1-1.遭遇
新田陽介が“それ”に出会ったのは、友人の水凪桔平と連れ立って街をぶらついていた休日のことだった。
あいにくと目当ての店は改装中で、他に目を引くものもなく、そろそろ解散しようかという空気になって来た時、桔平がふと声を上げた。
「ん」
「どした?」
「いや、今なんか……あ、あれか」
と、指差した先を見ると、待ち合わせスポットになっている大型のオブジェと、その縁石に腰掛けるストリートミュージシャンらしい姿があった。
今は演奏の手を止めて数人の女性客と話し込んでいるようだが、何かのはずみで弦に触れたのか、その音を桔平が拾ったらしい。
スピーカーを通さない生の音色で、しかもメロディもなかったせいか、かえって耳についたのだとか。
「へー。俺、ストリートミュージシャンって初めて見た」
「俺も」
面白そうだ。行ってみようと一声かけるや、陽介は返事も待たず駆け出していた。
そのストリートミュージシャンは女だった。
目深にかぶった帽子とそれによって押し下げられた前髪、それに眼鏡のせいで顔はよくわからないし、体のラインも出さない服装は何とも素っ気ない。
耳元でしゃらんと揺れる銀のピアスだけが唯一の装飾品という地味ないでたちで、化粧もしていない。こうして目の前に来るまでは、女性だと確信が持てなかったくらいだ。
対照的に彼女のそばにいる二人連れの女性は華やかな美人で、これから遊びに出るのかメイクも鮮やかで髪も綺麗に巻いている。
「あの、歌わないんですか?」
陽介は早くも目的を忘れて女性客らの方に気を惹かれていたが、桔平はそれなりに関心を持っていたようで、会話が途切れたところをみはからってミュージシャン――レンと呼ばれていた――に声をかけた。
「んー、うん。じゃあ再開しようかな」
それを受けたレンは何故か駅の方へ目を向け、頷いた。何だろうと思っているのに気付いたのか、説明してくれる。
「さっきまでここで聞いてくれていた人がいたんだけど、帰れなくなるから自分が十分離れるまで歌うなって言うもんで、お喋りしてたのよ」
「へえ……?」
不思議な言い分に首を傾げたが、たしかに歌っている途中でその場を離れるのは気まずいものかもしれない。まして、すし詰めのライブハウスなどではなく、少人数でがっちり顔を合わせているとなれば。
「まあ、普通に話に夢中になっちゃってたのもあるけどね。じゃあ、何かリクエストある?」
「えーっと……それって、何でもいいんすか?」
「うん。……あ、でも全部オリジナルになるけど」
市販曲のカバーではなく、テーマやイメージを聞いて、それに合ったものを自作曲の中から選定する……というのが彼女のやり方らしい。
「なるほど」
「それなら、おねーさんたちがしたらいいっすよ。俺ら後から来たんだし」
「あらっ、ありがと」
特に思い浮かばなかったので、さも寛容であるように譲ってみせると女性らはにっこりと笑顔を向けた。
陽介はデレデレと鼻の下を伸ばしたが、彼女らはさっきまでのようにからかったりせず、「何にしようか」と妙に真剣な顔で相談を始めた。
少なくとも二人――それも、およそ共通点のなさそうな同性の客(しかも常連のようだ)がついているところからすると、実力はたしかなのかもしれない。薄れかけていた関心を取り戻し、陽介もレンに向き直った。
結論が出たのか、打って変わって同級生の女子みたいにはしゃぎながら女性客らはリクエスト内容を口にした。
レンはひとつ頷くと座っていた縁石から腰を上げて姿勢を整え、ギターを抱えなおして弦に指を滑らせる。
その一連の動作は手馴れたものだったが、演奏自体は特別上手いというわけでもなさそうだ。
陽介に楽器の心得はないから、大きなミスもなく弾きこなすことができる、というだけで感心してしまうのだが、逆に言えばそれだけだった。
現に、道行く人々ももちらっと目を向けるならまだいい方で、ほとんどは一瞥もせずにそのまま素通りしていくだけだし、陽介自身「初めて遭遇したストリートミュージシャン」という状況にはしゃいだだけで、そうでなければ、あるいは他に用事があったら足を向けたかどうか。
だが、それも彼女が歌いだすまでのことだった。
彼女にとって楽器はあくまでもただの補助にすぎず、その真価は彼女自身の声にこそあったのだ。
前奏が終わり、薄く笑んでいた唇が開かれる。それが妙にゆっくりとした動作に見えたのは、この後の衝撃を無意識のうちに予感していたのかもしれない。
「――――!」
唇から零れ落ちたのは激しいところのない穏やかな旋律。けれど、たったのワンフレーズで脳髄まで痺れた。
