第五話
第五話
薬子の訪問で薬子はずばりと皆川の父親に「亡くなられた皆川珠洲絵さんのお父さんですね」 と聞いた。皆川薬局の皆川薬剤師の顔色が変わった。
「そうですが、マスコミの方ですか……私どもはいかなるインタヴューや取材はお断りしておりますが」
奥から父親と同じ年ぐらいの女性がでてきた。亡くなった珠洲絵と目元がよく似ている。若い時はさぞや美人だっただろう、という感じだ。この女性が珠洲絵の母親だろう。
母親は薬子と父親の会話を聞いたらしく小走りでこちらにやってきて、父親と肩をそろえて薬子の顔を心配そうに見つめた。薬子は自殺した女性の両親の心情を思いやって勤めてやさしい言い方をした。
「いえ、私はインタヴューや取材でお伺いしたわけではありません。実は私はゼット製薬の中途採用者なんです。明日から出勤です。それでちょっとお尋ねしたいことがありまして」
「中途採用者? 明日から出勤? 一体どういう意図でこちらに来られたのですか、もう事件は終わったはずですよ。うちの珠洲絵はあなたもご存じのように退職したうえで亡くなったのです。あなたとは何の関係もないはずです。少なくとも私どもは真相はどうあれ娘が責任をとってああいう形で自殺したのですから、もう許してあげてほしいと切に思います」
「真相はどうあれ、と今おっしゃいましたね? 私はゼット製薬ではなく、実は厚生省のある機関から参りました。四十九日もまだですし、ご両親の思いもいろいろあるでしょうが、真相解明のためにこちらも公的機関から動いて参ります。どうかご協力いただけますか」
両親は薬子の目をさぐるように見ていたがやがて父親の方から返答をした。
「田崎さんとおっしゃいましたね、奥でお話ししましょう」
田崎楠子扮する藤原薬子は、この理性ある父親に好感をもった。
薬局の奥は小さい調剤室になっていて、その奥が机のあるこれまた小さい部屋。その奥がなんとふすまになっている。父親はそのふすまの丸いへこみに手をかけて横にひっぱると、皆川家の居間が出現した。畳の部屋が薬子の膝あたりにきている。
ふすま一枚で生活空間と職場に分かれているのだ。たしか昔はどこの薬局もこうだったよな、薬子はなんとなく懐かしみを感じて父親に「ここの薬局は古いのですね、家の玄関はまた別になるのでしょうね」 と聞いた。
父親は薬子に、ここで靴を脱ぐようにと示してうなづいた。表情はまだ堅かったが「このあたりは空襲でも焼け残ったのです。築八十年ですから」と短く返答してくれた。
薬子は居間のすみに仏壇を見た。そして祭壇も。自殺した皆川珠洲絵の黒枠に黒リボンで飾られた遺影もある。美しい笑顔だった。母親によく似ている。
薬子は憐れみを感じた。許可を得て線香をあげさせてもらう。
母親がお茶をもってきてくれた。ちゃんと茶卓がついている。小さなおまんじゅうも添えられていた。いきなりな闖入者といってもよい薬子にこうして接してくれたのだ。薬子はなんとなく胸のつまる思いでお茶をいただいた。それから話を切り出した。
「このたびは皆川珠洲絵さんがお亡くなりになり、残念なことでございました」
「はい、一人娘でした。私たちにはもう未来は無いも同然です。さて御用件のむきは……」
父親は性急にせかした。薬子はうなづいた。一人娘に自殺され未来が無いと言い切る心情に同情はするが、言葉をつくして慰める立場ではないのだ。
「私は田崎楠子です。厚生労働省の指示でこのたびゼット製薬の広報に潜入します。目的は真相解明です。このことは他言しないでください。過去のマスコミ取材はどういったことか大体のあらましは記事で読みました。でも彼女一人だけの指示であそこまで大がかりな論文捏造は不可能です。みんなそれを理解しているはずです」
父親もうなづいた。
