What is ahead of prayer(祈りの先にあるもの)⑥
起伏の少ない地を雨が雪となり、しんしんと降り積もるそれはいつしか風を伴い吹雪へと変貌していた。
地面を白く塗りつぶしていく雪はやがて視界をも奪っていく。
いつしか誰もが口を噤み、耳や手足、鼻などに引きちぎられそうな痛みを伴う寒さに耐えながらひたすら前傾姿勢で足を先へと進める。
このまま遭難してしまうんではないかと思える道のりに、全員意識を時々飛ばしつつ命綱に繋がれ彼らは黙々と列をなして歩いた。五十メートル先の視界を奪うホワイトアウトに見舞われる中、粉雪に混じり突如として壁が目前に立ちはだかる。
四人は足を止め、壁を見上げた。優に三メートルはありそうな高さだ。
もっと近づくと壁だと思っていた塀は真っ白な門だった。
ロープをイメージした縄状に編んだアラン模様を主体として、繊細な雪の結晶をモチーフにした精緻な彫刻が彫られており、光を受けての陰影は吹雪の中であっても美しい。両開きの門の両側には真っ白い壁が延々と続き、今の状態で目視で終わりを見ることはできない。
口を開いたものの、白い息が吐き出されるばかりで喉に凍ったつばが張り付いて誰も声が出せなかった。思わずみんな顔を合わせる。
困ったようにもう一度門を見上げると、ゆっくり音もなく門が開かれた。
ここで見る限り門の内側も真っ白でその先は何も見えない。
ウィリアムたちは意を決して門の内側へと足を踏み入れた。
「さーむっ」
早朝、ウィリアムは部屋着として用意されていた簡素な服の上に厚手のカーティガンを羽織ると部屋から抜け出した。
吐く息は白く、素足に直接触れる床は冷たい。
建物の中は一定温度に保たれているもののとても暖かいという程でもない。
昨日、聖なる地に建てられた聖堂に辿り着いたウィリアムたちは、そこを住み込で管理している司書官達に無事保護された。
全身を雪まみれにし、完全に外気の寒さに震え上がっていた彼らに、色や柄違いのチェニックとズボンを着て、ベレー帽を頭の上に乗せた子ねずみたち、クラウオブナ神国の住人たちに手厚く待遇されたのだ。
温かい湯の張った浴場に案内され体を温め、空腹だったお腹にチーズや根菜がたっぷり入ったホワイトシチューをご馳走になった。
その時は、さすがのウィリアムもここは天国かと思ったほどだ。
彼らは挨拶と礼もほどほどに、各部屋へ案内されベッドに倒れ込むと死んだように意識を失い朝まで夢も見なかった。
寄せ細工の床は陰枡型で柄の明暗で図柄がさり気なく浮いて見えるのが面白い。
建物の外観は白亜の洋館であったが、内部は総木造作りで濃厚な木の香りがどこにいても漂っていた。
聖堂と名ばかりで、礼拝堂は建物の一番奥まった場所に人一人がやっと祈りが捧げるような小さい部屋にあった。それ以外の部屋はラーナ教の軌跡を巡る歴史的骨董品と、移り変わる教えを記した膨大な資料を保管する場所となっていた。
各地に散らばる狂信的な信者の作品によるステンドガラスの展示場。
地域別に部屋が区切られ、ラーナ神に擬えるさまざまな逸話を記した書物や供物、祈りの道具、それに関連するさまざまな品々が貯蔵されている。
ひたひたと素足の足音が静まり返った回廊にやけに大きく響いた。
光を取り入れる大きな窓と展示室のドアが左右交互にあり、建物の作りは歪な形だ。すべて同じ扉のため金のプレートに展示物の説明が書かれてなければ部屋の区別はつかないだろう。
窓の外は雪に埋もれ真っ白で、降り続ける雪によって視界も悪い。
ぷらぷらと金のプレートを眺めながら歩いていると、気になる文字に足を止めた。
『ランショウ』
意味がわからずウィリアムは首をかしげる。
オウラと呼ばれるこの世界の言語は地球の言葉が混ざり合ったような印象だ。
地球とつながる転送装置があることから、どちらかが影響を受けて今の状態になったと考えられる。なので、この世界では英語っぽい発音や中国っぽい発音、アラビア語からスペイン語、韓国語など発音形態は多岐に及んでいる。文字は独特で地球の文字でどれが似ているかと言われても、判別は難しい。似て非なるものなのだ。
そして、このプレートの文字。
ランショウ
発音から中国語に近い雰囲気がある。
ウィリアムは手を伸ばし金のプレートをそっとなぞると、取っ手に手をかけた。
「古代の発音で『濫觴』。始まり、起源という意味です」
驚いて手を引き、振り返るが誰もいない。
「ふふふ。こちらですよ」
声が聞こえた足元に視線を落とすと、金色のベレー帽を被ったロボロフスキーハムスターがちょこんといた。黄金のバッチを付けたオリーブグリーンのマントを羽織り、裾からピンク色の小さい手足が覗いている。
どこか気品と威厳を兼ね備えた雰囲気のハムスターに、可愛いなと失礼な印象を持ちながらウィリアムはハムスターの黒く潤んだ瞳から視線を一瞬そらし、また戻した。
開けたらまずい扉だったのかと今更ながら心配になったのだ。
「ご興味ありますか?」
ロボロフスキーハムスターは目を細めゆっくり微笑むと自ら扉を開き始める。
「は、はい」
扉を開くのを手伝いながら、ウィリアムは即答した。
戸惑い気味のウィリアムの足音と軽やかに踊りだしそうなステップを踏むハムスターの足音が静かな室内に響く。