けして少なくない人々の歩みがその瞬間完全に止まり、すべての意識が迷うことなく一点に集中した。
それはいっそ、暴力的なまでの引力だった。頭のてっぺんから足のつま先まで電気に撃たれたようだった。
せかせかと忙しそうだったサラリーマンは足を止め、急ぐ理由さえも忘れていた。
無気力そうに歩いていた学生はその手から携帯端末を取り落し、拾おうともしない。
さかんに客を呼び込んでいた居酒屋の店員はぴたりと口をつぐみ、異変に気付いて顔を出した別の店員もすぐに黙った。
かしましく騒ぎながら夜遊びの算段を立てていた女性グループは揃って真顔になり、彼女らに声をかけようとしていた男性たちもぽかんと口を開けて固まった。
仲睦まじい様子のカップルはさらにきつく身を寄せ合い、それでいながら意識の焦点はすでに互いになかった。
いつの間にか周囲は黒山の人だかりができていたが、それに気づいたのはずいぶん後になってからだった。
人が集まっているのに気づいて何事かと意識を向けた者、ふとした瞬間にその声が届いた者――いずれにせよ、ほんのかけらでもその声に気づいてしまえばもうだめだった。一様に忘我の有様でありながら、足は勝手に音源――彼女に向かって引き寄せられていく。
通りには未だに様々な音が溢れているが、同時に呼吸音さえ聞き取れそうな静寂とも言えた。これだけの人が集まっているというのに誰一人として口を開かず、不用意な物音ひとつ立てることもなかったせいだ。
もちろん、内心ではよほど叫びだしたいくらいだったが、それでこの歌を遮るようなことがあってはたまらないと誰もが無意識下で判断していたのである。
外に出すことも出来ない炎のごとき熱に身の内を焼かれながら、ひたすらにその声を求めて全員が全神経を集中させていた。
最後の一音が夜気に溶けて消えた後も、誰一人その場を動こうとしない。去り難く思っている――というより、完全に我を忘れているのだ。
結局、レン自身がその余韻をぶち壊すような乱暴さでギターを掻き鳴らすまでそれは続いた。
唐突にまどろみから叩き起こされたに等しい感覚に思わず眉をひそめ、ハッとして目を凝らせば切ない恋情に身を焦がす男女も、泣きたくなるほど美しい景色もそこにはなく、突然景色が変わったとしか思えなかった。
陽介はわけもなくきょろきょろと周囲を見回し、集まった人たちも同様に戸惑った様子でざわめいていたが、もう一度レンがギターを鳴らして視線を集めた。
「ご清聴ありがとうございました」
そして、妙にかしこまった挨拶とともに一礼してみせたことで、ようやく頭が現実に追いついた。
途端、大騒ぎになった。
ようやく自分たちが今、途方もない体験をしたのだという実感と感動が湧きあがり、人々はまさしく狂ったように手を叩きながら歓声を上げた。ビルの窓から身を乗り出している人までいる。
陽介ももちろん例に漏れず興奮しきって喚きながらわけもなく桔平の肩を叩き、同じだけ叩かれた。
興奮した勢いのまま彼女に詰め寄ろうと動き出す者もあったが、レンは「シー」と人差し指を唇に当てて見せる。
「ごめんなさい皆さん、あんまりはしゃぐと警察来ちゃうから」
冗談めかした言葉に笑いが漏れるが、結構な騒ぎになっていたことはたしかだったので、集まった人々は素直に納得して従った。
いくらか控えめになったとはいえ、それでもあちこちから称賛と質問の声が雨のように降り注ぐ。だが、レンはそれらを曖昧にかわして初めからいた女性客二人とのんびり会話を始めた。
はじめは常連びいきかとムッとしたが、後になってどうもそうではないらしいと気づいた。
女性らはややわざとらしく声を張り、さりげない会話に見せながら皆が聞きたがっているだろうことを代わりに聞き出し、興奮して迫ろうとする人を上手にいなしている。インタビュアー、というよりは司会役に近い。
SNSのアカウントだとか、
時々こうして路上で活動するだけで、バンドグループなどには所属していないとか、
いつもここにいるわけではなく、場所も時間もその日の気まぐれで決めるとか、
練習も兼ねているので金銭のたぐいは受け取らないとか、
芸能人ではないし今後そうなる予定もないとか……
考えてみれば納得だ。これだけの人が一気に質問や称賛を浴びせかけては、答えるどころか聞き取るだけで一苦労だろう。
それに、誰かと対面で会話をしているという状況を作っていれば、まともな神経なら待とうと考えるし、その間にいくらか冷静にもなる。強引に割って入ろうとするような不作法者は、無視したって良心は痛まない。
