2人目のともだち
誰もわたしを認識できない。
拭いきれない孤立感を、ヒカリはそう表現する。
彼女は母と二人で暮らしている。
父は、ヒカリがまだ胎内の暗闇にいた頃に別れたらしい。
母が主張するには「とても恐ろしい」と、夫婦であった過去を捨てて忌み嫌っていた。
「とても恐ろしい」父に居場所を知られないように。
母はカルテに記録の残る病院ではなく、公園のトイレで彼女を産んだ。
出生届はない。
だから、保育園も幼稚園も学校も知らない。
「普通」であれば、彼女は女子中学生であったはずだった。
そんな彼女を育てたのは、ろくに顔も合わせないのに自分を溺れ愛する母と、冷凍食品とスーパーの弁当と、幸せな家族を映しては惨めさを思い知らせるテレビ。
人目のある道に出ても、彼女に声をかける人間はいない。
彼女の実情を知らない人間は無関心に通りすぎる。
彼女の事情をよく知る人間は気まずく通りすぎる。
彼女は存在しない人間だった。
「オオカミ少年はご存知でしょうか?」
液晶の中で、黒いヴェールを纏った女性が囁いた。
「彼はオオカミが来ると何度も嘘をついた。村人は慣れて彼の嘘を信じず、ついに本物のオオカミが来た時に、羊は全て食べられてしまった。
皆さんはこれを、『嘘をついてはいけない』という寓話とお思いですね。しかし私は違います」
「霊能者」「超能力者」「UFO研究家」。出演者のテーブルの上には肩書と名前が書かれた席札が置かれており、その女性は「魔女」という肩書だった。
テーブルには席札の他にロウソクが載せられていて、既に話し終わった他の三人のロウソクからは、ぶすぶすと煙が立っているのみ。
火が灯っているのは、今話している「魔女」だけだった。
「古来より、言葉には力が宿るとされています。悪魔が連れていかないように、子供の名前を汚い言葉にしたり、縁起の悪い言葉は、別の言葉に言い換えたり……。
もし、実際にはない事を、何度も言葉にしてみてはどうでしょうか。
オオカミ少年は、『オオカミが来る』と何度も嘘をつきました。
何度も、何度も、『オオカミが来る』という嘘を塗り重ね……それは現へと変わる呪文になりました。
オオカミは、偶然羊を襲ったのではありません。
『オオカミが来る』と嘘をつき続けた少年の魔法が、オオカミを呼び出してしまったのです」
「魔女」はロウソクの火を吹き消した。話が終わった合図である。
録音された拍手。下を流れるスタッフロール。今日の話をまとめる司会者。
最後に、「ホントかウソか」という番組名とロゴが浮き出て、そして直後にコマーシャルの明るい映像に切り替わった。
「……40点……暗い……説得力……時針カナ……」
ぶつぶつとつぶやきながら、母はチラシを束ねたメモに単語を書き連ねた。
最近の母の習性だった。
夜の外出前に番組を見ては、勝手に評価を下し、ほくそ笑む。
きっと母なりの、自尊心を保つ手段なのだろう。
ヒカリは口出しせず、ただ無言で母を観察していた。
よれよれのカバンに、先程のメモを詰めこんで、母は立ち上がって玄関へと向かう。
いつも母は無言でアパートを出ている。
応えるヒカリも無言である。
「いってきます」と「いてらっしゃい」の概念は知っているが、それを実演できる幸福は持ち合わせていない。
母の行く場所は、告げられずとも知っている。
夜に開催される、「互助会」のイベントだ。
どれほど前だったか。
何らかの理由で酷く不安定になっていた母に、安定を贈った存在。
それは唯一無二の娘ではなく、羊の身なりをしたオオカミだった。
オオカミによって贈られた安定は、偽造の安定だった。
母が心身を削って出したお金は、「互助会」が提供する儀式的な道具に化けていった。
最初こそ、ヒカリは「互助会」に騙されていると、優しい言葉を盾にしてただ搾取しているだけだと、母に何度も訴えた事がある。
母には、何も聞こえなかった。
ヒカリは、諦める事が得意だった。
名前が縫われた黄色い帽子をかぶる事も諦めたし、教科書を詰めこんだランドセルを背負う事も諦めたし、糊のぱりっとした学生服に袖を通す事も諦めた。
それらと同様に、母という存在も諦めた。
しかし、唯一諦めていない事と言ったら。
時計の針が十二時を回る少し前に、彼女はシンデレラになってアパートから飛び出した。
夜はヒカリの時間だった。
朝や昼や夕では、彼女を見ては頑なに無視する人間の存在が疎ましい。
しかし夜は違う。
世間の人間は家の中に引き払い、睡眠にかまけている頃合いだ。
電灯をスポットライトにしながら、ヒカリは道路の真ん中を歩いていく。
ここは住宅街。多くの家の窓はカーテンで閉じられており、誰もヒカリを見る者はいない。
他の誰もいない世界の中、たった一人の人間のように感じて心地よかった。
今、誰にも縛られない夜の支配者である。
凱旋する彼女の足が、道路のカーブの入り口に差しかかった時、ふと止まる。
