1人ぼっちのオーヴァチュア
海岸から拾った、誰かのものだろうライターを点灯した。
ほのかな温かさが指先に沁み、姉が自虐げにつぶやく。
「マッチ売りの少女みたいだね」
「まっち?」
「アイにはまだ教えてなかったっけ? 絵本の話だよ」
濡れた髪を耳にかけ、幼い妹に優しく語りかける。
「雪の降る冷たい中で、温かくなるために売り物のマッチに火を灯すの」
集めた枯草にマッチの火を移すと、一粒程度の火種は徐々に焚火へと姿を変える。
「あったかいね」
「そうだね。ライターがいつまで持つか分からないから、火、絶やさないようにしないと」
「うん……」
姉の言う事を完全に理解した訳ではない。
それでもアイはうなずき、姉の安心に添った返答をする。
「お母さん……お父さん……」
姉は寂しげに、海の底に向かって囁いた。
彼女の心の支えは、家族にしかなかった。
「でも、おねえちゃんがきらいな、がっこうに行かなくていいよね」
「うん……」
アイの励ましに、俯く。
彼女の心を脅かすその場所を想起して、感情を暗くする。
いっそ今は、そちらの方が生命を脅かされずに良かったかもしれない。
こうして無人島に遭難するよりも、ずっと。
食料を探すべく、海岸ではなくその後ろにある樹林に足を踏み入れる。
「できれば、焚火の番をして欲しかったけど」
アイは、姉についていく事にした。
心細いという事もあるし、それに焚火の番ができないという事もある。
「こうやって木が生い茂ってるっていう事は、食べ物があるって事だから、しばらくは生きていられるよ」
「でも、生きてたらどうするの? 丸太あつめて、イカダっていうのつくるの?」
「うーん、多分それは無理。力いるし、どうやって木を倒すのか知らないし、丸太結ぶ紐もどうやって作るのか……」
物知りな姉の知識でも、そうらしい。
アイが不安な表情を見せると、姉は払拭するように笑顔を取り繕う。
「でも、遭難信号が出てると思うから、救援の船が来るよ、きっと」
その時、がさりと茂みが動く。
姉はアイを後ろに退かせ、警戒を払った。
茂みに注視していると、緑の中から茶色の口吻が現れる。
「いぬ?」
アイの呑気な推測を正す。
「オオカミ!」
細く尖った眼が、二人を見つめていた。
「アイ、逃げないでね。オオカミは、逃げる獲物を追いかけるから」
背を見せないようにしながら、姉は足元の石を投擲した。
「どっか行って!」
オオカミはその石に当たらないように身を捻り、歯を剥き出して敵意を見せる。
しかし、姉は怯まずに石を次々に投げつけ、観念したのかオオカミは踵を返して元の茂みから去っていく。
脅威が去って、アイの口から安堵の声が漏れた。
「あぶなかった……」
「でも、これでもっと安心だよ」
「なんで?」
「肉食動物がいるっていう事は、エサの動物には困らないくらい食糧があるって事だから」
「へーぇ。やっぱりおねえちゃんはかしこいね」
しかし、
「……そうだね。でも、バカでもあるんだよ」
自虐する。
日常の転換点の事だった。
クラスのある女子が、彼女のグループの中で間違った知識を広めていた。
会話の外にいた姉だったが、思わず横入りしてその知識を正した。
指摘が、女子の自尊心を傷つけたらしい。
その場で女子が、姉の言い方、会話への割り込み、恰好から普段の言動までをこき下ろし、その日からグループの敵対者と認定された。
それ以降、授業で答えを発表しては嘲笑が上がり、昼休みで唐突に問題を出されて正答を返せば不快に囃し立てられ、誤答してしまえば馬鹿だと言いふらされる。
あの転換点で、自分が口を挟まなければ、もっと日常は平穏だった。
船のように暗く沈む姉の表情を、アイは支えようとする。
「わたしのおねえちゃんは、ずっとずっとかしこくて、ずっとずっとやさしいよ。あの人たちよりも、ずっとずっといい人だもん」
「……うん。ありがと」
