Encounter(出会い)③
転校初日を終え、司は自宅に戻っていた。
彼は学校から徒歩15分の『ホワイトラビッツクラブ』という分譲マンションに住んでいる。
自宅を中心に北に学園、西に春田マーケット、東から南にかけて市営住宅春田団地が建ち並び小さい公園もあちこちにある。立地条件がよく生活や交通の便もいい、新旧住宅地も入り乱れて立ち並んでいた。
この辺りでは高層マンションは珍しく高さも幅も大きくかなり目立つ。こざっぱりした外装は温かみのあるシェルピンクだ。
このマンションの13階東側の角部屋に司は家族と暮らしていた。
エレベーターのボタンを何度も押し、開きかけた扉に体を滑り込ませ、猛ダッシュで廊下を駆け、ようやく自宅前にたどり着いた司は門を閉めるのも忘れて自宅に飛び込んだ。
雑誌片手にリビングルームに駆け込む。
「どういうことだよ、コレ」
息巻く司に、三人掛けの真っ白い革張りのソファに深々と腰かけたひばりは冷たい視線を投げる。
「Slow older brother(お兄ちゃん、遅い。)It got dark soon, and takes in laundry(もうすぐ日が暮れる。洗濯物取り込んで)」
彼女はそう言うと手に持っていたコミックの続きを読み始める。
司は手に持っていた雑誌を上げたり下ろしたりして何か言いたげだったが、口を閉じ雑誌を木製のローテーブルに置き、スポーツバックを足元に下ろすとベランダへ出る勝手口に向かった。
南側と東側を囲むベランダは広々として、洗濯物を干すだけでなく時にはテーブルとイスを並べピクニックできるくらいのスペースは十分ある。
床は掃除の行き届いた白いタイル張りで、ベランダの壁にはウッドデッキが張り巡らせられ木製のプランターがいくつも下がっていた。プランターには季節の花が活けられておりこの季節は小さい赤紫の花をたくさん咲かせるアゲラタムや枯れ草の綿毛を重たげに垂らしているススキ、儚げなピンク色のコスモスやふさふさとした赤や橙色のケイトウなど様々な草花が殺風景になりがちなベランダを色鮮やかに飾っている。
冷たい北風が司の頬を撫でる。思わず体を縮めベランダから望む夕暮れを後ろに手早く洗濯物を取り込んだ。
サニタリールームとキッチンの間に短い廊下があり、その突き当りのすりガラスの扉から洗濯機で洗い終わった衣類はすぐ持ち出せるようになっている。
用意しておいたカゴに乾いた衣類を押し込み手早く扉を閉めた。
物干しを片づけプランターに水をあげる。いつもと変わらない手順でよどみない動線だ。
シャッターをおろし勝手口から室内に入ると後ろ手に鍵を閉める。
洗濯物の入ったプラスチック製のカゴを片手にリビングルームに足を踏み入れた。
妹のひばりはコミックをソファに放り出したままテーブルを拭いていた。
対面式のキッチンで双子の姉つぐみが今日の夕飯を作っている。甘い香りから予想される献立はシチューだ。
洗濯物をたたんで片づけている間に、テーブルの上に慎ましくも華やかな料理が並ぶ。
ダイニングキッチンとリビングはひと部屋にまとまっていて日本で言う20畳ほどの広さがあった。キッチン側に食卓テーブル、窓側に3点式のソファと真っ赤なコンパクトマッサージチェア。壁沿いには備え付けの飾り戸棚やラックがあり、小物やインテリアが収納されている。天井に備え付けてあるシンプルなライトは部屋を暖かな電球色で照らし、機能的な部屋を家庭的な雰囲気にしていた。
兄妹はテーブルの上に食器を並べ決まった席についた。窓側に双子が並びその向かい側に司が座る。誰も聞いたことがないお祈りを三人は捧げ食事を始めた。
「知っていたか?こんな雑誌があること」
スプーンを置き雑誌を司は掲げた。藤波愛読雑誌『ケモノ倶楽部』だ。
ひばりはサラダをフォークでつつきながら、兄を見る深い群青色の瞳に好奇の色を浮かべた。
「お兄ちゃん、見つけちゃったんだ」
司の顔色が変わり喉の奥から低いうめき声をあげた。
「知っていたんだな」
ニヤニヤ笑いが止まらないひばりに今にも怒りを爆発させそうな司。