「交通事故多発」と書かれた看板の傍。
カーブの膨らみの頂点に、白い菊の花束と菓子袋が添えられていた。
ここのところ、毎夜のことだった。
きっと昼に置かれたのだろう。白い花びらには小さな皺ができていて、菓子袋は猫の引っ掻き傷がつけられている。
それを見て、毎夜のことをヒカリがつぶやく。
「あなたになりたいなぁ」
彼女は、いなくなる事をずっと前から望んでいた。
諦めきれない、唯一の事だった。
本当ならば、産まれた事すらなかった事になりたかった。
最初から存在しない存在になりたい。でもこうして生きているならば、せめてさらっといなくなりたい。
「死にたい」と類語の関係であったが、彼女の願いは同時に「痛くなりたくない」という欲張りであった。
いなくなる時は、苦しまずにいなくなりたい。
例えば、あそこのカーブから急に車がやってきて、苦しむ間もなく頭を潰す。
あるいは、曲がり角に殺人鬼と出会って、包丁が頭を貫通する。
ぞっとする想像ではあったが、爽快でもあった。
考える脳が真っ先になくなれば、きっと痛くないはずだ。
目を輝かせながらカーブを過ぎ、幾つもの曲がり角を超える。
それでもやはり、今夜も彼女はなくならない。
明日があると嘯きながら、ヒカリは目的地に到着した。
ヒカリが存在する始まりである、公園だった。
自分が産み落とされたトイレは既に潰されていたが、幼い頃から馴染んだ遊具は変わらない。
砂場にシーソー。ブランコに滑り台。
大きくなった自分には不釣り合いに小さいが、彼女の遊び場はいつもここだった。
家にはテレビしかないし、ゲームセンターは閉まっているし、コンビニに行ってもお金はない。
この公園の中で一番高度のある、ヒカリの背ほどの高さのジャングルジムをよじ登り、そのてっぺんで横になる。
背中を支えるのは三本の鉄の棒だけだが、どうすれば落ちないかはこの十年で知っている。
水平になった目が夜空を捉え、流れる雲と、合間に見える星の点滅に心地好くなりながら、願望を口にする。
「いなくなった……」
自分が、いなくなったら。
「いなくなった、いなくなった」
あのテレビの「魔女」を信じる訳ではないが、魔法を信じてみたい気持ちもある。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった……」
嘘の言葉を何度も重ね、力を重ねていく。
言葉のように消えていく息。鎮まっていく感情。
それに快い感覚を覚え、何度も何度も嘘を言っていく。
「――ねえ、私の嘘を奪うつもり?」
くすくす。
そんな笑い声と共に、急造した気配が足下で語りかけた。
「誰!?」
ヒカリは驚き、ジャングルジムの下を覗う。
「アイ。私の名前は、アイ」
「……どうして、こんな時間に、こんなところにいるの?」
「それは、貴女も同じ穴の貉だと思うけど」
真夜中。少女が自分に話しかけてくる。
初めてのような感覚だった。
しかし、実の所は初めてでもない。
単に久々であり、稀なだけだ。
ヒカリは目を丸くして、アイという名前の少女に、別の残影を重ねた。
「驚いた、あのころみたいに、女の子と会うなんて」
「あの頃?」
「小さいころ、こんな夜に、わたしに話しかけてくる女の子がいたんだ。
たぶん、不良少女ってやつ」
「それだと、私も不良少女って事にされるけど」
「ちがう? こんな夜中に出歩くなんて、きっとロクな女の子じゃぁないよ」
ヒカリは、自分を指さし自嘲する。
互いに嗤い合ってから、アイが小指を差し伸べた。
「じゃあ、友達になる?」
「どうして?」
「ロクでもない女の子同士、よろしくしようか」
促すように首を曲げるアイを見て、意地悪そうにヒカリがそっぽを向いた。
「よろしくしない。友達は一人だけって決めたから」
「昔が忘れられないから?」
「それだと、なんか元カレみたいな、ヤな響きしない?」
「わざとそうした」
意地悪に意地悪で返すアイに、ヒカリは同じ臭いを嗅ぎ取った。
歪な存在の共鳴を心地好く感じ、アイの小指の先に、ヒカリは薬指を触れさせる。
「じゃ、友達じゃぁなくって、召使いってコトで」
「どっちが?」
「アイが」
ジャングルジムの下にいるアイが、上にいるヒカリに対して苦笑する。
「上下関係って訳なんだ」
「申し出たのは、そっちのほうだから。そっちが下になるんじゃぁない?」
「妲己みたいな姫様ねぇ」
「あ、それ知らないけど悪口でしょ? やめちゃうよ?」
薬指を引っこめるヒカリだったが、アイは手を伸ばして彼女の薬指と自分の小指を絡めさせた。
幼稚な契約を交わして、アイが芝居がかった口調で申し上げる。
「我が儘なシンデレラ。召使いめが仕えましょう」
「うん、じゃ、よろしく」
気楽に返すヒカリに、恭しくアイが腕を広げた。
「じゃあ、そんな姫様に見せたいものがあります」
「どんなの?」
