Each of promise(それぞれの約束)③
K埠頭に着いたものの、立ち並ぶ倉庫と積み上げられたコンテナの山に遮られ、海はまだ見えない。
街灯のないこの辺りは暗闇に包まれており1メートル先さえも見通せなかった。
人の気配もなく静まりかえるこの場所では、自分の足音でさえ大きく聞こえる。
勢いで来たもののどこに向かえばいいのか時子は見当もつかなかった。
暗闇の中で不意に手首を掴まれた。
「人のいるところに行けばいい?オレから離れないで、暗いから気をつけて」
耳元で囁く司の声は抑え気味で、少し掠れている。
時子はただ頷き返事をした。お互い黒い輪郭でしか確認できない姿で慎重に歩き出す。
物音もしないこんな静寂の中、彼は何を頼りに進むというのだろう。
司は積み重なる木箱や立ち並ぶ倉庫の脇に無造作に置かれている土嚢や束になった鉄パイプ、はたまた地面に這うガス管などまるで何も問題ないかのように避けて歩いて行く。
障害物があることを時子に警告しながらまるで昼間のように見えているのか、はたまた来たことがあるのか一度も躓くことなく彼女を案内した。
埠頭の1番端に近いコンテナ群のなかから僅かに光が漏れ、そこに近づくにつれ人の話し声も聞こえてきた。
潮の香りが鼻をくすぐり、エンジン音が辺りに響く。
司はK埠頭に着いた時から人の話し声は聞こえていたし、エンジンの音も確認した。
赤く輝く瞳は暗闇の中を昼間のように映し出し、ここに向かうのに何の支障もなかった。
素早く愛川を自分の背中に隠し、闇に身を潜める。
今の自分の姿を愛川に見られる訳にはいかない。彼女を守るため自分の能力が半分目覚めているのだから。
二人はそっと顔をコンテナの隙間から覗かせ、辺りの様子を確認した。
眩しい光に目が眩んだが何度か瞬きを繰り返し、目を慣れさせる。
積み荷を点検する男が三人。グレーのセダンに乗った男が一人、その脇に二人。
トラックに荷物を載せる男たちが数人。
トラックは計三台、大きく荷台の扉を開き待機している。
愛川の口から声が漏れた。
「かっちゃん!」
思わず時子は自分の口を両手で塞ぐ。幸いなことにその叫びは緊張のあまり掠れささやき程度で車のエンジン音に掻き消された。
よく見ると港を出たばかりの船がみるみるうちにここから離れていく。
司は神妙な面持ちで時子に問う。
「かっちゃんってどの人?」
「く、車に乗っている人。助けて、きっと彼、殺される」
両手を口に当て時子は祈るような気持ちで言った。縋るような気持ちで言ったものの、彼女は我に返った。私は誰に頼んでいるの?今年転校してきたばかりで友人になったばかりの彼に何を言っているんだろう。彼も私と同じ普通の高校生に過ぎないのに。
時子はぞっとして彼の腕を掴んだ。
「やめてっ、無理よ。あなたも殺されるわ」
声を殺し彼の背中に必死で訴えるのがやっとだった。突然司は振り返ると彼女を苦しいほど抱きしめる。
「いい、目を閉じて耳をふさいで。ここから絶対動かないで。何があっても出てきちゃだめだよ」
「中村くん」
再び暗闇に身を潜めた二人の姿は時子にはよく見えなかった。彼の手が愛川の瞳に触れ彼女の両手を掴むと手を耳に当てさせた。
司の体温が遠のく。地面を蹴り上げる音とともに時子は思わず目を見開いた。
「だめっ」
肩越しに振り返った彼の瞳が紅に輝く。しなやかな身のこなしで素早く飛び出した司を見たのは一瞬だった。
悲鳴に近い叫び声、何かが壊れる音が立て続けにして、それと共に車が走り去る音が辺りに響く。物陰に隠れ座り込んだ時子は震える指でスマートフォンを押した。
司は姿を隠しながらの奇襲攻撃を仕掛けた。Hit and awayってやつだ。
これが結構面倒で、怒鳴りながら自分を探す標的をまとめて倒すには向いてなかった。
トラック二台は走り去り、その姿はもう見えない。あの車が応援を呼んだらやっかいだ。
