眠れない夜
仮眠室は思ったより静かだった。
簡素な木製ベッドが並ぶだけの飾り気のない部屋。
廊下の喧騒も分厚い扉一枚を隔てるだけで随分と遠く、別世界の出来事のように感じる。
「何かあればすぐ呼んでください。すぐ傍におります」
リオネルが低く、重みのある声で告げる。
彼は当然のように扉の脇へ立ったままだ。
「……貴方は休まないの?」
「護衛が主より先に眠る訳にはいきません」
「倒れたら意味がないでしょう。貴方は私の『盾』なのでしょう?」
「お嬢様も、かつて同じようなことを仰っていましたね」
淡々と鏡のような言葉で返される。
ミレアナは僅かに言葉を詰まらせた。
先ほど、レーヴにも同じようなことを指摘されたばかりだ。
───『自分を壊す奴の考え方』
脳裏に、あの男の呆れたような声が蘇る。
「……少しだけ休みなさい、リオネル。これは命令よ」
「……。承知しました」
数秒の沈黙の後リオネルは静かに頭を下げ、部屋を出た。
ようやく扉が閉まる。
一人になった室内で、ミレアナはゆっくりと深く息を吐いた。
身体は鉛のように重く、疲弊しているはずなのに妙に頭が冴え渡っていた。
横になっても、瞼の裏を過ぎるのは不穏な記憶ばかりだ。
王都、魔術院、そしてあの黒外套。
嫌な予測ばかりが脳裏を巡り、神経を逆なでする。
そして───。
『ちゃんと役立ってるから、ここでも』
不意に、レーヴの声が耳奥で再生された。
「……」
胸が落ち着かない。
役立つ、必要、優秀。
その言葉は物心ついた時から何度も、雨のように与えられてきた。
だが、あの男の言葉は何故か響きが違う。
成果や効率ではなく、もっと根源的な部分───自分自身という存在を見られているようで。
理論で説明できないその感覚が、今の彼女には酷く恐ろしかった。
その時、こんこんと軽いノック音が静寂を叩いた。
「……誰?」
「俺」
間延びした、それでいてどこか安心させる声。
レーヴだった。
「入っていい?」
「何故。貴方も休むべきでしょう」
「酷くない? 見舞いに来た病人にその仕打ち」
扉越しにぼやく声に、ミレアナは少し迷った末に小さく許可を出した。
扉が開く。
入ってきたレーヴは既に重い装備を解いていて、包帯だけを巻き直したラフな姿だった。
彼は入ってくるなり、当たり前のような顔をして床へ座り込む。
「……何をしているの。椅子を使いなさい」
「いや、こっちの方が落ち着くんだよね。見回りついでだよ」
「絶対違うでしょう」
「バレた?」
軽く笑う。
だが、その顔には隠しきれない疲労が滲んでいた。
ミレアナは僅かに眉を寄せる。
「傷、開いているわよ」
「あー、まぁちょっと? 元気に動いた証拠かな」
「ちょっとではないでしょう。包帯の端が赤いわ」
水路戦の傷だ。
「治癒師には診せたの?」
「逃げた」
「何故」
「説教が長いんだもん。あのおばちゃん、俺を見ると『死に急ぐな』って一時間くらい離してくれないんだよ」
「子供なの?」
呆れ半分で返すと、レーヴが心底楽しそうに吹き出した。
「アンタ、ほんと遠慮なくなったよな」
その言葉に、ミレアナは一瞬だけ口を噤む。
遠慮。
……していないのだろうか。
以前の自分なら、こんな風に軽口を返したりはしなかった。
必要以上に踏み込まず感情を見せず、鉄の線を引いていた。
なのに今は。
「……貴方が遠慮なく来るからでしょう。うつったのよ、その無作法が」
「人のせいにしたなー。お嬢様も意外とワガママだ」
「事実よ」
「はいはい」
レーヴは笑ったあと、ふっと天井を見上げた。
沈黙が落ちる。
不思議と気まずくはない。
外の冷たい空気とは違う、静かな凪。
その静けさの中で、ミレアナはぽつりと口を開いた。
「……眠れないの?」
「んー」
レーヴが曖昧に笑う。
「まぁ、色々考えるとね」
「黒外套のこと?」
一瞬だけ、彼の視線が止まった。
けれど次の瞬間には、またいつもの飄々とした笑みへ戻る。
「アンタ鋭すぎ。可愛げがないって言われない?」
「否定はしないのね」
「したところで信じないでしょ」
「ええ」
レーヴが小さく肩を震わせた。
「……参るなぁ」
笑っているのに。
その横顔は少しだけ、泣きそうなほど苦しそうだった。
ミレアナは視線を落とす。
聞きたい、その闇の正体を。
でも、無理に触れてはいけない気もする。
その「迷い」が、妙に胸へ引っかかった。
王都にいた頃の自分なら迷わず暴いていただろう。
秘密は情報であり、情報は相手を御するための武器だったから。
けれど今は、彼の傷へ土足で踏み込むことが何より嫌だった。
「……貴方」
「ん?」
「前に言っていたわね。私が話したくなったら聞く、と」
「言ったね」
「なら」
ミレアナは少しだけ息を整え、静かに続けた。
「貴方も、無理に話さなくていいわ。準備ができるまで、聞かないでおいてあげる」
レーヴが目を瞬いた。
まるでそんな言葉を向けられるとは微塵も思っていなかったかのような、無防備な顔。
「……」
沈黙。
やがて彼は、困ったように視線を落として笑った。
「アンタさぁ」
「何」
「ほんと変なとこ優しいよね。自覚ないでしょ」
「……意味が分からないわ。私はただ、貸しを作っておくだけよ」
「はいはい。ツンデレってやつ?」
「何よ、その奇妙な言葉は」
小さく笑い合う。
その声音は、先ほどよりもずっと柔らかかった。
そして。
「……ありがと」
ぽつりと落ちた声はいつもよりずっと低く、誠実で。
ミレアナの胸が何故か少しだけ熱く、そして切なくなった。