「見てのお楽しみ」
そう返され、ヒカリは見ずにいられない。
ジャングルジムの謁見の間で、アイは広げた腕を閉じて、手のひらで杯をつくった。
夜空に向かって捧げるように手の杯を掲げると、アイの呪文を口にする。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
詠う彼女の様子をじっと見つめる。
神妙に唱えるアイは、巫女の印象を受けた。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった――」
嘘を繰り返す。
嘘を重ね合す。
嘘が嘘を呼ぶ行為は、やがて現になる。
「いなくなった」のは嘘。
本当は「そこにある」。
「あ――」
アイの手の杯の上に、ふわりと花が現出した。
茎と葉の緑は青々しく、その花弁は瑞々しい、可憐な白い菊。
「それ、手品?」
ヒカリが独り言のように感想を吐くと、アイがころりと笑った。
「そう、魔法!」
両者の齟齬は無視されて、アイはヒカリに菊を差し出した。
ヒカリは苦笑しながら受け取り、つぶやく。
「菊って、縁起でもない」
「そう? 菊って、着物の柄にもある上、薬にも使われてた物だけど」
「でも、お葬式の時に備えられる花でしょ」
言いながらも、ヒカリはしみじみと白菊を眺める。
造花ではない。本物の花。
夜空に透かしてみれば、一等星の眩い花弁がなお映えた。
自分よりずっと生き生きとした花を見て、よぎる願いが口をついて出る。
「あぁあ、なくなりたいなぁ……」
「それって、死にたいって事?」
「うん、それに近い。生きてると、かなりしんどい」
昼寝する獅子のようにごろりと転がり、顔を地面と突き合わせる。
「それについて、話すのもしんどそうだね」
「そう。でも、普通に死ぬとすごく痛いでしょ?
だから、死にたいじゃぁなくて、なくなりたい」
「へえ」
興味深げにアイが目を細める。
「だから、最初に『いなくなった』って繰り返してたのか」
「うん。そういえば、アイの手品もそう言ってたよね?」
「言ってた。それが私の呪文だから」
「じゃあ、私も呪文を作ろうかな」
「どんな?」
「『なくなりたい』ってどうだろう?」
それを聞いて、アイはやれやれと首を振った。
「駄目」
「どうして?」
「理由は二つ。
一つは、それは単なる願い事。呪文は、嘘じゃぁないといけない」
「嘘?」
「そう、嘘」
アイは、ジャングルジムから少し離れた鉄棒に近づいた。
鉄棒に手をかけ、体を持ち上げて、器用に鉄棒の上に座る。
これまでヒカリに合わせておどけていたアイとは違い、そこにいたのは一人の魔女だった。
魔力を帯びた月光がアイに降り、彼女は千年を超えたような老熟さでヒカリと対峙する。
「魔法には呪文がなくてはいけない。同時に、呪文がなければ魔法ではない。
魔法は物理法則に己の願望を投影する手段であり、それは現実に自分の嘘を通用させる荒業だ。
魔法の本質とは嘘である。では嘘と決定付ける要素とは何だ? 他人による承認がいるのか? 整備された一覧でもあるのか?」
アイは鉄棒に足をかけ、ぐるりと体を反転させた。
木から吊り下げられた人間のように、アイは上下反対の目でヒカリを見据える。
「狼少年が『狼が来た』と言ったのは何故か?
本当ならば、狼はいない。彼がそう言い出すよりも前に渦巻いていた感情は、自分を構って欲しい、自己顕示欲を満たしたい。これが真だ。
しかしその願望を裏切り口にした呪文は、『自分に構って欲しい』という真ではなく、『狼が来た』という嘘だ。
嘘は、術者の願望ではない。
その願望と違う呪言でなければならない。
故にこそ、貴女の呪文は成り立たない。
ただの願い事では、違うのだ」
逆しまのアイの、これまでとは違う長い教示こそ、呪文のようだった。
情報量が多く、そして日常的ではない言葉の羅列であり、理解する事はできない。
だが、ヒカリが遮ろうと思えず、ただ耳を傾けるしかないほどの魔力を持っていた。
全てを吐き出したアイは、その瞬間魔女である事を止めた。
「うわあっ!」
鉄棒から体が離れ、悲鳴を上げながら地面に墜落する。
先の威厳ごと失墜したアイの落差を見て、ヒカリが声を上げた。
「あはははは! おっかし!」
「む……こんなにも痛いのに笑うとは、酷い姫様だ」
「なんだったら、アイが笑ってもいいんだよ?」
「地面に落ちた痛みを感じている状態で笑うとか、それではまるで変態だ」
むくれつつ、土埃を払ってアイが立ち上がる。
「ま、さておき。もう姫様なんて呼ばなくてもいいよ。名前で呼んでいいし」
「何を仰いますかねぇ。私は名乗ったけど、貴女の名前は聞いてない」
「あれ、そうだったっけ」
反芻してみると、そんな気がしてくる。
ヒカリはジャングルジムから降りると、土だらけのアイと相対した。
「わたしは虚ヒカリ。だからヒカリでいい」
