Life of another(もう一つの生活)③
時子はカメラ付きのインターフォンを鳴らす。
制服姿で肩にはスクールバックを担ぎ、開いている方の手にA4サイズの封筒が握られている。
乳白色の鏡面磨きの床に、淡いベージュ色の壁。こざっぱりした広いエントラスにチャイムの音は鳴り響いた。
カメラの横にあるLEDランプが赤く光り、表示されていた部屋番号が消える。
『はい、中村です』時子はマイクに向かってはっきりした口調で言った。
「愛川です。今日のプリント届けに来たんだけど」
少しの間の後『どうぞ』という返事と同時にガラス張りの自動ドアが音もなく開いた。
時子はためらった。いつもはポストに入れておくように言われるのに、今日は招かれている。
グズグズしているうちに自動ドアが閉まり始めた。
慌ててマンション内に足を踏み入れる。
ホワイトラビッツクラブマンションは夏見市内でも高級マンションでとても大きい。
世帯数は見た目と違い少ない理由は、各家庭の敷地面積の広さが物語っていた。
一軒一軒が異様に広い。時子は辺りに目配せしながらエレベーターに乗り込んだ。
扉と向かい合った壁には一面鏡が張っており、彼女の姿を映している。
目的の13階に辿り着き、1301号室のチャイムを鳴らすとエプロン姿の司が出迎えた。
廊下へとつながるホールは明るいメープル色で、壁や天井のはめ込み式の白熱灯が煌々と辺りを照らしている。廊下を進むと広いリビングにつながっており、双子の妹が興味津々なそぶりで挨拶した。
司に案内されて白い革張りのソファに腰掛ける。ソファの座り心地はよく時子は思わずため息を付いた。
司はニッコリ笑ってエプロンの結び目を締め直しキッチンへと向かった。
「毎日ありがとう。封筒はテーブルの上に置いといて。明日から学校だからお使いは今日までだね」
忙しそうに動き回りながらサラダボールと受け皿を両手に出くると司はテーブルに並べる。
受け皿は4枚あった。
「夕飯、食べて行って。愛川の分も作ったから」
「え?」
ためらう彼女に構わず、テーブルに次々と料理が並べられていく。双子の妹の手伝いもあってあっという間に夕飯の準備は整えられた。
オムライス、サラダ、ミネストローネ、テーブルの真中には形のいびつな手作りクッキーが皿の上に並べてある。
半熟玉子の甘い香りとミネストローネの食欲をそそる爽やかな香りが立ち上った。
「ありがとう。いただきます」
温かい夕飯を頂きながら、時子はちらりと司たちの様子を観察した。
双子の妹達は文句を言いながらも司をよく手伝い、食事中も会話が途切れない。
時々溢れる笑い声はまるで絵に書いたような一家団欒を見ているようだ。両親の姿はなかったがとても幸せそうだ。
スープをかき回していたスプーンを止め時子は自分を省みた。
兄弟のいない時子は物心ついた頃から家族と一緒に食事をした回数は片手で数えられるくらいだ。多忙な父は常に周囲に目を光らせ外出している。
組の1番下の舎弟が彼女の食事当番をしており、若頭補佐以上の者が黙って付き添うのが決まりだ。お世辞や世間話など全くなく時子の食事を終わるのを、目を合わせることなく待っているのだ。
父が法に触れる仕事をしているのは薄々気付いていた。表面上では気付かない振りをしていたがある事件をきっかけに時子は人との関係を断ち切ったのだ。
友人も作らず人と距離を取るうちに次第に孤立していった。彼女はそれでいいと思った。
お節介な司が現れるまで。
彼を通じて藤波、風之間、クラスメイト達が次第に距離を詰めてきている。
これまで畏れていた態度が軟化しているのだ。
周りの人間と親しくなるのに時子は危機感を覚えた。離れようと努力するもまるで見えない蜘蛛の巣に絡め取られたように身動きできない。
みんなの笑顔が時子にとって苦痛だった。
それに…時子は目を細め中村家の面々を見つめる。
なんて眩しいんだろう。すぐ手が届くところに自分が一生得ることができないかもしれない暖かな家族の姿がある。不毛な考えにじわじわと胸のあたりが苦しくなってきた。
大きく椅子を引き彼女は立ち上がった。
「ちょっと失礼」席を立った時子は無理やり笑顔を顔に貼り付け廊下に駆け出す。
つぐみは食事をしていた手を止め心配そうに言った。
「なんか、泣きそうな顔してたけど。大丈夫かな」
