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マスクとは一般的にウイルスを他者へ感染することを予防するために着用する衛生商品だ。ここで言っているのは仮面とかを意味するものではない。
けれど俺にとっては別の意味を持つものでもある。マスクとは自分の顔を隠す便利な道具。他者との間に見えない壁を作り、見られたくないものを全て覆い隠してくれる。
一枚数十円のか弱い不織布に絶対的な信頼を置いているのだ。
......
洗面所に今日着用するマスクを取りに行くとヘアアイロンで髪の毛を巻いていた姉、風香がちらり横目でこちらの様子を確認した。
「春風マスクつけて学校行くの? 今日死ぬほど暑いって天気予報やってたよ」
「いい。暑いとかもう慣れたし」
中学生のある時からマスクをつけ始めて約3年どんなに暑くてもつけていた結果気候なんかの理由で外すことは選択肢の中から消えていた。
「おー、さすが年中マスク男子」
「うるせー、ていうかもういい時間だけど。彼氏来てんじゃねーの」
「うわ、マジじゃん! 行ってくる!」
ヘアアイロンを洗面台に置きっぱなしにして、玄関にすでに準備していた鞄を持ちすごい勢いで家を出ていった。寝坊をしたくせに身だしなみを整えようという神経が理解できない。
「電源くらい落としていけよ」
ぼそりとつぶやく声に返答をくれる人たちはもういなかった。父と母は仕事へ行き、姉はさっき彼氏と登校するために家を出たから。
放置しておいて家が火事になったら困るからと姉のヘアアイロンを片付けようとした。
そして何を思ったのかヘアアイロンを使ったら俺の髪の毛はどう変わるだろうかと興味が湧いた。姉はいつも、最近流行りの髪型である韓国風巻き髪をしている。髪をウエーブにして毛先をくるんと丸めるのだ。
彼女はいつも短時間で髪をセットしているから簡単に違いない。
家を出る時間までもうしばらくある。ちょっとやってみよう。
「あれうまくいかない。......あっつっっっっ!!!!」
熱い2つのプレートで髪の毛を挟みこんで巻こうとするもうまくいかない。そもそも巻く以前に跡すらうまくつけられないのだ。なんだか寝癖みたいなのができた。おまけに髪に集中しすぎたせいで注意力散漫になり首を火傷をした。
「やめよ」
一人で悪戦苦闘していることが馬鹿らしくなりヘアアイロンのプレートを冷まして棚に片付ける。失敗してできた寝癖のような跡は水で濡らして元通りにすることにより証拠隠滅に成功した。
......
なんとか予定通りの電車に間に合い高校に登校した俺は教室の隅で本を読んでいた。誓って本を読んで誰とも話さない俺カッコいいとスカしているわけではない。読書は趣味のうちの一つだ。
それに本を読んでいれば誰とも話さなくてすむ。朝特有のクラスメイトたちの話し声ですら遠くの出来事のように感じるのだ。
「おはよー!」
優雅な読書タイムに浸っていた時、気分をぶち壊しする明るい声が聞こえてきた。聞こうとしているわけではない。勝手に耳が音を拾ってしまうほど通る声なのだ。
「白澤くん、おはよ〜」
「そのリュックについてるキーホルダーかわいいね」
「だろ、昨日の帰りにガチャガチャ見つけてさ、可愛すぎて回した」
彼の名前は白澤蜜月。かわいいものと甘いもの好きで女子と話しているのをよく見聞きする。加えて爽やかなイケメンで通称スイート王子。王子と呼ばれている理由は普段、共通の話題で盛り上がれる上に時々見せる振る舞いがまるで絵本の中の王子様みたいで最高に萌えるからだそうだ。
「白澤、今日はバスケ部のミーティングだからな。遅れんなよ」
「俺は遅れたことないだろ。この間怒られていたのはミーティングをほったらかして彼女とデートしてた誰かさんだったと思うけど?」
「くっ......! 傷を抉るなよ。それが理由で振られたんだぞ。予定も管理できないような人とはこれ以上付き合えないって」
「なんか、ごめん」
「素直かよ」
加えて男子からの人望も厚いという稀有な存在だ。白澤はバスケ部に所属しており運動神経も抜群、真面目で憎めない性格で慕われている。練習試合ともなれば男女ともに大きな声援を送られているとか。
「黒崎、おはよ。今日はなんの本読んでるの?」
そんな彼は幸か不幸か俺の後ろの席だ。二年生になって初めて割り振られた席は名前順だったことが理由。
ていうか、黒崎と白澤の間に誰もいないことなんてあるか? 普通いるだろ、佐藤とか日本にどれだけいると思ってんだ。
「ラノベの新刊」
「ラノベね。俺もたまに読むよ。異世界転生系とか」
「そうなんだ」
「地味な主人公が魔法を使って異世界を探索する話が好きなんだ」
「はあ」
「特に異世界の食材を使って料理を作るとか、もの作りをする系が好き」
陽キャラすごい。俺が相槌を打っただけで回答が返ってくる。好きで短い返答をしているわけではない、これ以上話を広げる方法がわからないだけで。
いつもこんな調子でほとんど会話が成立しない相手と話していて果たしてこいつは楽しいのだろうか。
俺だったらきっと会話を繋げようなんて思わない。
どうしてだろうと思いながらじっと見つめていると、白澤の頬が少しずつ赤らんでいった。
「白澤、顔赤いけどどうした」
「えっそうなってた? 黒崎くんがじっと見つめてくるからなんか顔についてるのかなって思って恥ずかしくなって」
「マジ? ごめん、なんもついてない」
「よかった。なんかドキドキしちゃった」
照れ笑いをしながら人差し指で頬をかいた。
なんだろうこの人を虜にするような笑顔は。俺には弟がいないが弟を可愛がる兄姉はこんな気持ちなのだろう。
白澤を慕う人の多い理由が垣間見える。
「白澤、黒崎と二人で何話してるんだ?」
「ラノベの話をしてた。中田も話す?」
「いいや俺はいい。黒崎が誰かと話すなんて珍しいから聞きたかっただけだ」
話しかけてきたのは中田悠真だ。白澤と幼馴染なのは校内で周知の事実。二人は同じバスケ部に所属しており、行動を共にしていることが多いイメージがあった。
わざわざ話しかけてくるなんて本当に仲がいいんだな。仲がいい幼馴染めにいるなんてまるでラノベの主人公みたいだ。
二人の会話を傍観して見ているとバッチッと中田と目が合った。
彼は一瞬気まずそうにして慌てたように目を逸らした。
「話を中断させて悪かったな。俺席に戻るわ」
ははん、イケメン幼馴染が普段ほとんどクラスメイトと話さない俺と話をしていたのが気に食わなかったと見た。だから気まずそうに目を逸らしたに違いない。
心配するな。別に白澤を狙っているわけではない。人畜無害な陰キャラである。
中田は席に戻った後も俺たちの方をチラチラ見てきたので安心しろという意味を込めてウインクをかました。
そしたらより気まずそうな顔をして、知らないふりをされた。
はて。