第六話
第六話
ゼット製薬、潜入勤務
さて本日から藤原薬子ふんする田崎楠子がゼット製薬に潜入することになる。もちろん無個性を心がけて無難なデザインのスーツに無難なボブヘア、無難な化粧に無難なシューズ、バッグなどの小物を身にまとう。ゼット製薬本社は一つのビルを所有していた。傘下にある子会社のうち何社も同じビルにある。亡くなった皆川もその一つ、アマクナーレマーケティング部に在籍していたのだ。
薬子は今日からこの本社に勤務することになっている。薬子はもちろん迷わずまず紹介してくれた教授のいうとおり、まっすぐにビル五十五階にある本社広報部長の部屋に向かって行った。人事係にはもちろん話は通っているはずだが中途採用だが新人扱いせず研修なしで実務にまわされるのだろうと思った。
ここで田崎楠子なる薬子の上司となる人物は広報の烏賊と名乗った。父親が語ったあの烏賊である。広報に関与する仕事だからたぶん同一人物であろう。もちろんその裏付けはとらないといけないが。
薬子は彼の秘書を通して部長室に案内された。
部長室もまた広かった。ソファセットも2組ある。ここでは大人数の会議はできぬが密議はできるだろう。この部屋で何人もの人間が新薬を発売するまでに、認可前にゼット社の重鎮が起業戦略を重ねるところではないだろうか。
年はいっていても薬子は新人のはずだが、あの教授の口利きでいきなりこの部屋に通されたのだ。入社試験も面接もなしで。まっすぐに広報にいけたのだ。薬子は話が早くつくのではないか、幸先がいいぞ、と喜んだ。
烏賊の年は四十歳代後半であろう。髪にはいまどきポマードをべったりつけて濡れ髪を演出しているようにみえた。オールバックにして金のメガネ、スーツもびしっとして隙がない。薬子には男性向けの衣料品には詳しくはない。が、多分全身ブランドでかためているのだろう抜け目なさそうな印象を持った。
薬子は最初からゼット製薬の本社広報勤務であろうしまたそれでないと話がすすまない。出社前にはあらかじめ、本社勤務社員のうち、役員名簿には目をとおしてある。
烏賊はT大薬学部卒業だった。自殺した皆川と同じ大学だ。年は離れているし同期ではないがアメリカの企業でも一緒だったという。皆川珠洲絵とは一時はつきあっていたというがあまりにも年齢が離れている。真相はどうであったのか、父親は一時つきあっていたというが、珠洲絵のような聡明そうな娘が、かような男と真剣につきあうだろうかとも思った。だが外国で一時は一緒に働いていたのは事実であり、烏賊の手引きで帰国後にゼット製薬に勤務にあたったというのは事実だろう。
……皆川珠洲絵の職歴は烏賊によって最後を彩られたといってもよいが、彼女は彼のバッグ、いずれは帰国してゼット製薬の重鎮になるだろうということを見越してつきあう下心ありの計算高い女性だったのだろうか?