落ち着いたマホガニー色に統一された部屋には、メインの書籍や資料を収める棚の間にガラスの展示ケースが整然と並んでいる。光は最小限に抑えられており、火を光源とする一般家庭と違い、この建物はモナルキア王国の軍事研究所と同じ電灯に似た機械により建物全体を照らしていた。なぜこんなところにモナルキア王国の技術が?と不思議そうに眺めていたら、長い毛並みを癖のように整えながら、ロボロフスキーハムスターは目を細めて、王国の神殿からの贈呈品だと説明された。世界中に存在するラーナ信教の信者たちは自ら感謝の気持ちを込めて金銭や品物を度々送るそうだ。
それらは信教の維持費と人件費、有り余ったものは各方面で貧困に喘ぐ人々へと配られるという。建物や書庫、客室などは多少華美なるものが使われているものの、信者たちの暮らす領域は素朴、質素なもので、食事も昨日出てきた献立から想像すると倹約しているのが伺われる。他の地の聖堂のほうが聖地の建物より豪華絢爛な気がした。そんなことを考えていたら、展示ケースの前で足を止めたハムスターが丁寧にお辞儀した。
「申し遅れました。わたしはここの館長を務めてます、レナドといいます」
「ウィリアム。ウィリアム・エディソン・シェルストレームです」
慌てて挨拶を返すと、顎に手を当てレナドは片眉を釣り上げた。
「ラーナ信教を学びにこの地へ?」
そう言って逸らされた視線の先にはガラスの展示ケースの中身に移っていた。
ウィリアムは肩をすくめると話を合わせる。
「はい。以前住んでいたところでは、いろいろな宗教が存在し、教えを巡って民族同士で争いが起きていました。同じ教え同士でも向かう方向性が違えば内部でも揉めたり分家したりしてましたから、ここでいう唯一の宗教ラーナ信教とはどういうものか、気にはなってます」
レナドは展示ケースの足を伝ってガラスの上に立ち、手のひらを添えると四角い切れ目が現れ囲われた部分のガラスが消えた。ドルシェ博士が発明した隠し扉だと説明しながらケースの中へと入り込む。
ケースに陳列されていた美麗な細密画付きの茶色くところどころ虫に食われた古文書をめくり始めた。
読み上げられる古文書は童話のような語り口で綴られていた。
『この星の西に横たわる巨大な大陸トゥーケは、多種多様な民族がお互いの土地を奪い奪われしながら長い年月を経てきた土地でした。
なぜそこに住まう民は常に争うかというと知っての通り、広大な土地はあるが大変痩せ衰えた生産性の低い土地柄だったためです。
僅かな肥沃地帯を巡って人々も動物も資源を奪い合い、さらに自らの生活を困窮させるという悪循環に陥っていました。
他国からは大した資源もなく野蛮な原住民が住む大陸として認知され見捨てられた地でもありました。
トゥーケの北東に位置するここカトメラ半島には小さな村があり、ある一族が暮らしていました。時々訪れるクラウオブナ神国の商人や学者と交流しながら他の部族と比べると交易を通じてお互い争うことなく平穏な人々がのんびり暮らしていました。その一族の一人にラーナという名の少女がいました。
彼女は好奇心旺盛で他国の珍しい話やさまざまな本が大好きで、ご両親の仕事を手伝いながら貪欲に知識を深めていったのです。
クラウオブナ神国から来る学者たちに教えを請い、彼女が年頃になる頃には世界情勢を理解し、やがて自分の住んでいるトゥーケという国の現状を憂うようになりました。
肌の色や姿形だけでなく、その原始的とも言える生活に他国から侮られているという事実に自国がいつか他国によっていとも簡単に蹂躙、支配される危機に常に晒されているのではないかと考え始めたのです。
ラーナは、いずれ訪れるであろう危機を乗り越えるために何をすればいいのか考えてみました。他国の歴史や政策の書物を読み解いて出した答えは至極簡単なこと。
この広大な土地を分かち合うトゥーケ人たちが手を取り合い一致団結し、お互いの故郷を他国から守ることです。いち部族が団結したとろこでその力は小さい。だけどこの大陸全土の民族が手を取り合った時大きな護りの力になると思いました。
いつ訪れるかわからない侵略の憂目を語って説いたところで日々生きることに精一杯な人々は、きっと誰も賛同しないだろうと思いました。彼女のように知識があるわけでも国全体を見通す見解もないのです。
そこで、いま大陸に分散している国民達の多種多様の問題を知る必要があるとラーナは考えました。その問題を解決することにより余裕が生まれ、豊かになれば見識が広がり今の国の現状に気づくのではないかと考えたのです。ラーナは自分の力でできる限り民族間の問題を解決し、それぞれが手を取り合えるようなきっかけを作るため大陸全土を巡る旅に出ることを決意したのです。極寒の未開拓地に点在する狩猟の民。荒れ地を緑を求めて旅する遊牧の民。大陸で唯一微々たる水源に集う漁師達。国境と水源を巡り他国と代々戦う勇ましき民。ラーナはこの大陸をくまなく探索し、地元の住民たちと知恵を絞り合い彼らが抱える問題を根気強く解決していきます。荒唐無稽と思われた彼女の信念は時と共に賛同するものも現れ、旅には西の漁港で育った好奇心旺盛な少年アカバカと北の厳しい生活を耐え抜く狩猟の民であり賢く聡明な青年バラルが加わりました。
血気盛んで社交向きの少年は少女と住民たちをつなぐ役割を果たし、道なき道を進む少女の行く先を照らしあらゆる危険から守った青年は護衛として頼もしい存在となりました。ラーナの軌跡を基に民族間の交流が生まれ、交易が始まりトゥーケ連邦共和国の国民たちは自ずと小さな問題から大きな問題を解決しながら絆を深めていきます。ラーナが旅を終える頃、西の野蛮な住民たちが闊歩すると噂の大陸は、多民族が独自のルールで繋がりあう、ある意味強固な国家が生まれていました。
