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Each of promise(それぞれの約束)②

 昼間の明るい日差しの中、窓際で伸びをしていた司はのんびりと言った。

「もうすぐクリスマス♪パーティしようぜ、パーティ」

濃い琥珀色の髪が暖かな光を受けて金色に輝いている。

教室に体を向けている司に対し、龍之介は窓にもたれ校庭ではしゃいでいる女子生徒を眺めていた。

 彼女達から視線を逸らすことなく憂鬱に応える。

「パーティどころじゃないだろう。お前に待ち受けているのは現国の追試」

 突然頭を抱え司はしゃがみ込んだ。

「うわあああ!思い出させないでくれ!!お前はギリギリで追試を逃れたからって余裕ぶっこいてんだろう!」

「当たり前だ。今回の期末は追試無しでラッキーだぜ。風之間様様だよなぁ」

凹んでいる司を尻目に藤波はにやにや笑っている。

司は悔しそうに唇を噛み愚痴をこぼした。「だいたいなんだよっ、ひらがな、カタカナ、漢字って言語はABCで充分じゃねーか」「はいはい。ぶつぶつ言ってないで「山」「川」「田んぼ」ぐらいは書けるようになろうね」「それぐらい書けるわっ!!」猫っ毛の司の長い髪をわさわさ撫でながら藤波はゲラゲラ笑う。子供扱いされた司は怒り心頭で顔を赤らめながら立ち上がった。

その様子を見ていたクラスメイト達から含み笑いが漏れる。

 よろよろと司はわざとらしく歩きながら、自分の席でノートに何か書き込んでいた愛川に助けを求めた。

「愛川!上手く日本語書けないからって追試ってひどくね?」「え?あ、はい」ひどく驚いた様子で彼女は手にあったシャープペンシルを机の上に落とし床に転がしてしまった。

「あ、ごめん」どうやら愛川は司が来たのに気付いていなかったらしい。司はシャープペンシルを拾い上げるとノートの上に置いた。

 ノートに書き込まれている数字の羅列の端にあるカタカナ文字が目に飛び込む。

「アカツキ?」

司は思わず声に出して読んだ。ものすごい勢いでノートが閉じた。驚いて目を瞬き司は愛川の顔へと視線を移す。

彼女は顔を赤くして複雑な表情をしている。明らかに動揺している様子だ。

そういえば、いつもキリリとしている愛川が最近心ここにあらずといった調子だ。何事も上の空で人の話を聞いていないことが多い。

 司の胸のあたりに黒いものが広がるのを感じた。嫌な予感がする。

「愛川、最近何かあった?アカツキって何?」

 あからさまに視線を逸らした時子はいそいそとノートや教科書をスクールバックへしまうと立ち上がった。

「そろそろ先生来るんじゃない?頑張ってね、追試」

「ちょっと待って」

 今にも立ち去りそうな愛川を、引き止めるために彼女の腕を司は思わず掴んでいた。細くて華奢な時子の腕に司の男らしく大きな手と温かな体温が伝わってくる。彼のいつも明るく輝くミルクチョコレート色の瞳が疑惑で暗く陰っている。

 時子は観念してため息を付き、彼を真っ直ぐ見つめると黒い瞳を輝かせて言った。

「悪いけど、しばらく家にお客様が来てるから早く帰らないといけないの。ごめんね。じゃあ、またね」

 多くは語らなかった時子は、ここ数週間すっかり馴染んだアカツキとの生活を思い出し自然に笑みをこぼした。

 司の手に力が入る。「痛い」愛川の言葉に思わず手を引いた。「ご、ごめん」司の顔は強張り僅かに青ざめている。

見たことも会ったこともないその客に、司は直感的に軽い嫉妬を感じる。

何故なら彼女は頬をピンク色に染め、今まで見たことのないような活き活きした顔をしているからだ。

こんな愛川を今まで見たことがなく、家に帰るのを楽しみしている様子だ。

司は思わず前髪を掻きあげた。彼女を笑顔にできるのは自分だけだと思っていたのに。

 スクールバックを肩に掛け今まさに歩き出そうとした彼女をもう一度引きとめようと口を開きかけた時、教室に先生が入ってきた。

「そろそろ追試始めるぞー。関係ないやつはもう帰れ」

居残っていた生徒たちは潮が引くように教室を出て行く。

司はついに愛川を諦め自分の席についた。



すっかり葉を落とした広葉樹を木枯らしが容赦なく揺らし、枝が擦れ合う音が校庭に響く。吹き抜けの1階ホールを抜け校舎を飛び出した時子は下校する生徒たちに混じって南門へと向かった。

