夕焼けの微笑み
初短編です。
カタン
物音がしたような気がして《瀬戸 虎弥太》はゆっくりと目を開けた。
(あれ、俺なんでこんな所にいるんだ?)
一瞬自分がどこで寝ていたのかわからなかったが、すぐに思い出した。---図書館だ。
そういえば、と思い出す。いつものように授業をさぼりたまり場である空き教室に行ったものの、友人たちがあまりに騒がしく、さらにちょっかいを出してくるので、人がいない所を探してここにたどり着いたのだった。
この高校は珍しいことに校舎とは独立して図書館がある。大正時代に建てられたその建物はもともとはある財閥の別荘であったというが、この高校が出来たときに図書館として寄贈された。当時としてはモダンな洋風建築様式で古めかしくも趣があり、蔵書も充実しているため本好きには堪らない場所のはずではあるのだが、生徒の9割が不良であるこの高校では無用の長物であることは間違いなかった。
とはいえ溜まり場になりそうでならないのは、不良の本アレルギーとも思える習性からだろうか。図書館はいつも静まりかえっていた。静かなところを探して虎弥太がここにたどり着いたのも不思議なことではなかった。
窓から差し込む日差しが随分低くなっているのを見て、虎弥太は寝過ぎたかとぼんやり考える。そして目を覚ました原因でもある人物に考えをめぐらせた。
(珍しい。こんなところに誰か来たのか?)
自分がいることを棚に上げて、虎弥太はどうしようかと考えた。自分がいるここは図書館の中でも奥のほうに当たり、さらには寝転んでいるソファのヘッドレストで覗き込まない限り見つかることはないだろう。そろそろ起きなければと思うものの、ここで突然起き上がっていらぬ詮索を受けるのもうっとおしい。
(・・・居なくなるまで待つか)
そう結論し、寝転がりながら空を見上げる。一つ二つ浮かんでいる雲も夕日で淡い橙色に染められ始めていた。水色、青から紫。薄桃色、橙色と空はパレットをひっくり返したかのような色彩に溢れている。
(なんか、久しぶりに見たな)
夕焼けなどゆっくり見たのはいつ振りだろうか。きれいだが郷愁を誘うその景色に昔を思い出し、チクンと胸が痛む。今は失われてしまった幸せの光景---
自嘲的な笑いを口元に浮かべ、そしてふと気づく。まだ人の気配がある。
入ってきたときにパタパタと軽い足音がしていたので女子生徒だと思われたが、出て行く気配は感じなかった。
(何してるんだ?)
好奇心に駆られソファから音を立てないよう静かに立ち上がる。おそらく自習用のテーブルの辺りに居るのだろうと、意識して足音を忍ばせ近づいていった。
(あ、いた・・・)
見つけた。と思ったのもつかの間、虎弥太はそのまま動けなくなった。
---そこには少女がたたずんでいた。
橙色の夕日のなか、その女子生徒はは窓の外を見つめていた。肩下辺りで切りそろえられた髪を耳に掛け、右顔しか見えないが視線はやや下に向け穏やかな表情を浮かべているのが分かる。その表情は慈しみに満ちていた。
(何を見ているんだ?)
ちらりと興味がわいたが少女から目を放せず思うだけに留まった。瞬きをする一瞬だとて視界から消えるのが惜しく感じた。
著名な画家が自分の愛しい者をそのまま絵に残せたのならこのようなものが描きあがるのではないか。一枚の完成された絵画に飲み込まれるような現実感のないひと時。
その時、少女がゆっくりと微笑んだ。
---ドクン
虎弥太の鼓動が強く波打った。
静かな時間の終わりを告げたのは少女の微笑み一つであった。夢から現へ。幻の少女が現実の少女へ。
慈愛に満ちた表情はそのままに、生身の人間であるということを虎弥太は急に実感する。---カツン。意識しないまま一歩踏み出した足音は静寂を破るのに十分であった。
自分以外の人間が居ると思わなかったのだろう。その女子生徒は急に聞こえた物音に大げさに反応しこちらを振り向いた。
(あ、かわいい)
ようやく正面から見れた顔に、この空気にそぐわないのんきなことを考える。どうやって声を掛けようかためらい、さっきまで見つかるのが面倒だと思っていた自分がこの女子生徒と話をしたいのだと気がついた。
「あの・・・」
だが声を掛けようとした瞬間、女子生徒はみるみるうちに顔を赤らめばっ、と大きなデイバッグを取り上げると脱兎のごとく図書館から出て行ってしまった。その様子はまさしく逃げ出す、という言葉にぴったりで虎弥太はしばらく呆然としてしまった。自分は何もしていない---まだ。
頭を軽く振ってため息をつくと、とたんに落ち込んだ。
---逃げられた。
確かに、誰も居ないと思っていた図書館で突然話しかけられたら驚くだろう。だが、顔を見たとたん逃げられるとは思ってなかった。
(もっと優しく話しかければ良かったのか?)
