第九話
第九話
薬子はしおらしく、そして遠慮がちに聞いた。
「あの、本来ならせっかくの就職先なんですけど、私は棒にふってでも珠洲絵ちゃんのことを調べたいと思っています……宮坂教授の顔をつぶすわけにはいきませんし、このことを考えるとつらいです」
「田崎さん、あなたは海外ですでに製薬マーケティングと臨床の現場双方とも経験を積まれた方と聞いてます。ですので宮坂教授が推薦されて烏賊部長が直々に広報直轄で雇用された人だと伺っております。でも、宮坂教授はともかく烏賊部長も実はあなたが亡くなった皆川さんと親戚とはご存じなかったのですね」
「ええ、だって名字も顔も似てませんし、ああもちろん私はここに就職したからにはこの人を雇ってよかったと思われるように誠意を尽くし業績をあげてみせますわ。だけど心情的にはすっきりしないので、それで小川さん、あなたはベテランそうな方しかも人事係ですし知っていることを教えていただけましたらうれしいです」
「……私の知っていることって大したことはありませんよ。事務的な仕事はもうこの道長いのでまあわかりますけど、皆川さんが例のアマクナーレで捏造論文を推奨していったという件では部外者ですしね。真実は私も知らないし、誰も知らないのでは」
「でも珠洲絵ちゃんは全部自分が悪いと思って自殺したのでしょう、遺書もなしの状態で」
「一応当社の方から辞職勧告を受けて辞表を提出した、という形にはなってはいます。世間的にはそれで幕引きをしたことになっていますし」
「本当に事実はどうでしょうか、皆さん珠洲絵ちゃん一人の考えでアマクナーレの捏造論文を各方面に強要したと思いますか? 単なる社員であった彼女一人でそんな力が果たしてあったのでしょうか。治験現場、大学研究室、大病院の医局、海外の研究所、ゼット製薬は創薬メーカーとしては世界有数の企業ですがこんな強引なことって彼女一人でできたことでしょうか。あの五千万円は勤務わずか三、四年の退職金としてはあまりにも多すぎます。彼女は五千万円で自分の会社生命とプライドを売ってアマクナーレの捏造問題を一人で引き受けて自殺したのでしょうか、」
薬子は核心につっこんでいった。小川は黙っている。だが勢い込んで踏み込んではいけない。踏み込みすぎは破滅になる。薬子はついと小川から身を話した。
「いえ、ごめんなさい。口がすぎたかしら……困らせてしまったようね。ごめんなさいね」
薬子はまたうそ涙を流してハンカチで目じりをぬぐった。小川は気づかうように首をふった。
「もう何も言わなくてもいいわ、だけどあの悪いけど小川さん、皆川さん社内で亡くなられたけどその場所はご存じかしら? ここの本社ビルでの話でしょ? 何階かしら? 私手を合わせたいのよ……ぐすん……」
「それくらいなら…、創薬マーケティングはここの九階ですけど。でも広報にかかわるし今は勝手に行かない方がいいと思います。いずれ行くにせよ、入社したてのあなたが一人ではまずいと思うわよ」
「そうね、親戚だとも言わない方がいいわよね。じゃあ小川さん、あなたか他の誰かと一緒なら現場に行けるかしら。ちょうどもう十二時前だしお昼の休憩にかかるし」
「えっとほんと、あら、もう昼休みね」
「ほんともう十二時ね、早いわね。小川さん一緒にランチしてくださらないかしら、それからお願い……」
強引なのを承知で薬子はたたみかけるように言った。
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社内の食堂はビルの最上階の五十六階にあった。景色の眺めは最高にすばらしかった。東京湾まで見えた。そして食事は本日の定食だったが五百円で良い食事が食べれた。ごはん、味噌汁、ブタの生姜焼きと山盛りのキャベツ。定番メニューだったがとてもおいしい。しかも小川がおごってくれた。
小川と一緒のテーブルについていると小川のところによって、封筒に入れた書類を預けて行く人は二人ほどいた。小川から話しかける人にはそつなく「この人は今日から広報に勤務です、田崎楠子さんです」 と簡単に紹介してくれた。
薬子は海外特にヨーロッパでの創薬業界の現場と最近急進撃してきているインドの製薬マーケットの話をした。付け焼刃の知識ではあったが、海外留学の経験もあるのでリアリティはあっただろう。小川は興味深く話を聞いてくれた。誰が聞いているかわからない食堂だったので皆川珠洲絵の話はあえて二人ともまったくしなかった。
食べ終わると「じゃあ、少しだけ」 という約束で九階の創薬マーケティングまで案内してくれることになった。
このビルはゼット製薬の本社だけのものだが、子会社というか傘下にある企業もいくつか入っている。ジェネリック部門だけは最近急進かつ市場が拡大してきているので近くのビルをまるごと買収してそちらに収めたらしい。それも二か月前の話だという。
医学に関連する企業はどれも日進月歩だし流れが急であると感じる。聞いたばかりの新しい新知識もすぐに古臭くなる。遺伝子操作による新薬もすでに発売準備段階であるし、IPS細胞から個別の臓器の一部を作りだすのも商業ベースにのりつつある。じきにそれが当たり前になってくるだろう。
二人が九階に降り立ったらそこのフロア全体が創薬マーケティングだった。そこも大きなフロアになっていてカウンターに案内嬢が二人いる。小川は会釈して一番奥の左のドアを開けていった。そこから長い廊下を通っていく。人気は全くなかった。やがて小川は小声で言った。
「ここから奥がファイル準備室と倉庫です。今はペーパーレスの時代ですしね、ファイルなんか誰も見ないですみます。皆川さんはここの一番奥の部屋で亡くなられました」
小川は首から下げている顔写真入りの名札を読み取り機にかざした。名札にICコードが入っているのだろう。ドアはなんなく解錠された。
「皆川さんは明るく華やかな人でした。こんな誰も入ってこない普段人気のない部屋に入って死ぬなんて……どういった心境だったのでしょう。かわいそうにとは思います」
「例の捏造は誰の強要だったのでしょうか」
「会社そのものの意志でしょうかね、私は薬の知識はないですけど、アマクナーレは同種の中では一番出遅れたが会社の威信にかけても絶対売らないといけないと言われてましたしね。だけど皆川さん一人でやったと会社が堂々と記者会見して告知宣言して解雇するとまでは思いませんでした」
小川と薬子は奥の部屋に入った。
なんということもない部屋だ。簡単な細長の机と椅子が三脚ほど。死んでまだ一カ月もたってない。供え物の花束一つもない部屋だ。
「珠洲絵ちゃん……」
薬子はうめくように声を出した。ひんやりした部屋に声が響く。
「あなたはこんなところで死んだのね?」
すると小川は声をひそめるように言った。
「私がいうべきことではないですが、あの人は薬をのんだと聞いています。それもアマクナーレの五百錠入りびんを一気飲み」
薬子はその話は父親から聞いて知っていたがあえて今初めて聞いたというように驚いてみせた。
「えっ」
「ですので私自身、いえ心ある社員は全員、皆川さんは抗議の自殺であったとみています。でも私がそういったことはナイショにしてくださいよ、ほんとうに」
「わかりました」