校庭にはT字型の道具、トンボを使って地面を均す野球部員が寒さのあまり猫背で駆け回っていたり、テニスコートではテニス部員がネットを張ったりボールを準備している。

期末試験も終わり、冬休み目前の校内の雰囲気は町の喧騒とそれとなく似ていて忙しなく感じた。

校庭を横切り南門へ近づくとにわかに人だかりができているのに気付いた。

生徒たちの興味の対象に時子は無関係だと決めつけて足早に門を跨ぐ。

 その時聞き慣れた声が後ろから聞こえた。

「時子!待ってくれよ」

 振り返ると向井が眼の色を変えて彼女に駆け寄って来る。

「かずちゃん!」

思わず慣れ親しんだ名前で言葉を返した。

自分と向かい合っている向井の姿は、いつもと違い颯爽としていた。伸び放題だった髪と髭は綺麗に切り揃えられ、カーキ色のスーツに黒いロングコートを羽織っている。

 時子はぽかんと口を開けてつぶやいた。

「どうしたの?そのカッコ」

 柄にもなく頬を赤く染めながら、向井は鼻息も荒く言った。

「オレ達とうとう結婚するんだ!」

校門の辺りにいた生徒や歩行者たちの視線が一斉に愛川達に集まる。

ひそひそと二人を噂する囁き声があちこちから聞こえ、次の展開を待って誰もがそこから動こうとしない。

 辺りをぐるりと見回し、時子は彼の腕を掴むとその場から逃げるように歩き出した。

「バカ!大きな声出さないでよ。変に思われるじゃない」

二人は学校と寮の間から住宅街へと伸びる下り坂を歩きながら、春田マーケットを越えた先にある事務所へ向かっていた。

和則の話だとやっと恵との結婚が決まりこれから二人で挨拶に行くらしい。

時子にとって恵は和則からお金をむしり取る悪女で結婚詐欺師だと思っていた。彼女の莫大な借金を返すため父から金を借り、水商売から足を洗うようやっと説得できたということだ。二人の関係を怪しんでいた時子もとりあえず一安心した。

