 と言った。

 秘書は三十代の聡明そうな女性だったが薬子の強硬な態度にとまどっていた。

「烏賊部長は確かに在室しておりますが、アポを取られていないのでしたら今からちょっと聞いてみます。その前にご用件を伺っていいでしょうか」

「会ってから本人にいいますので、とりあえず取り次いでいただけないかしら?」

「はあ」


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 果たして烏賊部長は会ってくれた。朝に面会した部屋と同じだった。烏賊は不審げに薬子に「人事に行ったのか? 何か入社に当たっての契約事項に異議があったのか」 と聞いてきた。

 薬子は「あります、アマクナーレの広報の一件につきまして」 とずばっと言った。烏賊は不快気な表情を出しそしてそれをひっこめなかった。

「勤務初日なのにえらく強気な態度にでるね? 宮坂教授のせっかくの推薦だったが、きみの出方次第ではうちとは縁がないかもしれないな」

 秘書が部屋を出た。薬子はやれやれと思って話を切り出した。

「縁があるかないかは、私が決めることです。烏賊部長、あなたは皆川珠洲絵さんをわざと死なせましたね」

 烏賊は口をあんぐり開けたかと思うと、顔を真っ赤にして怒りだした。

「なんだ君は。そういう話を私とするために入社したのか、アマクナーレの一件はもうすでに終わっていることだ。君の仕事とは関係もない話だ。今更そんな話を蒸し返して何をしようとしている」

「アマクナーレの捏造論文は、すでに終わった話ではないのです、もしかしたらシリーズものの新作としてこれから始まる話しであるかもしれませんよ?」

「なんだと?」

「まずは警察に行きますか、それともまずはご血縁の頼りにしている社長さん達に泣きつきますか」

「なんだと?」

「私は皆川珠洲絵の死を鑑みてあの自殺はあなたがかかわっているのが明白だと判断しました」

「君、なにものだ? 宮坂教授は一体なにものをよこしたんだ」

「アマクナーレの捏造論文はゼット製薬の威光で鎮火できると思っているのかもしれないが、あなたが皆川珠洲絵にした仕打ちはまさに殺人だろう」

「殺人、私は珠洲絵には手をかけてないぞ、一体何を根拠にしてそういうことを言い出すのだ。私は今警備員を呼ぶ、そしてきみを名誉棄損で訴えるぞ」

「私のこれから言う言葉を聞かず、警備員を呼んで私をこの部屋から追い出したいのならぜひどうぞ」

 烏賊は顔を真っ赤にしていた。手足も小刻みに震えていた。だが声は大きくない、逆に小さく低くなっていった。隣にいる秘書に聞こえないようにしているのだ。そしてすごく動揺している。

 実にやりやすい相手じゃないか? 薬子はほくそえんだ。そしてポケットから例のメモ用紙を出す。

「これ、あなたのご筆跡ではないですか? うふ」

「あ、どこにあったんだ、返したまえ」

「自殺なさった宮川さんとあなたは最後に会ったのではないですか?」

「その話はしたくない」

「では殺人で告発しますよ?」

「殺人ではない、メモ一式を返すと言われてあの部屋に行っただけだ。あの女はすでに薬を飲んでしまっていた」

「先に部屋に入っていた? 解雇された会社に行って先に?」

「資料室の鍵は返してなかったようだった。あいつはあてつけに死んだのだ。そうさ、アマクナーレなどのような劇薬を五百錠一気飲みしてみろ、たちまち血糖値がゼロに近くなって死ぬさ。私がいったときはすでに身体は冷たくなっていた。メモは、そのメモをさがしたが、なかったんだ」

「見つけられなかったようですね、このメモは資料室のすみっこのファイルにはさんでいました。私も偶然見つけたのです」

「返してくれ、金なら君の言い値でいくらでも払う」

「お金は不要ですから真実を教えてください、アマクナーレの捏造論文を最初にでっちあげたのは誰? 」

「指示したのは私だ、だが売り上げを強制したのは社長だ。珠洲絵は私を信じてよくやってくれた。だが彼女はアマクナーレがシェア一位になると、妻と離婚するという結婚の約束を守れといってきたのだ」