「じゃあヒカリ、続きを言おうか」
「つづき?」
「そう。『なくなりたい』を呪文にできない二つ目の理由」
言って、ヒカリが先んじて推理する。
「わたしに適正がないから?」
「違う。適正はある」
「ハートの杖とか、フリフリの衣装とか、カワイイ感じのマスコットがないから?」
「私もないよ」
「じゃあ、ナニ?」
早々にお手上げしたヒカリに、意地悪くアイが囁いた。
「私の呪文とかぶるから、他のにして欲しい」
朝はヒカリの魔法が解ける時間だった。
あのおかしな少女、アイと笑い合った時間は嘘のように、ヒカリの顔は固く冷たくなっていた。
アパートに戻り、あるのはぐちゃぐちゃの部屋。
その部屋の中心で、母はテーブルに突っ伏した状態で眠っていた。
母は、夜の七時に「互助会」に行き、夜の十二時に「互助会」から帰ってくる。
それから、昼の仕事に行くまでは、こうして眠っているのだった。
ヒカリは、自分の生みの親を避けるように部屋を横切り、テレビをつけて音量を極度に低くする。面倒な母を目覚めさせないように。
映し出されたのは、朝の連続ドラマだった。昭和の家族。騒動を起こす明るい娘。それすら包みこむ一家の笑顔――。
もう、羨ましいとすら思えない。
自分が絶対に叶わない眩しさを見た時、嫉妬よりも先に隔絶が立つ。
リモコンのボタンをぷつぷつと押す。料理番組、通販番組、ニュース番組、教育番組……。
次々に景色が変わる中で、ふと目に留まったのはある女性だった。
「――嘘という呪文をついてはなりません」
昨日も目にした事がある。
確か、時針カナという女性であったか。
テレビが主な情報源であるヒカリには、彼女がどういう取り上げ方をされているのか分かっている。
変人。
占いという曖昧模糊とした推測で金を稼ぎ、自らを「魔女」と称するおかしな女。
世間の冷笑を一身に受ける、藁人形の役柄に押し当てられた有名人の一人。
だが、アイと遭遇したヒカリには、どうにもその女の言葉が気になった。
「まるでアイみたいなコトを言う人だね」
「嘘=呪文」という法則を、心の底から信じている魔女。
しかしアイは、呪文を唱える事を望んでいるようだった。
そしてカナは、呪文を発する事を拒んでいるようだった。
ヒカリはテレビを消すと、リビングのソファに横たわる。
「はぁ……」
夜を徹した疲労が睡魔に変換され、目蓋の重力が強まる。
彼女はとうに夜にしか生きられない存在になっていた。
世界を祝福する陽光に当てられると、真っ当な人間ではない不浄な体が蒸発していくようだった。
彼女が目を覚ますのは、決まって太陽が没する頃。
その間に、それこそ眠るように「いなくなって」しまえば、どれほど幸福なものだろう。
「……おやすみ。できれば永遠に」
母と同じくして、ヒカリの意識が虚空に溶けた。
目を開ければ、単純明快に夜だった。
眠る前に存在していた母は、既に「互助会」へ旅立ったようだ。
ヒカリは目を擦りながら、玄関の扉を開ける。
十二時よりもずっと前だが、もうアイはあの公園にいるのかもしれない。
公園に向かう道すがら、あの「交通事故多発」の看板が出迎えた。
いつもの通り、白い菊と菓子袋が添えられている。
ヒカリは座りこみ、その白い菊を眺めて、つぶやいた。
「あなた、愛されてるんだね」
自分を無視する母よりも、ずっとずっと愛される「誰か」。
なくなった存在に嫉妬して、悪の心がむくむくと膨れ上がった。
「愛されてるなら、愛されないわたしに恵んでもいいんじゃない?」
そう言って、ヒカリは菓子袋をつまみ上げ、誰の目もない道路で窃盗した。
菓子袋を指先でぶらぶらと揺らしながら、公園へと堂々と向かう。
そして深夜の公園に到着すると、アイはシーソーで遊んでいるようだった。
「よっ、よっ」
そんな掛け声と共に、アイがシーソーの真ん中の板で左右に揺れる。
本来ならば、シーソーとは両端に子供が座る、二人用の遊具である。
しかし、アイは一人だった。だから、こうして二人用の遊具を仕様外の遊びで暇を潰している。
それがどうにも滑稽で、ヒカリは悪戯したくなった。
アイの目線は、不安定な足元に注がれている。
ヒカリがこうして公園に来た事も気づいていないようだった。
ヒカリはそうっとシーソーに近づき、それでもアイはこちらに目を向けない。
すると、ヒカリはシーソーの座り場を、だん! と踏み下ろし、アイが立っている板を思いっきり傾けた。
「うわあっ!」
唐突なバランスの崩壊に耐え切れず、アイは地面に転げ落ちた。
その頓狂な悲鳴がおかしくて、ヒカリは吹き出して腹を抱える。
「アイ! すごい良かったよ! その転びっぷり!」
地面に転がるアイは、昨日のように不機嫌な表情をした。
「む……こんなにも痛いのに笑うとは、酷い姫様だ」
「あ? ああ。そうだったね。わたし、姫様だった」
