第6話『遠くから眺めるあなたが好きだったから』
海浜公園駅からJR姫が丘駅まで戻った紅太と千夏は、山陽姫が丘駅で電車を乗り換えると、最終的に紅太の最寄りの駅で電車を降りた。
千夏はそこからすこし進んだ先に見える途中の公園で足を止めた。
そこは、紅太の住む家と駅の間に位置する一般的な公園。
普段は近所に住む小さな子供たちがわいわいと遊ぶ場所。ブランコに滑り台と砂場、シーソーにジャングルジム、あとは広めのなにもないスペースなどと、住宅街の中にある公園としては十分に子供が楽しめる遊び場だ。
この公園もまた、懐かしさを覚える場所のひとつ。紅太、千春、千夏の三人でよく遊んだ。 ブランコがふたり分しかなかったがために、誰が先に乗るかをじゃんけんなので決めたりした。その際、ほぼ毎回、紅太が負けた。
千夏は公園に足を踏み入れる。公園には幸い、他の人の姿は見られず、紅太と千夏のふたりだけ。
静かな公園に砂の上を歩くジャリジャリとしたふたり分の足音がやけに大きく響いた。
遊具エリアからすこし離れた場所にかまえた、雨をほとんど凌げそうにない格子状の屋根付きの休憩スペースの前で千夏は足を止める。
すると、紅太に背を向けたまま、千夏は転々と公園内の遊具を視線を向けた。そのあとで、
「ここも懐かしいよね」
と、その情景を頭に浮かべるように言葉をもらした。
それと同時に、紅太も立ち止まる。
「よく遊んだよね。三人で」
「そうだな」
「お姉ちゃんはブランコが好きだったよね」
紅太と千夏の視線は自然とブランコに集まる。
「……」
「……」
ふたりの間に沈黙が流れる。
紅太はすこしの間を置き、それから本題を切り出そうとしたが、それよりも先に千夏の方から本題を切り出してくれた。
千夏は「お兄ちゃん」と口にしながらゆっくり紅太を振り返る。そして、
「お姉ちゃんのことで、お兄ちゃんに話さないことがあるの……」
と、千夏はすこしか細い声でそう言葉にした。
千夏の顔にはあきらかな不安の感情が色濃く見えた。
けれど、それは一瞬で、覚悟を決めたようにじっと紅太を、千夏は見据えた。その目は真剣だ。
そんな千夏を前にして、紅太は静かにゆっくりと呼吸を整えた。
このあと、千夏が口にしようとしている続きの言葉を、紅太は察してしまったから……。
それはあまりにも残酷で。
目をそむけたくなるような。
耳を閉ざしたくなるような。
そんな、最悪な現実を……。
だけど紅太は、目の前の千夏からけして目を背けることなく、千夏が口を開こうとしたその瞬間、それを覚悟した。
「……半年前に、事故に遭ったの。それで……」
千夏から告げられた途端に、紅太の心臓が一瞬力強く脈打った。
けれど、紅太の頭はどこか冷静で、千夏の言葉を聞けた。受け止めれたわけではないが。
誰が、など聞く必要はなかった。
それを訊ねずとも、事故に遭ったのは千春のことだろうから……。
紅太は一分ほどの長い間を空けたあと、
「そうだったのか……」
と、ようやく言葉を口にした。それに続けて、
「千春のことはとりあえずわかった……だけど、どうして千夏は、千春のふりをしてまで、それを僕に隠そうとしたんだ?」
紅太の言葉に反応して、千夏は服の裾をぎゅっと握る。
ずっと紅太から視線を逸らさなかった千夏が、紅太の質問にわずかに俯いた。
「お姉ちゃんのこと、本当はお兄ちゃんに話したくなかったの……」
「……」
「けど、こっちに帰ることになって、お兄ちゃんに、お姉ちゃんのこと話さないわけにはいかなくなった……」
そこで一度、言葉は区切られる。
紅太はその間、千夏からは目を逸らさずにいた。
「最初は、ちゃんと会ったら話そうって思ってた……。だけど、わたしはお兄ちゃんに、すこしでも悲しい思いをしてほしくなかったの……」