しかも、いつ愛川がしびれを切らして飛び出してくるか気になって仕方がない。
白い吐息を吐いた司の口から鋭い犬歯が覗いた。
体の奥底に眠っていた血がやけに騒ぐ。早いところ済ませよう。
倉庫の上、コンテナの上、トラックの上から鋭い爪で皮膚を引き裂き、飢えた牙で肉を喰む、身軽な体は空を舞い怪しい影を地面に落とす。
男たちは訳も分からず翻弄され、血にまみれながら床を這った。
司は動けなくなった男たちの中に降り立つと、四つん這いの姿からゆっくり体を起こそうとした。後頭部に鈍い痛みが襲う。額から顎にかけて司の顔半分が血に染まった。
反射的に腕を振り、鉄パイプを手にした男の顎から頬にかけて強烈な裏拳をお見舞いする。男は勢い良く吹き飛び海の中へと落ちて行った。
軽い目眩を感じたが、司は舌打ちをすると、暗く畝る海へと飛び込んだ。
しばらくして黒い波間から2つの頭が覗く。
司は力まかせに海に落ちた男を持ち上げると陸へと投げ捨てる。自分も埠頭へあがり、ずぶ濡れの男の服を全て剥いだ。
おぼつかない足取りで残ったトラックの荷台から、毛羽立ったうす汚い茶色の毛布を引っ張りだすと男の体に巻きつける。
司は痛む後頭部に顔をしかめ、目を細めると一気に気持ちが緩む。がっくりと膝と手をつき辛そうに頭を垂れた。
返り血と自分の血で鉄臭いシャツは体に張り付き、足は鉛のように重かった。ざんばらに乱れた髪はまるで落ち武者のようで彼の素顔の大部分を隠している。
なんとか気持ちを奮い立たせ立ち上がった時、車のライトが右から光を放ちこちらに向かって来るのが見えた。とっさに積み上げられたコンテナの天辺に飛び上がり司は闇に身を潜めた。
シルバーのベンツだ。
出てきたのはカーキ色の野球帽を目深に被った、紺色のジャージ姿の男?だった。
ここからは遠くてはっきりしない。
「アカツキ!」愛川が飛び出し男に抱きついた。司は反射的に体を震わすと思わず身を乗り出した。「どうしてこんな時間、こんなところに!心配したんですよ」男の声色から本気で心配しているのが伺える。どうやら味方らしい。
「一体どうなっているんですか。ここに倒れているのは会社の人?」「それより、かっちゃんが、かっちゃんが!」男の言葉を遮り、愛川は車に駆け寄る。二人は車を覗き込んで何やら話していたが、そのうちそこから離れて行った。愛川が肩を落としているところから間に合わなかったらしい。「きっとあの船に恵さん乗ってた」震える声で愛川が呟く。「もう、私たちにはどうすることもできない。諦めるんだ」男は慰めるように彼女の肩を抱き、乗って来た車へ乗るよう誘導する。愛川は思い出したように顔を上げ「中村くん、中村くんは?!」「は?」「同級生とバッタリ家の前で会ったの。心配して私についてきてくれたの」愛川は弾かれたように走りだし、倒れている男たちを一人一人確認する。彼女の後について男も手伝う。「どんな子だ?」「背が高くて、髪が長くて、女の人みたいな顔をした人」混乱しているのか司に似ても似つかない人間も確認している。倒れている男たちを確認しながら男は吐き捨てるように言った。「酷いな。服ごとばっさり引き裂かれている。こっちは噛みちぎられているぞ。何があったんだ。肉食獣でも密輸したのか?」地面に這いつくばりながら全て確認したが司の姿はそこになかった。「いない、いないわ。どこに行ったの?」悲痛に泣きながら愛川は地面に両手を這わせた。男は彼女の肩を抱き立たせると残念そうに言った。「海にでも落ちていたらもう助からない。ここは危険だ。まだ凶暴な獣がうろついているかもしれないよ」男は彼女を抱くように支え車に乗せ、運転席へまわると急いでその場から立ち去った。
ごめん、愛川。君の前に今は出られない。…凶暴な獣か、全くそのとおりだな。
司は自嘲気味に笑みを浮かべ、頭から流れる血を地面に滴らせながらその場を後にした。
