第三話 鋼のモルガン
倒れ伏したベルゼの体。その身体からはすでに血の気が抜けていて、生命の気配が消えている。ナイフの男はそれをぞんざいに蹴り飛ばすと、シナモンと大男の方へとやってきた。ひたひたと滑るように近づくその影に、シナモンは顔を固める。
「助かったぜ、べラン兄ちゃん!」
「情けないなあ、あの程度の奴にびびっちまうなんて。ボーガ、お前はもっと鍛えなきゃ駄目だ」
「面目ねえ」
ボーガはシナモンから手を離すと、地面に額をこすりつけるがごとき勢いで頭を下げた。よほどべランのことが恐ろしいのか、その額には汗がにじんている。こころなしか、その野獣じみた巨体が小さく見えた。シナモンはそんなボーガから目を離すと、今度はべランの方を睨みつける。その鋭い視線に、べランは眉をひそめた。
「生意気な女だねえ。だが、どうしてここにいる? まさかボーガよ、アルファロ兄さんの命に逆らったんじゃないだろうね?」
「違う、こいつのほうからここへやってきたんだ。銃を片手にすげえ剣幕だったんだぜ」
「ほう……」
べランはシナモンの細い顎に手をやると、顔を上に向けて首筋にナイフを突きつけた。赤い筋が走り、血が一滴。血の気の引いた純白の肌に落ちる。
「勝てないってわかってるのに、どうしてきたんだい? 僕たちは女神像さえ手に入れれば、村から引き上げるつもりだったのに」
「あんたたちなんかに女神像は渡さない! あれは私の死んだ母さんが父さんの帰りを祈って、ずっと祈ってきたものだもの。雨の日も風の日も、雷が鳴ってる日だって毎日欠かさずね。だから私も、母さんの想い出の女神像を守る!」
「麗しいねえ。だけどそういうのが――僕は大っ嫌いなんだ!」
べランはシナモンを突き飛ばした。柔らかい身体が地面にたたきつけられ、バウンド。紅い唇から苦悶の声が漏れる。彼はそれを心地よさそうに聞くと、手をハンカチで拭き、相変わらず小さくなっているボーガを睨んだ。
「この女を牢に閉じ込めておけ。それから、あの粗大ごみは魔導書ごと出来るだけ深く埋めておくんだ。部下を貸してやるから、そいつらも使うといい」
「わかった、べラン兄さん」
「あと女には手出しするんじゃないぞ。アルファロ兄さんに許しをもらわなきゃいけないけど、こいつはきっと見せしめに処刑することになる。処刑前の女なんて、縁起が悪いからねえ」
「わ、わかったぜ……」
べランは夜の闇へと溶けていった。ボーガはその背中を見送ると、ほっと胸をなでおろす。だが一方で、シナモンはこれから起こることに身体を震わせていた――。
翌朝。昇る朝日に照らされ、黒光りする飛行船のもとに村人たちが集められていた。その視線の先には高々と掲げられた十字架。白き稲妻の如く光るそれに、荒縄でシナモンが括りつけられている。ほっそりとした手足には紅い蚯蚓腫れができていて、顔はやつれ目の下には隈ができ、豊かな髪も老婆の白髪がごとき有様だ。村人たちはそれに息をのみ、十字架の下に立っている魔導師三人組に憎悪の視線を向ける。数百もの殺意が螺旋を描いて三人を飲み込んだ。しかし、彼らは至ってにこやかに平時と寸分たがわぬ様子で話を始める。
「どうも皆様、お集まりいただきありがとうございます」
「これは何だ! あの娘を解放しろ!」
「おやおや、そういうわけにはいきませんな。あの娘は銃を片手に私たちを襲ったのです。我々が律義に約束を守っていたにも関わらず、ね。ですから、罰を与えなければならないのですよ」