「千夏……」
「わたしがこんなことしたっていつかはバレるし、意味なんてないことぐらいわかってた。でもね、わたしがお姉ちゃんを演じることで、お兄ちゃんには、お姉ちゃんとの最後の思い出を作ってほしかった。それがたとえ、かりそめだとしても……」
俯いたまま、千夏はか細い声で言葉を続けた。
「でもやっぱり、お兄ちゃんとお姉ちゃんには適わないね……。昔から……」
千夏は、ぽつりともらした。
「……」
「……」
重たい沈黙がふたりの間に積もる。
「僕のためを思ってしてくれたのはわかった。……けど、こんなことして辛いのは、千夏の……」
「だめだよ‼」
すこし荒げた声で紅太の言葉をかき消すように、千夏は感情を露わにした。その声は、紅太の心をぐさりと突き刺す。
「だって、お兄ちゃん……お姉ちゃんのことが好きだったじゃん……!」
顔を上げた千夏は、にっこりと笑おうとした。けれど、それは寸前で崩れてしまう。笑顔を失敗した千夏の声が徐々に涙に湿ってゆく。
けれど、この期に及んでも、千夏は涙を一滴も零そうとはしなかった。今にも零れそうなのに。潤んだ瞳が目の前の紅太を映している。
「それを知らないのは、たぶんお姉ちゃんだけ……」
どこか苦しそうに、千夏は顔を俯かせた。
「わたしはね、そんなお兄ちゃんことが……大好きだったの」
瞳にはきらりと輝く雫が滲み、千夏はそれを耐えようとしている。しかし、それはもう今にも溢れ出しそうに感情と連動して揺れていた。
「お姉ちゃんのことを見てるときのお兄ちゃんの瞳が好き」
「……」
瞳に溜まった涙は、限界を迎えると千夏の意思に反して次第に溢れ出した。
ぼたりぼたり、と落ちる涙はそのまま足元の砂を色濃く変色させる。
それを左右の手の甲で拭うと、顔を上げた千夏が言葉を続けた。
「お姉ちゃんにしか見せないお兄ちゃんの表情が好き」
また、涙が頬を伝う。
「お姉ちゃんと話してるときのお兄ちゃんの横顔が好き」
それを千夏はまた手で拭い、続ける。
けれど、涙はまだ溢れ続けた。
「だから、お姉ちゃんを演じることは、わたしのためでもあるの。今まではちょっと離れたところからしか見れなかった、お兄ちゃんの好きなところを今日は特等席《一番近く》で見れたから……」
そこで一度、千夏はまた両手で涙をぬぐうと、続きを言葉にした。
「だけど、今日一日お姉ちゃんの代わりを演じて、お兄ちゃんとデートして、嫌と言うほど実感しちゃった」
「え……?」
「やっぱりわたしは、お姉ちゃんに敵わないね」
千夏はえへへ、と今度こそ上手く笑ってみせる。
けれど、やはりそれは、どこか無理をして張り付けたような、そんな装った表情に見えた。その証拠に、今にもその笑顔は剥がれ落ちそうだったから……。
まだ、千夏の瞳からは涙は止まりそうにない。
「……ごめん、千夏」
紅太がそう声をかけると、困惑した表情を千夏は浮かべた。
「どうしてお兄ちゃんが謝るの……? 悪いのは、お兄ちゃんのことを騙すようなことをした、わたしの方なのに……⁉」
「だからだよ。僕のためにしてくれた千夏こそ、なにも悪くない」
その言葉に反応し、千夏のくちびるが小さく震え出す。
紅太はそんな千夏との距離を縮めるために進み出ると、千夏の頭の上にそっと右手を乗せた。そのまま、紅太は優しく頭を撫でた。
突然の行動に、千夏は一瞬目を見張る。
「千夏も辛いはずなのに、ありがと」
その言葉が、千夏が涙を耐えるのを許さなかった。
大粒の涙が瞳からは、ぼたぼたと、ぼたぼたとまた溢れ出る。それを両手で拭う千夏は、涙でぐちゃぐちゃな顔を隠すように紅太の胸に顔を埋めた。
千夏の鳴き声が感情とともに、紅太の胸を強く突き刺してくる。だけど、そこに痛みはない。