事務所に着く頃にはすっかり日が暮れて、二人はすべての部屋から光が漏れる愛川建設の前まで来ていた。

ホールには真紅のスーツを着た渡辺 恵が待っていた。二人の姿に気付くと満面の笑みを浮かべる。

和則と恵は見つめ合い惹かれるままに駆け寄り、周囲の目をはばかる事なく抱き合う。

そんな二人の姿は世界で1番幸せに見えた。

ガラス扉を開き、社長室と自宅へと続くコンクリの階段を軽い足取りで登っていく二人の背中を時子は目で追いながら、二人の幸せを願わずにいられなかった。

社長室の扉を開き、和則は中に入る前に少しだけ振り返ると見送る時子にウインクをした。

重そうな扉が低い音を立てて閉まる。

時子は思わず扉に身を寄せるとわくわくしながら聞き耳を立てた。


 事務所と違い贅沢な作りの社長室は、高価な家具と本棚を埋め尽くすファイルの紙の匂いで溢れていた。

場末の居酒屋や生ごみ臭い裏路地、工事現場の油やコールタールの嗅ぎ慣れた匂いと違い和則は息苦しさを感じる。

恵の手を固く握り、重厚なデスクの前で愛川 十蔵と対峙した。

 十蔵は座ったまま目を細め、舐めるように恵を見つめて和則とはまだ目をあわさない。

「親父さん。渡辺 恵さんです。結婚することになったんで報告に上がりました」

 和則の隣で緊張した面持ちで恵が居心地悪そうに身動きする。張り詰めた空気の中、恵は手に持っていたショルダーバックを開くと手を入れ中身を弄る。

「あの、育ての親の親父さんに、是非、婚姻届の保証人になってもらいたく…」

 恵に預けた婚姻届はなかなかバックから出てこなかった。いつまでもバックを弄る恵にしびれを切らして和則が手を伸ばした時、不意に目の前の巨体が動き出す。

 その動きは体型に似合わず素早かった。十蔵は物欲しげな視線を恵みに這わせ、伸ばした手の甲で彼女の体のラインを辿った。

「いやいや、おめでとう。お前も一人前になったなぁ。和則」

 ざらざらしたしゃがれた声が部屋に響く。胸の膨らみの下を左右に行き来する十蔵の手に恵は嫌悪感を露わにした。

「いい女じゃないか。お前が借りた金もこの女次第であっという間に返せるってもんだ」

 案に彼女の体を使えると言った意味合いに和則の顔が強張った。

「ち、違います!借金はオレが働いて返しますから、恵は関係ねぇっす!!」

「ふざけんな!!!たかが知れたお前の稼ぎで、利子で膨らんだ借金が返せるかよ!夫婦になるんだろ?いいじゃねぇか、使えるもんは使っちまえ」

怒号を飛ばしながら十蔵は恵の胸を鷲掴みにした。体にぴったり張り付いた赤いシルクのスーツが歪み、たわわな胸がはだけそうになる。

 思わず和則は手を伸ばし十蔵の手首を掴むと乱暴に引き剥がした。

「やめてくださいっ」生まれて初めて和則は後悔した。育て食わせてもらったことを恩義に思い、今まで十蔵が手がけたどんな極悪非道なことも、まるで他人事のように傍観してきた。汚い仕事もどこか自分とは無関係なことで、自分に火の粉が降りかかることは絶対ないと高をくくっていた。

自分の利益のためなら、女や子供を売り飛ばすこの男を甘く見ていたのだ。

 恵はバックから震える手を引き抜く。

「もう、いい。ここから出よ…」

こんな男に保証人になってほしくない。和則が侮蔑も露わに十蔵を睨みつけ、恵に視線を向けると言いかけた言葉を飲み込んだ。

彼女の手にあるのは紙切れでなく研ぎ澄まされたナイフだ。

和則と十蔵が怯んだ隙に、恵は叫びながら十蔵に体当たりをする。「死ねっ!!愛川っ」

悲鳴ともつかない血を吐くような女の声とマヌケな男のうめき声。

 仰向けに倒れた十蔵に恵は馬乗りになりナイフを振り上げる。

「殺す!この男を絶対殺す!」

振り下ろされたナイフが怪しく光りを放つ。すんでの所で和則が彼女を十蔵から引き剥がした。「離してっ!離してよ!こいつを殺すんだ!邪魔をするな!!」大暴れする恵は男でも取り押さえるのに苦労した。

優しくいつも微笑んでいた恵。いくらでも和則を甘やかしてくれた恵。今ここで叫び暴れる女は聖母マリアのようだった彼女の面影はなく、怒れる鬼神の形相で十蔵を凝視していた。

十蔵は机の足を掴みのろのろと起き上がる。彼の脇腹からは血が滴っていた。

和則は半狂乱の恵を抱きしめながらなんとかなだめようと声をかける。「落ち着いて、恵。落ち着くんだ。なんでこんなモノ持っている?!」ギラギラした瞳が和則へ向けられその目から涙が溢れた。「この日を、この日をどんなに待っていたと思う?お前にはわからないっ!」「だから、やっとこの日を迎えたんだ。体を売るような仕事もしなくていいし、オレのためにこれから尽くしてくれるだけで十分だ。多くは望まない。君が幸せでいてくれればオレも幸せだから」和則の甘やかな言葉は彼女の心に響くことなく、握りしめ  た刃物を十蔵に向けたまま離そうとしなかった。

「どいてっ!このチャンスを逃がすわけにはいかない!」

恵は縋る彼を突き飛ばし、腹を抱えて脂汗をかきながら恨めしそうに自分を見る十蔵と向き合った。

 彼女は隙あれば、何度でも刺すつもりだ。

「このクソアマ。いてぇじゃねえか。何者だよ」

「渡辺 恵。渡辺 多江の娘よ。アンタが覚えてるかどうか知らないけど」

十蔵は視線を泳がせ記憶を辿る。

この充実した日々に埋もれていた忌々しく反吐が出るほど惨めな過去が掘り起こされた。

あぁ、あの女だ。

おれが底辺這いずり回っていた頃、さんざん利用したが働かせれば体を壊す、ヤりゃあ子供を作る。最悪な女だった。

 十蔵の口から意地の悪い笑みがこぼれた。

「あぁ。お前はあの女の子供だったか。まさかおれの娘とか言い出すんじゃあるまいな。冗談じゃねぇぜ。あいつは好き者でいろんな男と寝てたんだ。おれから慰謝料や養育費を請求しようなんてお門違いだ。DNA鑑定でもして証明して見せろよ。ま、おれは協力なんてねぇがな」