いかにも慣れた様子からすると、常の事なのだろう。もしかすると何かの企画ではないかとも思ったが、これだけのものを見せられ――いや、聞くことができたのだ。たとえやらせであってもかまわなかった。
時々たくみに混ぜられる、時間や用事を思い出させるワード、また会話のトーン自体は淡々としていたこともあっていくらか頭が冷えたか、一人また一人と集まった人たちが離れていく。どの顔も名残惜しそうにしていたが、興奮と感動で上気してもいた。
そして女性二人と陽介達――つまり最初の面子だけが残ると、レンは女性たちに向き直って礼を言う。そこで初めて、あの司会ぶりが意図的なものだったのだと気付いた。
「いいのよ。じゃあ、あたしたちも……ほら、あんたたちも行くわよ」
腕を掴まれ、強制的に駅の方へ歩かされる。見れば桔平も同様の目に遭っている。
ようやく手が離れて振り返った時には、もうレンの姿はなかった。
ちょっと冷たいのではないかと思ったが、あまり長くとどまっているとせっかく解散させた人たちが「じゃあ私も」と戻ってきてしまうから、とすかさず女性らがフォローを入れる。
まあ、たしかに。去っていく人たちの顔を思い出して陽介は納得した。
どの顔も未練たっぷりで、あとちょっと背中を押す何かがあれば、ちょっとぐらいの用事なら放り出しても不思議ではなかった。
「そっかー……ていうかさ、おねーさんたちは何なの? マネージャーの人?」
「親衛隊よ」
「親衛隊!?」
およそ日常では聞かない単語に、陽介と桔平はそろって目を白黒させた。が、よく考えたらつい今しがた非日常的な体験をしてきたことに気づいて、「そりゃいるよな」と謎の納得をした。
活動場所も時間も気まぐれで決めるというのは本当で、しかしそれでは我慢ならなくなったファンが情報共有のために連絡先を交換し合ったのが始まりらしい。
それがいつしかファンクラブと言えるだけの規模になり、ウェブサイトも立ち上げられたが、何しろ始まりが「目撃情報の共有」である。一歩間違えれば集団でのストーカー行為になりかねないため、レン本人には存在自体を秘密にしているらしい。
レンのプライバシーを守るためにいくつかのルールが制定され、またそれを徹底させるべく結成された自治部隊が親衛隊なのだそうだ。
「ルールって、例えばどんなものがあるんですか?」
「目撃情報を上げる時は、確実に歌うとわかってから、とか」
「単に買い物とか食事とかしてる時も当然あるんだし、そういうのはそっとしておきましょうってこと」
「えー……それはわかるけど、そんなんじゃ遅くねえっすか?」
「そのくらいでいいのよ」
何しろまったくの初見相手でさえあの吸引力だ。そこに元からのファンまで駆け付けたら、いよいよ収集がつかなくなる。
「あー、たしかになあ」
「……あ、もしかしてさっき交通整理とかしてたのもそうですか?」
「えっ、そんなのいたか?」
「うん。何か、手馴れてるなとは思ってたんだよ」
「そうよ。前に車道にはみだした人が事故にあいかける、なんてこともあってね……あの時は、半年活動停止になったわ」
「えっ、警察沙汰になったとか?」
「いや、自主的に」
気まぐれすぎる活動スタイルからもあきらかだが、レンはその実力に反して音楽活動にそれほど熱心ではないらしい。だからトラブルがあればスッと身を引いてしまうため、ファンは尚のこと治安維持に努めるようになったのだとか。
「いやもうホント……やめられたら困るのよ」
「死活問題よ」
「やべえヤクみたいっすね」
「似たようなもんよ」
「あんたたちもそうなるのよ」
魔女のような笑みで予言が下されるのとほとんど同時に駅に着いたため、彼女たちとはそこで別れた。
改札を抜けてすぐ、SNSを起ち上げて教わったアカウントをフォローした。これが本人が発信する唯一の情報源ということだが、電車を待つ間にざっと目を通した限り、簡単な日記代わりに使っているだけのようだ。かろうじてプロフィールに「ストリートミュージシャン」とあるだけで、それがなければ完全にただのフリーター日記である。
「……なんつーか、マジでやる気ねえんだな……もったいねえ」
「な」
横から覗いていた桔平も頷いて同意を示す。
ファンクラブのアドレスも(絶対に本人に漏らすなという念押し付きで)教えてもらったが、こちらは帰宅してからゆっくり見よう。
「……何かすげー濃かったな」
「うん」
見慣れた町の只中にありながら、一瞬で異世界に引き込まれたような強烈な体験だった。
――そんな歌を聞いたから、というわけではさすがにないだろうが、
「――成功だ!」
「勇者が降臨なされたぞ!!」
気が付いたら異世界(ガチ)だった。