昨日の妄言を思い出し、ぺろっとヒカリが舌を出す。
「そして、アイが召使いだ」
「そうでございますよ姫様。で、今日はどうするつもりなのでございましょうでやがろうか」
アイが立ち上がると、ヒカリはうーん、と思案した。
「そういえば、アイって――」
「親はいるの?」と聞こうとしたが、そうなると自分のろくでもない親も訊ねられて来そうなので、それは止める。
「なに食べてる? というか、コレ食べる?」
先程の菓子袋をアイに差し出す。
こんな夜中に、こんな子供を出歩かせているのだ。
もしかしたら、まともな親でないと同時に、まともな食事もしていないのかもしれない。
アイはふるふると首を横に振った。
「いいえ。私は遠慮しておきます」
「あっ、そ」
悪意で盗んだ菓子袋、それを差し出した善意を断られても、ヒカリはさして機嫌を損なわなかった。
アイはヒカリを見つめると、くすりと笑って質問する。
「貴女は食べるつもりで持ってきたの?」
「ううん。食欲ない」
「それなのに持ってきたんだ」
「食べるつもりで持ってきたワケじゃないの。なんか、悔しいから持ってきちゃった」
「何それ?」
ヒカリの窃盗の経緯を知らないアイは、彼女の供述にもからから笑う。
「ああ、そういえば、答えてなかったね」
「なにが?」
「ヒカリがさっき言った、『なに食べてる?』っていうの」
「うん」
アイはそこで会話を切ると、勿体ぶった空白を挿入する。
たっぷりと沈黙してから、アイは秘密を教える小声でささやく。
「悪魔の魂」
恐ろしく低く、そして凍えるような声だった。
周囲に響き渡るような音量でもないのに、不穏を察した鳥たちが、啼きながら公園の木からどこか別の場所へと逃げ出した。
しかしヒカリは、「えーっ」と非難するようにアイの言葉を折る。
「せっかく期待して待ってたのに、けっきょくウソじゃない」
「そう。うそうそ。本当は霞を食べてるの」
「それもウソでしょ。なんなのさカスミって」
「もしかしてヒカリ、仙人が霞を食べたりする話って、知らない?」
「あっ、アイ、またわたしのことバカにしてるでしょ?」
「仰ってございません。姫様の頭は驢馬の頭だなんて、そんな事滅相もないですだ」
演技でヒカリが腹を立て、冗談でアイが変てこな敬語で挑発する。
「魔法少女は人間じゃぁないから、口にする物だって人が食べる物とは違うんだよ」
「そう? アイは魔法少女っていうか、こんな時間に出歩く不良少女だと思うけど」
「じゃ、不良少女じゃない私は帰っちゃおうか」
「帰るなっ、姫の命令だ!」
互いに互いの顔を見合わせて、笑い上げる。
ヒカリは頬をこすりながら、久方ぶりの充実が胸に溜まる事に気づいた。
ああ、これが「普通」なのかな。
もちろん、深夜に公園で少女が二人じゃれ合うのが普通な訳はない。だが世間の少女というのは、学校帰りにでもこうやっているのだろう。
「なんか、こんな笑ったの、久々な気がする」
「上に立つ者の優越感ってもんじゃないですかねぇ」
「まあ、それもあるだろうけどね」
充実の反動からか、ヒカリはぽつりと暗闇をつぶやいた。
「昨日わたしが言ったの、覚えてる?
小さいころ、こうやって他の子と会ったっていうの」
「……ああ、それ聞いて思い出した。
その子も、不良少女だったっけ」
「そう。その子、けっこうワルだったの。
わたしよりは三歳くらい年上だったはず。確か名前は……スバル、だったか」
「昴? 男の子みたいな名前だね」
「へえ。男の子の名前なんだ。……人とあんまり会わないから分からないや。
それでスバルなんだけど、けっこうコワい子でね。友達ではあるけど、機嫌が悪くなるとすぐに暴力に走る子だった」
「それでも、友達なの?」
「それでも、友達なの。
機嫌が良い時はすごい上機嫌でね、今日わたしが持ってきたみたいに、店からパクってきたお菓子をわたしに分けてくれたりした」
「ヒカリ、その菓子袋盗んだんだぁ」
アイがわざとらしく目を窄めると、ヒカリは手を振って若干の否定を示す。
「わたしのは店からパクったんじゃないの。道端に落ちてたのを拾ったの。
それで、まあ、スバルとは三年くらい友達だったのかな。
まあまあ長い付き合いで、スバルの家に遊びに行ったり、どこの店が盗みやすいかとか教えてもらったり、空き家に乗りこんで走り回ったりしてた」
「悪友、って感じだね」
ヒカリは、声のトーンを落とす。
「でもさ、ある日、スバルは公園に来なくなった」
「どうして?」
「わたしもどうして、って思ったから、夕方にスバルの家へ行ったんだ。
そうしたらスバルのお母さんが出てきて、泣きながら話してくれた。
頭、殴られたんだって。
詳しくは教えてくれなかったけど、あちこちで悪さしてたから。多分、『恨みを買った』っていうコトなんだと思う。
それから、スバルは公園には来なかった。今生きているのか分からないけど……死んだコトが分かったらイヤだから、もうスバルの家にも行ってない」
