第三章 誰が為
深く頭を垂れた紅美鈴が『紅魔館』の門前から去るのを、レミリア・スカーレットは自室の窓からじっと見つめていた。
顔を上げた時の彼女の、あの燃え上がるような瞳。
あの目をした彼女を見るのは、何年振りだろうか?
(皮肉ね)
レミリアは心の中で呟いた。
(あなたがいつもその目をしていれば、私もこんな決断はしなかったもの)
レミリアは短く息を吐くと、視線を門から時計台に移した。
時刻は深夜零時の5分前。
レミリアは手にしていたティーカップをテーブルの上に置いた。
「咲夜」
「――はい」
レミリアが自らの従者の名を呼ぶと、それから一瞬のタイムラグも無く、それまで部屋にはいなかったはずの十六夜咲夜が彼女の背後に姿を現した。
〝時間を操る程度の能力〟を有し、その能力によって時間停止の可能な咲夜は何時如何なる時も主人を待たせることはない。
完璧で瀟洒な従者。
しかし、この場における咲夜の僅かな異変を、レミリアはすぐさま感じ取った。
「美鈴のことが心配なのね」
「……お嬢様には敵いませんわ」
咲夜は苦笑すると、曇りがちな顔を窓の外に向けた。
「どこにも往き場の無い私に、お茶の淹れ方の手ほどきをしてくれたのは他でもない美鈴でしたから」
それは、今となっては日に何杯もの紅茶を淹れ、それがもはやライフワークとも言える十六夜咲夜なりの、紅美鈴に対する最大の敬意だった。
それを聞いてレミリアは、自分の中で記憶が繋がっていくのを感じた。
そう、確かにあの時も、美鈴は今夜と同じ目をしていた。
レミリアはほくそ笑んだ。
「美鈴なら大丈夫よ咲夜。あの目をした美鈴の気骨の強さと言ったら……」
レミリアは咲夜に振り返った。
「それに、まさにその好例がここにいるしね」
たちまち、咲夜は腑に落ちない表情でレミリアを見つめ返した。
「お嬢様、それはどういう……」
「すぐに分かるわ。それより、もうすぐ『白玉楼』から後任の来る時間でしょ? 早く行って出迎えてやりなさいな」
依然として咲夜は浮かない表情のままだったが、彼女はそれ以上は追求せず、心得た様子で礼をした。
「かしこまりました」
「それとその後任に、もしも私に客人が尋ねて来たら、その時は丁重にお通しするように伝えて頂戴」
咲夜は意外そうな顔をした。
「どなたかは存じませんが、今夜はお客人とお会いになるのですか?」
「ええ。そしてその時に客人出す紅茶は、あなたが美鈴に教わった最初の茶葉で淹れるのよ」
その場面を思い浮かべただけで、レミリアはどこか温かい感情が胸の奥に生まれるのを感じた。
「それが〝粋〟ってものでしょう?」
最後までレミリアの言葉の意図を読み取れない様子の咲夜に、レミリアは構わず笑いかけた。
黄泉の国。
死者の魂の集う世界――『冥界』。
その異世界に、殺伐と広がる荒涼な風景をイメージしていたフランドール・スカーレットは、今自らの目の前に広がる美しい桜並木に、文字通り心奪われていた。
灯籠の淡い光に照らされる、温かみのある桃色の桜。
風が吹く度に、ほんのりと甘い香りが鼻孔をくすぐり、その花弁が蝶のように宙を舞う。
フランドールはその場に立ち尽くしたまま、その目に映るものの一つ一つを静かに見やった。
この場所には、『紅魔館』のあの壮麗な佇まいや、その庭園を飾る鮮やかなバラ園のような派手さは決して無い。
しかし、この場所には間違いなく、『紅魔館』のそれとは違う一つの〝美〟があった。
白壁に黒い瓦の建物に、そこへと続く石畳の道。
同じく石造りの灯籠に、庭を彩る桜。
星の瞬く夜空、月の光。
春の風、春の匂い。
その美くしさを構成している要素の一つ一つはあくまで質素だ。