どれくらい走っただろうか。半ば飛ぶように駆け抜け、どうにか夜が明けて人目につく前に辛うじて自宅マンションの玄関前まで辿り着いた。白み始めた空に焦りを感じる。
自分でもここに居るのが奇跡のように思え、頑丈な体に感謝の気持ちが湧き上がった。しかし身も心もヘトヘトで今にもぶっ倒れそうだ。
シャツを脱ぎ上半身裸の自分はいつ警察に捕まってもおかしくない格好だった。脱いだシャツは丸めて止血のために頭に押さえつけてある。
ポケットから鍵を取り出し鍵穴に差し込みくるりと回す。
扉を開けると父が待ち構えていた。
「なんだ、朝帰りか。中学生になったからってハメをはずして…」
紺碧色の瞳をちゃめっけたっぷりに輝かせながら出迎えたエディは息子の姿を見て息を飲んだ。
裸の上半身は傷や打ち身で血をにじませ、額から肩にかけて半分乾いた血糊がこびりついている。青白い顔にいつも優しく見つめるチョコレート色の瞳は疲れで陰っている。
司は重たげに瞳を閉じながら力尽きたのか倒れてしまった。
「父さん」
そうつぶやいたまま司は意識を手放した。
扉が閉まる音で司は目を覚ました。
薄く目を開けると鋭い光が眼を焼いて、その明るさに慣れるのに時間がかかった。
見慣れた白い天井。首を振ると温かなベージュ色の家具が並ぶ自分の部屋に居ることを確認できた。体を動かすと少し頭が痛い。ベッドの傍らにはステンレス製のポールが立てられ瓶の中の液体が少量ずつ滴っており、その先のチューブは司の腕につながれていた。
扉が開きスラックスにポロシャツ姿の父が入ってくるのが見えた。黒いトレイに水差しとコップ、お皿が乗っている。
司の傍らに座るとサイドボードにトレイを置いた。
「目が覚めたか。さっき友達が見舞いに来て帰ったばかりだ。心配してたぞ」
「ごめん」
司にはこの言葉しか今は出なかった。
エディは目を細め息子の手に手を添えると穏やかに言った。
「一体、何があったんだ」
司はどこまで話していいか分からなかった。だか、一番聞きたいことは1つしかない。
「体の…体の調子が悪いんだ。満月でもないのに力が抑えられない」
エディは詰めていた息を吐き出すかのように溜息をつくと、司の頭を撫でた。
「そうか。そうか」
父親の手を握り返し、司はまるで小さな子供のように尋ねた。
「オレ、もうこのままおかしくなってしまうの?今までどおり生活はできないの?」
ニコッリ微笑んだエディの笑顔はどこか寂しげだった。
「そうだな。しばらくは今までどおりとはいかないだろう」
「どうして?!嫌だ。元に戻してよ。今までの生活で充分だよ」
今にも泣き出しそうな司の様子に、エディは内心苦笑いした。いつも妹達の前で毅然としていて友人たちの前ではカッコつけて大人びた感じの息子だが、二人きりの時は幼いころ甘えられなかった反動なのか子供っぽい言動が見られる。
輝くような金髪、まるで南国の澄んだ海を思わせる紺碧色の瞳のエディに対して、顔立ちといい光の具合で色を変える琥珀色の美しい髪、人を優しく包み込むような温かなチョコレート色の瞳の司は母親の血を色濃く受け継いでいた。息子の容姿は愛しく忘れられない彼女の記憶を掘り起こされ、眠っていた血が騒ぐようだ。
いけないと思っていてもつい触れて甘やかしたくなる。
「司。いや、ウィリアム。言ってなかったが、父さんは満月でなくても狼に戻れる。本来の姿は狼なんだよ。そして、お前の本来の姿は満月に照らされた姿だ。大人に近づくにつれ本来の姿に近づきその姿が当たり前になる」
「そ、そんな」
「お前も大人になったという証だ。そのうち自分の意志で变化できるようになるだろう。まあ、どちらかというと变化した姿は人間のほうだけどね」
目を伏せ動揺を隠し切れない司の肩を励ますように叩くと、黒いトレイを彼の膝の上に乗せた。
「とりあえず食べろ。体が安定するまではしばらく休学だ」