「へぇ」
「まあ、だからね。
友達っていうの、イヤだなって思うようになった。
友達って、対等じゃないといけないじゃん。
スバルは悪い女の子だけど、スバルと友達になったのは、わたしも悪い女の子だから。
わたしが普通の女の子といっしょになっても、その子は結局学校に行ってたり、欲しい食べ物を買ってもらえたり、母親が叱ってくれる子たちなの。
その子たちは、それが当然だと思うんだよ。だから、『ヒカリちゃんは、どうして?』って、わたしが勉強しないコトとか、痩せているコトとか、好きなように出歩けるコトを、きらきらした目でうらやましがったりするんだよ。
だから、あー……友達いなくなるのイヤだし、つくるのすごいむずかしいし、だから、もう友達とかたくさんだな、って、そういうコトなの」
ぐちゃぐちゃになった思考を吐き出して、ヒカリが終わる。
アイは、無言でヒカリと向き合うと、手を差し出した。
「欲しいもの、出そうか?」
「手品で?」
「そう。魔法で」
「お代は?」
「いらない。だって私は、ヒカリと対等じゃない召使いだから」
それを聞いて、ヒカリは心が軽くなる。
「じゃあ、お金をちょうだい」
「何で?」
「なんで、って……そりゃ、誰だってお金は欲しいでしょ?
それにお金があれば、わたしだって好きなものを買えるし、働かなくてもよくなるし、……大きな家に引っ越せば、金をせびる悪い『互助会』からも離れられる」
「ふぅん」
アイが気のないような声を出す。
やっぱり、手品じゃお金は出せないものだろう。
アイから拒否の返答を待つ中で、彼女はゆっくりと口を開く。
「いいよ」
「――えっ?」
ヒカリが硬直する中で、アイは手を広げて詠唱する。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった――」
いや、きっと冗談だ。
手品でお金を出したとしても、十円玉や百円玉、ひょっとすれば五百円玉がいつの間にか手の平にある、それぐらいに違いない。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった――」
それでも。
ヒカリの胸の中に、アイが魔法少女である事を信じる心が芽生えていた。
アイは街灯に照らされながら、ゆっくりと回転して踊っている。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった――」
彼女が、両手を天に掲げる。
羊を神に捧げるように、両手が高々と挙げられた。
両手で窪みをつくり、何かを掬い上げる匙の形をつくる。
「いなくなった――」
唐突に。
アイの両手から、光沢が湧き出した。
「――ッ!」
金属光沢。
それも、鮮やかな山吹色の輝き。
液体の、金。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった、いなくなった、いなくなった――」
祝詞を謡う都度、両手から零れる金のきらめき。
金属の融点は人体を焦がす。だというのに、それはアイにさしたる苦痛をもたらさない。
金色の液体は嘘のように湧き出し、地面に落ちると、嘘のように蠢いて金塊の形に固まる。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった、いなくなった、いなくなった――」
地面に広がらず、独りでに意味ある固体となる融けた金。
手品? いや、こんなの手品ではあり得ない。
それこそ、魔法だ。
ヒカリはむしろ、恐怖すら感じた。
夢? いや、最近夢も見ない。今日になってこんな夢を、それも現実味のあるものを見るなんてありえない。そもそも夢を見たのはいつだった? 思い出せない。最後に見た夢はとても悪い夢だった気がする。自分が血だらけになる有り得ない夢。こんな良い夢を見るはずがない。
アイが、丁度五十個目の金塊を生み出した時、詠唱を閉じる。
すう、と深呼吸をしてから、アイがヒカリに告げた。
「金地金。1kg。国際規格準拠。99.99%。
多分、一億超えくらいになると思うけど」
「…………」
ヒカリが、立ち尽くす。
アイは、自ら生み出した金塊に座り、髪を弄びながら説明する。
「別に、私がお金そのものを生み出す事はできるけど、同じものしか生み出せないから、お札だと番号が振られてるから偽札になっちゃうからね。
換金する手間がかかるけど、子供のヒカリがそのまま金買取屋に行っても門前払いされるだけだし、ヒカリの親に頼んで換金させようとしても、出所不明で訝しまれるだろうから……。
これね、あとで私がトランクも生み出して、公園に埋めようと思うの。
ヒカリは、偶然見つけた体で交番に行って、変なトランクがあります、って通報して。