子守りは時子で十分だ。多江と違い立派なパトロンが大金をたんまりくれるからな。

笑みを浮かべる十蔵に、恵は反吐が出るかと思った。怒りのあまり体がぶるぶると震える。殺しても殺し足りないくらいだ。

 後ろに和則が立ち、呆然とした様子でつぶやいた。

「恵が、親父さんの娘?―どういうことだ?」

 恵は振り返り諦めたかのように事情を説明した。

「昔、あの男に体を売ってまで尽くしていたのが私の母だった。自分のうまくいかないことを全て私達のせいにして日常的に暴力を振るって、精神的にも体力的にも追いつめられた母は病んでしまった。そして、ある日突然姿を消したのよ。まだ、十代にも満たない私に何ができたというの?!食べるにも事欠き、母が死んでいるのにも気づきたくもなかった。隣人の通報で私は保護されて、やっとマトモな生活に戻れるかと思った」

「恵…」

「ある日、この町で見かけたのよ。幼い娘と手をつなぎクリスマスプレゼントを選ぶこの男の姿を。母と私をどん底に突き落とし捨てたこの男が、笑顔を向けていたのはその娘だった!店で知り合った探偵に身辺調査を依頼して、あんたに近づき、愛川 十蔵!お前を殺すことだけを糧にこれまで生きてきたんだ」

着崩した真っ赤なスーツは埃にまみれ、髪は乱れて止めていたピンがぶら下がっている。復讐に瞳を燃やし荒れ狂う感情をむき出しにした彼女はまるで別人だった。

和則は返す言葉もなく彼女をただ見つめることしかできない。恵の憎悪は触れるものを焼きつくす地獄の炎のようだ。

 恵は改めてナイフを握り直すと、再度十蔵を斬りつける。

巨体に似合わない素早さで避け、十蔵は恵のこめかみに渾身のパンチを見舞った。

客に愛想を振りまき、グラスに酒を注ぐ仕事をしていた恵に正面からの襲撃に勝ち目はない。勢い余って吹き飛んだ恵は扉に叩きつけられると力なく床に転がり動かなくなる。

 十蔵は恵の手を踏みつけナイフを蹴り飛ばすと、彼女の頭を力任せに踏みつけた。

「とんでもない女を連れ込んだな。和則」

「め、恵」

助けに行きたくても和則の足は全く動かなかった。まるで足が床に縫い付けられたようになっている。十蔵の鋭い眼光に萎縮し、初めて会った頃を思い出させた。昔はその姿に憧れを抱き、その背中を追い続けてきたが、今は恐怖しかそこにはない。


扉の向こうで時子は一部始終を聞いてしまった。

今、すぐにでも扉を開けて飛び込みたい。しかし、怖ろしさのあまり凍りついたかのように体が動かない。

助けなきゃ、という思いと自分も巻き込まれる恐怖が、天秤の上でグラグラと揺らいでいる。私が出た所でどうにかなるわけでもないかもしれない、という自己防衛と幼なじみの危機に危険を顧みず飛び込む正義感がない混ぜになってどうしても動けなかった。

でも、このままだと二人ともまずいことになる。

震える指先をドアノブに触れた所で、室内から怒鳴り声が響いた。

「おい!誰かいないか?!今すぐ上がってこい!」十蔵のがらがら声だ。反射的に手を引き時子は慌てて三階へと続く階段を数段上り、身を隠した。

1分も立たないうちに会社の従業員たちが現れ、社長室へと入っていく。

「なんだ、木下達はいないのか?」「はぁ。アカツキさんのお使いで幹部は出払ってるようで」「ちっ、しゃあねぇな。K埠頭で明日積み荷が届くのは聞いてるか?」「はい。深夜に入港でしたよね。運ぶのを手伝うよう言われてます」「確か、取引先は中国だったな」