だがその飾り気の無さが逆にそれどれの持つ魅力を最大限に引き出し、感化された感性がその風景のバックグラウンドに存在する、風や光、音などの本来は目に映らないあらゆる要素を一つの全体性として風景に溶け込ませている。
自然――あるいは天然と言うべきだろうか――と表裏一体の様式美。
目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、手で触って、心で感じる。
そして感じ取ったものにそっと思いを馳せ、再び目を開いた時に訪れる、深い深い感慨。感嘆。
フランドールは自分がこれまで経験したことない感覚に、すっかり感じ入っていた。
「見事でしょう?」
と、ここで背後から声を掛けられて、フランドールは声のした方向へ振り返った。
そこには白壁の建物――『白玉楼』を背にして、一人の女性が立っていた。
「あなたが、西行寺幽々子?」
警戒心を露わにフランドールが尋ねると、女性は頷いて答えた。
「ご名答。わざわざあなたがここを訪れた理由は分かっているわ。妖夢はもういないけれど、お茶くらいなら私にも出せるから安心して」
西行寺幽々子はこの桜並木の主に相応しい、春の木漏れ日のような温かい眼差しで、フランドールを『白玉楼』の中へと誘った。
「どうぞ上がって頂戴。私に話があるのでしょう?」
その声色も、春風の如く険の無い柔らかいものだ。
自ずと緊張感が解れるのを感じながら、フランドールは幽々子の後を追って歩き出した。
時計台の鐘の音が響いてから10分程経った頃、博麗霊夢は霧雨魔理沙と共に『紅魔館』の無骨なシルエットが宵闇にぼんやりと浮かび上がるのを確認した。
段々と近付くに連れ、その輪郭はより鮮明なものになってゆく。
二人は横並びに飛びながら、やがて館の全貌が見下ろせるくらいの所までやって来た。
空では月も傾き始め、『霧の湖』から立ち込めてきた濃霧が次第に周囲を取り囲もうとしている様は、さながら雲に浮かぶ城のようだ。
霊夢と魔理沙は一旦空中で静止すると、互いに顔を見合わせて頷いた。
魔理沙がニヤリと笑い、片手で帽子のつばを摘まんで、その黒い三角帽子を目深に被り直した。
「突撃だぜ……!」
意気込むような言葉と同時に、魔理沙は一気に急降下を始めた。
速度の面では彼女に劣る霊夢は、その後ろに続いて後衛を務める。
目的は『紅魔館』への強行突入。
延いてはレミリア・スカーレットとの直接交渉。
この布陣には、日ごろから再三に渡ってこの場所を訪れている魔理沙に、先導を任せる意味合いもあった。
魔理沙はスピードを緩めることなく、館の一角を真っ直ぐ目指している。
恐らく、そのルートが最も安全であることを彼女は確信しているのだろう。霊夢もそれを疑わなかった。
その信憑性は、彼女が未だに存命なことからも推察できる。
しかし、その二人の行く手を遮るものが今夜の『紅魔館』には存在した。
突如として眼下から放たれた無数の弾幕が、二人の前方に壁を作った。
「うおっ!?」
際どい所で魔理沙は身を捻り、跨った箒を軸に一回転。その反動を利用して180度ターンを決めると、後から来た霊夢の腕を掴んで彼女の減速を助けた。
魔理沙の手を借りながら、霊夢は静かに先程の弾幕の特徴からその相手を推察した。
透き通るように青白い、楔形の弾幕。
その直線的でスピード感に溢れる射撃スタイルは、一閃された刀の刃を髣髴とさせる。
そんな弾幕の使い手には、霊夢は確かな心当たりがあった。
「まさか、もうあんたが門番してるなんてね」
溜め息混じりに霊夢は言った。
「手遅れだったか?」
魔理沙が声を合わせる。
すると二人の前に、弾幕の主が素早く飛翔して現れた。
「よもや就任初日から侵入者とは。働き甲斐があるというものです」
「就任初日から随分な働きね、妖夢」