アイの励ましに力を入れ、姉は探索を続行する。
鮮やかな赤い果物を取り、緑萌える木の新芽を摘み取り、繁茂する草を抜き、食べられるものを腕一杯に集めた。
充分と判断して、アイに呼びかける。
「戻るよ。焼いて食べよう」
「なんで?」
「焼くと消毒できるしね」
そう言って、姉は焚火の元へと戻る。
幸い、木々の合間に深入りはしていない。元の場所へ戻るのは、容易だった。
苔むした地面からさらさらの砂浜へ。足の感触が変わった瞬間、姉の瞳が大きく輝いた。
「船だ!」
「えっ?」
姉の喉から出た、快活な声にまず驚く。
視線の先を伝っていくと、そこには確かに船があった。
コンテナを幾つも背に乗せ、堂々と海面を割って穏やかに進む黒い巨体は、クジラに見えた。
歓喜の声に続き、姉は手に持った果物や葉物を放り投げ、手近にあった折れた木の枝を手に取る。
「助けを呼ぶの! そうすれば、この島から出られるの!」
言って、姉はいそいそと砂浜に大きな「SOS」を引き始めた。
この島へ漂着して以来の笑顔だった。
アイには向けない、希望の笑顔。
その明るさが頭に焼きついて、アイはぼうっと横顔を見つめ続ける。
「アイ!」
急に呼びかけられ、アイは現実に戻される。
「な、なに!?」
「船! 助けを呼んで!」
指差す船に、姉の指図。
しかし姉の求める行動を理解し切れず、迷いながらもアイなりの声を上げた。
「えーと……たすけて! たすけてー!」
「違う! 声じゃ聞こえない!」
折角垂れた蜘蛛の糸だというのに、要領を得ないアイに姉が怒鳴る。
怒鳴られて猶更困惑するアイは、ただ硬直しているだけだった。
砂浜に「SOS」を書き終え、姉は船へと駆け寄る。
船員に見えるように、木の枝を高く掲げ、左右に振り出した。
「助けて! SOS! 遭難してます! 来てください! 気づいて!」
しかし、クジラの巨体にとって人間は蟻のようであり、無人島に人がいるとは気づかずに通り過ぎる。
必死な救助要請に気づかず、船は去り、小さくなっていく。
姉の叫び声と腕の振り幅もまた小さくなり、船の視界面積が粒ほどになった時、大きなため息を吐いた。
「あの……おねえちゃん」
役に立てなかった罪悪感から、アイはうろつく目で姉を見上げる。
一度見えた希望が潰えた姉は、不安を抱くアイを無視し、無言で砂浜に落とした果物を拾い始めた。
鮮やかな赤に見えていたそれは、砂にまみれて輝きを失っているように見えた。
アイは、姉との日常が好きだった。
アイに童話や知識を開く時の、姉の静かな笑顔が好きだった。
姉が学校で爪弾きにされていた日でも、アイと話す時は平穏な感情を得ているようだった。
自分は話を聞くだけで、それだけで姉の平穏を保てた。
だが、今は危機だった。
話を聞くだけの存在であったアイは、この場においては役立たずでしかなかった。
「ねえ、焚火がなくなりそうだったら、もっと枯草足してくれない?」
煙だけが立ち上る火の跡を指して、姉は棘の声色でアイを責める。
「でも……わたし、できない」
「できるでしょ? 脇に置いといたでしょ、何でできないの?」
「だって……あの……わたし、おねえちゃんの――」
それに続く言葉が言えない。
姉はしばらくアイを睨んだ後、無視してライターで火を灯す。
一日だけで、二人の仲は悪化していた。
食べ物は酸っぱいか苦いか。寝るに布団もない。体を洗う事もできない。
文明の庇護から切り離されているという実感が、自分たちは助かるのかという不安に結びつけられる。
まして、あのクジラの船に見捨てられて、船が来ても必ず助かるという訳でもない事を知らしめられた。
姉に声をかける勇気もなく、アイはただ黙って隣にいた。
それだけで、精神が貧しくなっていく。
「ねえ……」
「……なに?」
「どっか、行って。なんか、食べられるもの探してよ」
つっけんどんな姉の態度に逆らえず、アイは頼りなく立ち上がった。