つぐみはナプキンで口を拭うと咳払いをした。
「今、食事中。雑誌や本に興味ないお兄ちゃんは知らなくて当然でしょう。私だって初めて見た時にはドキッとしたけど、空想上のキャラクターなんだから気にしないの」
ひばりそっくりの声に諭される。司は頬を引きつらせながら雑誌を指さした。
「あいにくオレは空想上のキャラクターじゃないんですけどね」
「ぷっくく、お兄ちゃんの仲間がいっぱいだ」
意地悪くほくそ笑むつぐみに司は腕を振り上げて見せる。殴るつもりはさらさらないがせめてこれぐらい気分を害していることを態度で示したい。うっかり口を開くと食事中に汚い言葉を吐きそうだ。
つぐみは二人を交互に睨むとサラダのトマトをフォーク刺し口に運んだ。
「お父さんが言ってた、お兄ちゃんはお母さんの血を強く引いているって」
「確かに。私とモニカ(ひばり)は完璧にオオカミに変身するけど、お兄ちゃんは半獣人だもんね。目の色も髪の色も骨格も別人のようだけど」
シチューを口にしながら司は溜息をつきグラスに注がれた水を一気に飲み干した。
父は俗にいうオオカミ男だ。満月の夜には獰猛で強靭なオオカミに変貌し、妹たちも同じ道を辿っている。でも、理由はわからないが司はオオカミに完全に変身することはなかった。
犬歯が鋭く伸び耳は毛におおわれて通常の位置より上に移動し、目つきは鋭く瞳は血のような赤に染まり髪は滑らかでつやのある金髪へと変わる。尾てい骨が伸びふさふさとした毛を蓄えた尻尾が生える。体は筋肉をまとい力は通常の何倍にも膨れ上がる。
身体の変化だけでなく理性を凌ぐ生理的欲求が心を蝕むのだ。
食事を終え、司はお皿をシンクへ持っていく。
泡にまみれたスポンジ片手にひばりはお皿を洗っていた。
カールしたミディアムヘアが彼女の肩で動くたび揺れている。
「Keep them this」
食器を預けリビングに戻ると雑誌をバックに片づけて宿題を取り出した。
司たちと同じようにこのマンションの住人は普通の人間とは違っていた。世間で怪物と呼ばれる存在が密かに結託し人間社会に溶け込んで生活しているのだ。
血を欲する者には分け与え、職種もそれぞれの体質に合わせて用意されている。
彼らの存在を守るために組合があり、経済界、政界などにも人脈が広がり確固たる地盤が出来上がっていた。そのため彼らは人々の間で噂されるだけの存在、そして空想の生き物としての地位を確立させたのだ。
司の父エディは、船舶資格を持ち世界中の海を駆け巡る1等航海士だ。観光旅船から軍の空母までさまざまな船を操れる。
その腕を買われ緊急補充要員として働いているため1か所に留まれないのだ。今回は急病で倒れた船長の代わりに、遠洋マグロ漁船を操り大西洋に繰り出している。
次に会えるのは34日後だ。
ガラステーブルの向かい側で同じく勉強する双子を見て司は思った。
そういやもうすぐ満月だな。
木立に枯葉が舞い中庭の畑には白菜やネギ、キャベツなどの冬野菜が顔をだし花壇にはピンク色の小さな可憐な花を咲かすプリムラや小さな枝葉に大きな白い花のクリスマスローズなど紅葉に負けない彩が広がっている。
学園生活も一週間が経ち学用品と制服一式がそろった司はクラスに随分馴染んでいた。
元々社交的で人懐っこい彼は時々とんでもないボケをするときもクラスメイトは喜んでツッコミを入れてきた。
「あっれ、視聴覚室ってC棟だったよな?」
3階の廊下をうろつきながら司は各教室のプレートを見て回っていた。
この漢字はなんだ、生、生物実験室。
えっと隣は、か、化学とその次は司書室。
お手洗いに行っている間、愛川はをいつの間にか見失っていたし。藤波はインフルエンザで欠席している。
多目的ルームって視聴覚室ではないし。
行き止まりで呆然のする司は手に持っていた教科書を握りしめた。
この先にあるのは非常階段だけだ。
くっそー、確実に授業に間に合わない。司が歯ぎしりした時に階段から慌ただしい足音が昇ってきた。一人じゃない何人もの足音だ。