多民族の代表たちは通り名だけであったこの大陸を『トゥーケ連邦共和国』と名乗り諸外国に独立宣言をしたのです。
諸外国の反応は様々でした。お祝いを述べ友好を示す国。理由をつけて攻撃を仕掛ける国。商売を持ちかける国。まだ手を取り合ったばかりの彼らでしたが、自らの故郷を守るために手を取り合い知恵を絞り合い困難を乗り越え国の礎を築いていきました。
旅路を終え故郷へ帰ったラーナは穏やかな日々を過ごした後、病を患い数カ月後回復の兆しはないまま亡くなってしまいました。
彼女の葬儀は身内だけで粛々と執り行われ、冥福を祈りを捧げたアカバカとバラルは別々の道を歩むことになります。
好奇心旺盛で人付き合いが得意だったアカバカは世界を巡る新たな旅へ。
思慮深く武芸に秀でたバラルは、ラーナの平和を願う遺志を世界中に広めるために生前の彼女の行いを語り継ぎ、その優しき教えを説きながら世界を何度も巡礼したのです。
二人は亡くなったラーナを悼み、旅で過ごした苦しくも楽しく充実したい日を行く先々で語り懐かしみました。
やがてその志に胸を打たれた人々は彼女の功績を忘れないようにと、彼女に纏わる土地に講堂を建て神格化された彫像や絵画を祀るようになりました。
誰が言い出したか定かではありませんが、それはやがてラーナ神教の始まりとなりその教えは人々の生活に浸透していきました。』
そこで言葉を切った資料館館長レナドは顔を上げ、明かりを反射して煌めく黒い瞳をウィリアムに向けた。
ウィリアムは瞬きを二、三度繰り返し思ったままの疑問を投げかける。
「モナルキア王国の経典には信仰が厚いほどラーナ神から祝福があると掲げられています。不思議な力が与えられ人々を導くことができる、女神と同じ力を賜われると。その記録には、神が与える奇跡の力や予知の力について書かれてないのは何故でしょうか。秘匿すべき力だから記されてないのでしょうか?人々を導いたのは世界を旅した賢人アカバカだと歴史書に記 されてありました。文武に長けた偉大なる人物だったと。その書物によると社交的で好奇心旺盛な少年ような人物に思えます。さらに、バラルについて思慮深く武芸に秀でていたとあります。存命する北の大司教のお名前なので同一人物であろうと推測しますが、北の大司教は穏やかに経典を説き、どんなことがあろうと感情を表に出さない慈愛あふれる人物だと教えられています。狩猟の民出身で武人だったとそこに書かれていることは本当なのでしょうか?」
レナドは古文書を大事そうに閉じると、ケースの中からジャンプ一つで這い出て来た。
彼がガラスケースの上に立つと自然に開いていた穴も閉じられていく。
「ラーナ様の記録で一番古いものはこれで、筆者は彼女の幼馴染たちによるものですよ。大司教にも確認は取れいています。これは本物ですよ」
「…本物…」
ニッコリ微笑むレナドを呆然と眺めるウィリアム。
十四歳というまだまだ学びの途中である彼にとって『教科書』とは絶対的真実であり、世の理を知る唯一の聖書でもある。教師が推奨し学ぶ参考書に「本物」と「偽物」があるとは信じられなかった。正直衝撃だった。
そこには神からの啓示や奇跡の力、祈りを捧げることによる加護など一つも書かれていない。人々と国を憂い直向きに大陸を駆け抜けた等身大の少女が在るだけだ。
見た目と違い、目の前の青年はまだ幼いのかもしれない。そう思いレナドは動揺してミルクチョコレート色の視線を彷徨わせる彼を温かい眼差しで見つめ返した。
何度か口を開閉し、ウィリアムはやっと言葉を発する。
「あ、の。では、経典や歴史書に記されている内容は…?」
レナドは頷くと突然展示ケースから身を乗り出し飛び出した。あわててウィリアムは手を伸ばし掌にその体をすっぽり収める。レナドは唯一毛に覆われていない小さな肌色の手で三人掛け用のソファを指差した。そこに座れということだろう。
ウィリアムは素直にそれに従い、ソファに腰を下ろす。毛づくろいをして、彼の掌から膝に飛び降りたレナドはちょこんと膝の上に座るとつぶらな黒い瞳を瞬いた。
「世界を旅したアカバカとバラルの話は各国にも受け入れられ、神殿や聖堂が各地に建てられたのですが、彼女の思想や行いが認められるにはその地の権力者の協力が必要だったのです。訪れた土地で直接教えを説いていたバラル達が滞在していたときは良かったのですが、彼らが旅立って年月を経ると権力者の都合の良いように教えを納めた経典は書き換えられていったのですよ。ラーナ経典。女神と崇められているのは、東の半島にある村出身の少女なのです。脚色もなくここに書かれているのは彼女の辿った軌跡。トゥーケ大陸を絆の力でつなぎ合わせた物語。生き抜くための小さな知恵を掻き集めた話なのです。詳しい内容は日記として残っています。彼女直筆の」
「だったら何故真実を伝えないのですか?」
まっすぐに見つめるウィリアムの瞳から逃れるように、レナドは視線をそらし遠い目をした。
「もちろん、アカバカとバラルはそれを良しとしなかったですよ。真実を捻じ曲げられたであろう噂のある神殿や聖堂を正そうと動きました。しかし、その頃バラルは病に冒され通院と投薬治療を受けなければならない身。アカバカは本教会から派生した分教会を巡る旅の途中で、歓待された晩餐会で毒をもられて亡くなってしまわれた。社交的だった彼の性格を逆手に取られたんでしょうね。こちらは非公開情報となっています。何故なら関係者の死が経典を掲げているその土地土地の有権者への抑止力を失うことになりかねない現状ですから。アカバカは世界を流浪していることにしています…。北の神殿で療養しながらバラルは部下を派遣して経典を正そうと今も頑張っていらっしゃる」