止まった時間。村人たちは言葉を失った。不敵にほほ笑んだアルファロは傍に控えていたボーガを呼び付け、凍結している村人たちを一瞥する。
「処刑です。あの娘には処刑がふさわしい。さあボーガ、首を切り落としなさい」
「おう! 召陣!」
ボーガの手のひらに蒼の魔法陣が浮かぶ。眩い光が宙に現れ、それが一気にほどけた。光の中から現れるは黒光りする巨大な斧。人の首どころか、山の如き大岩ですら真っ二つにできそうなほどだ。ボーガはそれを軽々と抱えると、十字架に縛られたシナモンの首を狙う。
「やめろ、やめるんだ!」
「きゃああああア!」
「とおりゃあア!」
気迫一閃。轟いた絶叫。村人たちの阿鼻叫喚の中、刃は勢いよく落ちていく。風を斬り、宙を滑るようにして刃は白き柔肌へと向かう。時はその流れを緩め、世界は緩慢となった。その停滞した世界の中を刃だけがまっすぐにゆく。煌く陽光を反射し残忍な光をたたえながら、刃はシナモンの細き首へと落ちた――かのように見えた。
飛び散る火花。刃は首を裂く寸前で止められ、快音が響いた。ボーガの顔が驚愕に歪む。広場に集っていた村人たちもまた、刃を止めた男の姿に眼を見開いた。その男はボーガに零度の視線をぶつけると、叫ぶ。
「ガキが帰ってこねえと思ったら、てめえらずいぶん好き勝手してるじゃねえか!」
「ほう、魔導師ですか!」
アルファロはモルガンの手を見て叫んだ。モルガンの手は鈍い鉛色に輝き、斧を受け止めている。陽光を反射して光るそれの質感は、明らかに金属。手が鋼鉄と化し、鋭い刃を裂かれることなく止めているのだ。誰がどう見ても自然の所業ではなく神秘――魔術の為せる技である。
「そんなことはみりゃわかるだろう。それより俺のガキをどうした! 昨日の夜にここへ向かったらしいことまではわかってるんだ!」
「ああ、もしかしていきなり魔導書を使おうとした物騒なガキかい? なら――僕が殺したよ」
べランが軽薄に笑った。時が止まる。モルガンも、またそれを知らなかった村人たちも一斉に沈黙した。凍てつく静寂が辺りを包みこみ、人々は石と化す。モルガンもまた、目を見開いたまましばらく動かなかった。いや、衝撃に身体を押さえつけられて動くことすらできなかった。だが不意に、そのひび割れた唇がうっすらと開く。
「おめえ、俺のガキを殺したってことがどういう意味かわかってるか?」
「はあ、知らないなあ」
「それはな、死ぬってことだ」
加速する世界。べランの身体が不意に飛んだ。くの字に曲がり、宙へと飛び出した彼の身体は、近くの赤い屋根を突き破る。一瞬にして消えたその姿に、村人たちはおろかボーガやアルファロも目を見開いた。一瞬、まさに刹那のうち。
さきほどまでべランが立っていた位置には、彼に代わってモルガンがすっくと立っていた。その表情たるや烈火のごとく、背の曲がった小さな体はさながら天を突く巨人がごとき威圧感を出している。
「に、兄ちゃん! てめえ、タダじゃすまねえぞ!」
斧を掲げ、駆けだすボーガ。褐色の巨体が地を蹴って勢いよく加速する。さながら、筋肉の弾丸がごとし。振りかざされた刃は風を裂き、モルガンの身体に迫った。されど、モルガンは身じろぎ一つしない。瞬間、鉛色の手が翳されて迫りくる刃を軽々と受け止める。走った衝撃ののちボーガは退き、再び斧を構えると刃を一閃。すると今度は、老体が高々と宙を舞った。
一撃、二撃。右、左、右……。
繰り出される斬撃を、モルガンは木の葉が舞うがごとくかわす。石畳を軽々と打ち砕くほどの速さと威力を誇る斬撃が、全く当たらない。ボーガはいら立ちを募らせ、大きく斧を振りかぶった。隆起する筋肉に力が高まる。一瞬の溜め。そして、バネが跳ねるように勢いよく身体が躍動し、斧が宙を裂く。