「潜入捜査ですか……では、あなたを信用していまだ誰も知らぬ真実を話しましょう。マスコミ取材は正直言ってつらいものでした。うちの珠洲絵の育て方や考え方、どうしてそんな大それたことができたのか、という責められているような質問ばかり受けました。ゼット製薬のありかたそのもの、捏造論文をうちの珠洲絵だけが思い付いて行動に移すはずがない。なのに誰もそれを指摘しないのです。あげくの果てに珠洲絵は自殺しました。あれは身の潔白を示すための抗議の自殺だと私たちは思っています」
「抗議のための自殺、死因は」
「そうです、薬を飲んだと聞いています。それもアマクナーレを飲んだと。これもマスコミには公にはされてないです。自殺の前日うちの珠洲絵は私の銀行口座に五千万円入金してきました。それから電話してきました」
「これは私の退職金でなおかつ私の命のお金なの、お父さん、お母さん、これは受け取ってね。そして皆川薬局を改築してどんなドラッグストアが近くに来てもびくともしない薬局にしてね。応援してるから、お父さん、お母さん、ほんとがんばってね!」
……この話は初耳だった。己がプッシュしていた薬を飲んで自殺、その前日に父親の口座へ巨額の入金。
「五千万円とはどういう意味でしょうね。退職金なら口止め料も入っていたのかもしれませんね?」
父親の眼にうっすらと涙が浮かんだ。
「すべての罪は全部うちの珠洲絵がひっかぶってしまったようなものです。五千万円をもらって私たちが喜ぶと思っていたのでしょうか、バカな娘です」
薬子は五千万円の話を心に刻んだ。誰が彼女にお金を渡して因果を含めたのだろう。
「アマクナーレ」 自体の捏造論文は広範囲に強い影響を及ぼしたようだが、たった一人の女性社員に罪を全部着せたのだ。皆川珠洲絵なる人物、その性格や経歴はマスコミには流れたがその上司やその部署の責任の所在というのがあいまいなままだ。その状態で、ゼット製薬は幕引きを急いでいる。
マスコミはみんなそれを知っているのではないか?
何にせよ、ゼット製薬は巨大な製薬会社だ。いわゆるマスコミにも広告や出版、映画製作にもスポンサーとしてお金を出している。悪い印象を与える記事はいつまでも出せない、マスコミ側にもそういう心理はあるとみている。
皆川珠洲絵の父親は言った。
「うちの珠洲絵がゼット製薬に入社したのは、以前アメリカで一緒の研究施設にいた烏賊という男性の口利きです。彼はゼット製薬の経営者一族に組みし、研究に携わる人事の裁量に携わっていると聞いています。しかしながら珠洲絵によると一時はつきあってはいたが、結局一族の遠縁にあたる娘と結婚をし、失恋? したとかは聞いてます。珠洲絵は彼をかばうために、罪をかぶったのです」
「罪をかぶったとおっしゃいますが、その証拠はありますか」
「亡くなった珠洲絵のメモです。それと烏賊との文通? していたころの手紙も数通あります。うちの娘はブログやメールなどはせず、もっぱら手帳も手紙も自分で文字を書くアナログな性格でした。烏賊という男とは恋愛をはじめた初期のころの手紙も残っています。というか亡くなる前日にこっちに郵送してきたのです。このメモと手紙をあなたに託しましょう。珠洲絵のアナログな性格が烏賊との交流を動かぬ証拠として残っています。そのあたりは私に似たと思っています。私もまた昔ながらのこの薬局を改築もせずかたくなに守っていくような武骨な人間ですので」
「……そうですか。一つ聞きますがこれをマスコミに公表しなかったのはなぜですか」
「マスコミはまず罪人ありき、の姿勢できましたし娘の思い出を握りつぶされたくなかったのです。ゼット製薬は誰でも知っている大手ですし、新聞やテレビなどのマスコミにコマーシャルという形でお金をまわしていますからきっとこの証拠をなかったことにされるのではないかと危惧しました。でも公的な機関のあなたなら……」