ウィリアムは神妙な面持ちで頷いた。解りやすく丁寧なレナド館長の説明により、ラーナ信教の理解が深まった彼は感謝の気持で胸がいっぱいになった。
今まで宗教に対して無関心で、身近で与えられる情報は良い内容ではない。
政治にも利用される思想は、人々を救うどころか苦しめているイメージが強かった。
でも、根本は助けたい、助けてほしい気持ちに突き動かされて派生する物であったのならば悪いものではないのかもしれない。
顎に拳を当て考え込んでいると扉が開き、サナリが顔をのぞかせ入って来た。簡素な白シャツと黒いズボンというシンプルな服装で、手には茶器が乗ったトレイを掲げている。
ソファに座ている人間とハムスターを目に留めるとにっこり微笑み、彼はローテブルにティセットを並べ始めた。ちゃっかりカップは三つ用意してありちょとしたお菓子もある。
いそいそとウィリアムは身を乗り出し、レナドはウィリアムの膝から飛び出しテーブルの上に乗った。
「朝から勉強か。偉いぞ」
嬉しそうに言いながら、ポットを手に取りカップにお茶を注いでいる。
久し振りに褒められて照れくさくなったウィリアムは、頬を少し桜色に染め波々とお茶が注がれたカップを手に取り口をつけた。
「あ、ありがとうございます」
紅茶に似た味わいで花の香りがほんのり漂うお茶で喉を潤しながら、お皿の上のお菓子に手を伸ばしもぐもぐ食べ、レナドをほんわりとした気持ちで眺めていると、遠慮のない所作でウィリアムの隣にサナリは腰掛けた。濃い緑色のビロードの座面が沈み込みその衝撃の反動で体が少し揺れる。
サナリは自ら持ち込んだお菓子に手を伸ばすと、それをぽいっと口に放り込む。
「休憩休憩。講義はまた続くの?」
それに答えたのはお菓子を齧っているレナドだ。
「あらかた終えましたよ。誰かさんと違って飲み込みも早く理解も早い。優秀な生徒です」
その言葉に喉に菓子をつまらせたサナリは、咳き込みながら慌ててお茶を喉に流し込む。
この聖地に来て真実を突きつけられ、館長に食って掛かった昔の自分を思い出したのだ。
「昔の話は勘弁してください、仕方ないでしょ!神官として認められ、神属の一員になることが。奇跡や予言の力、徳が高く地位もあり困った人々を救済できる理想の仕事だと幼い頃から刷り込まれていたんですから。盲目的な信者である両親は、かなりの金額を教会に寄付していましたし、神学校や神属機関にもお金を費やしていて、期待に応えないわけにはいかなかったのですよ。信じていたものを覆された気持ちはかなり衝撃でした。もうあの時のことは、いい加減忘れてください」
焦るサナリをレナドは目を細め楽しそうに眺めながら彼専用の小さなカップを手に取り茶を口につけた。そして、妄信的にラーナ経典を学び人形のような表情の抜け落ちた様相の青年と同じ人物とは思えない変わりように思わず笑みを浮かべた。
国境警備隊最前線師団に入隊して、医師の道を選んだ頃からサナリは変わり始める。
神職に身も心も掲げるつもりだった青年は、成績、能力、家格的に中より下だった。神学校最終学年のカリキュラムに含まれる職場体験である、トゥーケ連邦共和国を巡る聖堂の巡礼の選考から漏た。神学校の選ばれた生徒による聖都巡りはその土地の有力者と高官の顔合わせを兼ねた挨拶回りである。辞退者による欠員を埋める第二次選考からも外れ、なんの因果か国境警備隊東部最前線師団へと職場体験に配属された。
東部最前線師団長のクロエ・ディアボロに率いられたその師団は、殺伐とした業務内容とは対象的に前線に立たなければ善良な国民と変わりなかった。神職希望の彼の意図を汲まれ、直轄の国境地帯に点在する神殿や礼拝堂を巡ることとなる。
国境の最前線を周るのだ。のんびりとした観光や研修旅行とはいかなかった。
頻繁に遭遇する盗賊の討伐、隣国プルレタン独立商業区から流れてくる商人たちのいざこざの仲裁や闇商人の摘発、敵国バースキム公国からの機械兵軍の襲撃からの防戦。そんな忙しい中、定期的に訪れる王都からの視察団や内偵者の対応。
祭典やら政務行事により頻繁に王都へと召還され登城しなければならない団長は、総合指揮を取り戦場が停滞すると頻繁に現場を空けていた。
その間を取り持つのが副師団長のアルだ。
師団長の従僕兼護衛を受けたまっておりモナルキア王国では珍しい漆黒の瞳に黒羽のつややかな髪の痩身の男だ。これがまた優秀だが、充実過ぎるが故とても厳しい。目的のために手段を選ばない柔軟な思考の持ち主である団長に対してマニュアル通りにきっちり事を進める男である。それゆえ、団長が不在時でも問題なく事が進む。
現場になれてくると、のんきに彫像なんぞに祈りやいつ訪れると知れない奇跡を当てにしている場合ではない現実がそこにはあった。
神職につくために育てられたサナリは団の中でひたすら守られるだけの存在だった。
戦う武器を手にしたことのない彼に剣の一振りも難しい。
神学校時代以上の不甲斐なさにサナリは自信を失い、自分の存在意義を問うほど落ち込んだ。バースキム公国との交戦中に気力を失った動きの鈍いサナリは機械兵の格好の餌食だった。無作為に生物と判断する無人殺戮兵器は容赦なく彼を追撃し、敢え無く負傷する。