そうすると、ヒカリは拾得者になると思うから。数週間もすれば晴れてヒカリのものになる。
で、ヒカリの親に換金させれば、一億は貴女たちの物になるの」
夢物語。
ヒカリが見る事すら諦めていた、破天荒な夢。
宝くじに当たるとか、母が金持ちと再婚するとか、そんな事を遥か昔にぼんやりと描いていた夢。
それは、仲良くなった少女が金塊を生み出すという、どの夢想よりも現実から遊離した事実。
ヒカリは、諦める事が得意だった。
名前が縫われた黄色い帽子をかぶる事も諦めたし、教科書を詰めこんだランドセルを背負う事も諦めたし、糊のぱりっとした学生服に袖を通す事も諦めた。
だが、ここにきて。
「千載一遇」という言葉が、公園の電灯を照り返してきらきらと輝いていた。
日付の変わっていない時間に帰るという、彼女にとっては異例の事態だった。
アイに「ありがとう」も「またね」も「さよなら」も言わずに、居ても立ってもいられずにヒカリが走る。
「ありがとう」も「またね」も「さよなら」も、ヒカリが長く言った事のない言葉だった。
だから、咄嗟の出来事に、言えなかった。
ごめんね。でも、また落ち着いたら、アイに言おう。
息が軽い。体が軽い。私は軽い。
ヒカリが足を走らせる間に、「交通事故多発」の看板を感慨もなく通り過ぎる。
今まで、母親は忌まわしいと思っていた。
だが、きっと変わってくれる。母親に余裕ができれば、自分を振り返る機会が生まれる。そして、「互助会」に搾取されているという現状も。
遠くに引っ越そう。今度こそ、母親に私を認識してもらう。
そうしたら、次は社会のシステムに、虚ヒカリという存在を届け出るんだ。その次は学校に通う。自分の名前を刺繍された制服なんて、きっと着心地がいいものだ。
ヒカリがアパートの階段を駆け上がり、扉を開ける。
母親はまだいない。だが、母親は十二時に帰ってくる。
交番に行くのは日が昇ってからになるのだろう。
でも、それより前に母親に話したくて仕方がない。
お金の話、ではない。アイという女の子とか、夜に出歩いててごめんなさいとかが、テレビの面白い番組だとか、これまで話しても無駄だった事を、一杯に話したい。
感情が湧いて出てきて、十二時が待ち遠しかった。
玄関の扉をずっと見ていると、やがてギィ、と錆びた音を立てた。
そこにいたのは、
「ただいま」
やけにぎらぎらとした笑顔の母親と、
「お邪魔します」
見た事のない、少女だった。
「えっ――」
誰何の声を上げるよりも前に、母親が久しぶりに自分の名前を呼んだ。
「ヒカリ! 貴女はようやく救われるのよ!」
家の中に向けて、母親が大声で叫ぶ。
違う。
わたしが、お母さんを救おうとしているんだ。
お母さんから、救われようとは、していない。
口が開閉するだけで、ヒカリの声は母親に届かない。
母親は、見知らぬ少女の肩を叩く。
「さぁ、イコ様と一緒に暮らしましょうね……。
ヒカリは悪い子だけど、神聖なイコ様のオーラで、きっと浄化されるから……」
「イヤだ!」
ヒカリが叫ぶ。
理解した。あの少女――恐らく「イコ」その人だろう――は、「互助会」で地位の高い人間なのだ。
その地位の高いイコの傍にいると、周囲の人間にオーラの影響が及んで浄化される。
だが、そんな事で、救われるはずがない。
偽物だ。嘘だ。そんな事。
拒否するヒカリを前にしても、母親は聞く耳も持たずにイコをリビングに入れた。
「イコ様。僭越ながら、私をどうか――『お母さん』と思って、暮らして下さい」
奪われた。
母親という存在すら、「互助会」はわたしから奪い取った。
わたしには――。
「あああぁぁあぁッ、ぁあっ、あああああぁぁああああぁあっ!」
「互助会」への憎悪、母親への失望、黒々とした霧が心臓から湧き上がり、肺を伝って嘆きを吐く。
「あぁあああッ!」
侵略された住処に嫌悪を抱き、ヒカリが玄関を飛び出した。
母親は追いかけてくる素振りすら見せなかった。きっと、あのイコ様にお熱なのだろう。
「あぁっ、ああぁぁぁぁッ!」
走る。
叫ぶ。
夜中、目覚める人すら出てこない。
深夜の中、街灯のスポットライトすら避けて、ヒカリが闇の中を直進する。
公園。
公園に行って、アイにどうにかしてもらう。
アイならなんとかしてくれる。あんな魔法ができるアイなんだ、きっとあのイコを「いなくなった」事だって、できるはずだ。
いや。
いや、それは、違う。
足の勢いが弱まる。
差し掛かったのは、「交通事故多発」のあの看板。
菓子袋の奪われた、白い菊だけが残ったそこで、立ち止まる。
ヒカリはそれを見て、ぼろぼろと泣きながら、菊を見下ろした。
望むのは、イコが「いなくなる」事ではない。
「あなたに、なりたいなぁ……」
自分という存在を脱ぎ捨てて、
例え、この世界からいなくなっても、花を添えてくれるような誰かに愛される、
何かになりたかった。
黄色い帽子を被って、通学路を歩くランドセルの少女になりたかった。