霊夢の声掛けにも魂魄妖夢は眉ひとつ動かすことなく、既に抜き放たれている『楼観剣』の切っ先を二人に向けた。
「今の私はこの『紅魔館』の門番兼庭師です。何か用向きがあるならこの場で承りますが、あくまで強行突破するのであれば、即刻切り伏せます」
有無を言わざる、毅然とした態度で妖夢は言った。
霊夢は顔をしかめた。
妖夢は普段から素直というか、真っ直ぐな心根の持ち主だが、今夜は一段とそれに磨きが掛っているようにも思える。
つまり、下手に相手をすると面倒臭いことこの上ない。
霊夢は項垂れると、手をひらひらさせて答えた。
「いや、別に私たちはやましい理由があって来たわけじゃないわ。ちょっとレミリアと話をさせてもらいたいだけなの」
妖夢は怪訝な顔をした。
「事前に招待を受けましたか?」
「ああ」
その質問には透かさず魔理沙が答えた。
「わざわざ自分の妹を『博麗神社』に寄こしてくれたぜ」
流石の嘘八百である。
しかも微妙に現実を混ぜている分、巧妙だ。
神社でのフランドールの様子を思い出すと、それを嘘に含ませるのは少々後ろめたい気持ちにもなったが、霊夢はうんうんと頷いて魔理沙に同意した。
妖夢は少し考え込んで、
「つまり、お二人はレミリア嬢のお客人なのですね?」
「そうよ」「そうだぜ」
若干の思慮の後、妖夢はようやく『楼観剣』を背中の鞘に仕舞った。
「レミリア嬢から、お客人は丁重にお通しするように言いつかっております。下へどうぞ。入棺手続きを行いますので」
途端に魔理沙が口を尖らせた。
「そんなもの今まで無かったぞ!」
「ありましたが、無視されてきただけです。入棺者リストに署名を頂くだけですからお付き合いきださい」
「堅苦しいのは苦手だぜ」
そうぼやきながらも、魔理沙はおずおずと妖夢に従って高度を下げ始めた。
霊夢もその後に習う。
「ロビーで咲夜さんがお待ちしていますよ」
そう言った妖夢の様子はいかにも門番然としていて、霊夢は薄ら寒い感じがした。
こんな『紅魔館』の門番は、やっぱり嫌だ。
外の庭も然ることながら、その内部においても『白玉楼』はフランドールの好奇心をくすぐるもに満ち溢れていた。
それはこの建物の建築様式から始まり、『紅魔館』では見られない珍しい調度品の数々など実に様々だ。
しかし、何より最初に、あるいは最も彼女を驚かせたのは、この建物が土足厳禁であることだった。
それまで屋内に上がるのに履物を脱ぐ習慣の無かったフランドールは、これに大きなカルチャーショックを受けた。
そして履物を脱いだために、板張りの廊下の床から伝わる木の冷たさが実に堪えた。
靴下はしっかりと履いているものの、部屋に通される頃にはフランドールの足の指先はすっかり冷え切ってしまっていた。
そんな彼女の様子に気が付いたのか、幽々子はフランドールを労わるように言った。
「すぐに火鉢を用意して部屋を暖めさせるわ。それと、温かいお茶も淹れてきてあげる。あと、正座にも慣れていないでしょうから、座椅子もね」
そうして、幽々子は一旦部屋を後にした。
一人残されたフランドールは、改めてその室内を見回した。
そこは20畳ほどの畳敷きの部屋で、落ち着いた色彩の質素な雰囲気の和室だった。
部屋の要所では灯明が温かい光を放ち、真ん中には漆塗りの、人の膝丈ほどしかない高さのテーブルが鎮座している。その上で静かにお香が焚かれているのは、きっと灯明の火が燃える際の臭いを消すためだろう。
しかし、どうやら灯明には良い油が使われているようで、不快な臭いは感じられなかった。
むしろそのお香と藺草の香りがほど良くマッチしていて、実に居心地が良い。
不意に冒険心の湧き起こったフランドールは、さっき自分が入ってきたのとは反対側の障子に手を掛けた。
(こっち側はどうなってるのかしら?)
