猫は液体だとだれかが言った。
「宇宙は黒猫だったんだ!」
彼の声は、美術館の壁に吸い込まれる。
それを咎める声はない。観覧客は彼ひとりしかいない。そもそも声が音としてどこまで伝わったのかも怪しい。
そこはプールのような、水槽のような、海のような場所であった。
水を青く染める光に照らされる中、彼が目にしている額縁は水に沈んでいるとも、水中で嵌め込まれたともいえる。
それを見ている彼もまた、水中にいた。
展覧されているのは、たった一枚の絵だ。
その絵は時折、様相を変える。だれかが嵌めかえるのでも、錯覚が生まれるのでもなく、入れ替わるように変容する。
今も、彼の言葉に呼応するように絵はその色相を変化させていた。
黒だ。
四角い枠を埋めるように――枠に閉じ込められたような一面の黒。それが彼の目の前に生まれていた。
視界の端に揺らぎを認める。
水中が波打っていた。
波長だ。波のひとつひとつが声だった。
「そうだ!」と同意する声。「何を言ってるんだ?」と否定する声。
表題や作者名の刻まれていない絵画をねめつけるような意思が湧き立つ。
声が増殖する。思考が反響する。
彼の声もそのようにしてだれかに届いていたはずだ。
「宇宙は暗いのに、どうして黒猫だってわかったんだ!?」
「瞳の色はどうなる?」
「ごもっともさ!」
彼は確信する。
たったひとつの細胞が核分裂のように反応の連鎖を起こし、爆発的な増殖を見せて宇宙は誕生した。
黒猫の額から始まった銀河の広がりは一定ではなく、揺らぐ尻尾に無数の可能性を内包している。
「黒猫だから宇宙は暗いだって? 逆さ。宇宙が暗いから、ぼくたちは黒猫の姿を捉えることができないんだ。そして黒猫は、眠っているのさ」
やれやれと、肩をすくめる気配を感じる。
荒唐無稽だと笑ったのはだれか。
興味深いと頷いたのはだれだったか。
「では、なぜ猫は水を怖がるの?」
はたして。彼はそれを彼女と呼称する。
呼称することにどれほどの意味があるのかはともかく――イメェジが閃光となってシナプスを貫いたのを、彼女の問いかけによって感じた。
「自らの内側に存在するものを、なぜ怖がるの?」
「知らないからさ。何が自らの内側にあって、何が外側にあるのかを」
「それは知識? 認識?」
「認識さ。知識は恐怖を深めるだけだよ」
「ならば水の中も、深海も黒猫なの?」
「すべてが黒猫さ」
「どうすれば、黒猫を撫でることができるの?」
彼女の問いに、揚々と答えていた彼らの声が静まる。
照明が落ちるように声がぽつぽつと消えていく。
水中が凪いでいく。
無数の彼の声が、消える。
無数の彼女の問いだけが、残る。
「不可能でしょ」
そう口にしたのはだれだろう。彼女が続けたのかもしれない。彼の思案がまとまったのかもしれない。
だれかがそう答える。
「自らを囲う枠の外側にふれることはできない。私たちがこの世界の外側に接触することが叶わないように」
「そもそも外側はどこにあるの?」
「それは測り知れるもの?」
「距離じゃない」
「認識だよ」
「ここはどこ? 黒猫の尻尾? それとも額? あるいは耳の頂点?」
「もう黒猫の外側かもしれない。宇宙の外、海の底のさらに裏側」
少なくなっただけ一層強い波のぶつかり合いが生じる。その競り合いの痕跡として吐き出された水泡は上昇していく。それらは皓々とした海面にふれる前に消えた。
その消失面が境界なのだろうか。水中で彼は思う。
それともやはり、見えなくなるだけでその先にも水泡は進んでいるのだろうか。
「泳いでみるよ」
彼はそう言った。
宇宙に黒猫の姿を見た彼は、地面を蹴り上げて手足を揺らす。
水を掴むようにして推進力を得て、上を目指す。
水中を席巻する荒波やさざ波に身をもまれながら、泳ぎ続ける。
「届かないよ」
どこかの波が彼の耳をかすめる。
それは彼女の声か。だれのものかもわからない言葉に、彼は手足を止めてしまう。
そうして体はまた沈んで――いくことはない。
