その伯爵令嬢は、冷酷非道の皇帝陛下に叶わぬ恋をした
――それは、紛れもない一目惚れだった。
伯爵令嬢マリア・フォークロスは、久方ぶりに出席した公の場にて、とある人物と出会った。
出会った……と言ってもなんということはない。ただ同じ場に居合わせたというだけだ。それ以上でも以下でもない。
後ろで一つに束ねられた、さらさらとした銀髪がよく目立つ少年だ。
瞳は血の色を思わせる紅。整っているとしか言いようのない顔に、とても巨きく逞しい体つき。
欠点など一つとしてなく芸術品のように美しく在る彼を目にした瞬間、一歩も動けなくなってしまった。
これほど綺麗な人が、この世に存在するなんて。
マリア自身、美しい部類の人間ではある。
だが彼は並の美形などとは比べ物にならないのは一目瞭然だった。
冷酷非道の血まみれ皇帝。
そう呼ばれ、ひどく恐れられているのだと知っていながら、どうしようもなく胸が跳ねた。
「マリア、お前は皇妃になれ」
「皇妃……ですか」
「皇帝陛下の妻のことだ。皇妃は誰よりも幸せで、愛される。それがお前の幸せだ。――いいな?」
「はい」
マリアは物心ついた時から、そう父に何度も何度も言われて育ってきた。
フォークロス伯爵家は決して裕福ではなく、皇族と縁を繋ごうなどと考えるだけでも烏滸がましい。しかし刷り込みの力というのは強いもので、彼女の中で皇帝――イーサン・ラドゥ・アーノルドという名の御方の妃に選ばれることは存在意義に等しいと言っても過言ではない。
けれどもマリアは病弱だった。
彼女の母も早くに亡くなっていることを考えるに、その血を強く引いてしまったのだろう。しょっちゅう熱を出しては倒れ、幼少のほとんどをベッドで過ごした。
顔も知らない皇帝陛下を想像し、鬼のようなその恐ろしさに震えることもしばしば。けれども時には暇故に読み漁っていた恋愛小説の主人公に自分を重ね、愛される夢を見たりもする。
病弱の身でも噂話というのはすぐに耳に届いてしまうから、無邪気に愛を向けられると信じていたわけではないけれど。
マリアより二歳年下、齢十六で皇帝になったばかりの少年は、早速悪評にまみれていた。
曰く、イーサン・ラドゥ・アーノルドは戦場に赴く度、鮮血で染め上げる。
曰く、彼は皇家に楯突く者は容赦なく己の剣でもって処断する。その極悪非道さを呪った者は少なくない。
曰く、彼は決して婚約者を持たない孤高の王である。誰もその隣に並び立つことを許さない。
でも、それでも。
――皇帝陛下がどんな方でもいい。必ず元気になって、お会いしに行かなければ。
病が軽い日が多くなったのは十八を超えた頃からだろうか。
多少は体が丈夫になって、徐々に他家で開かれるパーティーにも参加できるようになった。それまではフォークロス家が主催する茶会やパーティーにしか出席できていなかったのだ。
やがて数ヶ月に一度の皇家主催のパーティー、それも皇帝陛下の御名で招待状がやって来て、今までは体調を理由に断るしかなかったマリアは慌てて飛びついた。
皇帝陛下は極度の人嫌いであるらしく、即位してからというもの式典以外で公の場に姿を現すのは初めてだった。これを逃すわけにはいかない。
「マリア、皇帝陛下に己の姿を見せつけろ。お前は可愛い」
「ありがとうございます、お父様」
緩く波打つ淡いブロンドは梳かれ光り輝いているし、ドレスもしがない伯爵家の娘には不相応くらいの一級品。
自分は美しいと、この姿なら皇帝陛下も興味を持ってくださるはずだとマリアは思っていた。
実物の彼に遭遇するまでは――。
己の姿を見せつけるどころか逆に皇帝陛下の冷たい美貌に魅せられてしまっただけ。
皇帝陛下はマリアに……そしてマリア以外にもまるで興味がなさそうに見えた。あんなに美しいのに、全てを諦めたような、つまらなそうな目をしていた。
それだから余計、興味を引かれてしまったのかも知れない。
すぐに踵を返してパーティー会場を出て行ってしまった皇帝陛下を追うことはできなかったので、マリアは次も、その次も皇帝陛下を拝むために足を運んだ。
見れば見るほど強くなる胸の甘い疼きをなんと呼べばいいのか、わからないままに。
どうしてあなたはそのような目をなさるのですか。
その空白が埋まれば、あなたはもっと美しくなるに違いないのに。
私なら、その空白を埋めて差し上げることはできますか。
あなた様は、本当は寂しいのではありませんか。
語りかけたいことはいっぱいあるのにいずれも言葉にして伝えることは叶わない。だって皇帝陛下の周りには護衛がいっぱいで、とても近づけそうにないから。