開けてみるとそこは簡素な縁側になっていて、外には『白玉楼』の中庭に当たる見事な庭園が広がっていた。
その一面は白色の砂利敷きになっていて、それが波打つ幾重もの筋を引っ張るような形に均されている。そして所々に大きな石や、松の樹などが全体の均整をとるように配置されていた。
フランドールは漠然と、もし姉がこの庭を見たならば、彼女はこれを〝殺風景〟と称するだろうと思った。
確かにこの庭園は〝隙間だらけ〟なのだが、その空間の向こうに見える背景さえも、庭の一部のように景観を切り取られていて、実に画になる。
「〝枯山水〟と言ってね」
背後から幽々子の声が聞こえた。
フランドールが振り返ると、そこには湯気の立ち昇る湯呑を二つ盆に載せた幽々子がいた。
そしていつの間にやら、部屋の中央にはテーブルを挟んで向かい合わせに座布団と座椅子が、それからほど近いところには火鉢が置かれていた。
「枯れた山水という字を書くのだけれど、その名の通り、水を一切使わずに水の流れを表現した様式なの。気に入ったかしら?」
幽々子はお盆をテーブルに置くと、フランドールに問いかけた。
フランドールはその回答に見合う表現を思案して、
「何だか、とても新鮮だわ」
と答えた。
幽々子は満足そうに微笑むと、自身は座布団の上に正座の姿勢で腰を下して、向かいの座椅子をフランドールに勧めた。
「どうぞ掛けて。お茶の方は口に合うか分からないけれど」
幽々子に促されるままフランドールは彼女の対面に座ると、遠慮なく湯呑のお茶を一口啜った。
「んんっ?」
感想、青臭い。
実に青臭い。
そして苦い。
フランドールの表情を見て、幽々子はころころと笑った。
「やっぱり緑茶は口に合わないみたいね。でも、元を辿ればその茶葉も、あなたがよく知る紅茶と同じものなのよ?」
「そうなの?」
「ええ。その茶葉を発酵させれば紅茶になるわ」
フランドールは胸中で、どうしてそのひと手間を惜しむのだろうと思った。
そうでなくとも、砂糖を入れたりミルクを入れたり、改善の余地は幾らでもあるように思える。
しかし、なるほど。
フランドールは考え直した。
表の桜並木といい、この建物といい、〝枯山水〟の庭園といい。
ここの主人である西行寺幽々子は、あらゆるもののありのままを愛する人物なのだろう。
そうフランドールは結論付けた。
その時の彼女はまだ〝侘び寂び〟の概念や、〝純粋主義〟などという言葉は知らなかったが、彼女はこれはこれで良いのだろうと自分を納得させた。
「この味が分からないようじゃ、あなたもまだまだお子様ね――なんちゃって」
楽しそうに言う幽々子。
しかし不思議と不愉快な気持ちにはならなかった。
彼女につられるようにフランドールも笑みを浮かべながら、もう一口お茶を口に含んだ。
やっぱり苦い。
「それで、今夜ここに来たのは……」
「分かっているわ。妖夢のことでしょう? あの子に門番をさせないように頼みにきたのよね」
フランドールは驚いて幽々子の顔を凝視した。
そして同時に、僅かな希望が胸の奥から光を射すのを感じた。
これは案外すんなりと、話がまとまるかもしれない。
しかし、次の幽々子の言葉は、そんなフランドールの希望を一気に打ち砕いた。
「でも悪いけど、それには承服しかねるわ。私も、私の意志があってあの子に門番をさせているのだから」
その発言に衝撃を覚えながらも、すぐさまフランドールは食い下がった。
「その意志って……?」
フランドールが尋ねると、幽々子は懐から扇を取り出した。
そしてそれを開くと、顔を下半分を隠して目だけをフランドールに向けた。
「――エゴよ」
霊夢と魔理沙を見送った後、妖夢は『紅魔館』の門前に仁王立ちし、周囲の状況に全神経を集中させていた。
今、この広大な館の安全保障問題は自分の双肩にほぼ委ねられていると言っても過言ではない。
その事実が、彼女の心を熱く燃やしていた。
不安や緊張は無い。
むしろ、日頃から半人前と目される自分に、これほどの大役を任せてもらっていることに、妖夢はこの上ない充足感を覚えるに至っていた。
あと数刻もすれば、館の主人たるレミリア・スカーレット嬢は従者の十六夜咲夜を伴ってどこか外出されると聞いている。
そうともなれば、主の不在を狙って、良からぬ者が館への侵入を試みる可能性は必至だろう。
その時こそ、門番としての自分の真価が問われるのだ!
