2-1.行き倒れ
第一話と同じ世界、ただし時系列は第一話より前です。
見回りから戻ったディーノスを出迎えたアイシャは、彼が若い娘を背負っているのに気づいてわずかに顔をしかめた。
とは言っても、だらりと垂れた四肢や閉じたまぶたなどからも彼女の意識がないのは明白であったし、事情は察している。人間の女性一人というのは珍しかったが。
だから不機嫌になったのは嫉妬心というより、ディーノスの背後でにやにやしながらこちらを見ているカイルのせいだった。人をからかうのを生きがいにしているような男なのだ。
その手に娘のものらしい荷物を持っているのを見て、アイシャはさらにまなじりを吊り上げた。
「あんたが背負えばよかったじゃないの」
「いやいや、少年の役得を奪ってはいけないと思ってね」
「ハ?」
「おっとアイシャ、それは乙女がしていい顔ではないな?」
アイシャはフンと鼻を鳴らし、剥き出しかけた牙をしまって彼らを客間に案内した。
客間と言えば聞こえはいいが、寝台を置いただけのきわめて簡素な部屋だ。目を覚ますなり取り乱して暴れる人もいるため、わざと狭い部屋に最低限のものしか置いていないというのもあるが。
同じ理由で窓も天井近くの壁を小さくくり抜いたものがあるきりだから昼間でも薄暗いが、きれい好きのアイシャが掃除を欠かさないため、埃は溜まっていない。
ディーノスは半ば投げ出すように寝台に娘を横たえ、フーッと大きく息を吐いてへたり込んだ。
生白い見た目に違わず、彼は体力に乏しい。カイルが背負えばいいと言ったのはそのせいもあった。
ずり落ちそうな女性の体を寝台の真ん中に収め、髪を整えてやっていたアイシャはふと声を上げた。
「どうしたの?」
「ううん、大したことじゃないんだけど……この人、結構いいところのお嬢様だったのかしら」
「ああ、眼鏡は高価だしね……えっ、女の人だったの?」
気づいていなかったのか、とアイシャは呆れた。
髪は短いし旅装も男物を身に着けているから一見して見間違えるのは仕方ないが、背負っても気づかないとは。
「ほら、短いけど切り口はきれいだし、髪も肌も水気があるわ」
「ふむ、たしかに」
覗き込んだカイルも賛同する。彼は女性だということ自体には気づいていたようだが、出自を察するまでには至っていなかったらしい。
「何かの事情で家を出て市井に身をやつしたご令嬢といったところかな。いや、髪を切っているところを見ると神に仕える巫女かもしれない。ううん、何ともそそる響きではないか」
「気を失っている女の人を前にいやらしいことを考えるんじゃないわよ。ほら、男は出ていきなさい!」
「わかったからお尻を叩くのはやめてよ! あ、ばあちゃんは?」
「さっき裏の畑に――ああ、戻ってきたわね」
裏口の戸は建付けが悪く、開け閉めのたびに獣人の赤ん坊がむずがる時のような音をたてるから、出入りがあればすぐにわかるのだ。
「大事な話? 他に誰か来るの?」
「いいや、それほどでもない。王都の方で少し気になる動きがあったから、一応耳に入れておこうかと思った程度さ」
「わかったわ。こっちは任せて」
「よろしくね」
言ってディーノスは戸口でいったん立ち止まり、さっと指を振った。
アイシャには目視もできないが、この部屋を使う時にいつも使う魔法で、部屋の中からの物音は外に聞こえるが、外からのものは聞こえなくなるというものらしい。
狭い家なので廊下もなく、すべての部屋が居間と隣り合っているため、こうしておかないと話し声が筒抜けになってしまうのだ。
「相変わらず見事なものだ」
アイシャは魔法使いと言えばディーノスと彼の祖母ジャンナしか知らないが、外の世界を知っているカイルの目から見てもディーノスの魔法は優れているらしい。
ディーノスが何ということもない気軽さで使う魔法であっても、こうして心底からのものとわかる感嘆を漏らしている。
二人が出ていくのを見届けると、アイシャはベッドに寝かせた女性に向き直った。
三年前、ディーノスが外敵――王国軍の侵攻を阻むために作った結界は、住人あるいは住人によって立ち入りを許可した者以外の侵入を阻むように条件づけられているが、その条件は外敵だけでなく、迫害から逃れてきた者までも拒絶してしまうという問題点があった。いくら防衛のためとはいえ、それらの人を拒絶するのは本意ではない。
そこで住人同士で登板を決めて結界の境目周辺を見回り、助けを望む人やここを目指していると思しき人がいればこうして連れてくるのだが、そうかと言ってまるっきり無防備に迎え入れるわけにはいかない。人間はもとより、たとえ亜人であっても脅されるか騙されるかして、間者に仕立て上げられていないとも限らないからだ。
だから新しく来た人はこうして一旦隔離し、一定期間は様子を見ることになっていた。今日は住人の見回りではなくディーノスが見つけたこともあってこの家に運び込んだが、本来ならそれ専用の小屋も用意されている。