戦場の荒野に設けられた簡易テントに運び込まれ、手当をした医師から励まされた。
「死ぬような怪我じゃないが、お主目が死んでおるぞ。もしや、ここで散っても構わぬと思っているんじゃないだろうな?」
心の内を見透かされたようだった。思わず目を逸らしたサナリに、医師は意地悪な笑みを向けた。
「残念だな。この国境警備隊東部最前線師団の信念はな『生きて帰れ』だ」
我が耳を疑ったサナリは医師の黄土色の明るい瞳を直視した。医師はニヤニヤ笑いながら言葉を続ける。
「どんな手段を用いても『生きて帰れ』だ。」
敵前逃亡しようとも、国を裏切ることになっても、勝利が目の前であろうとも、いかなる条件下でも命が最優先だと言外に言っている。国に忠誠と命を掲げている臣下にあるまじき信念だ。掠れた声でサナリは本音を漏らした。「馬鹿な」立派な反逆罪に問える話だ。
「ウチの団長が言うには、一人一人の団員の背中には沢山の団員がいるのだから、無理して命を張る必要はないだとさ。失敗はいくらでもやり直しが効くが、命のやり直しは効かないからな。それでも散っていく団員も少なくはないが」
真珠のような光沢のあるドルシェアーツを纏い、鮮血を思わせる瞳の色の団長の姿が目に浮かぶ。素顔は知らないがボレロを風にはためかせ数万いるであろう団員を率いる姿は圧巻だった。医師は治療する手を休めることなく、苦々しく言った。
「とか言う団長が、率先して切り込み隊長を買って出て、血路を開く姿は見ていて冷や冷やするもんだがな」
その意味を後ほど団長の素顔を知ったサナリは知ることとなる。
唐突に扉が開いた。
「みんなここにいたのか。食事の準備が出来たそうだ。朝食を食べに食堂へ行こう」
現れたのは真っ白なTシャツと黒い膝上丈の短パン姿の師団長だ。
ゆるくカーブした栗色の巻毛は結われておらず背中へと無造作に流され、欠伸を噛み殺した直後のため光の当たり具合によって色を変える真鍮色の瞳は潤んでいる。
膝丈ズボンとTシャツの袖から伸びる手足はやや色白ながら程よく筋肉がついており、小柄な体格ながら長めで靭やかだ。臣属という上流階級ご令嬢の華奢で儚げなイメージとは明らかに違う。
足元は毛足の長いファーに覆われた室内履きに覆われていた。暖かそうだ。師団長が現れたことで一瞬場に緊張が走ったが、団長の気の抜けた雰囲気にその場の空気が和らいだ。
「おーい、腹減ったぞ。みんなで早く飯を食おうぜ」
廊下の向こうから北東部最前線師団副団長 イオの低くて太い声が響く。
そして彼らはいそいそと、この部屋を出る準備を始めたのである。
カメトラ半島の聖堂を出発して四日。雪、晴れ、吹雪と目まぐるしく変わる山の天候に翻弄されながら北の大聖堂へと向かう。前後左右の区別がつかないほどの猛吹雪の中、ただただ白い大雪原を歩み水も食料も精魂も尽きかけた時、その白い世界に黒い染みのようなものを目にしたような気がした。
朦朧とする意識の中、すぐそれは雪に掻き消されとうとう幻覚まで見えてしまっているのかとウィリアムは己を疑ったが、歩みを進めるにつれ黒い染みは段々とはっきりした形を成しそれが建物であると認識したときには、もう目前まで迫っていた。
三つの黒い建物は背の高い三角屋根の本堂らしき建物と、それを囲むように建っている湾曲した平屋の建物であった。漆を塗ったような光沢のある屋根もカーボンのような細かな凹凸のある柔らかな感じの壁も真っ黒で、首都ケッテニアにある白磁の石材を積み上げられたゴシック様式のルーン聖堂に比べたら非常に小さく地味だ。
はめ込まれた窓ガラスもカラフルなステンドガラスではなく、ごく普通のガラス窓。
初めて訪れたウィリアムとイオは驚きを隠せない様子で硬直していた。
二人の様子を意地の悪い笑みを浮かべながらディアボロは眺め、そんな三人の様子を見て肩をすくめたサナリは苦笑いしながら扉の備え付けられた黒い鉄のノッカーを打ち鳴らした。
扉は開かず建物の中から凜としたよく通る女性の声がした。
「大聖堂は礼拝期間ではないため封鎖しております。お引取りください」
名乗る前から無情にも吹雪に見舞われる大雪原に打ち捨てられる発言だった。
門前払いである。
「以前、神官見習いとしてお目通りしたことのあるモナルキア王国貴属サナリです。火急の知らせがございます。国境警備隊北東部最前線師団副団長オト様も王国より書簡を預かり一緒に同行しております」
サナリは縋るような切羽詰まった声で名乗りを上げ、開けるよう懇願した。
次は涼やかな男の声が答えた。
「いかなる身分の者であろうとも、約束事を反故するわけにはいかない。武人がいるからと強気で出ても無駄だ。こちらも自衛のため優秀な兵士を構えている」
身分を振りかざそうが武力行使しようが無意味だと伝えてくる。サナリが悔しげに唇を噛んだ時、白い息を吐きながらクロエが彼の前に歩み出た。
目配せして頷いてみせる。
「国境警備隊東部最前線師団長クロエ・ディアボロだ。そちらが取り込み中なのは重々承知の上での無礼をお許し頂きたい。大変お世話になった御仁、大司教様にせめお目通り願いたい」
強固に思えた黒い木の扉がゆっくり開き足元にオレンジの筋が広がった。
姿を現したのは武装した兵士だった。クロエの顔を確認した途端、深々と頭を下げる。
「遠路遥々ご足労頂き有難うございます。こちらへ」
道を譲った兵士の背後には侍女が控えていた。