(見ていてください幽々子様……!)
妖夢は勢いよく『楼観剣』を引き抜くと、返す手でそのまま真一文字に刀を振り下ろした。
冷たい刃が空気を切り裂く音が響く。
自分でも驚くほど動きが軽い。
刀身が踊っているようにすら感じる。
今宵の『楼観剣』は血に飢えている。
妖夢は『楼観剣』を鞘に戻すと、そこで初めて自分の目の前で起こっているある異変に気が付いた。
「みょんっ!?」
妖夢は思わずそれから飛び退いた。
つい先程、自分が『楼観剣』を振り下ろした空間。
何もない虚空に刃を振るったはずなのだが、その何もない虚空が見事に両断されていた。
次元の裂け目。
空間の亀裂とでも形容すべきだろうか?
裂け目の入った中空の左右で、風景が歪んで見える。
(ちょっと斬り過ぎたかしら……?)
妖夢は恐る恐るその裂け目に顔を近付ける。
と、何の前触れもなくその裂け目が開いた。
「――ひっ!」
妖夢は堪らず裏返った悲鳴を上げた。
その開いた裂け目の向こうには、妖怪『もくもくれん(目目連)』を思わせる大小様々な眼球が辺り一面を多い尽くし、不気味に蠢きながら皆一様にこちらを凝視していた。
「やーねー。いきなり斬り掛ってくるなんて酷いじゃない」
しかし、その奥から聞こえてきた声は、妖夢にとってとても聞き覚えのある声だった。
よくよく見ると、空間の裂け目の両端は、赤いリボンで引き結ばれている。
妖夢は胸を撫で下ろした。
「紫様でしたか。驚かせないでくださいよ」
妖夢が言うと、空間の裂け目――スキマの向こうから一人の人物が姿を現した。
大きな蝶々結びのリボンが印象的な帽子に、白いドレスにも似た独特の装束衣装。腰まで届く金髪をアップに結わえ、夜だというのに白の日傘を片手に差している。
境界の大妖怪――八雲紫は呆れ顔で言った。
「それはこっちの台詞よ妖夢。危うく真っ二つにされちゃうところだったわ」
「申し訳ございません。それで、紫様も『紅魔館』にご用でしょうか?」
八雲紫は妖夢の主人である西行寺幽々子の友人だった。
紫と妖夢自身には直接的な接点はないものの、二人は言わば顔見知りの関係だった。
妖夢が尋ねると、紫はどこからともなく扇を取り出して、自分の顔を扇ぎ始めた。
「んーん。別に『紅魔館』に用は無いわ。私が用があるのはあなたよ。あ・な・た」
大仰に、紫は艶のある声を出して妖夢に顔を近付けた。
しかし、一方の妖夢はただ目を丸くして、
「私に、ですか?」
紫の態度はともかく、妖夢は彼女の言葉をとても意外に思った。
前述したように、妖夢と接点の薄い紫が自分に用件を持ちかけることなど珍しい。
要領を得ない妖夢の返事に――何故か――紫は溜め息を吐きながら答えた。
「まぁ厳密には、私じゃなくて幽々子の方がね。伝言を預かってるのよ」
それで初めて紫の言葉に納得して、妖夢は手を叩いた。
「そうでしたか。それはわざわざありがとうございます。それで、幽々子様は何と?」
妖夢が訊くと、紫は薄ら笑みを浮かべてそっと彼女に耳打ちした。
「妖夢はね――」
フランドールから視線を逸らすと、幽々子は静かにそう切り出した。
その目は灯明の上で燃える炎を見ているようでありながら、どこか遠い所をぼんやりと眺めているようでもあった。
「あの子はまだまだ半人前の、世間知らずなのだけれど。あの子はそんな自分の弱い部分をしっかりと見据えて、克服し、絶えず自分前に伸ばそうとする努力家としての一面も持ち合わせているの」
そして再びフランドールに向き直った幽々子の顔には、それまで失われたかのように思えた彼女の情愛の籠った笑顔があった。
「本当に、愚直なほど誠実で、見ていられない時がほとんどなのだけどね」
幽々子のそんな表情に、フランドールは若干の戸惑いを抱いていた。
つい今しがた自分の要望を断られた際には、フランドールは幽々子に対して敵意に近いものすら感じていたというのに、今の彼女の柔らかい表情は、とても敵のそれとは呼べないものだった。
フランドールは押し黙ったまま、幽々子の言葉に耳を傾けた続けた。
「そして私は、そんなあの子の成長していく姿を見るのが大好きなの」
そうして今もまた、幽々子はまるで母親のような柔和な笑みを浮かべている。
フランドールは内心、それまで自分の心の中には無かったはずの、何かとてもドス黒い感情が込み上げてくるのを感じた。
これはまさか、〝嫉妬〟だろうか?
