序章
この作品は「東方プロジェクト」の二次創作です。
この作品には原作とは異なる設定が含まれています。
不快に思われる方は、直ちに作品の閲覧を中断して頂ければと存じます。
宵闇に染まる雲一つ無い星空から、満月が柔らかな光で地上を照らしている。
上空から見ると大きな三日月型をした、『霧の湖』の水面はまさに烏の濡れ羽色で、湖畔に住む妖精たちの放つ光子が点々と見て取れた。
そしてその湖の湾曲したラインの内側に、湖に周囲を囲われるようにして聳え立つ広大な洋館があった。
悪魔の棲む館――『紅魔館』。
吸血鬼レミリア・スカーレットの住まうその館は独特の紅い外観をしたバロック様式の壮麗な建物で、ひっそりとした夜の『幻想郷』の中で一際強い存在感を放っていた。
屋敷の大きさの割に、数えるほどしかない窓からの明かりは無い。
それはまるで無人の廃墟のような様相を呈していたが、それはここの主が本来夜行性であるために、大した催しも客人もない夜はこうして室内の明かりを落としているためだった。
その仄暗い『紅魔館』の中を走る一本の廊下を、極彩色の発光体が静かに移動していた。
時折揺れ動きながら、止まっては進み、止まっては進みを繰り返すその様子はどこか楽しげで落ち着きが無い。
悪魔の妹、フランドール・スカーレットは自身の足元のそれに夢中になっていた。
彼女の小さな背中から伸びる、吊るされた硝子細工かシャンデリアを思わせる異形の翼。そこから放たれる色とりどりの光が生み出す大小様々な自分の影が、今夜のフランドールの遊び相手だった。
決して終わることのない鬼ごっこ。
それは495年間もの間地下室に幽閉されていた彼女が、その軟禁生活の中で編み出した数少ない〝遊び〟の内の一つだった。
これなら光の届かない地下室でも、際限なく遊び続けることが出来る。
影はいつも意地悪で、決して自分に追い付かせてはくれない。けれども影は優しい一面ももっていて、自分が足を止めて休んでいると、いつまでもそれを待ってくれる。そしてそんな影が、なんと自分の姿を投影した姿というのだから堪らない。
フランドールは今夜も一心不乱になって、赤い絨毯に映る自分の影を追いかけ続けていた。
そしてその内、自分がある部屋のドアの前に辿り着いていたことに気付いて彼女は立ち止った。
そこは姉のレミリアの私室だった。
姉にこれといった用事もなかったフランドールがドアに背を向けようとすると、部屋の奥から誰かの話し声が聞こえた。
それは普通の人間には聞き取ることの出来ないほど微かなものだったが、鋭敏な聴覚の持ち主である吸血鬼の彼女にはその声の主をも正確に判別することが出来た。
どうやら部屋の中ではレミリアと、彼女の忠実な従者であるメイド長の十六夜咲夜が何かを話しているようだった。
(秘密のお話かしら……)
途端に胸中に湧き起った淡い悪戯心に焚き付けられて、フランドールは声を押し殺してドアに近付くと、そこにそっと顔を近付けて耳を澄ませた。
「美鈴の代わりの門番の件はどうなっているのかしら?」
(……!)
思わぬ姉の発言に、フランドールは心臓に杭を打たれるような強い衝撃を覚えた。
危うく驚きの声を上げそうになった口元を、彼女は間一髪のところで手で塞いだ。
(めーりんがクビに!?)
フランドールは再び二人の話に注意深く耳を傾けた。
「はい」
落ち着きのある声で咲夜が答えた。
「先日、白玉楼の西行寺幽々子から、庭師である魂魄妖夢を門番に起用する許可を頂きました」
(なんてこと……!)
フランドールは今にも部屋に飛び込みたい衝動に駆られたが、ここは権威ある姉の返答を待つように自分に言い聞かせる。
「……優秀なの?」
訝しむような声色でレミリアが尋ねた。
フランドールは心の底から姉を応援した。そうよお姉さま!
「勿論です」
しかし、咲夜はなかなかの強敵だった。
「性格は至って真面目ですから勤務態度に問題はないでしょうし、何より剣術に優れ、門番には打って付けの人物ですわ。その実力は、お嬢様も一度『永夜異変』の際にご覧になった通りですし」
暫しの沈黙。
フランドールは祈るような気持ちで姉の答えを待った。
「そうね」
ややあって、レミリアは言った。
「まぁ、咲夜の眼鏡に適う人間を疑う方が野暮だったわ。好きなようになさい」
「ありがとうございます」
明るい咲夜の声。
しかし、ドアの外でフランドールはその場に崩れ落ちそうになっていた。
『紅魔館』の門番であり、フランドールの良き遊び相手でもある〝めーりん〟こと紅美鈴が『紅魔館』を去ってしまうという事実は、彼女にとって余りにも衝撃的な事実だった。
(どうしよう……)
その衝撃が抜け切れない、半ば混乱した頭で漠然と考えを巡らせても、何の答えも出てこなかった。
今は、自分に出来ることをしなければ。
(まずは、早くこの事をめーりんに伝えなくちゃっ!)
フランドールは折れかけていた膝に健気に鞭を入れると、光り輝く翼を広げて回廊の奥に佇む闇へと飛び込んで行った。
「本当に、よろしかったのですか?」
先ほどの口調とは打って変わって、咲夜は心配そうにレミリアを見つめた。
彼女の視線の先ではレミリアが年季の入ったウォールナットのチェアに腰かけて、作法をわきまえた優雅な動作で淹れたての紅茶を一口啜っていた。
「問題ないわ」
カップから立ち昇る紅茶の香りから顔を上げたレミリアの瞳は、いつにも増して爛々と、その深紅の光彩を力強く滾らせていた。
彼女の自信に満ちた表情だけで、咲夜は自分の心中にある憂いを払拭した。
咲夜が得心した様子で頷くと、レミリアはカップとソーサーを手にしたまま徐に立ち上がって、吸い込まれるように窓の方へと歩き出した。
彼女の姿を目で追いながら、咲夜も窓の外を見やった。
明け方には深い霧に覆われるだろう、鏡のように滑らかな湖の水面。その向こうに見える『魔法の森』の様子も今は穏やかだ。
「運命が動き始めたわ」
詩を詠むようにレミリアは言った。
その幼くも妖しい完璧な微笑は、流石はレミリア・スカーレットと言ったところだろうか。
咲夜は今目の前にいる彼女こそが、自分が忠義を尽くすに値する人物だということを再確認した。
「ところで、咲夜?」
咲夜に背を向けたまま、レミリアは言った。
「今夜は紅茶に何を入れたのかしら?」
「それは聞かない方が身の為ですわ」
咲夜はにっこりとほほ笑むと、一礼して部屋を辞した。