彼の体はその一点に留まった。
真正面、視線の先には変わらぬ様相の絵画が。
見上げても、海面との距離は変わらないように思えた。
「……ぼくたちはこれ以上進めないのかな」
「水は透明なのに色づいて見える。見えているだけ。そこにあっても、色別できなければ見ることはできない。輪郭なんてそれだけ曖昧なのよ」
「辿り着いた先が限界ならば、わたしたちは無限であるともいえるさ」
「なにせ自分たちの終わりを、物質的に認識することはできないからね!」
急激に変動する地球環境に進化が追いつかず、人類は肉体を維持できなくなった。
技術の進歩は目覚ましくとも、延命を施せる数には限りがあった。人類すべてを次世代へ繋ぐ箱舟を建築するには時間が足りなかった。
延命を施したとしても、生殖機能は間違いなく失われるとの概算も出た。不合理な進化の代償だ。
行きどまり。そこが人類の限界点であった。
ゆえに解はシンプルだ。
箱舟はひとり搭乗できればいい。全人類がひとりになればいい。
全人類の思考パターンを入力された|集合思考が、霊長類を自称した人間の次代の姿であった。
貝殻のように閉じた箱舟の世界は、水槽のようでも、プールのようでも、海のようでもあった。
他者の思考は水として満ち、自認はその中を泳ぐ生物だ。
自意識とは異なる。思考は時に溶け合って、時に分裂する。
強い思考の核が、意識のようにふるまっている。それを認める自分の存在を個体と称しているに過ぎない。
「猫は液体であるとだれかが言ったそうだ」
水中で泳ぐ生き物たちは、枠を初めから認識していたのだろうか。
「プールの中と外、水槽の中と外、海の中と外、その境界はなんだ?」
「宇宙の中と外、その境界はなんだろう?」
「私と私たちの境界って何?」
「わかりやすく扉がついているわけでもないさ。扉をつけることはできてもね。そうたとえば、私たちはすでに滅びていて、永い夢を見ているだけかもしれない。ここが現実の続きだと証明することはできない」
「……それでも、さ」
彼は絵画から目を離していた。活発に行き交う言葉とは裏腹にゆったりとした波の間から、水面を見上げていた。
「空は光り輝いているよ」
「血の赤さはとうに失ってしまったから、私たちは境界を知ることはできない。それでも水は青い。世界の色を認識することはできる」
それは彼女の声に聞こえた。そう思い込んでいるだけかもしれない。それでよかった。
彼も、彼女もやがては溶けて、ほかの個体になる。
反駁される思考パターンがいくつかの銅線のように絡まり合い、シナプスの反応を吐き出すだけのコードが個体だ。通す電流は異なるから、今声を交わしている個体の経験は知識として蓄積されても、記憶としては連続しない。
ゆえに発言者がだれであるかは瑣末な話だ。ただ彼にとって鮮明な言葉をもたらす存在が、彼女だけであると信じる。
根本をたどればただひとつの脳だとしても、言葉を交わすのであれば他人の存在を容認しえる。
「だから」
その言葉は、どちらが発したものだったか。
「そう見えているだけ。その世界が水のようであることも、猫が液体であることも、そう見えたからそう認識している。だからそのふたつがイコールで結ばれることも、認識によって成り立つ」
絵画はアイデアを表す。思考未満の脳波の揺らぎが発した鮮烈なアイデアが、世界の色とは異なる色彩を映し出す。それに問いかける思考が様々な個体としてかたち作られる。
枠の中から黒の色が消えていく。
それはアイデアへの問いに答えが示されたからだ。
「宇宙は黒猫だったんだ!」
そして世界から声は消える。彼もまた、アイデアの実現とともに消え去った。
だから証明する方法はない。
カンバスは無色であった。それは束の間だ。思索は果てしなく続いている。それだけが残された機能であり、獲得した本能あった。
そこへアイデアが描かれたとき、個体は発生する。
次の彼や彼女が認識する世界は、何色であろうか。
瞳はまだ、開かない。