助かった!と喜んだものの、すぐぬか喜びだったのに気づかされた。
「おら、待てよ!」「お前トイレ掃除終わってねぇだろ」「罰金いちまんえんねぇ」「さっさと今すぐ持って来い」「おれ達お友達だよね。お財布ちゃん」あざけりとからかいの交じった罵声を上げながら、ジャージ姿の生徒と白い学ラン姿の数人の男子がこちらに向かって走ってくる。
ジャージの生徒は肩まである黒髪のボサボサ頭で眼鏡をかけていて顔はよく見えない。前屈みになって必死で逃げている様子だ。制服の男子生徒たちの見た目は普通そうだが、ギラギラと獲物を狙う目は常軌を逸しておりジャージの襟首を今にもつかみそうなくらい腕を伸ばしている。
満月が近く力を持て余していた司は口元に笑みを浮かべた。
弱いものは助けないとね。
ジャージの生徒が目の前を走り抜けてすぐ、司は彼らを見ながら足を突き出した。
「何見てんだ!」「あっちに行けよ、転校生」「噂のクソ外人かよ」口々に罵りながら彼らはパタパタと倒れ込んだ。
残念ながら襟首を掴まれたジャージ君まで倒れてしまっている。
男子生徒は痛む体をさすりながら司の胸ぐらをつかんできた。
「いてえな、治療代と入院代よこせ!」「はっはー♪貢君1名追加」次々に立ち上がった男子たちがゲラゲラ笑いながら司を小突いた。
司は素早く男子生徒の手首をつかみ彼の背後に回ると腕を捩じり上げる。
「本当に入院したい?」
冷ややかな声と司の体格との差に男子生徒たちは怯んだ。
司の瞳に妖しく赤い光がよぎる。
男子生徒の腕を解き、彼らの元へ押し戻し腕を組んだ。
「腕も足も折れてなかったから病院のお金はいらないよね。それに、オレはこいつとは友達なんだ」
床に這いつくばりブルブル震えているジャージの生徒を指さした。
制服の男子生徒たちの表情がサッと強張る。
司は初対面の男子相手に素知らぬふりで言ってのけた。
「もう、お前らとは付き合いたくないそうだ。直接言うにも暴力振るわれるから言えなかったって。あ、何度か言ったことはあるのかな?聞く耳持っていたかわからないけど」
司の言い分に彼らの顔は見る見る怒りに赤く染まった。
「っのやろう!」「調子乗んなっ」「正義づらしやがって」繰り出されるパンチを掴み、蹴られる前にみぞおちに足が伸びていた。
蹴ろうとした男子は吹っ飛び多目的ルームのドアに激しく背中をたたきつけられた。
「やるの?多分無傷ではすまないと思うけど。覚悟はある?」
司はちらりとドアに吹き飛んだ男子を横目で盗み見て、ゆっくり立ち上がる様子に胸を撫で下ろした。力のコントロールが微妙で怪我をしていないか確かめたのだ。
司はゆっくり息を吸い込み吐き出し精一杯怖い顔をしてみせる。優しげな面持ちからかけ離れた表情になっているはずだ。
怯んだ彼らは次々と走り去り始めた。
「これで済むとおもうなよ!」
「まだあるの?オレは今でもいつでもいいけど」
顎に手をやり司はうなずく。
「おぼえてろよ!」
「わかった。絶対覚えておくよ」
ニコニコ笑顔で手を振る司に、小さい声で文句を言いながら彼らは蜘蛛の子が散るように逃げて行った。
司はかがんでいるジャージの生徒にそっと近づきひざを着いた。床に割れた眼鏡が転がっている。
そっと手を伸ばし司はジャージ君の黒髪を払った。
「もう大丈夫。あいつらは行ったよ」
前髪の下に隠れていたのは長い睫毛と黒目がちのこげ茶色の瞳、もちもちの白い肌。
司を見上げるその視線はまるで子猫の様に愛らしかった。
超美人な女の子じゃないか!虐められていたのは違う意味で、一歩間違えれば大変なことになっていたのかもしれない。多少ドキドキしながら司はごくりと生唾を飲んだ。
彼女はもじもじしながらか細い声で言う。
「あ、ありがとうございます」
立ち上がるのを手伝いながら彼女の細い腕をつかんだ。卵形の華奢なあごのラインが髪で見え隠れする。
二人は並んで歩きながら話を続けた。「眼鏡なくて歩ける?」「伊達眼鏡なので大丈夫です」「体育の時間だったの?」「いえ、制服をトイレに捨てられて仕方なくジャージで」「どこのトイレ?」「ここの1階です」幸いC棟3階では授業はなく各教室は空っぽだった。静まり返った廊下を小走りに小声で話しながら階段を降りる。