ひたすら零れる涙を拭うが全く止まってくれない。
その様子は、昔から知る千夏そのものだった。
この光景を第三者に見られれば、少女を泣かす不審者として警察に通報されるかもしれない。
けれど、そんなことなど気にせず、紅太は溢れ出る感情が収まるまでの間、千夏の頭をやさしく撫で続けた。
嗚咽が交じる千夏の涙の声は、紅太の身体中に響きわたった。
ひとしきり溢れ出る感情を吐き出しきった千夏は、鼻をすすりながら紅太から身体を離した。紅太も頭の上から手を退ける。
紅太を見上げる千夏の顔には涙を流した痕だけが残り、もう涙は止まっていた。
「お兄ちゃん」
そう、紅太を呼ぶと、千夏はゆっくり呼吸を整えると言葉を続ける。
「やっぱりわたしは、お兄ちゃんが好き」
千夏はどこか吹っ切れたように、にっとかわいらしく笑ってみせた。
その笑顔は張り付けたようなものではなく、本来の千夏らしさを感じる笑顔だった。何年経とうとも、その人の笑顔は変わらないのかもしれない。
「お兄ちゃんは、今でもお姉ちゃんのことが好きでしょ?」
千夏が口にした言葉に反応してか、目の前の千夏に、千春の面影が一瞬重なった。
すこし考えたあと、紅太は、
「それは、正直わからない」
と、正直に答えた。
「そっか。うん、それでもいい。んーん、その方がいい」
千夏はそう言って、やさしく微笑んだ。
すると、千夏は紅太の距離を縮めるために一歩踏み出した。そして続けて、
「だからこれが、わたしの気持ち——」
と、千夏の両手が、紅太の顔へと伸ばされる。
すこし背伸びをする千夏。
そのため、千夏の顔が段々とこちらに近付いてくる。じんわりと、じんわりと。
紅太の顔と、千夏の顔との距離は次第にゆっくりと詰められると同時に、千夏はそっと瞼を閉じた。
そして、次の瞬間。
それは一瞬の出来事だった——
不意に、紅太のくちびるに驚くほど柔らかな感触が伝わってきた。それに加え、ほのかに甘い匂いが紅太の鼻腔をくすぐる。
たった一秒ほどの時間が、永遠と思えるほどに、千夏の咄嗟の行動は紅太を驚かせた。
千夏は背伸びをやめると、後ろに一歩下がりながら紅太のほっぺたに添えられた両手を離す。
そんな千夏はすこし頬を赤色に染め、ちらりと紅太の表情を確認すると恥ずかしそうに顔をそむけた。
紅太は未だに硬直状態。だけど、千夏から目を逸らすことはしなかった。
そんな紅太に、千夏は言葉を続けた。
「わたしは、お姉ちゃんの代わりになんてなれない」
はっきりと、千夏は告げる。
「もしお兄ちゃんがそれを望んだとしても、わたしは千夏のままでいるから」
きっぱりと、千夏は忠告する。
「だからお兄ちゃんには、お姉ちゃんのこと諦めてもらって、わたしのことを好きになってもらう」
そう、千燈千夏は安芸宮紅太に宣言する。
「覚悟しててね? 《《紅太》》」
と、生まれて初めて千夏に名前で呼ばれた紅太は、不意にもそれにドキッとしてしまった。
それは、千夏に名前を呼ばれた経験がなあったからだろうか。それともまた、名前で呼ばれた瞬間、ほんの一瞬、千夏に千春を重ねてしまったからだろうか。
すると、千夏はかわいらしげに笑う。
そんな千夏にあてられた紅太は、それから逃げるように目をそらした。
だけど、千夏は逃がしてはくれず、最後にこう告げた。
「大好き」——と。
どうしてか。
春休みを終えて、迎える新学期。
そんな明日からは、すこし時期の早い新しい夏が訪れる、そんな気がした。
これで物語としては終わりです。
ですが、明日にエピローグらしきものを投稿します。
それでこの作品は本当の終わりを迎えますので、よければ最後までこの作品のことをよろしくお願いします。