だからマリアは文を綴った。溢れる想いのほんの一欠片でも、皇帝陛下に届くことを願って。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
登城の機会を得られたのは、まるで奇跡だった。
呼ばれた理由自体は決していいものとは言えない。本当は感謝してはならないのだろう。
フォークロス伯爵領で農作物の不作が起きた。天候的な問題で、皇家の支援を受けたいとの手紙を送ったら、登城するようにと言われたのである。
「連れて行ってほしい」と父に頼み込めば、すんなりとここまで来られた。
父もマリアを皇帝陛下と引き合わせたかったはずだ。この頃は領地運営に失敗してフォークロス家の財政事情は最悪だと使用人たちがぼやいていたのを聞いたくらいだから、皇家との強い繋がりを早く得たかったに違いない。
――娘が皇妃になれば、ボロボロの領地を建て直せるものね。
所詮父にとってマリアは道具でしかない。
母がいない代わりにかなり甘やかされて育ってきたとは思う。病床のマリアが欲するものは何でも手に入ったし、ドレスだってずっと可愛らしいものばかり与えられている。
でもそれは全て、マリアの機嫌をとって、従順にさせるためだと気づいたのはいつの頃だったか。
逆らうわけにはいかなかった。だって皇妃になることだけがマリアの利用価値であり、生まれてきた意味なのだ。
愛されたい。
本当の意味で、愛されたい。
父には期待していない。父は金のことしか考えていない人間だ。だから、陛下に。
「皇帝陛下。こちら、私の娘でございます。ほら、名乗れ」
本題である資金援助の話もそこそこに、父から挨拶を促されてマリアは前に出て皇帝陛下と向かい合う。
自分より頭一つ分は背が高く、この場において最年少でありながら圧倒的な存在感を放つ彼。少し身震いはしたけれど、すぐに恐怖は大きな歓喜に呑み込まれた。
憧れた人が、想い続けていた人が、目の前に立っている。
触れ合えそうな距離で。真正面から見つめていただける距離で。
背中に流した淡いブロンドの髪を揺らしながら、たおやかと称される微笑みを浮かべ、静かに名乗りを上げた。
「フォークロス伯爵家が長女、マリア・フォークロスと申します。……皇帝陛下、ずっとずっと、お会いしたかった」
「……なんだ、貴女は」
「お忘れですか。文を送らせていただいた者にございます。皇帝陛下にこうしてお目見え願える日を心待ちにして――」
マリアという名はよくあるし、フォークロス家は決して有名ではない。
だから名前くらいは忘れられていても仕方ないと思った。そう思ったのに。
「手紙? 余はそんなものは知らないが」
何の感情もこもっていない、冷酷な瞳でそう言われて。
マリアは足元から全てが崩れ落ちていくかのような錯覚を覚えた。
「知らない……? 知らないって、そんなはずは」
「余の言を疑うというのか」
「いえっ、そうではございません。ですが!」
読んでもらえるのを楽しみにして、それだけを生き甲斐に、今までの日々を過ごしてきた。
もしも本当に皇帝陛下に手紙の存在を知られもしていなかったのなら……一体、何のために。
「鎮まれ、マリア。陛下の御前だ」
わかっている。わかってはいるが、心の乱れは治らない。
失意のあまりドレスを床に広げて蹲りそうになるのを堪えて、頭を下げるしかなかった。
「申し訳ございません、陛下。醜態を晒してしまいましたことをお詫びいたします。私の勘違い、でした」
「そうか。ならいい」
そのあと何か皇帝陛下と話した気もするが、よく覚えていない。
気づけばマリアはベッドの上で、高熱にうなされていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
マリアは皇帝陛下の特別になれるかも知れないと信じていたし、特別になりたかった。
送った文はおそらく、使用人か誰かに握り潰されたか何かしたのだろう。
想いは届かなかった。届く前に、破り捨てられていた。
高熱は長く続いた。何度も生死の境を彷徨ったが、社交界で作った友人たちに励まされたおかげか、どうにか死なずに済んだ。
「マリア様こそ皇妃に相応しいお方ですわ。こんなところで挫けて、どうなさいますの」
「そうですそうです!」
特に親しい子爵令嬢と男爵令嬢は、差し入れまで持ってきてくれる。
差し入れの菓子類を食すと少しお腹を壊してしまったけれど、まっすぐな優しさが嬉しかった。