「それで?」

「私は殺してない、あれは恐ろしい女だ。私が窮地に陥るように自分のいのちと引き換えに死んだのだ」

「アマクナーレが血糖降下薬の中で売上一位になったら今の奥さんと離婚して結婚するよって言ったの? そりゃあ珠洲絵さんがんばるわねー。あの有能な彼女を怒らせた。そりゃあ、あなたが約束を守らなかったからではないかしら?」

「私はゼット製薬の次期社長の座が欲しい、だから社長の言う通りの女性と一緒になるのは当たり前だろう。彼女には金銭や地位は惜しまず与えるから我慢してくれといったのに聞いてくれないんだ」

「そりゃ日陰よりは日のあたる場所の方がいいに決まってるじゃないの。そうか、ゼット製薬の捏造論文は烏賊さんが言いだしっぺだったんだ。社長はこの話は知ってるの」

「もちろん知ってるさ、知らないふりして知ってるさ! なあ、君も薬剤師のはしくれなら、あいまいな部分は多少捏造や誇張が入っても大丈夫っていうグレーゾーンはわかるだろうが!」

「わかりませんし、わかりたくもないです。世間的にもこれは全く理解しがたいものだと思いますよ」

「珠洲絵にはかわいそうなことをしたが、私にだって立場と言うものがあった。それを理解してくれないんだ、甘んじて責任をとってくれたらなんでもすると言ったのに、死んでしまうなんて」

「自殺の示唆はしてないのね?」

「してないさ、ゆすられていただけで」

「ゆすられていた? 要求金額は?」

「お金ではなく、結婚をゆすられていた……捏造論文をしたのは私個人です、と言ってくれたら考えると私は言ったけど、だけど私にも立場があってどうしても結婚してあげられなくって」

「あほっ!」


 薬子は烏賊にも腹が立ったが、宮川珠洲絵にも腹を立てた。死者に怒っても仕方がないが彼女だって同じ穴のムジナだったのだ。だが彼女の一途な思いを無下にしたのは確かにこの烏賊だったのだ。

「じゃー私はやっぱりゼット製薬さんとは縁がなかったということで失礼します」

 薬子はポケットからボイスレコーダーを出して烏賊に見せびらかした。そうぬかりなく今までの会話は録音している。烏賊の顔は今度は真っ青になり、手足ががくがく震えている。案外小さい男だったのだ。開き直りかたも小さい小さい。薬子は烏賊が自分に襲いかかる心配すらないのがわかり思わずははは、と笑った。そしてくるりと踵を返してドアに向かった。

「待て、おい待て!」

「失礼します、烏賊部長」


 それからどうなったか。

 薬子はあの敏腕家の集う広報にはもう戻らなかった。その足で一階まで下りてタクシーをひろって厚生労働省の史眼のところまで行った。

 証拠の故皆川珠洲絵の日記代わりの手帳そして烏賊部長の走り書きのメモ。それが決定的とまでは断定できぬとも、ゼット製薬が皆川珠洲絵なる人物の一存で捏造論文を広めたという主張は虚偽であったと断定した。

 もちろんマスコミも黙っていない。いかに大手企業でマスコミに対しても大きな影響力を持っていたとしても社会的な流れとうねりは阻止できない。ゼット製薬の取引額はさらに落ち、海外にまでゼット製薬の薬を拒否する運動がひろまった。株価はさらに落ち、一時は倒産のうわさまででた。

 もちろん烏賊部長はゼット製薬の経営陣からは懲戒免職、永久追放された。かろうじて殺人罪はのがれたものの、自殺強要もしくは示唆罪、偽計罪は逃れようもなかった。もうあの気どったいずれは社長の座につけるだろうと夢みた男は日のあたる場所にはいられないだろう。捏造を甘くみ、女性を甘く考え、製薬業界を軽んじていた烏賊という男は断罪された。

 ゼット製薬の経営陣は退陣となり、社長は責任をとって辞任した。

 新社長は広報ではあまり目立たなかった下里という男がなったという。






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