蝋燭の明かりのみで照らされた室内はやや薄暗かったが、温かみがある光に溢れていた。
足元の板張りの床、壁、家具に至るまで見事なモノトーン一色に統一されていた。
白黒だけでなくその間色でもある灰色を取り入れた見事なインテリア配色だ。
エントランスと待合室は入口入ってすぐの一部屋にまとまってあり、灰色の毛足の長いラグが黒いソファの背もたれに掛かっている。真っ白なクッションがL字型ソファと一人掛け用ソファに置かれており、サイズも大人が抱えても手にあまるほどの大きさがある。
左端に二階へ通じる階段と、正面には勢いよく薪が爆ぜる暖炉。右と左に別の部屋へと通じる扉があり、暖炉の脇にも一見気づけないような扉が備え付けてあった。
鞣し革で縫製された簡易な鎧をまとった護衛兵にソファへ座るよう促され、ウィリア達はそれぞれ腰を下ろした。そうしている間に暖炉の脇にあった扉の向こうへ侍女が姿を消し、やがてティセットをトレイに乗せて現れた。
ソファの合間に用意された木製の黒いテーブルに茶器を並べる。
ポットから注がれる黒い液体からゆっくりと湯気が立ち上った。
兵士は立ったまま深々とクロエへと頭を下げる。
「ご健勝のようで何よりです。主人が直接出迎えられないことをお詫び申し上げます」
クロエは足を組み鷹揚に頷いた。
「ご無沙汰だったな。事前に先触れもなく訪れたことを許してくれ。バラル殿は?」
「只今、医者に診察してもらっているところです。もうそろそろだと思いますが、もう少しお時間をいただきたい」
彼の言葉に眉根を寄せ、クロエはカップに手を伸ばした。
サナリとウィリアムは顔を見合わせ、言葉を交わすことなく出されたお茶に口をつけた。
ウィリアムは目を見開きお茶をもう一口飲んだ。
珈琲だ。
テーブルに視線を戻すとオト副師団長が白い液体と粉を大量にカップに入れているところだった。その後忙しくスプーンで混ぜている。
きっとミルクと砂糖なのだろう。どうやら甘党だったようだ
イオは大きな体を丸め珈琲を一口啜ると、頬を桃色に染めて目を細めると満足そうに微笑んだ。普段見せない表情にウィリアムは思わず頬が緩みそうになるのを堪える。
久しぶりの珈琲を味わいながらみんなを見回してみた。
取り澄ました様子のクロエは兵士と近況報告を、サナリは人懐っこさ全開で侍女と雑談をして、イオはいかにも温まる~という顔で美味しそうに珈琲を飲んでいる。
外での極寒と対象的にここには暖かな空気が流れていた。
人の気配で一斉にみんなの視線が部屋の片隅にある階段へと注がれる。
真っ白なファー付きのコートを着た男性が二人、階段を降りてくる。手には大きな黒い革製の鞄をぶら下げていた。
兵士と侍女は彼らが階段を下り終わらないうちに駆け寄り、声をかけると何やら小声で話し合いやがてお互い礼をすると男二人は侍女に案内されエントランスへと向かう。
どうやら出ていくらしい。
顔を上げた兵士の顔は青ざめており、階段を降りることなく身振りで階上へと促した。
「どうぞこちらへ。大司教様のいらっしゃるお部屋へご案内いたします」
ウィリアムたちはその言葉に従い、その場を後にすると階上へと足を運んだ。
二階は客間とプラーベートルームがあり、その一室に北の大司教バラルは養生しているらしい。
始め部屋に通されたのは東部最前線師団長クロエ・ディアボロと北東部最前線師団副長イオだ。ウィリアムとサナリは扉の脇で兵士と待たされることになった。
「クロエ殿!」
大司教はクロエの姿を見るやいなや慌てて上体を起こそうとした。支えとして別途についた左腕がガクリと力なく折れ、大きく体が傾く。一緒に部屋に入った侍女が素早く動いた。ベッドのヘッドボードに並んでいたクッションの一つを掴み、大司教バラルの背とボードの間に挟み込む。それにもたれ掛かるように侍女は背に手を添えた。
それに逆らうことなく大司教バラルは背を預けると目尻を親しげに下げ口を開いた。
「このような姿で大変申し訳無い。お元気そうですな」
その声は掠れて咳を交えた苦しげなものだった。クロエは大司教の枕元に歩み寄ると跪き頭を垂れる。
「こちらこそ先触れもなく訪れたことをお詫び申し上げます。多忙なのも重なり足が遠のいておりました。先日受け取りましたお手紙にお加減が思わしくないと綴られてあり取り急ぎ馳せ参じた次第でございます」
大司教はゆっくり頭を左右に振った。
「お忙しい身は存じております。我が同胞と広めた教えにご尽力して頂いていると各方面より言葉を貰ってますよ」
「微力ながら力添えさせてもらっております。この度、モナルキア王国第一王子ラブドゥール殿下より貴殿宛の書簡をあずり、こちらに」
クロエは首を振り、イオを見ると彼は懐に仕舞っていた書簡の入った筒を取り出し彼女の隣に跪いた。
伸ばされた大司教バラルの手は骨ばっており指が長い、袖から覗く腕は血色が良くなく深い皺が刻まれ太い血管が浮いていた。筒を受け取ったバラルはその中身を開き書簡を取り出すと静かに目を通した。
室内より二、三度温度の低い廊下でウィリアムとサナリは言葉もなく待たされていた。
最低限足元を照らすだけの明かりは建物の突き当りまでは照らしてはおらず、数メートル先は真っ暗だ。天井も薄暗く模様や色の判別もしづらい。
あとどれくらい待つんだろうとぼんやり考えていると、クロエたちが入っていった扉が開きこの場所を案内した兵士が出てきた。ちらりと視線をウィリアム達に向けたがすぐ正面を向き廊下の向こう側へと小走りで消えていく。
