1.豪雨
その日は猛烈な雨のせいで、少しばかり高揚していた。普段なら、窓の外には町があって、いつもいつも忙しそうにうごめく人々が在って、そのまるで人間が虫に見えるような不気味さと、変化のない町の表情が不快で、厚いカーテンを常に閉め切る始末だったが、その日の窓の先には、大粒の雨からなる霧のような淡い白が在って、それは私が日々感じる起伏のない日常の退屈を、今、この空間と切り離してくれる、そこはかとなく、幻想的なような、非日常の白であって、惹かれるものがあった。
そんな雨を、ただソファに座って、うっとりと眺めていたときのことだった。木製のなにかをノックするような音が雨音の中から微かに私の耳に届いた。小さく、雨にかき消されそうな音だったので、初め私は気のせいだと思ったし、またそう願ったが、続けてもう一度、コンコンコンと鳴ったので、誰かが家の戸扉を叩いていることを認めるしかなかった。私は、愉しみに割って入ってきたその誰かのせいで、この、ただ雨を眺めて恍惚とする空間から覚めてしまったことに若干の恨みを覚えつつ、玄関に向かった。
しかしよく考えてみれば、こんな豪雨の中訪ねてくるような用とはなんだろうか、と、疑問に思いつつゆっくりと扉を開けた。するとそこには、少女、いや少年かもしれない、フードのせいで顔が見えない。とにかく、背丈の低い、雨と泥でぐちゃぐちゃになった汚らしいローブを纏った者が、ぽつんと独り、立っていた。
人と関わるのが、というより、人とのコミュニケーションが能く楽しめない気質のせいか、この町において、私は、友人どころか、知人どころか、私の顔と名前を知っている人すら、いるのか怪しいほどだったが、そんな変物の家を悪天候の中訪ねてくるような子供。つまり、こいつは賊か何かで、今にも私にナイフを向けて脅しにかかるのではないだろうかと、身構えたところで、子供は口を開いた。
「あなたが、魔女様ですか。」
恐る恐る、怯えながらも、簡潔にはっきりと訪ねてきたその子供の予想外の言葉に、私は懐かしさと驚きの表情を見せた。
魔女というのは私の昔のあだ名だ。昔というのは私がこの町に越してくるよりも前の話で、おそらく今眼の前にいるこの知らない子供が産まれるより前の話だ。なぜ知っているのかわからないが、久々に故郷を思い出す言葉を聞いて、どうやら賊ではないらしいこの子供に、私は少しばかりの興味を持ち、質問を肯定した。すると、子供は弱々しくも、頭を深々と下げ、言った。
「どうしても、助けてほしいことがあります。私の妹が、襲われて、酷い怪我をしたのですが、それを治療していただきたいのです。」
年は10程度だろうかという、その声の幼さと似合わない、切迫した様子があったが、しかし私は医者ではないし、なによりこの町には病院というものがいくつか存在し、治療を頼むなら私なんかよりもそっちに行ったほうが、確実で安全なことは自明だ。なんの事情があるのかと、勘ぐったが、深く考え込むまでもなく、一つの、単純で、あまり面白くない答えにたどり着いた。
私は、その子供の、顔を覆い隠すために後から付け足したような、大きなフードを掴むと、めくり上げた。そこには、女の顔立ちと、肩まで伸ばした髪、やせ細ってはいるものの、その者が少年ではなく少女であることを説明する骨格があったが、しかし、性別よりも、注目すべきは、黒い肌と、真っ白な髪の色、そして特徴的な、赤色の瞳。思った通り、なんてわざわざ言うまでもないが、思った通りであった。
「魔族か。なるほどね。」
少女は、突然命の危機にさらされたかのような、酷く慌てふためいた表情をみせて、急いでフードを深く被り直した。
魔族というのは、人間と対立している種族で、人間と長らく戦争をしていて、簡単に言えば人間と魔族は犬猿の仲、ということになっている。私はプライベートな空間を他人に干渉されるのが気に入らないたちだったが、魔族の少女となると、豪雨とはいえ、町の中心部、もし人間に出くわしては眼の前でその死に目を見ることになるので、仕方なく家にあげた。
支度を済ませ、どうせ汚れるだろうと、これでは自分も少女のローブを馬鹿にできないというくらいの、使い古したコートを着て、家を出た頃には、雨はますます強くなっていて、雷までゴロゴロと鳴っていた。霧のような雨の白は視界を閉ざし、目隠しをされたような気分で、雨粒が地面を打つ音は、酷いノイズとなり、息苦しい風が頬を撫でる中、私と少女は、郊外にある彼女の家へと足早に向かった。