プロローグ 赤ん坊とジジイ
吹き荒れる烈風。雲の峰々は鉛に染まり、その谷間を青い光が逆巻いている。流化した黒雲は辺りを滔々と流れて、遥か視界の果てまでも覆い尽くす。
さながら天の激流か。だがそれに逆らうように、一隻の飛行船が疾走してゆく。紡錘状をした白い船で、大きさは百メルトほどはあるだろうか。中央に翼を広げた竜の紋章を掲げたその船は、風に揺られつつも仄暗い天を駆けている。
「ち、未開空に出た途端これかよ! ついてねえなあ!」
「ずいぶんとお熱い歓迎だぜ!」
船の甲板にて、二人の男が双眼鏡で周囲を警戒していた。彼らは腰をかがめて手すりを抱きかかえるようにしながら、どうにか風を堪えている。少しでも気を抜けば吹き飛ばされ、高度数千メルトからまっさかさまの状況。しかしその表情は余裕たっぷりで、むしろ嵐を楽しんでいるようだ。双眼鏡を握る手が鼻歌交じりに動いている。
そうして彼らが辺りを見回していると、片方の男の動きが止まった。彼の身体はすぐに前のめりになり、指が双眼鏡の倍率を上げる。
「おい! 何か光ってないか!」
「ああん?」
「あれだよあれ! あのバカでかい雲の近くだ!」
男の指は飛行船の前方、やや左寄りを示した。そこには視界からはみ出しそうなほどに巨大な、球形の雲が浮いている。もう一方の男が双眼鏡を向けると、その雲の黒い稜線の際に確かに光るものがあった。雷ではない。水面に揺れる陽光のような、淡く不思議な光だ。それが何か気になって双眼鏡の倍率を上げると、光の中心に四角い影が見えてくる。
やがてレンズのピントがしっかりしてくると、影の正体がわかってきた。本だ。本が空を飛んでいるのだ。黒革の表紙が光に濡れ、刻まれた金文字が深々と輝いている。
「お、おい!! 団長を連れてきてくれ!」
「おうよ!」
男はしまりのない敬礼をすると、転がるようにして船内へと消えた。そして数十秒後、彼は白髪が黒髪より若干多い、六十過ぎほどの老人を連れて甲板へと戻ってくる。
小柄ながらも眼光鋭く、暴風の中でも背筋を伸ばしている老人。彼こそが団長のモルガンだった。モルガンは鋭い眼をさらに引き絞ると、男たちが指で示した光を捉えた。するとにわかに、額に深い皺が刻まれる。
「間違いない、あれは魔導書じゃ! しかも見たところ古代の物のようじゃぞ!」
「おお! では早速取りに!」
「いや、駄目じゃ。あれの近くにある雲はこの嵐の中心、近づけば船が粉々じゃて!」
とんでもないとばかりにモルガンは手と顔を横に振った。興奮していた男たちの顔に、影が差し込む。
「そんな、じゃあどうやって?」
「どうやってもこうやってもあるか! 今すぐ引き返すぞ、このまま進むだけでも危ない」
「諦めるんですかい!?」
「ああ、手が届かんことにはどうしようもないわい」
「そんなぁ……!」
モルガンの態度は実にあっけらかんとしたものだった。顔からはすでに真剣味が抜けていて、興味ないと言わんばかりである。まったく、魔導書に対する未錬などないようだ。しかしその一方で、男たちは口々に不満をもらしながら光を見る。
「く、クソ……!」
「もうちょっと近ければよう……。神様、あの本をもうちょっとこっちへ!」
「頼む!」
ついには珍妙な祈りまで捧げつつ、彼らは光を見続けた。古代魔導書にはそれだけの価値がある。手に入れることができれば屋敷が一軒、いや小さな城が一つ建つ。彼らが追い求めている最上級のお宝――それが古代魔導書なのだ。
そんな男たちの心情もそれなりには理解できるのか、モルガンはそのみっともない言葉を聞き流していた。だがそれも限界。そろそろ注意しようと、彼は男たちの肩に手をかける。しかしここで、素っ頓狂な声が鼓膜を貫いた。
「赤ん坊だ!!」