その様子にウィリアムとサナリ顔を見合わせ首を捻っていると、ドアの開閉の音と共に複数の足音がこちらへと向かってきた。
薄明かりの中から現れた人間は三人。
案内役の軽装備の兵士、その後ろには二メートルは超える長身のトゥーケ人、トゥーケ人の肩あたりに頭がある中肉中背の見事な金髪の男性らしき姿だ。
三人の顔が光の下で顕になった時、ウィリアムは小さな悲鳴に似た声を上げた。
「と、父さん!どうしてここに?!」
彼の隣りにいたサナリは驚いて目を見開き、事の顛末を知ろうと様子を伺う。
白いシャツに黒いスラックスを履いた金髪の男は、同じように驚いたようだ。深刻そうな表情から一変してその声の主を目にするとまるで花が満開になったような笑顔になる。
そんな男の様子にウィリアムは感極まってチョコレート色の瞳を潤ませている。
次の瞬間二人は固く抱き合っていた。
唖然としながらサナリは思う。
暑苦しいな。
細身とはいえ180センチを超える長身の男達が抱合って熱く抱擁しているのだ。
割と冷めた家庭環境で育ってきたせいか、目の前で繰り広げられる光景に腰が引けるのは仕方ないだろう。それに、その様子を兵士とトゥーケの民族衣装を身に着けた男の顔を見れば、そう思ったのは彼だけではないのが明らかだった。
兵士は背の高い三十代前後の精悍な顔つきのトゥーケ人だけ司祭の部屋に案内し、
自分だけ部屋を出てウィリアム達を別室へ連れて行った。
案内された部屋は、灰色と白と黒という落ち着いた色合いで、応接セットとクローゼット壁にはこの教会の絵が質素な額縁に入れられ飾られている。
必要最低限の物しか置いてないようで、ちょっとした待合室のようであった。
二人かけソファにウィリアムとサナリは腰掛け、一人がけソファにエディが座る。
兵士は扉の脇で直立不動だ。
間を置いてエディが口火を切った。
「あはは、息子に追いつかれてしまったな」
困り顔で頭の後ろを掻くエディにウィリアムは率直に質問した。
「父さんは母さんの足取りを辿るため、西北の遺跡に向かったんじゃ?オレはてっきり現地に到着してとっくに調査を始めていると思っていました」
気まずそうにエディは視線をそらすと、人差し指で顎を軽く掻いてことの顛末を語り始めた。
「実は、モナルキアで別れた後、トゥーケに入国しようとしたんだがこの容貌と着ていた服装で王国の軍部の人間かスパイか疑われてね」
我が父はモナルキア王国を出たままの姿で入国を試みたらしい。ウィリアム達でさえ殉教者を名乗り現地の衣装に扮して、乗り合いのバスに乗るという念の入れようで入国したのだ。迂闊すぎる。
苦笑いを交えながらエディは言葉を続ける。
「何度説明しても話は平行線で、痺れを切らしたトゥーケの警備兵が手を出してきて、しばらく無抵抗で耐えていたがエスカーレートするもんだから、こっちもついキレてうっかり獣化して大暴れしたもんだからもっと大騒ぎに…。さらに仕事を求めて不法に入国しようとした獣人の疑いまでかけられて」
笑いながら話しているが、笑い事ではない。ウィリアム達だけでなく案内と護衛を担っている講堂の兵士もあきれた顔で口を半開きしている。
「父さん…」
ウィリアムは一言発するので精一杯だ。正直頭が痛い。
「相手に怪我でもさせると後々面倒だろうと思って、応援に来た大勢の警備兵の制止によってその場はなんとか収まったんだが、詳しく事情を聞くためにトゥーケ連邦共和国の首都ケッテニアの聖堂に連れて行かれ司祭ドマニに引き渡されたんだ。」
ウィリアムとサナリは思わず顔を見合わせた。
ケッテニア聖堂の司祭ドマニとはファナリスの代表ターチレットに誤って?拷問していたことが記憶に新しい。
視線をエディに戻すと、彼はひょいと肩をすくめて見せた。
「獣の姿だったからかあっという間に地下牢に閉じ込められ、それから日々拷問という名の可愛がりが続き、このまま続くと体力的にも命的にもやばいなと思い始めた頃…」
あの司祭はよっぽど拷問が好きらしい。人や動物なんでもおかまいなしとは。
司祭の品行方正な上司バキュラスに速攻報告し、司法の手に委ねた方がよさそうだ。
教団は解雇、裁判では有罪になることを祈らずにいられない。
さすがにウィリアムとサナリの顔が引きつった。
「抜き打ちで視察に来たイエナイ司教の目にとまり、養生のため北の大神殿に連れてこられ傷を癒やしてたというわけだ。あ、ちなみにイエナイ司教はバラル大司教の一番弟子、次期大司教の有力候補者だよ」
手振りを加えて説明するエディの両手には包帯が巻かれてあった。よく見ると服の下の体も包帯が見え隠れしている。
ウィリアムは目をすがめて指摘する。
「その包帯は何?」
エディは気まずそうに宝石のような鮮やかな碧色の瞳を泳がせるが、それは瞬きの間に押し隠し陽気な色を乗せて何でもないように両手を振って見せた。
「これは、可愛がられたときにうっかり爪が剥がれちゃったんだよ」
ウィリアムは明るい声色で話すエディの笑顔が痛みに引きつったのを見逃さない。
可愛がられてじゃなく、拷問で。うっかりではく意図的に、すべての指の爪を剥がされたのは容易に想像できる。
拷問と聞いたときより一層顔色を悪くしたウィリアムは勢いよく立上がった。
椅子の脚が床板をひっかく大きな音が部屋に響く。
「用事ができたわ。ケッテニアに戻って最速で終わらしてくるから待ってて。ひとっ走りしてくる」
「は?」
荒野を走り、雪原を横切り、山を越えてきた道のりを戻るというのか?