隣に座るひばりが神妙な面持ちで頷く。
司は軽い口調で安心させるように言った。
「この部屋埃っぽいから目にゴミが入ったんじゃない?お手洗いだよ」
司の目は彼女の消えた廊下へと向けられたままだった。
夕食も終わり時子は中村家を後にした。
辺りはすっかり日が暮れて、道をぽつんぽつんと照らす街頭を頼りに商店街までの道のりを歩いていた。
隣にはすらりと背が高く、濃い琥珀色の髪を流したままの司の姿がある。
着古したジーンズにチェック柄のフリースシャツというラフな格好だ。
彼はゆっくりと視線を落とすと濃くなった茶色の瞳を時子に向けた。
「愛川、また食事に来てくれる?」彼から視線をそらし時子は軽く首を横に振る。
いつの間にか商店街のアーケードの下だ。いつもは長く感じる時間も今日は何故だか早く感じる。
人気の少ない商店街は居酒屋とカラオケボックス、飲食店以外はシャッターが降りていた。
薄暗い街頭が二人を照らし、タイルの歩道に二人の長い影が落ちている。
司ははにかんだ笑みを浮かべて、冷たくなって赤くなった鼻をこすった。
「余計なお世話なのかもしれないけど。何かのきっかけで人は変われることができるんだ。いつでもね」
「そうね」
気のない返事を返した時子は腹立たしさを覚えた。
そんなのは解りきったことだ。解っていてもどうしようもない事がある。
顔を上げて司を睨みつけると、彼は思いやりの溢れた優しい眼差しを向けていた。
時子は息を呑む。急に恥ずかしさが込み上げてきた。
確かに、彼の言うとおりかもしれない。出来る事は限られているかもしれないけどこの状況を変える努力をすることはできる。
「ありがとう」
二人は目を合わせて微笑みあった。純粋に微笑む彼とは対照的に時子の微笑みはどこか悲しげだった。
商店街のアーケードを通り過ぎると、満点の星空が二人を出迎えた。
ボールの弾む音と上履きが床をこする音が体育館内に響く。
しばらくして静かになり中から歓声が上がった。
時は司が登校した当日の放課後。
バスケ部員たちが体育館中央に集まって明るい歓声を上げている。生徒たちの中心には顧問の先生とコーチがいた。その中には藤波の姿もあった。
「やったじゃん。1年でレギュラーってすごくね?」「いやいや、マジで実力だから」「バカヤロ!調子こいてんじゃねーよ」「ちくしょ~うらやましいぜ」一年生のなかで手荒い祝福を受けているのは藤波だ。
そこへ、白い学ラン姿の男子が現れた。
そこそこ背は高いがぽっちゃり色白で童顔生徒だ。彼は色白の顔を青くして部員たちに駆け寄ると手に持ったプリントを振りかざした。
「県大会前の練習試合決まったんだけど、なんと県立北野中学に…」
「はぁ?!北野!!」
興奮して赤かった部員たちの顔が一瞬で青ざめた。
「北野って…」「こりゃまたハードなトコと当たったな」顧問とコーチは顔を見合わせて苦笑いをする。
藤沢学園桜ヶ丘中等部バスケ部は県内のランクで中の下くらいだ。試合相手の北野は下の下だが実力はある。ただラフな試合ばかりするから出場停止になり上に行けないのだ。
この学校の部員より体つきも一回りちがう。
暴力沙汰が耐えない学校でケンカ慣れしており北野にとってほのぼの学園桜ヶ丘は一捻りでやっつけられる相手だ。
藤波は困惑した表情で報告してきた生徒を見た。
「葛城先輩。他にマッチングはなかったんですか?県大会前に北野と試合するのは…」
「以前約束していた豊永育英が突然キャンセルになったんだ。下校途中に乱闘に巻き込まれたとかでけが人がたくさん出てね。予定日に空いている相手が北野しかなかったんだよ」
部員達の間からため息が漏れる。
「まぁま。落ち着けって。新たにスタメンも決まったことだし気合入れて明日から練習仕切り直しだ。葛城、おれと柳川コーチと来い。ミーティングだ」
「はい!」物理専任顧問の水無月は葛城からバインダーを受け取り、窓際の床に置いてあったスポーツバックを担いだ。
「今日はこれで終わり。明日から北野対メニューにトレーニング変更するから覚悟しとけー。それと、当たり前だが片付けと戸締まりよろしくな」
「はい!」部員全員が一同に返事をして、柳川コーチと今出ていこうとする顧問の水無月に一礼する。