薬子の隣にそっと母親が座ってそっと大事そうに一冊の革製の手帳と数通の封筒を差し出した。ゼット製薬のロゴが入っている黒革の手帳だ。手紙はアメリカのデンバーの消印だった。日づけは数年前のものとなっている。
一つ気づいたが彼女はゼット製薬入社前からゼット製薬のロゴのある手帳を使っていた。これは烏賊という人物からもらったものか、かなり親しい間柄であったと見るべきであろうか。薬子は自分がこうして皆川家に訪問したことでギャンブルのジャックポットを引き当てたことを確信した。
封筒は四通あって四通とも差出人は一緒であった。IKAと書いていて横に日本語で烏賊とあった。右肩上がりのかなり癖のある文字だった。これも住所はデンバーになっている。
薬子が両親の顔を見るとうなづいたので薬子は封書を開けた。通常の恋人同士の文面に仕事の指示もある。どうやら結婚前提でつきあっている女性と「いずれ一緒になろう」 という定番お決まりの不倫を窺わせる文面、それと仕事の指示。ゼット製薬に入社して大きな仕事をまかせたい。私と一緒になれば経営陣の一員として君の研究者としての腕をふるってもらえるという激励の文面だった。
あきらかに皆川珠洲絵はこの手紙を信用して日本に戻って将来を約束した烏賊という男のためにゼット製薬に入社したのだ。入社の時期からして珠洲絵はすぐに広報にまわされ烏賊という男の指示でアマクナーレの捏造論文の拡大の仕事をしたに違いなかった。
「皆川さん、これは重大な証拠になるではないですか。これをマスコミに公表したら、娘さんへのバッシングも弱まるはずですよ」
「マスコミは私たちを最初から悪人を育てたようなインタビューのしかたをしました。確かに娘は烏賊という男のために罪を犯しました。私たちの育て方が悪かったのでしょう。捏造論文の普及に手を貸すことでどれほどの患者たちが迷惑を蒙ったでしょう。ですが娘一人だけに罪を押し付けていこうとするのは許せない……娘のためにも育てた私たちをも責めるひとたちは私たちの話をまともに聞いてくれませんでした。そういう人たちに事実を話しても仕方がないでしょう」
「……」
「……アマクナーレは確かにどっちを向いても捏造論文ばかりでした。指示した烏賊という男を非難するのは簡単ですが、私は珠洲絵がそういうことに手を貸したのもまた事実で被害者ぶったりすることもできません。心中複雑です。つらいです。だがこのままでは納得いきません。珠洲絵は責任をとって死にました。烏賊がそのまま知らない顔というのはどうしても納得できないのです」
「……」
薬子は黙っていた。気軽な気分で訪問したのではない。だがいきなりこうして証拠を出して真実を話してくれるとは思わなかったのである。
皆川夫妻は言った。
「私はあなたを信用します。役立ちそうならどうぞ持って行ってください」
薬子は手帳と手紙を両手で目の高さにかかげて丁寧に返答した。
「わかりました。ご協力に感謝いたします。心から感謝いたします」
この両親はどういうマスコミにも絶対に見せなかった亡き娘の手帳、覚書を薬子に託したのである。
そして烏賊という創業者一族に連なるキーマンの存在も教えてくれた。
薬子はそれだけ聞くと十分だった。広報の烏賊という男性。経営者一族の人間。ならば口止めと称して大金も動かせるだろう。世間を騒がせたこの捏造論文も根っこは意外とあっさりしたものかもしれない。
だが人一人死んでいるのだ。それも自殺。薬子はいきなりたずねていった自分を信用して話してくれたことに感謝した。そして真相解明ができたら再度この皆川薬局を訪問して報告することを確約した。
この件に関して自分に与えられた時間はあまりない。何年も潜入捜査なんかできない。
短期即決でいきたかった。
薬子は亡くなった皆川珠洲絵の笑顔の遺影に手をあわせ、解明を再度誓った。