幽々子は続けた。
「あの子には、これからもっと沢山の色んな経験を積んで、どんどん成長していってほしいわ。ついつい、悪戯したくもなっちゃうのだけれど、それでも妖夢はめげないもの。あの時のあの子の目、心、本当に羨ましくて、愛おしいわ」
そして幽々子は、ここで一旦間をとった。
彼女はフランドールを見据えて、先ほどよりも心なしか声を落として言った。
「それが、私の〝エゴ〟。私はもう死んでしまっているから。あの子の中に脈打つ、人間としての精神。命あるものとしての姿。それにすっかり魅入られてしまっているの。だから今回の件も、二つ返事で了承したわ。あの子には、これからも色んなことに挑戦してほしいから。その姿を、私にいっぱい見せてほしいから」
再び間が空いた。
しかしフランドールはその間にも、自分がとても居た堪れないような感覚が抑え難くなってきていた。
そう、彼女は幽々子の話を聞いて、気付いてしまったのだ。
自分と幽々子の、決定的な〝差〟を。
「――あなたは?」
幽々子の声に、フランドールは肩を震わせた。
「あなたはどうして、その門番に傍にいてほしいの?」
「……私は」
消え入りそうな声で、フランドールは答えた。
しかしそこまで言ってすぐに、彼女はそれ以上の言葉が出なくなってしまった。
言わずとも、声に出さなくとも、彼女は気付いてしまったのだ。
自分と幽々子の違い。
それは即ち、〝愛情〟の違い。
フランドールは歯を喰いしばって、込み上げてきた激情と、溢れんばかりの涙に耐えた。
(こんなこと、言えるはずないじゃないっ!)
その言葉が、つい喉元までせり上がる。
そうだ。言えるはずがないのだ。
フランドールは完全に俯いてしまった。
これほどの愛情を。
主人と従者の垣根を越えた、本物の愛情を示されて。
自分がただ、これからも紅美鈴の優しさに甘えていたかっただけなどと。
――言えるわけがない。
フランドールは目だけを幽々子に向けた。
幽々子は優しい。
本当に、心から、自らの従者のことを想っている。
まるで母親のように。
そしてそれは恐らく、従者本人にも伝わっている。
なんて羨ましいのだろう。
495年間、誰の愛情も受けずに生きてきた自分。
自分がずっと求め続けていたもの。
欲しかったもの。
愛されたいという気持ち。
それを叶えた理想が今、目の前にある。
私は、これを壊せるだろうか?
母親が娘を想い、娘が母親を慕い。
その相思相愛の中で感じられるこれ以上ない幸せを。
私は――。
破壊しようと言うのだろうか?
