第十話
第十話
つまりこういうことだった。
皆川珠洲絵はとりあえず世間的には自分一人で血糖降下剤のアマクナーレの消費拡大を狙うために論文の捏造を思い付いた。各方面に捏造論文を強要し、それを本社のここでマーケットにのせた。この時に巨大企業であるゼット製薬の名前に目がくらみ協力費に目がくらんで捏造に手をかした研究者はざっと三十名。
彼女は彼らを研究費をえさに難なくやりとげたのだ。どこでもそんなことをしている? 販路拡大、消費拡大が名目なら捏造してこの疾患にはこの薬がベストだという根拠づけのために?
だから地道な研究をしている研究者たちにここのデータを改ざんしてください、そうしたら競合する薬より一歩前にでて販売できるし、などという指示をだした? 協力者たちは暗黙のうちに協力したか? 次の研究費を出してもらうために?
製薬会社の出す研究費がないと研究者たちが納得する実験ができないから?
誰もがこのぐらいなら誰でもしているし、と?
疑問やこれでいいのかと誰も思わず、世の中こんなものと? これで世の中やっていける?
本当に本当にそんなことができるのか。捏造ばやりの近年に誰も疑問は呈しないのか、呈することができぬのか。
とにかく皆川はゼット製薬の誰かの指令かそれともゼット製薬が発表したように自分一人で捏造を指示したのかそれはわからない。一体に単なる一社員であった彼女にそれほどの権限があったのか。
皆川は広報トップであり経営陣の一人である烏賊部長と恋人であったという。彼の命令であったのかそれも皆川が死んでしまった以上本当の真実は誰にもわからない。皆川は明るくはっきりとした性格で皆に好感を持たれていたようだった。マスコミのあくどいオンナといわんばかりの報道とはうらはらに小川を筆頭として同情を持たれている印象をもった。
また話を戻るが皆川は捏造した論文を元にゼット製薬の各方面のMRや卸を通じて全医療機関にアマクナーレをプッシュしたのだ。だがそんなことはたった一人ではやれるものではない。こういったことは核となるチームを組んでやるものだ。
それをこの大企業であるゼット製薬は彼女一人の意志でやったのだと言い切ったのだ。なぜ彼女だったのか、なぜ彼女がスケープゴートになったのか。
最終消費者である糖尿病患者の手にわたるアマクナーレの錠剤はPTPシートという湿気のこないしっかりした土台にアマクナーレの印字をされている。だが大量に調剤する大病院向けにPTPシートのない裸のカプセルだけがはいった大びんが発売されているのだ。それも五百錠入りだ。
皆川珠洲絵はそれを一気に飲んだという。五百錠全部。
血糖値を下げる医薬品を五百錠も飲めば血液中の血糖値が下がりすぎて死んでしまう。彼女はそれをやってのけたのだ。自分がより売りさばこうとしたアマクナーレを大量に服薬して死んだのだ、もちろん捏造した作用を強調かつ拡張した論文を広めることに彼女は役立ったことはまず間違いない。たぶん自分は間違った方向に向かっているとわかっていた上でやったに違いない。そのつけを彼女は背負ったのだ。
しかしそもそもその捏造してまでアマクナーレを売れと誰が命じたのか、薬子は神妙に手をあわせながら部屋全体に向かって眺めた。
それから小川に向かって丁寧に一礼した。
部屋を立ち去ろうとしたときに薬子はファイルの一つにあるものを見つけた。それは二つに折りたたんだメモで分厚いファイルとファイルの間にはさまっていた。なんとなくひかれるものがあったので薬子は抜き取って見たが、小さい手書きの男文字でよくはわからない。
小川がこの部屋で皆川さんが亡くなったのは確かだが場所までは知らないといったので、「じゃあ拝ませてください。この部屋を一巡したい」 といって部屋の隅々で拝んでいたのでわかったのだ。
幸い小川とは死角だったので薬子はそのメモをわからぬよう抜き取ってポケットにおさめた。
それが大当たりだったのだ。薬子がつかんだ一本のわらが、大化けした。二つめのジャックポットになったわけだ。
」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
結局人事に戻ってきたのは午後一時だった。小川とは何となく話がはずみ皆川との思い出話をしてくれた。
「皆川さんはまじめでいい人でした。有給休暇を取るためにこちらに寄る時は私に必ずあいさつしてくれましたしね。アマクナーレの捏造が公になった時も健気にがんばってました。私が大変なことになりそうね、がんばれる? と聞いたらすべては私の責任になりそうだけど励ましてくれている人がいるからがんばれる、と言ってました」
「それは広報の烏賊部長ですね」
「私の口からは言えませんね」
「いいのよ、でのあの珠洲絵ちゃんが烏賊部長を本気で好きだったとは意外だわ、烏賊部長ってすでに既婚者なんでしょうが……」
「海外出張の折に出会って、それがゼット製薬に中途採用になったきっかけになったのは確かです。でも皆川さんは仕事いちずで不倫してのめり込むような人ではないですよ、大体烏賊部長は帰国してすぐに結婚式をあげましたし、ほとんど同時期に皆川さんが入社されたのです。皆川さんは入社と同時に販路拡大のための広報に所属しました。アマクナーレの発売はその半年後ぐらい。私はそのことで皆川さんから話を聞いたことはないです。」
だとしたら皆川は烏賊と恋人関係を解消され、別の人と結婚されてしまったことになる。その上ゼット製薬に入社したのはよいが、捏造した論文から根拠づけて販路拡大しろという指示までされた。
アマクナーレの新発売から一年後に、つまり皆川の入社から数年もたたないうちに捏造論文が発覚して社会問題にまで発展してしまったのだ。皆川の立場からして踏んだり蹴ったりという状況ではないか? それっておかしくはないか?
薬子は小川に厚く礼をいい、広報に戻ろうとした。その前にゆっくりトイレに入って用をたす。さきほどの資料室で抜き取ったメモを読んだ。それからすぐにメモを両手で握り締めたまま頭上にかかげてやった、と言わんばかりに無言で万歳した。
このメモは確かにジャックポットだった、薬子のつかんだ「わら」 が大当たりした!
そこのメモには英語でこう書いてあった。
珠洲絵、君への約束は果たせない。
アマクナーレの件ではうまくやってくれた。
だが事件がこう公になっては会社としてもこれ以上かばえない。
君は賢い女性だ。私は尊敬している。
だがもうこれで終わりにしよう。終わりかたは君にまかせる。
記名はなかった。だがメモの筆跡には大文字のD、F,Zの字に特徴がある。今朝会ったばかりの烏賊部長の字だった。かつ皆川薬局の皆川薬剤師が薬子に託してくれた亡くなった娘あてに届いたあの手紙の筆跡も一致している。筆跡鑑定の知識がなくともこの字体は相当に特徴あったのだ。
薬子にはこのメモがこのメモだけがなぜ皆川が死のうと決めたあの事務室にあったのか、このメモが簡単に消去されるメールではなく手書きだったのか、それを考えた。ああ考えねば。深く深く考えねば。薬子は皆川の父親から預かったメモ帳の内容も思い出す。
薬子の頭脳は今、めまぐるしくフル回転している。