差し入れにわずかな毒が仕込まれており、親しいと思っていた二人が陰で彼女を嘲笑い、他の令嬢の指示により見舞いの体でマリアを弱らせいずれ殺そうと企んでいたことなんて、彼女が気づくはずもない。
「ありがとうございます、皆さん」
結局、彼女の体調が良くなることはなかった。
そうしているうちに二度目の登城の日――どうやら、一度の話し合いでは片がつかなかったらしい――が迫ってくる。
ふらふらの体で、足を引きずるようにして、それでもマリアは行くことに決めた。
手紙を知られてなかったことはマリアは陛下の特別でも何でもない。だが、ならば今から特別になってしまえばいいのだ。
熱には慣れている。
二度目の謁見は、何の問題もなく済ませられたはずだ。「可憐で物腰柔らかで、楚々とした娘だな」と評されたときは舞い上がりそうになった。
向けられる瞳が、氷のように冷たく、空虚なままだとしても。
その評価を受けて脈ありと踏んだのか、三度目四度目の謁見の際、父はますますマリアを推した。
マリアが皇帝陛下に近づける機会が次第に増えていく。
病にやつれる顔を彩り、着飾るだけでなく、めげずに新たな恋文を綴った。
今度は握り潰されずに直接届けることができるのだ。ますます力がこもってしまうのもやむなしで、ただでさえ熱が高いのに恋の熱にまで浮かされ、一晩中書いては捨て書いては捨てを繰り返し、書き進めた。
いくら顔を合わせ、言葉を尽くしたところでこの恋が実るわけがない。
そんなわかりきった現実から必死で目を背けて、幸せな未来を信じるふりをしながら。
「うちの娘を陛下の妃とするのはいかがでしょう?」
父が冗談めかしてそう言ったのは、謁見十度目、いよいよ城に訪れる名目であった支援の話がまとまった時だった。
とはいえ三日に一度は通っていたため、大した日にちは経っていない。皇帝陛下を初めて目にしたその日から数えても、半年にも満たないだろう。
それでも触れ合いの時間は充分だ。
充分だった。――故に。
「余に縁談は不要だ」
バッサリと、本当にバッサリと切り捨てられ、マリアにはどうしようもなかった。
「どうしてですか? 私の文は、読んでくださったのでしょう」
「ああ。くだらない恋文だった。その想いが純粋であるからこそ、いっそ哀れに思える」
皇帝陛下の、声変わりしてまもないと思える声音にわずかに同情の色が籠る。
彼はきっと本当はとても心優しいのだ。優しいのに、まるで嫌われたいかのように悪様に振る舞っているのだ。
「誰よりも貴女がよく知っているだろうに、愚かなことだ。余の手で死ねるか? マリア・フォークロス。余の手以外で死なないと、そう言い切れるのか」
「……っ」
「余はかつて喪ったことがある。いつ喪われるか知れない貴女を皇妃にしようなどとは思えない。そもそも貴女に関心はないがな」
後半は囁くような言葉だったから、背後に立つ父にはなんと言ったかわからなかっただろう。
でもマリアにはしっかりと聞こえた。
――ああ、そういうこと。
筆頭公爵家の令嬢こそ別の方と婚約しているものの、皇家との縁繋ぎのための贄にされる令嬢は多い。中にはマリアよりよほど麗しい令嬢もいる。
彼女らが選ばれていなかった理由を、マリアはあえて考えようともしてこなかった。最初から考えればわかることだった。自分など選外中の選外だということくらい。
すでに皇帝陛下の心は満たされていたのだろう。故にこそ、喪ってぽっかりと穴が空いてしまったのだろう。
お相手が誰なのかは知らない。愛する人の過去だとしても知りたくもない。想像するまでもなく素敵な方なのだろうけれど、知ってしまったら惨めになるだけだ。
ただ確かなのは、そこにマリアの入る余地はまるでないということである。
失恋……という言葉はおそらく正しくない。恋する資格すら、マリアは最初から得ていなかった。
両頬にあたたかなものが伝う。
涙を溢れさせるマリアを一瞥してから、皇帝陛下が鬱陶しげに呟いた。
「余の前で泣くのを禁ずる。泣くと荒れた肌が見えて不快だ。――貴女、毒を盛られているだろう」
「毒……?」
「知らないのなら教えてやる義理はない」
肌荒れには心当たりがあった。近頃は高熱を出す度に肌荒れがひどくなって厚ぼったい化粧で隠さなければいけないくらいだった。
てっきり病のせいだと思っていたけれど、違うのだろうか。
問い返そうにも「早々に退出しろ」と言われてしまっては、疑問を呑み込むしかなかった。