ひとっ走りで???
見張りの兵士とサナリは意味不明で現実味のない彼の言葉に首をかしげた。
ウィリアムの向かいに座っていたエディだけは、青い顔をして冷や汗を流す。
エディは知っていたウィリアムであれば可能であるかもしれないことを。無理をすれば半日で往復してしまうかもしれない。
「お、落ち着いて!爪なんてまた生えてくるんだから。大丈夫」
瞬く間にウィリアムの瞳が赤く染まり、髪色が日の光を浴び始めた黄金の小麦のような色に変化していく。獣耳と尾が解放されたかのように放たれる。
見開いた彼の瞳は暗く底光りする色で、エディを凝視しておりそういう問題ではないことを御弁に語っていた。
骨張り鋭利な爪を携えた右手を、ウィリアムは目前で握りしめる。
「もう、あのおっさん、殺っちゃっていいよね」
今にも足を踏み出そうとしたウィリアムの腰にサナリはしがみついた。全力でタックルしたらしいが、なにせ医者の体力。彼はびくりとせず、サナリを引きずって歩き出した。
「ダメ!!ダメ!!」
必死に食らいつくサナリに加勢して背後から兵士が羽交い締めにしようとする。
そして、エディは我が息子を犯罪者にしないためにも体と言葉で説得に加わり、なんとか皆でその場を納めたのであった。
クロエ達と司教の対談は深夜遅くまで続き、その日はお互い顔を合わすこともかなわず各自それぞれ与えられた客室へと戻っていった。
翌日、目覚めたウィリアムは見慣れぬ天井をぼんやり眺め、真新しいシーツの匂いに鼻をすすりゆっくり体を起こすと部屋に視線を巡らせる。
同じ木材で統一された家具一式は黒く、床に敷かれた毛足の短い絨毯は濃い灰色。天井と壁は真っ白で、この建物の外観と同じモノトーンだ。
ホテルの一室のような客間は、きっとどの部屋も同じ間取りで同じ家具が置かれているのだろう。
都心や地方に設けられている厳かで美しい装飾は一切なく、大聖堂とは名ばかりの倹約された楚々とした暮らしが垣間見える。
視線を窓へと移すと格子の間から雪原と突き抜けるような青い空が垣間見えた。
昨日の吹雪が嘘のように、気持ちのよい天気になっていた。
立ち上がろうとベッドの縁に足を下ろすと、ドアノックが三回。
そして、大司教が早朝亡くなられた知らせが前触れもなく届けられた。
「え!別行動になるの?!」
ウィリアムは困惑していた。
目の前にはサナリ医師とクロエ師団長、イオ副団長とイエナイ司祭が横並びで座り彼をなんとも言えない表情で見ている。
注目を浴びているウィリアムの隣には父のエディが困ったような笑みを浮かべていた。
これまでの道のり困難をともにしてきたクロエ達はここで仕事が一区切りしたため、それぞれの使命を果たすため各地へと旅立つという。
副師団長であるイオは、北東部最前線師団国境警備隊が配置されている地域に直行する予定で今すぐにでも出立出来る準備も整っている。本人曰く団長のガルモアは自分というストッパーがいなければ、悪人どもを罪に問うことなく何人も串刺しにする恐れがある為この用事が終わり次第前線に復帰する。
サナリ医師は事の次第をモナルキア王都に報告する義務があり、その後自分の隊に戻る。
次期大司教候補のイエナイ司祭は、すべての引き継ぎは終わっており、最後の試練をモナルキア王国で果たすことでその座を譲り受ける。そのため、この後はサナリ医師と行動を共にすると言っていた。
妻の痕跡を追っていたエディは目的地半ばで捉えられ、受けた傷の療養に時間を割かれたため遅ればせながらこれから当初の目的地へと向かう。
クロエ師団長はこの件以外にも特務を担っているらしく、さらなる北の地へ足を踏み入れる予定だ。次の任務は機密性が高く危険もはらんでいるため単独行動になる。
「テロはあるけれど、警備が厳重で郊内で起きることがほとんどないから、モナルキア王国に戻ってゆっくり休むといいよ」とサナリとイエナイ司祭はにこやかに誘う。
「まあ、王都は賑やかだが。元気な君にはやや退屈じゃないか?北東部最前線に行って団長とともに鍛え上げるのも手だぞ!クロエ師団長を倒せ得るくらい扱いてやる!」ジロリと鋭い視線を投げるクロエの冷ややかな視線を無視して、イオ副師団長は朗らかに勧める。
「いやいや、親子水入らずで母さんを探しに行こう。きっと母さんも僕らが会いに来るのを待っているよ」
綿毛のようにふわふわとした雰囲気を漂わせながら、宛てのない、確証のない誘い文句をエディは言う。いや、まぁ。母さんは生きていてほしいけど…..。その旅に終着点があるのか大いに謎だ。
これまで何かと世話を焼き、行動を共にしてきたクロエ・ディアボロにウィリアムは縋るような眼差しを向けた。少し潤んだミルクチョコレート色の瞳と硬質な光を湛えた真鍮色の瞳がぶつかり合う。
「連れて行かないぞ」
腕を組み、クロエはバッサリ切り捨てた。喉を鳴らしウィリアムは悔しげに表情を歪める。そして彼は、渋々父親と共に行くことを決めた。