「ハア、何を言うとるんじゃ?」
「赤ん坊が居るんだ、本の後ろに! 手が見えた! きっと本を抱えてるんだ!」
「俺にも見えたぜ! チクショウ、お宝かかえて笑ってやがる!」
「貸せ!」
モルガンは双眼鏡をひったくると、光に視点を定めた。黒革の表紙、淡く輝く金文字――そして表紙の端を掴むちっぽけな手。色白でずんぐりと柔らかな肉がついたそれは、間違いなく赤ん坊の物だ。表紙の端をしっかと捉えて、指先が僅かに紅潮している。
――不意に、手が動いた。本の影から小さな顔が姿を見せる。顔は笑っていた。無垢な黒い瞳を細めて、どこまでも無邪気に幼く。まるで母の手の中に抱かれているように。それをみたモルガンは思わず息をのむ。そっくりだった、彼の死んだ孫に。モルガンの脳内を電撃が走っていき、背筋がフッと伸びる。
「野郎ども、本を取りに行くぞ! 今すぐ準備にかかれ!」
「よっしゃあ!!」
拳を突き上げ喜びを叫ぶ男たち。モルガンはその声を背に、素早く階段を下りた。彼はそのまま揺れる通路を抜けると、操舵室の扉へとたどり着く。
操舵室ではすでに三人の操縦士たちが、それぞれせわしなく船を操っていた。彼らの前にある、腰ほどの高さの机。そこから生えた白い魔水晶からは次々に薄いガラス状の立体映像が投影されていた。その碧がかった半透明の画面上を、三人の指が軽快に踊っている。
モルガンはそれを見ながら、部屋の中央の椅子に腰掛けると煙草を一服。そして大きく息を吐きだすと、一喝した。
「前方左の雲に向かって全速前進! 風魔法が使える者は全員援護に当たらせろ!」
「本気ですかぁ! あの雲は嵐の中心ですよう!」
「魔導書が近くに浮かんでおるのだ! 行ける所まで行け!」
「は、はいです!」
船が風へと船首を向けた。それと同時にその前方で紅の光が輝く。波紋状に広がった光は幾何学模様を為し、刹那のうちに精緻な魔法陣を編んだ。円形と三角形と古代文字からなるそれが姿を現した途端、船から風の抵抗という概念が取り払われ、一気に速度が上昇する。白い船体は光の矢のごとく、昏い空を滑り始めた。
さらにここで、甲板に魔導師たちの姿が現れた。彼らは手のひらから光を放ち、次々と魔法陣を展開してゆく。咲き乱れる光と甲板を覆い尽くさんばかりの数十、数百の魔法陣。七色に煌く光の波動が船を包み込んでいき、船の速度が限界近くにまで高まる。音をも超えんばかりに。
だが、嵐は強大を究めていた。吹きつける風はさながら神の息吹のごとし。黒雲に近づけば近づくほど、圧倒的なまでの空気の流れが巨大な波涛とかして、白き船体を揺さぶる。総ミスリルの軽い船体は、激流に呑まれた藁のごとく揺れに揺れた。先頭に掲げられた紅の魔法陣が、僅かながらも軋みを上げ始める。
「風防結界出力低下!」
「速度280!」
「魔導機関臨界点! 限界です!」
読みあげられる報告はすべて最悪の方へと向かっていた。このままいけば文字通り、船が粉々に砕け散ってしまう。モルガンは唇を噛みしめると、苦み走った顔をする。
「仕方ない、BEEを出せ。わしが直接取りに行く」
「無茶です! この嵐の中をBEEで飛んだりしたら、すぐに吹き飛ばされてしまいますよう!」
BEEとは一人乗りの小型飛行船である。人が腰かける鐙のような形をした部分と、そこから伸びる四枚の薄い翼で構成された乗り物で、曲芸的な機動性を誇る。旅団に所属する魔導師たちが空中戦で用いる、代表的な乗り物だ。
「わしを誰だとおもっとるか! この竜の翼の団長じゃぞ! これしきの嵐、飛べる!」
「しかし――」
「五分で準備しろ!」
「わ、わかりましたよ!」
圧倒的な威圧。物理的圧力さえ感じさせるそれに気圧された少女は、素早く指示を飛ばした。それを確認するや否や、モルガンは操舵室から飛び出していく。