衝撃波すら伴う一撃。それをモルガンは体の軸を僅かにずらすことで、紙一重でかわした。そして斧の巨大な幅広の刃に向かって肘鉄を入れる。
「ば、馬鹿な! オリハルコンで出来てるんだぞ!」
古代が生み出した奇跡の鋼、オリハルコン。金剛石に匹敵するほど硬く、それでいて強靭かつしなやかなその金属は、武具の材料としては最高峰とされる。青光りするその鋼で作られた刃は決して砕けず、たとえ鉄の山を斬ったとしても刃こぼれすらしないとされていた。
だが、それがどうだろう。斧には大きな一筋の罅が入っていた。それは徐々に深さを増し、蜘蛛の巣状に急速に広がっていく。そして大きく見開かれたボーガの瞳の前で――蒼い光が砕けた。金属の欠片がハラッと舞い落ちる。ボーガは腰を抜かして、そのまま何も言わず石化した。
「ふん、戦闘不能じゃな。残るはおぬしか!」
三人のうち、残されたのはアルファロのみ。モルガンは気迫を高めると、一歩一歩進み始める。まさに修羅。足が地面を踏み締めるたびに、充実した魔力がジリリと大気を揺さぶる。村人たちは歓声をあげて、モルガンがアルファロを蹴散らす姿を夢想した。いや、正確には予想した。
「強いですねえ。だが、それが弱点でもある」
「なに?」
「やりなさい、べラン!」
アルファロの手が振り上げられた。同時に殺気が迫り、後ろへと振り向くモルガン。だが、全ては遅かった。飛来した四本のナイフはモルガンの両手両足の影を貫く。ナイフの刃を中心に紅い魔法陣が浮かび上がり、たちまちのうちにモルガンはその動きを封じられた。影縛り――暗殺者の常套的に用いる魔法だ。
「ふん、こんなものでこのわしが止められると思うな!」
放出される膨大な魔力。大気に魔力が溢れ、目に見える火花となって現れる。モルガンの足元の地面がにわかに落ちくぼんだ。魔力が質量となり、確かな重さを持ったのだ。影を縛るナイフが軋みを上げ、魔法陣が揺らぎ始める。
「なんて魔力だ、兄さんこりゃまずいかもしれない!」
「案ずることはない、彼は持たないでしょう」
動揺した様子のべランに対して、アルファロは涼しい顔だ。何かを悟った、そんな顔だ。彼は唇をゆがめると、目の前で気迫を高めているモルガンを睨みつける。ぶつかり合う気迫と魔力。周囲にいた村人たちは額に汗を浮かべながら、ジリジリと後退した。圧倒的な力の波動が彼らを物理的に押しているようだ。村人たちは息をのみ、二人の決戦を見守る。だが、そうしていると不意にモルガンの様子がおかしくなりはじめた。
「ぐッ……」
胸を抑え、モルガンは背中を丸めた。その顔からはすっかり血の気が抜けていた。先ほどまでの力強さはどこへやら、モルガンの身体は年相応に小さく見える。やがて身体を大きく揺らし苦悶の叫びをあげると、口にあてられた手の隙間から紅の飛沫が散った。血だ。夥しい量の血を、モルガンは口から吐き出している。アルファロは予想的中、ここぞとばかりに会心の笑みを浮かべる。
「やはり身体に問題があったようですな」
「貴様、何故それを……」
「簡単な推測です。あなたはそれだけの力がありながら、いままで私たちの前に姿を現さなかった。話を聞いていると、昨日の晩からこの村にいたにもかかわらずね。つまり、あなたには私たちと戦いたくない何らかの理由があった。そして、あなたがそれだけの高齢であることを考えれば、身体を悪くしているなんて容易に想像がつく」
「バカじゃあねえようだ」