「はい」「手土産にこのオンナと何人か若いの拐って乗せていけ。先方も喜ぶだろう」

「や、やめろ!恵を返してくれ!」「煩い。クソガキが。手間かけさせやがって。お前はもう用済みなんだよ。役立たずが」鈍い音と男のうめき声が部屋の中から漏れ聞こえる。

「車と一緒に海にでも沈めておけ、いいか下手打ったらお前らも同じ目に遭うことを心しとけ。それと幹部がいることもな」十蔵が大きな声で話すため社長室の話は丸聞こえだ。

真っ青になった時子は震える足に力を入れて立ち上がる。

今、声を上げて助けなければ二人は危ない。今にも転びそうな勢いで階段を駆け下りようとした時、背後から口を塞がれた。

もがき暴れる時子の耳元で熱い吐息とともに低い男の声がささやいた。「静かに。今出て行っては危ない」首を捻り見上げると、神妙な面持ちのアカツキの姿があった。

彼の菖蒲色の髪は濡れていて雫が首元を伝う。時子の家で使っているボディソープの香りとアカツキ独特の男らしい香りが彼女を包んだ。

青ざめていた顔に赤みが差し時子の心臓がうるさく鼓動し始める。

 アカツキは彼女を引き寄せ後ろから優しく抱きしめた。

「いい?このことは聞かなかった、見なかったことにするんだ」「で、でも」耳元でささやかれる声は親密で彼の体温と心音を背中に感じ、時子の意識は緊急事態だというのに、そこへと集中してしまう。

「今の私達ではどうすることもできない。共倒れになるだけ。十蔵の非情さは一緒に暮らしていたあなたが1番知っているはず」

 時子は固く目をつぶり思い出したくもない過去を回想した。働いていた下っ端の従業員の行方不明者は数知れず、怪しげな商売には麻薬や売春、臓器売買の話もあった。自分の身を守るため知らないふりをしていたにすぎない。

 十蔵の子供として咎めることも責めることも出来なかった時子は、幼なじみの命の危険を知って初めて後悔の念と自責の念に苛まれた。でも、何もできない、刷り込まれた絶対的支配、恐怖心。小動物のように飼い慣らされていた時間が長すぎたのだ。