揺れる船内は大変な騒動となっていた。そこかしこを深刻な顔をした船員たちが走っている。どこからか雨が降りこんだのか、床が水浸しになっていた。モルガンは水たまりを蹴飛ばし、船員たちをかき分けながら格納庫へと走る。そして耳障りな軋み音が響く中、彼は一目散に格納庫の扉を開けた。すると扉の向こうから、一気に風が流れ込んでくる。彼の身体が思わず仰け反った。
「こりゃ凄いのう! 飛び甲斐があるわい!」
格納庫からは空が見えていた。荒れ狂い、生贄を求める亡者のような黒く飢えた空が。モルガンは顔を引き締めると、風に向かって一歩一歩進み始める。体を折り曲げて手で顔を覆うようにしながら、彼はどうにか格納庫中央に固定されていたBEEに乗り込んだ。するとここで、後ろから声がかかる。
モルガンが振り向いてみると、そこには赤毛の男が立っていた。油でくすんだつなぎを着た彼は、BEEの整備員か何かだろうか。太く逞しい腕にはスパナが握られ、がっしりとした肩からは工具箱が下がっている。
「ジジイ、ほんとにこの空で飛ぶ気か?」
「もちろん! そのためにここまで来たんじゃ」
「正気か、死ぬぞ?」
「ふん、わしは天下のモルガンじゃぞ。万が一なんてありゃせんわ! それよりBEEの整備は出来とるか」
「もちろん。だがなあ――」
「じゃあの!」
二カッと屈託のない笑み。モルガンは固定具を外すと床を蹴り、宙へと舞い上がった。たちまちのうちにBEEは空を滑り、嵐の中へと踊りだしていく。「死んだら承知しないぞ!」という叫びを背に、モルガンはBEEのエンジンを吹かした。蒼い粒子が両翼より噴き出し、白銀の機影は回転軌道を描きつつも急加速していく。
黒雲の谷を超え、稲妻の連なりを抜け。灰色の風を切り裂いてBEEは天を駆ける。翼の後ろには遥かに蒼い光が連なり、鉛の空に一条の光を描く。時折突風に揺られながらも、モルガンはBEEを駆り続けた。 やがて眼の前に嵐の中心たる巨大な雲が迫ってくる。その迫力、威圧感。並大抵のものではない。さながら背丈が数千メルトにも達するような巨人に、見下ろされているようであった。しかしモルガンは口笛をヒュウと吹くと、体を前にのめらせてさらに加速していく。噴出孔が蒼の輝きを増して、白銀の翼が一気に雲の稜線を駆けあがった。雲の尾根を吹きぬけるがごとく軽快に登る。
「あれか!」
黒き山脈の上に輝く碧の光。そのなんと荘厳で美しいことか。万の宝石にも勝るその輝きに、モルガンは近づきがたい物を感じる。聖域――碧の光が照らす範囲は、まさにそう呼ぶのが相応しい。
その聖域の中央には本が浮かんでいた。さらにそれを周回するようにして赤ん坊が浮かんでいる。どうやら本の秘めている莫大な魔力があたりの重力を狂わせているらしい。モルガンは空中で光を乱反射している水滴の群れを見て、そう結論付けた。
近づく体、伸ばされる手。絞られたモルガンの眼は赤ん坊の姿を捕らえた。そして次の瞬間には、彼の腕がその柔らかな体を抱きしめる。ほのかで温かな感触が彼の胸に伝わってきた。それと同時にもう片方の手にはしっかりとした重みがかかる。彼は赤ん坊を抱えると同時に、本も手に入れたのだ。
乾いた唇からほっと大きく息が漏れる。モルガンは眼を緩めると、胸元で笑う赤ん坊に優しく微笑みかけた。
「戻るかの……」
BEEを半回転させ、飛行船の方へと戻ろうとしたその時。不意に本が燃えた。焼けつくような光が辺りに広がり、思わずモルガンはバランスを崩してしまう。白い機体が裏返しになり、モルガンと赤ん坊は何もない空中へと放り出されてしまった。
「ずわアアァ!!」
「キャッキャ!」
二人の影は、声だけを残して昏く遥かな空の底へと落ちていった――。