モルガンはそう吐き捨てた。ゆっくり動くその口からは、血が一筋垂れている。アルファロは笑みを深めると、手を高々と掲げた。同時に手のひらに白い光が現れて弾け、魔法陣が現れる。
「誉めていただいて光栄ですよ。では、私はあなたに敬意を表して最大級の魔法をお見せしましょう。現れよ――七罪の炎!」
紅炎がアルファロの身体を包み込むように広がると、天高く噴出する。聳える摩天楼の如き高さにまで達したそれは、禍々しき巨人の形を為した。炎の鎌を構える冥府の死神。その横顔は血が燃えているように紅く、死に満ちている。その場にいた誰もが言葉を失い、ただただその骨ばった醜悪な顔に眼を奪われる。落ちくぼんだ眼窩からは、それが炎でできているにもかかわらず背筋をそばだたせる呪詛の気配が溢れている。怨念、死、闇――負の概念に炎の身体を与えた。そう呼ぶのがふさわしい存在だ。
「クソっ! 動けねえ!」
「さあ、死神よ……やれえッ!!!!」
静寂たる死神の鎌が今、老人の身体を打ち砕かんとした――。
何もない。そこには何もなくただ虚無の闇だけがあった。闇はどこまでも深く、心の奥底にまでしみ込んでくるような浸透力を持っている。そんな果てしなく続く深淵の海を、ベルゼの意識は漂っていた。感覚すらなく、白痴で、知性も理性も全てを失ったようなまっさらな意識。それが水に揺れる月影のように、黒き闇の上でゆたう。もうどれほどの間、こうしているだろうか。時間の感覚すらどこかに忘れ去って、肉体すら失っている彼にはわからない。いや、考えることすらない。水に任せて流れていく木の葉が何も考えないように、彼もまた何も考えない。
「貴君が、私の主か」
涼風を思わせる声が、闇の中より響いてきた。それに打たれたベルゼの意識は、急速に覚醒してゆく。白きたまゆらは形を取り戻し、人へと還った。
「誰だ、ここはどこだよ……」
「ここは狭間、冥府と現世を分かつ場所。そして私は七曜の魔女の一端」
「なんだよそれ、わけがわからねえ」
「今はわからずともよい。だが、このままでは貴君は死ぬ」
「そんな、なんで? なんでだよ!?」
「覚えてはいないのか。まあ良い、思い出させてやろう」
何かがベルゼの身体へと入り込んだ。脳内を稲妻が走り、急速に過去がよみがえってくる。叫ぶシナモン、その前に立つ大男。そして――自身を貫いた刃の感触。全てが一斉に現れて、ベルゼが一気にあふれてしまう。とめどない感情の起伏に晒されて、ベルゼは焼けるように悶えた。
「ああ、俺は俺は……!」
焦げ付いて行く感情。心の壁が吹き飛んで、何もかもが晒されてしまったような気分になる。不快で腹立たしくて、恐怖に彩られた記憶。それが彼の身体を一部の隙もなく埋め尽くしてしまったようだ。ベルゼはただ頭を抱え、呻きをあげることしかできない。
そうしてしばらくすると、ベルゼはようやく落ち着いた。だが、その眼は虚ろだ。そんな彼に、何処とも知れぬ場所から三度声が響く。
「生き還れるぞ。そして、貴君が望む力も手に入るだろう」
「本当か、ならすぐに頼む! 俺はシナモン姉ちゃんを――いや、家族を守らないといけねえんだ!!」
「よかろう。ただし、これだけは忠告しておく。いまここで生き返れば、貴君は人ではなくなる」
「人じゃなくなる……? ゾ、ゾンビにでもなるのか!?」
「違う。生き返るためには人としての生を捨て、私と一体化せねばならんということだ。七曜の魔女の一端たる私、魔を喰らう暴食の書と――」
すっかり遅くなってしまいましたが、第三話投稿です!