そちらの方が設備は整っているし女衆が当番を決めて世話をすることになっているから不自由なく暮らせるだろうが、おそらくこの娘がそこに移ることはないだろう。
アイシャはまず、彼女の唯一の持ち物だという黒い革張りの鞄に手をかけた。
ガネウリを引き伸ばしたような奇妙な形の鞄は見た目だけでなく構造も難解で、留め金も見当たらずしばし格闘する羽目になった。癇癪を起しそうになったところで小さく揺れる金具に気づいて引っ張ってみると、ジジと小さな音を立てながら鞄のふちに沿って滑っていく。
おそるおそる中をのぞくと、弦の貼られた楽器らしき物が入っており、この奇妙な形の鞄はそれに合わせてあつらえられたものだと合点がいった。
本体は木を切り出して作られているようだがその曲線に歪みはなく、きわめて正確な左右対称の形をしている。高い技術が用いられていることは素人目にも明らかだった。
いいところのお嬢様、という見立てにますますの確信を得ながら取り出したものを木箱の上に並べていく。楽器の空洞の中まで調べた後、今度は彼女自身が身に着けている物を外しにかかった。
しゃらしゃらと揺れる銀の耳飾り、小さな青い宝石がはめこまれた指輪、首にかけた金鎖を引っ張りだしてみると、これにも指輪が通してある。後者は裏側に文字のようなものが刻んであり(アイシャには読めなかった)、それ以外は目立った細工の無い地味な意匠だ。だが歪みもなく地金にいささかのくすみもないことから、やはりこれも高価な品と知れた。
「─―えっ……?」
最後にディーノスも興味を示していた眼鏡を外したアイシャは息を呑んだ。
こんなに美しい人間――生き物は見たことがない。
亜人の中にはそれを理由に狙われることもあるほど美しい容姿を持つ種族もいるため、こんな辺境ではあってもアイシャは美人を見慣れている。
だが、いま目の前にいるこれは、それらすべてをはるかに凌駕していると言っていい美貌だった。
薄暗いはずの部屋に、にわかに光が満ちたようにさえ感じた。そのきらきらしい光は眠る娘から放たれ、同時に彼女に収束している。アイシャはそのとき、本気でそう感じていた。
なぜ今まで気づかなかったのか。こんな薄い硝子一枚でごまかせるほど生半可な美貌ではないのに。
これはきっと魔法の品に違いない。
手に持った眼鏡をこわごわ眺め、なるべく自分から離れた場所に置いた。
早鐘のように鳴る心臓を押さえ、顔に布をかけて隠すことでようやく息を吐き出し作業を再開した。
衣服についてはべつだん珍しいものではなかった。男物のようだが、当たり前の用心と言えよう。
服の上から探ったかぎり、武器やまじない、文書のたぐいは見つからなかった。
ここまでで怪しいところがあれば服を脱がせて調べるのだが、ひとまずその必要はなさそうだ。
固い上着だけは脱がせてやろうかとアイシャが迷っていると、それまで静かに眠っていた娘が身じろぎした。
むずがるように眉間に皺を寄せ、それからゆっくりと目を開いていく。
ストーの大地のような赤茶色の右眼と、ミツエデクの樹液を煮詰めた飴のような左眼ははじめのうちぼんやりしていたが、三度目のまばたきでアイシャの方を見た。
たったそれだけの動作がえもいわれぬ神秘的な光景のように思え、アイシャは再び息を呑んだ。
「――――」
何か言おうとして咳き込んだので水を渡してやると、ためらうふうでもなく一息に飲み干す。
「……ありがとうございます。ここは?」
「ここはストー。亜人領よ」
「ストー?」
亜人領と聞いても表情に嫌悪感は見られない。単純に初めて聞いたような反応だ。
獣人であるアイシャに向けられる目も同様で、多少珍しそうではあるがそれだけだった。
「そう。近くで倒れているのをディ……仲間が見つけて連れてきたんですって。何だって街道から外れてあんなところにいたの?」
「ああ……。アリートスから国境を越えて最初に見つけた村に泊まったんですが、どういうわけか軍隊らしい一団が逗留していて……それで、村の人たちから彼らの接待をしてくれないかと頼まれたんです」
「ああ、やっぱり旅芸人なの」
「そんなようなものです。でも行ってみたら話が違ったというか……その、求められていたのは芸じゃなかったというか」
「……ああ、はいはい」
アイシャは皆まで言うなと頷いた。
おおかた夜伽でも命じられたのだろう。軍隊がいた理由にも心当たりがある。
「それで逃げてきたってわけね」
「はい。でもとっさだったので楽器以外は持ち出せなくて。街道を外れたのは追手を撒くためだったんですが、夜中だったのもあって本当に迷ってしまったんです」
「なるほどね、事情はわかったわ。仲間とも相談するけど、しばらくはここにいなさいな。ただし、ちゃんと言うことを聞くのよ。でなきゃすぐに出て行ってもらうことになるからね」
「ええ。ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」
「けっこう。あたしはアイシャよ。あんたは?」
「レン」
「レンね。じゃあ食事を持ってきてあげるから、おとなしく待ってなさい」