烏賊の服装は一目で高価だろうなとわかる仕立てのよいスーツだった。いろいろな人に会うのも仕事のうちだからだろう。かつ烏賊はゼット製薬創業者一族出身でもある、ということはもちろん社内でもエリートといわれる人物だ。いずれは経営陣に加わり、数年後にはどこか子会社の社長になるのは確実であろうという人物である。
さて隠密行動は期間限定、だから薬子は最初からアクティブに行動した。烏賊をはじめゼット製薬本社は世間への風当たりもあってセキュリティは厳しい。だが広報はすべての部署につながりがあるので、薬子がここで信用を得ればどこでもフリーパスになるはずだ。
本社は都内有数の高層ビルの一つだった。五十六階建てでこのうち三十五階以上がゼット製薬本社になる。広報室長は五十五階にあった。五十五階のすみにあったので四面のうち二面はガラス窓だった。眼下に高層ビルがいくつも見える。
そのような素晴らしい景観の中、上質な革張りの椅子に身を包まれるようにして烏賊室長は言った。
「宮坂教授の辛口の論文批評並びに人物批評は大したもんだ。君はその宮坂教授のお眼鏡にかなったらしいな。あの人にしてはめずらしく高評価な紹介状を書いてよこしたんだ」
「恐れ入ります」
「この時期に途中採用はめずらしいんだよ、君、ラッキーだったね。新聞は読んでいると思うがゼット製薬でもこのアマクナーレ事件で何人も責任をとってもらって辞任もしくは辞表をだしてもらった。それで会社としてはけじめをつけたつもりではある。ま、月末にも株主総会も控えているし、妙な行動はとれまい、来月末の総会、紛糾必至だがこれも乗り切れよう。捏造した論文は確かにいけなかったが、正直手放したくなかった人材も数人いた。だからわが社にとっては痛手になる、頭脳流出と同じことだからね、君、わかるかい」
これはある種の踏み絵だな、薬子は直感した。だから烏賊室長にあわせた。
「そうですね、しかしながらゼット製薬は国内トップの製薬会社です。このくらいはなんともなく乗り切れるでしょう。日本人にとっては薬はなくてはならないものですし、ゼット製薬の地位は今は逆風でもびくともゆるがないでしょう。私は過去長らく国外のP国のP製薬で創薬開発と同時に新薬マーケティングをしてきました。きっとお役にたてると思います」
薬子は最大限のヨイショをしたつもりだったが、烏賊にとってはまあまあの回答であっただろう。
「うん、君には期待しているよ」
烏賊は金縁眼鏡をきどってはずし、デスクに置いてある小物入れにある眼鏡ふきをとってごしごしと拭いた。かなり神経質そうな性格だ。
薬子は電話のすぐ隣のメモ帳を見た。烏賊本人らしい電話の言葉の走り書きの文面がいくつかあった。十三日PM五:00、文京区のMOSE。英文字のはねぐあいが、薬子が預かった特徴ある英文字の文体と一致した。この人が皆川とつきあっていたのだ。捏造論文の一番のキーマンとなる人物に今薬子は向き合っているのだ。だがいきなりここでこういう話はできない。だから潜入捜査になったのだ。
烏賊は自分が納得いくまで眼鏡を丁寧に拭いていた。「この人はいつもこうなのだろうか」 薬子はいぶかしんだぐらいだ。だが次の行動をどうするかを考えながら拭いていたらしい。
脈絡なしに烏賊は立ち上がって薬子に言った。
「じゃ、メンバーにひきあわせるからついてきてくれ」
「わかりました」
烏賊が自分の前を通り過ぎた時に薬子は烏賊が自分を値踏みしたのがわかった。薬子だって一応は女性だからそういう「視線」 はわかる。そして自分はもう若くないことと、残念ながら容姿端麗でないことも。
薬子はあわてて頭を下げた。そして烏賊が通りやすいように道を開けてやった。烏賊は軽く肩をすくめると、自分でドアをあけて首で「こっちへこい」 というふうにくいっとひねった。こういう気取った男は嫌いだ。薬子は烏賊に対して心の中でこう言った。
「……私はあなたのような男は好みではない」
そう、薬子は烏賊のようなタイプは大嫌いだった。
ゼット製薬本社広報ルームも広かった。余裕で三十人分ぐらいのデスクが並んでいたが、現在ルームの中には四人しかいない。
烏賊が部屋に入っていくとただ広い机に座って何かの作業をしていた男たちがあわてて立ちあがっておじぎをした。
「みんな出払ってるようだな、とりあえずこのメンバーだけは紹介しておくよ。この女性はP国から帰国してきた田崎楠子さんだ。海外対応の広報をメインにしてもらうが、しばらくはもちろん見習いになる。明日から勤務で社内周りもさせるが、今日は大体のあらましなどを教えてやってくれ」
四人のうち二人はさきほどのデスク、窓際にいた一人がこちらに来た。奥の壁際で電話をかけていたのが一人。彼は会話終了したらしくゆるんでいたネクタイをしめながらあわててこちらにやってきた。都合四人がいた。四人とも男性だった。