陰湿ないじめに司は気分が悪く腹も立った。
昔から背が高く体格が良かったからか、留守がちな親の代わりに幼い妹たちの面倒を見続けてきたからか、弱いものを助けずにいられない性格だった。自制しようと心の中で一瞬迷うもののどうしても我慢できず行動に出てしまう。おかげで敵も多くつくるしトラブルによく巻き込まれる。
やってしまったと後悔するもののこの性分だけは治せなかった。
ジャージ生徒は迷わず男性トイレへ入っていく。
なんてことだ、セーラー服を男子トイレに投げ込むとはむごい。
司は思わず奥歯を噛みしめた。
床は水色のタイルで壁や天井は白が基調のトイレだ。
右奥にある個室の扉は木製で今は開け放たれている。
その隣の個室は用具入れだろう。硬く閉ざされていた。
左側には陶器の壁かけ小便器がならんでおり上品な楕円の形をしている。便器の上部に出窓があり室内を明るく照らしていた。
よくある学校の薄暗く落書きや汚水などで汚いトイレというイメージとはかけ離れ、とてもいじめの行われていた現場とは思えないほど清潔だった。
奥のトイレの周りだけ水が飛び散っている。
彼女は迷わずそこに歩み寄り司もそれに続いた。真っ白い便器と対照的に濡れた黒い物体がくしゃくしゃに突っ込まれていた。溜まっている水の色は黄ばんでおり、おしっこのにおいが鼻を突いた。
司は眉根を寄せてそこへ迷いもせず手を伸ばした。
「あ、ダメです。これは僕が」
ジャージの生徒が引き止める間もなく雫を滴らせながら制服が引き上げられた。
黒いズボンの下には青い縁取りの黄ばんだ学ランが便器の底から顔を出した。
お、男でしたかー!!
一瞬残念賞をもらった気分になったが気を取り直し、内心の動揺を隠すためにジャージの彼に顔を向けることなく、洗面台にズボンを入れ蛇口をひねった。
勢いよく水が出てみるみる水が溜まっていく。
不意に背後に気配を感じた。ぽたぽたと床に滴る雫の音が聞こえる。
「ごめんなさい。ありがとう。後は僕が洗うから」
さっと身を引き司は目を合わせないまま真っ直ぐ掃除用具入れに向かい、扉を開くとモップを取り出した。
濡れた床にモップを滑らせながら司は口を開いた。
「学年とクラスは?」
じゃぶじゃぶと制服を洗いながら、ジャージ君は水音に掻き消されそうなくらい小さな声で答えた。
「1年A組。風之間志郎です」
「A組って特進クラスだよね。あの虐めていた連中も同じクラス?」
司はちらりと風之間を見る。横髪を耳にかけ今は顔がよく見えた。長いまつ毛を伏せて一生懸命制服を洗っている。
やっぱ美人だよな、こいつ。
そんなことを思っていると風之間は顔を上げて司を見て頷いてみせた。
司は息を吐き出してつぶやく。
「頭いいのになんで弱い者イジメんのかね?お金はバイトすりゃいいのに。イジメる時間あるんだったらバイトしろっての」
「君って噂の転校生だよね。みんな王子様が転校してきたって大騒ぎしてる。日本語上手だね、こっちに住んでいたの?」
水洗いした制服を少しずつ絞りながら彼は興味津々の視線を向けた。
司は肩を竦めて手を止める。
「いや、日本は初めてだけど会話だけは死ぬ気で勉強したから。コミュニケーション大事でしょ。それに皆見た目だけで判断してるんじゃないの?中身は他の同級生とそんな変わらないからそのうち慣れると思うよ」
「そっか」
風之間は頬を赤らめ安心したように小さく微笑んだ。
そのはにかんだ姿に司は心の中でつぶやく。
お前はお姫様だな。
「オレ、あいつらに友達だって言ったからこれからはよろしく。読み書き教えてくれる友達欲しかったんだよね」
人懐っこい笑顔で司は言って、バケツにモップを入れると絞った。
「うん、僕にできることなら」
もごもごと風之間は少し声を弾ませて言うと上目づかいで司を見る。
司は安心させるよう笑ってみせたが心の中でつぶやいた。
それに、あいつらが一度で引き下がるとは思えないからね。