その幸せを、誰よりも欲していたはずの私が。
橙を居間に敷いた布団に寝かせると、紅美鈴は立ち上がった。
そして布団の中でうずくまる橙を静かに見下ろす。
かなり消耗しているが、彼女も立派な幼獣だ。しっかり休養すればすぐに元気になるだろう。
美鈴はすぐさま踵を返して、『マヨヒガ』の屋敷から外へ出た。
空を見上げると、もう月がかなり傾いてしまっている。夜明けは近い。
美鈴はフランドールがどこか、日光を避けられるような場所にいることを願いながら、彼女の行きそうな場所の候補を絞った。
そして恐らく、彼女が真っ先に向かうとすれば『博麗神社』か『霧雨魔法店』のいずれかだろうという結論に至った。
(まずは……)
美鈴は一先ず『博麗神社』に行ってみることに決めた。
『霧雨魔法店』の霧雨魔理沙は活動的な性格で、深夜とはいえ不在の可能性も大いに考えられる。
その点、『博麗神社』の博麗霊夢の方が在宅している公算が大いだろう。
(もっとも、歓迎はされないでしょうが)
美鈴は『マヨヒガ』の空へ飛翔しようと足に力を込めた。
しかし次の瞬間、彼女の視界は暗転し、美鈴は『マヨヒガ』から姿を消した。
『白玉楼階段』には、そこを下るフランドールのすすり泣く声だけが響いていた。
結局フランドールはあの後、幽々子に何も言えないまま、『白玉楼』を飛び出してしまっていた。
ふらふらと力なく高度を下げながら、フランドールはうわ言のように同じ言葉をただ繰り返していた。
それは、かつて紅美鈴に教わった、大切な〝おまじない〟。
「……〝気は心〟」
嗚咽を漏らしながらフランドールは言った。
何も壊さずに済む、魔法の言葉。
(壊しちゃ……だめ)
泣きはらした目蓋の裏に、美鈴とのあの日の記憶が甦った。
(壊しちゃだめだよね……めーりん)
あの日の美鈴の笑顔が思い起こされる。
(私、偉いよね……?)
あの日、頭を撫でてくれた彼女の大きな手の感触を思い出す。
「……〝気は心……」
もう一度、フランドールはその〝おまじない〟と唱えた。
唱える度に、これまで見てきた美鈴の、沢山の笑顔が、言葉が、優しさが、心の中に顕れては、消えた。
(ごめんね、めーりん)
フランドールは天を仰いだ。
(めーりんは今でも私の事をこんなに支えてくれているのに……)
彼女の頬をまた一筋、涙が伝って落ちた。
(――私は)
ただ彼女に甘えたかっただけ。
そんな日々が、ずっと続いてほしかっただけ。
やっと手に入れた幸せな日々を、手放したくなかっただけ。
(めーりんは、私といて幸せだった?)
つまらないことを言ってしまった。
〝私はまだめーりんの主人なんだから〝と。
また彼女を、困らせてしまった。
そして結局、何も出来なかった。
何が主人だ。
主人というものが如何なるものか、私は見た。
何が主人だ。
こんな私なんか、壊れてしまえばいい――。
気が付くと、フランドールは『白玉楼階段』を降り切って、幻想郷の空に舞い戻っていた。
空は随分と明るくなっていた。
遥か東の方角の山々の方に目を向けると、山の稜線が、既に茜色に染まりつつある。
もうじき朝になるのだ。
しかし、フランドールは構わず、そのまま真っ直ぐ下に降りて、そこに広がっていただだっ広い草原に着地した。
目を凝らすと、草原のずっと先のところに『紅魔館』が見て取れる。
フランドールは口元を引き結んだ。
今、あそこに戻っても、みんなに合わせる顔がない。
美鈴にも、霊夢にも、魔理沙にも。
何と言えばいいのか分からない。
――このまま、ここでこうしていようか。
フランドールはその場に座り込んだ。
刻々と空が青みを増すのも気にも留めず。
ただ黙って、『紅魔館』を見つめていた。
山の影から太陽が顔を覗かせたのは、それから間もなくのことだった。
仕事の関係で都合がつかず、更新がこんなにも遅れてしまいました。
申し訳ありません。
とはいえ、一応この物語は次回が最終章。
それにエピローグを付けて完結となります。
どうぞご期待ください。
また、相変わらず感想なども随時募集中なので、よろしくお願いします。