自分の愛想のなさは自覚している。加えて自分の性格上、友人のように女の子に笑顔を振りまくなど絶対に無理だ。
(怖がらせるつもりはなかったのに。・・・まあ、でも、この格好じゃ仕方ないか)
ガラスに映った自分の姿を見て虎弥太は苦笑した。
ワックスで軽く立ち上げた短めの髪の色は明るいハニーブラウン。耳にはいくつものピアスが並ぶ。制服は着崩されブレザーのネクタイはほぼぶら下がっているだけだ。---立派な不良である。
加えて友人にも冷ややかだと揶揄される目元は睨んでるようにも見える。これではあの女子生徒が逃げていくのも無理もない。
(大人しい格好してたし、保育科の生徒なんだろうな)
この学校は不良高校で有名であると同時に県内で唯一保育科があることで知られていた。県内外の大学への多くの推薦枠を持ち、隣接する保育園で実習も学べる。授業を受け持つ先生も保育や幼児教育の専門家であり、さながら授業内容は大学のようだった。
そのためこの道を志す者にとっては魅力的な高校であり、校舎も普通科と別々で安心できるということもあって毎年保育科の受験倍率は高く、優秀な生徒が多く入学する。
その上、子供好きで優しいかわいい女の子が多いとあっては、普通科の男子はいつでも知り合いになりたいと虎視眈々とそのチャンスを伺っていた。
だが保育科の女子生徒たちもさるもので、危ない目に遭わないよう代々受け継がれる訓示なども存在しているらしい。---事実かどうかは分からないが。
そんなわけで『人気の無いところで普通科の生徒に会ったならとにかく逃げろ』などという訓示があるとしてもおかしくないし、保育科の女子生徒の自衛の意味としては間違ってはいない。だがそれでも顔を会わせたとたん逃げられたのは正直堪える。
自嘲の笑みをガラスに映し、ふと窓の外を見下ろすとパタパタと走っていく女子生徒の姿を見つけた。向かう先はやはり保育科の校舎の方で、虎弥太はその後ろ姿をじっと見つめていた。
するとその視線を感じたのか女子生徒が立ち止まると図書館を振り返る。やや離れているため表情までは窺えないがその視線の先に自分が居ることだけは感じていた。
お互いの視線が絡む。
時間が止まったかのように身じろぎ一つせず、この瞬間が永遠に続くと思われた。
だが女子生徒は誰かに呼ばれたようにはっと振り返るともう一度ちらりと図書館を見上げ、またパタパタと走っていってしまった。
それを見送りながら虎弥太は残念な気持ちになるのを抑えられなかった。目を閉じれば少女の微笑みが瞼の裏によみがえる。思い出すだけで心の中がじんわりと温まっていくのを感じていた。
---自分にもその微笑みを向けて欲しい。
そう思うのは何故だろうか。
もう一度会いたい。声を聞いてみたい。その手に触れたい。抱きしめたい。
心の中が少女でいっぱいになる。
しばらく目を閉じ、思いに浸っていた。戸惑いはあるもののこの気持ちは嫌なものではない。すると、
ピリリリリリーーー
携帯が鳴った。確認すると溜まり場に置いてきた友人の一人から。急に現実に引き戻された気がして思わず眉をしかめてしまうが、このまま放っておいても面倒なことになるのは目に見えている。それこそ履歴がすべて埋まってしまうほどしつこく電話してくるだろう。
(うるさそうだな。出るのも面倒くせぇが、仕方ねぇか)
「なんだ?」
「なんだじゃねぇっ!!てめぇはいつまで寝てんだよっ!!!いいかげん戻ってこい!」
「うっせぇな。耳元で叫ぶんじゃねぇ」
「今どこにいんだよ!」
「うっせぇから教えねぇ。もう戻る」
まだ何か叫んでいる友人からの通話をあっさりと切ると、携帯をポケットに突っ込んだ。ふと足元を見ると図書カードが落ちていた。拾い上げたカードにたった一行書かれていた名前は---
「永峰ひな・・・」
つぶやくと再びドクンと鼓動が強く打ち、更にじんわりと心臓の辺りが暖かくなった。今まで感じたことのない感情に戸惑いながらも、その暖かさは嫌ではなかった。
この気持ちに名前を付けることもできるかもしれない。だが今はまだ、曖昧なままでこの暖かさに浸っていたかった。
暖かくなった心の中に女子生徒の面影を灯したまま、虎弥太はだるそうに歩き出した。
* * *
様子のおかしい虎弥太を問い詰め、虎弥太の初恋を知った悪友たちのおせっかいや、ひなの弟+いとこたちの妨害を乗り越え虎弥太がひなに思いを伝えることができたのは3ヶ月後のクリスマスのことになる。