皇帝陛下の最愛になれなかった自分がここにいる意味はもう、ない。
「今まで文を受け取ってくださり、ありがとうございました」
感謝を告げたはずなのに、後半は嗚咽まじりになってしまう。
陛下に最期に見せるのが泣き顔であることがなんだか悔しかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
父は案の定、マリアを叱責した。
当然だ。マリアは与えられた役目を果たせなかった。果たせる器ではなかったのだから。
「お前には失望したぞ、マリア」
「申し訳ございません……」
「皇帝陛下の寵愛を賜われないお前に残る利用価値はない」
その問いにマリアは答えられなかった。
わからなかったわけでは、ないけれど。
このままでは他の男との縁談を用意され、嫁がされることになる。
貴族の結婚なんて所詮政略だ。愛はなくて当然のこと。それでも、嫌だった。
他の男のものになりたくなかった。皇帝陛下への気持ちを過去のものにしたくはないから。
どうしたら逃れられるかと考えた。
父に生き方を強いられ、愛する相手から不要とされたマリアができるささやかな復讐の方法――それがたった一つだけある。
「皇帝陛下は、何か想ってくださるかしら。それとも私ごときじゃ心を揺らせないのかしら」
マリアは文を綴る。恋文ではなく、辞世の文を。
これは誰に預けよう? 友人の子爵令嬢か、男爵令嬢か。あの二人なら信頼できると思い込んだままのマリアは、御者に手紙を持たせて走らせる。
これでいい。これでいいのだ。
縁談を探すのに必死な父は、こちらの行動なんてどうでもいいのだろう。マリアが手紙をしたためていることを気にも留めなかった。
だからふらりと屋敷を出て、裏にある池の前に立っても誰にも咎められはしない。
ドレスの裾をたくし上げ、ひたり、と白い足を水に漬ける。
寒い時期に差し掛かろうとしているからに違いない、氷のように冷たくて体の芯から震えたが、一歩また一歩と深いところを目指して歩みを進めていった。
優しくて空っぽな彼の胸に少しでも爪痕を残せればいい。
そのために、どうしようもなく愚かなマリアが選んだのが自死だった。
辛いのも苦しいのにも慣れている。知らず、口元に笑みすら浮かべていた。
熱に浮かされるのと比べたら水が冷たいくらいどうということはない。やがて足先の感覚がなくなって、自分がどこにいるのかわからなくなって――それで終わりだ。
一体、自分はなんのために生まれてきたのだろうかと思う。
全部全部間違っていた。生まれてきたことも、皇帝陛下に出会ったことも、叶わぬ恋をしてしまったことも。
『私は、あなたの最愛になりたかったのです』
辞世の文の末に記した言葉を思い返しつつ、伯爵令嬢マリア・フォークロスは静かに静かに息絶えた。
結果として、マリアの死は皇帝イーサン・ラドゥ・アーノルドの心にさざ波すら起こせなかった。
なぜなら彼女は病死と発表されたからだ。
マリアが信頼し、手紙を預けた男爵令嬢と子爵令嬢は手紙を焼いた。
子爵令嬢らは後日マリアを死に追いやった一因になれたことで、皇妃の座を狙う他の令嬢の親から報酬を与えられる。
けれどもその賄賂の存在が公になるが早いか、指示役の令嬢共々『国の秩序を乱した』として冷酷非道の皇帝の手で処された。
一方、マリアを池の中で発見した使用人はすぐさまフォークロス伯に報告。
フォークロス伯は遺体を秘密裏に処理し、替えを用意して盛大な葬式を開いた。当然、マリアの本当の死因を知る第一発見者の使用人の命はすでにない。
そうしてマリアは病死した。
その知らせを聞いても皇帝は「そうか」と呟いただけだ。そこには何の感慨もありはしない。
『父親と共に執拗いくらいに縁談を打診された』という風にしか彼の記憶には残らなかった。
『私は、あなたの最愛になりたかったのです』
マリア・フォークロスが叶えられなかった恋心は、なんとも皮肉なことに、一ヶ月と経たずして彼女の代替品になるべく連れて来られた孤児――新たにフォークロス家の令嬢となった少女が達成することになる。
しかし死したマリアには、知る由もない話であった。
お読みいただきありがとうございました。
少しでもお楽しみいただけましたら幸いです。
余談ですが、本作は完結済み連載のスピンオフ短編です。もしよろしければこちら↓もどうぞ!(本編はハッピーエンドとなっています)
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