司はスープに差し入れたあったスプーンを手に取り、震える手でお皿の中の液体を掬うと口に運んだ。
滑らかなコーンクリームが口の中を潤す。程よく塩気の効いたスープは司の体を優しく温め、心の底から気力を蘇らせるようだ。
体の回復はいつもと変わりなかったが心のわだかまりはまだ消えない。
父の言う本来の姿を取り戻したところで今までの生活が戻らないことを司は薄々気付いていたが認めたくなかった。
「奇跡的だよ」
明るい声でアカツキは言う。
白と淡いモスグリーンの色で統一された、落ち着いたインテリアに囲まれた時子の部屋で彼は目にしたことのない衣装を何枚も広げていた。
それぞれ微妙に違うデザイの服を手に取りながらアカツキは続ける。
「みんな、血まみれだったのに軽症ですんでいたなんて。どんな獣に襲われたんだか」
「うん。でも、かっちゃんが…」
時子は目を伏せ、ぽつりとつぶやいた。
あの惨状の中で唯一車の中にいて安全だったはずの和則は一人息絶えていた。
獣に襲われたんじゃない人の手によって殺されたのだ。
そして、彼の婚約者は行方不明だ。
「彼は、残念だったね。私達が来た時にはもう手遅れだった。どうすることもできなかったんだ。」
慰めの言葉なのに何故か淡々として聞こえる。
和則の死は時子にとって衝撃であり、もう二度と会えない悲しみと助けられなかった後悔で気持ちはぐちゃぐちゃだった。
もっと何かできることはなかったのだろうかと、この一週間考え通しだ。
でも、いくら考えても良い考えは浮かばす自分の無力さにただただ失望するだけだった。
それに。
時子は見ることなく服を手に取り目の前に掲げた。
シルクに似た素材の衣装は軽くすべすべしている。黒地に複雑な蔦模様の豪奢な刺繍が施されてあった。
彼女の心に映るのは、真新しい美しい服ではなくベッドに横たわる青白い顔をした司の眠っている姿だった。
頭に包帯を巻いていて生きているか心配になって取った手は傷だらけで、もうあれから一週間以上経つというのに目覚めない彼が痛々しかった。
温かい手と辛うじて上下する胸と時々震える金色と茶色の混ざった長いまつ毛。
それらが、彼が生きている証として感じられるものだった。
胸が苦しくなり時子は眉根を寄せる。
司が消えた日から彼を巻き込んでしまった罪の意識に苛まれている。
どうやって帰ったのかわからないけど、無事だった事に今まで感じたことのない安堵感に体中が包まれた。
アカツキの声で時子は我に返った。
「お見舞いに行った男の子のこと思い出してるの?親切にしてもらった大切な友達って言っていたね。きっと大丈夫、元気になるよ」
「うん」
「まあ、いろいろあって気が動転してるんだ。気持ちが落ち着くまで時間はかかるだろうけど命に別状がなくてよかったよ」
そう言ってアカツキは時子の肩を抱き、肩にかけた手に力を込めた。
「安心して、もうすぐここでの生活も終わりだ。こっちでの手続きは済ませたし」
「ここでの生活も終わりってどういうこと?」
テキパキと荷造りするアカツキを不審に思い時子の表情が曇る。
「さっき連絡があってね。数日したら迎えが来るんだ。もう、これからは淋しい思いはさせないから」
にっこり微笑み時子の頭に手を添えると、頭の天辺に口づけを落とした。時子は頬を赤らめ慌てて身を引き、自分の頭を両手で抑える。
「ちょっ、ちょっと。こういうことはやめて下さいって言いましたよね」
「ごめん、そうだったね。うっかり忘れてたよ」
悪びれる様子もなくアカツキは明るい調子で言うと、意味ありげな視線を時子に投げかける。そんな眼差しで見つめられると時子は落ち着かない気持ちになった。こんな時は逃げるが勝ちだ。適当な理由を言って時子はその場を離れた。
次回予告
司は探し求めていた時子と再開を果たす。
しかし、それは新たな別れを暗示していた。
アカツキと時子に迫る追手の影。
司は大切な人達を守り切ることができるのか?