新品の制服をビニールから破って、初登校の前夜に鏡の前で着て微笑む少女になりたかった。
母と遊園地に行ける少女になりたかった。誰からも認識してくれる少女になりたかった。死んだら他人が悲しんでくれる少女になりたかった。
ずっと諦めていた亡霊が、アイから託された黄金の希望を見せつけられて、涙になって続々と這い上がってくる。
「あなたに、なりたいよ……」
重ねる。
「あなたになりたい……!」
言葉を、重ねる。
「あなたに――!」
言葉を。
刹那、背後からいななきの声が上がる。
「え――」
振り返る。
道路の先には、法定速度を超越して迫りくる、馬車。
叫ぶ馬は、有り得ざる青毛の冷たい馬。
その幻想が引く馬車は、錆ついた車輪が回るブリキの馬車。
現代社会の常識を引き裂いて、それはヒカリに急接近する。
交通事故の原因である急カーブの入り口を、青ざめた馬が踏み抜いた。
白髪の男の御者は、制止の鞭を入れる事なく猛進する。
ヒカリがいるのは、カーブの膨らみの頂点。
交通事故で死んだ少女がいた所。
「あ――」
馬車が、カーブの急転回に耐え切れず、ヒカリの体と衝突する。
ヒカリは地面から弾き飛ばされ、ボールのように宙を舞った。
「ああ――」
虚ろに、ヒカリが悲鳴を上げた。
放物線を描いているヒカリは、その線の終点を目にした。
電柱。
それに生えた、足場のボルト。
ヒカリは目を閉じた。
痛くならないように、と祈りをこめて、呪文を囁く。
「あなたになりたい――!」
音は、聞こえなかった。
耳の鼓膜が震えるよりも前に、足場ボルトが脳の聴覚野を貫いた。
白髪の男は、馬を止めた。
彼が後ろを振り向いて、馬車の中へと呼びかける。
「終わったぞ」
その一言に、馬車の中から鈴が鳴った。
「否、始まるんだ。私と同じように」
言うと共に、馬車の扉が開く。
黒い外套に、黒い杖を持ち、黒いローブに身を包む、「悪い魔法使い」のような少女。
「アイ、手短に済ませろ」
男の諫言を耳から流し、アイは電柱に磔にされたヒカリを見上げる。
アイが杖でヒカリの腿を突き、彼女に呼びかけた。
「目を覚まして下さいませや。寝坊助の姫様」
頭部を明らかに貫通している彼女は、だが常識を超えて目を開く。
「ああ……アイ」
ゆっくりを目を開いて、アイの姿を目に捉えると、ヒカリはぎこちなく笑った。
「夢、かな? 悪い夢……わたしが、昔見た、血まみれの夢」
彼女の言葉に、アイは否定に首を振る。
「ううん、夢じゃないの。それは現実。貴女が昔に見た血まみれの夢ごと、全部が現実なの」
「へぇ……」
自分の事ながら、極めて無関心に、ヒカリがつぶやく。
アイは彼女に、自分の黒い装束を着せながら、事の次第を説明した。
「貴女が言っていた『あなたになりたい』という言葉はね、貴女の嘘になったの。
だって、貴女が『なりたい』と言っていた交通事故の少女は、紛れもなく貴女自身だったから」
アイの言葉に、虚空を見つめてヒカリが笑った。
「そんなの、もう流行らないと思うなぁ。『実は死んでた』なんて、使い古されちゃったテレビのホラーのネタじゃない」
「そう。よくある事。
自分が死んでるという事に気づかないお化けなんて、この世界には沢山いる。
でも、そのお化けが魔法少女になれるのは――自分の嘘を見つけられるのは、ごく一握りなの。
自分の嘘を見つけるよりも前に、魂が耐え切れずに消えてしまう。それが、この世界の当たり前」
「お化けが、魔法少女になるのなら……じゃあ、アイも死んでるの?」
ヒカリの疑問に、またもアイは首を振った。
「死んだ少女は魔法少女になれるけど、魔法少女の条件はそれだけじゃないの。
『ハートの杖とか、フリフリの衣装とか、カワイイ感じのマスコット』でも当然ない。
魔法少女になるには二つ。その子だけの、力ある嘘を重ねる事を第一。そして第二は――」
そこでアイが言葉を切る。
ヒカリはすっかり、『悪い魔法使い』になっていた。
黒い外套、黒い杖、黒いローブ。
アイはヒカリを電柱から降ろすと、彼女の手を取って指に接吻する。
「第二は、たっぷりと考えて下さいませ。
あなたに教えるのは、次の次のお話にいたしましょう。
さあ、永遠に魔法のかかった姫様。南瓜ではないですが、ブリキの馬車に乗って参ります」
そのアイの言葉に、ヒカリがまたぼろぼろと泣き出した。
雨の雫が、手に口づけするアイの後頭部を濡らして、「もう」とアイが顔を上げる。
「寝坊助で泣き虫だなんて、厄介な姫様だなぁ」
「いいの。いいの、もう、姫様じゃなくていい」
母は、きっともう戻らない。
だから、わたしも、もう戻らなくていい。
目の前の少女が、わたしを受け入れてくれるなら。
それが、何より望んだ事だった。
ヒカリはアイの幽き体を抱きしめて、実体のない涙声で誓った。
「ずっと、悪いともだちでいようね」