彼らが去った後、部員たちはキビキビと機械でゴールをたたんだりボールをキャスター付きの鉄製のバスケットに集め用具室に運んだり、体育館の隅から隅までモップをかけたりと誰に命令されるわけもなく手分けして能率よく後片付けをした。
体育館が急にひんやりと寒く感じる。練習中には気にならなかった窓の外で、枯れ葉が風に吹かれてカサカサ舞う音が部員の耳に入った。
モップをかけ終わり用具入れに片付けながら、藤波は横で一緒に片付ける同級生の村田をちらりと見た。
「デビュー戦、初試合相手が北野だなんてありえねぇよ」
村田は笑いながらモップを奥に押し込むとおかしそうに言った。
「泥試合になりそうだな。バスケの技術よりケンカの仕方を習ったほうがいいんじゃないのか?」「冗談じゃないぜ」愚痴る藤波の肩に腕をまわし、村田は空いている拳で軽く彼の胸を突いた。
「まぁまぁ、お前は頑丈だから大丈夫だって」「ひとごとだと思ってるだろー」「そりゃそうだ」村田は1年A組で賢い割には気さくなやつだ。
風之間をそれとなく守るように言ってはあったが、今ではすっかり仲良しで聞いた話だと、か弱そうな見た目と違い志郎のやつ文武両道で勉強もスポーツもガッツリできるらしい。なんだよフリかよと思ったが臆病な性格が祟って本領発揮できないとか。
変な性格と思ったが、風之間と仲良くしてくれる村田に藤波は感謝していた。
愛川建設事務所に牧原はハンカチで額の汗を拭きながら足を踏み入れた。
グレーの事務机が5つ中央に並んでいる。机上は書類で散らかっているところもあれば何もないくらい整理されている机もある。セットで買い揃えた回転式の椅子は綺麗に机の下にすべて収まっている。
壁には一ヶ月のスケジュールが書かれたホワイトボード、社員の交番表そして認定証を収めた額縁がいくらか並んでいた。あと、でかでかと営業成績のグラフ表がある。
窓際に愛川 十蔵と専務の木下 崇が神妙な面持ちで何やら話していたが、牧原が現れると口を閉ざし彼に鋭い視線を投げた。
牧原は一礼すると二人に歩み寄り口を開いた。
「お疲れ様です。現場にも山田はおらず、消えた資材もみつかりませんでした」
「あぁ、その件でしたら私が解決しておきましたよ。やはり資材を横流ししていたようで追跡先で責任を取ってもらいました」
木下はにこやかに笑いながら滑らかな手つきで自分の腕を撫で上げた。
ぞくりと牧原の背筋が寒くなる。木下が機嫌の良い時は久々に手を汚した証だ。
深々と牧原は頭を下げ絞りだすような声で詫びた。
「すんませんっ!木下さんの手を煩わせちまって、すんませんっ!」
「牧原ぁ、資材の受注にわけぇえもんの教育、おめぇに任せるのは荷が重すぎたかぁ?」
頭の上から十蔵の地鳴りのような低い声が雷鳴のように響いた。恥ずかしさのあまり牧原の頬が赤く染まる。
木下は顔色1つ変えず穏やかな口調で言った。
「まぁ、人事を預かっている私の人選ミスですよ。もっと人を見る目を養わないとダメですね。まだまだ勉強不足だ」
そう語る木下の様子はとても反省しているように見えない。
きっちりと整えられた黒髪。誠実で紳士な感じの顔立ち。下ろしたてで体にぴったりのカーキ色の洒落たスーツを着こなした姿は、殺人を犯した前科者に見えない。
反省するわけがない。犯罪を起こしそうな社員を時々雇い獲物にしているのだ。
社員の手に負えない案件を担当し、容赦ないその手口は人道に反する酷いやり方だ。
むしろ無残であればあるほど木下の興奮を駆り立て快感をもたらした。
高額納税企業で警察、政治家OBの株主兼役員は多数所属する愛川建設の傘下で、彼の所業は表に出ることはないだろう。
牧原はゆっくり顔を上げ乾いた唇を湿らせた。
「それと、お嬢さんのことです。向井と頻繁に会っており、カネの使い道について問い詰めているようです。あと、向井の交際相手ですがクラブ「綾にしき」で働いている女でした」
「その女についてもっと調べろ。泳がしておけば何か出るだろう。時子には向井に会わないよう忠告しておく」
伸び始めた無精髭を十蔵はゆっくり撫でながら、何かを考えている様子で言うと木下に目配せをした。
木下専務は口の両端を釣り上げ不敵な笑みを浮かべる。
「はっ。言いつけ通りに」
頭を深々と下げる牧原を尻目に二人は社長室へ姿を消した。
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