 不意に頭を撫でられる。

「大丈夫。もうじきここを出られるから。もうしばらくの辛抱だよ」

そう言ってアカツキは時子の手を引き三階へと連れて行った。

やがて、愛川建設に一台の黒塗りのワゴンが訪れ、まもなく走り去っていったのは誰も知らない。


「司!何やってるんだよ?!」

 倒れた1年生に覆いかぶさるように四つん這いになった司は思わず身を引いた。

「ご、ごめん」

掴んだ腕を離し、怯えた様子の小柄な1年生を見下ろす。

1年生の顔面は蒼白で、小刻みに体は震え、掴んだ肘は赤く腫れていた。

バスケ部の紅白試合に参加させてもらっていたが、白熱した攻防戦に思わず力が入りすぎてしまった。

司はボールを持った1年生のディフェンスに回ったところ、振り上げられた腕に過剰に反応してしまい、腕を掴み引き倒してしまった。

あきらかなルール違反だ。

差し出された司の手を取ることなく1年生は自力で立ち上がる。

 心配顔で集まってきたバスケ部員たちは不審な眼差しを司に向けてくる。不意に肩をつかまれ振り返ると、藤波が少し驚いたように目を見開いた。

「やりすぎだよ。って、司、眼の色が赤く…?」

 司は慌てて首を振り琥珀色の前髪で顔を素早く隠すと、更に片手を顔に当て彼と目を合わすことなく踵を返し体育館の出口に向かう。

「ごめん。オレ、体調悪いみたいだから帰るわ。…ほんと、ごめん」

意気消沈して肩を落とした司は重い足取りで学校を後にした。


 夕飯を終え司は使った食器を洗っていた。

彼のすぐ側で妹のひばりが食器を拭いては片付けており、忙しそうに動き回っている。

スポンジで汚れを落とし濯ぐ。単調な作業を繰り返しながら司は脇目で妹を見た。

彼女は使った鍋に手を伸ばしている。今日はフライで鍋には波々と油が注がれていた。

妹は素手で鉄製の取ってに手を触れようとしているところだった。

「危ない!」司は叫び、思わず手を出す。

空気を切る鋭い音とともに鍋が裂け、驚いて飛び退いたひばりの手から血が滴り落ちた。

鍋は無残にも二人の足元に転がり、床に油をぶちまけている。

「あ、あ…」鋭い鉤爪を携え大きく变化した手を司はもう一方の手で押さえつけじわりと体から冷や汗が流れるのを感じた。

「お兄ちゃん」

ひばりは驚いた顔をしていたが、やがて目を細めると司をじっと見つめた。

ぐらりと辺りが歪んだ気がした。足から力が抜け立っているのも危うい。

目眩がして司は今にも自分は気を失うんじゃないかと思った。

なんとか意識を保ちつつ呼び止める妹の声を背中に聞きながら自室に駆け込んだ。

倒れこむようにベッドに横になり、まるで胎児のように体を丸める。

満月はとっくに終わっているのに感情に体が激しく反応してしまう。力の加減をしているはずなのに何倍にも膨れ上がって返ってくる。

どうなっているんだオレの体は。

不安に押しつぶされそうになりながら司は固く目を閉じた。


 まだ月も満たない深夜。

人気もなく残らずシャッターの閉まった店が並ぶ春田マーケットに人影が横切る。

人影はおぼつかない足取りで街灯を避けるように暗闇をうろついていた。

春田マーケットの細路地を抜け、墨をこぼしたような闇に身を投じながらデパート街を彷徨い歩く。

そうだ、きっかけはバスケ部で練習を手伝っていた時だった。

強引なディフェンスで危うく転倒しそうになった時、満月の夜に感じる体の芯が焼けつくような感覚が襲い瞳だけ色を失った。なんとか誤魔化したが不安は拭いきれない。

それから、感情の乱れに反応して満月と関係なく体が变化するようになった。

部分的にだが徐々にその感覚が鮮明になり、自分では抑えがたい衝動になる。

妹を火傷から助けようとして、この鋭い爪で傷つけてしまった。

頭を冷やすために深夜の街を徘徊するものの司の中に蔓延った不安や恐怖は黒い塊となって心を蝕む。

苦しい、父さん。オレの体はどうなっているんだ。早く帰ってきて。

祈りは虚しく疲弊した司の心に響いた。

真っ暗なオフィスビルの扉が開き、女性らしき人影が現れる。

司は何気なくそのビルを見上げると、愛川建設の看板が目に飛び込んだ。

 扉に視線を戻し、彼は思わず声をあげた。

「愛川、こんな時間にどこ行くの?」

「中村くん!何やっているの?こんなところで」

お互い質問攻めだ。黒いダウンのジャケットに灰色の厚手のマフラー、ジーンズにファー付きの黒いブーツ。愛川は完璧な防寒スタイルだ。

それに比べて司は黒いワイシャツ一枚に黒いスラックスとやけに薄着で、この季節にありえない格好だった。

 白い息を吐きながら司は言う。

「眠れなくてさ、この辺散歩してた」

 妹を傷つけた右手を無意識に見つめると、爪の間に血がこびり付いていた。司は心の痛みに顔をしかめその手を握る。

「そう、もっと温かい格好してくればよかったのに」

心配そうに口を尖らせて言った彼女の鼻の頭は寒さで赤くなっている。

遠くから低いエンジン音と2つの光が近づいた。

 一台のタクシーが二人の前に停まる。

「じゃあ、私、コンビニにいくから、またね、中村くん」

 いそいそとタクシーに乗り込み、愛川は早口で行先を告げた。

「K埠頭まで」

 扉が閉じ闇をライトで引き裂きながら滑るようにタクシーは走りだす。

「随分、遠くのコンビニに行くんだね」

 のんびりとした声が隣からした。いつの間にか司が乗り込んでいる。

「中村くん!」

「暇だから付き合う。知ってると思うけどオレ強いから。お守り代わりだと思って」

時子の叱責を気にする様子もなく、シートに深く体を沈める司は降りる気はさらさらなさそうだ。彼はぼんやりと流れる窓の外の景色を眺め、困惑する愛川をあえて気にしないふりをした。

切羽詰まった様子でこの時間にありえない場所に行く彼女を1人にするわけにはいかない。

彼女はまたトラブルに巻き込まれているんだ。

司の直感がそう言っていた。

次回予告

和則を助けるため家を抜けだした時子。

体調不良を押して愛川についていく司。

司はコントロール出来ない体の異変に振り回されながら必死に時子を守ろうとする。加減の効かないパワーに圧倒されつつ、司の姿はみるみる変貌を遂げる。

時子の危機に司は真の姿を晒してしまうのか。

和則と恵は過酷な運命を乗り越えられるのか。

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