「……うん」
アイは棘の塊である姉から離れ、木々の合間へと足を踏み入れる。
これまでずっと姉といたアイにとって、一人で歩くのは初めてだった。
姉から分離し、一つの存在になったアイは、茂みを掻き分けて進む。
木に手を当てると、冷たくなかった。木と同じくらい、アイが冷たい事の証左だった。
しかし、何が食べられて、何が食べられないのか。
姉が採取した安全な果物や木の芽には手が届かないし、雑草と食用の草の区別はつかなかった。
ただ緑の中をとぼとぼと歩くアイに、葉が擦れ合う警告音が背後から発せられる。
「……!」
そちらに向くと、草を掻き分け、
「――!」
オオカミが、姿を現した。
アイは身を固くし、息を飲む。
オオカミは不敵にのっそりと歩き始めた。
アイを気にも留めず、彼女の脇を擦り抜けて、向こうの葉の裏へと消えていく。
「…………」
オオカミは危険だと、昨日の姉の態度が説明していた。
だが、アイを襲う事はなかったし、こうして見ればやはり犬にしか見えなかった。
アイはそっとオオカミを追い、群生の植物を分けてそろりそろりと歩んだ。
後ろをつけてもオオカミは何の警戒もせず、アイは樹林の果てへと導かれる。
視界が、開けた。
「あ……」
今のアイの視界そのものを絵画に仕上げれば、美術館に収められるようなものになっただろう。
青い海。白い砂浜。そして、海に突き立てられた背の高い岩。
岩の頂点に太陽が据えられた光景は、地面に立てた杖の先から、聖なる魔法が迸るようであった。
ここまで歩いてきたオオカミは、アイの道案内を終えたように樹林へと帰っていく。
芸術を目の当たりにしたアイの頭に、素敵な考えが廻った。
そうだ。こんなに綺麗な光景を見せれば、姉もちっとは心が豊かになるはずだ。
そうと決めれば、アイはすぐに取って返す。
木の根や石の隆起も飛び越え、樹林を横断し、砂浜の姉を目に入れる。
アイは胸に湧く素晴らしさに添って、あの果ての砂浜を指差して呼びかけた。
「ねえ! あっちにいこ! すごくキレイだよ!」
姉は振り向く。
その眉は、アイの予想を裏切って下回っていた。
「おねえ――」
威圧に口をつぐむアイ。
連動するように姉は開口し、一番に不快を紡いだ。
「……食べ物は?」
「え?」
「食べ物! 探してたんじゃないの?」
「で、でも……あっちに、キレイな岩が、海が……」
ぼさぼさの髪をぐしゃぐしゃに掻き毟り、姉が吠えた。
「どうでもいいの! そんなの、いらないから!」
姉の拒絶に、胸が空く。
「ぁ……あ……ぅあ……」
喘ぐように呼吸し、姉の圧力に肺が潰れるようだった。
アイは視線に耐え切れず、樹林に再び身を隠した。
「……なんで……」
良い物を見せようと、善意で言ったのに。
なのに、姉はそれを払い除けた。
やけに熱い涙が頬を過ぎては、その跡に痛みを感じた。
涙を地面に落とし、雑草に埋もれるように身を屈める。
どうしよう。姉をどうにか、元の優しさに戻したい。
難題がぐるぐると徘徊する。
姉が厳しいのは、今が厳しいからだ。今をどうにかするのは、救助に来る船しかない。
船しか――。
そこに思い至った時、ぴんとアイの耳が立つ。
そうだ。船が来た事にすればいい。
船が来たなら、きっと姉は喜ぶはずだ。
そうして、あの海岸まで誘導すれば、あの綺麗な景色も見せられる。
そうすれば――。
拙く、そして都合の良い展望に希望を見出し、アイの涙腺が止まった。
しかし、すぐに姉の前に出てはいけない。向こうに行って船を見た体にするなら、往復の時間には足りない。
わくわくと時間を消費して、太陽が少し傾いたその時に、すうっと息を吸いこんだ。
船が来た。それを自分が見た。姉を呼ぼうと、ここまで来た。
その場面を創造して、アイは一世一代の演技を繕った。
「ねえ! 船だよ! 船が、きてくれたよ!」
「本当!?」
脚を抱えて座りこんでいた姉が、ぱあっと笑顔をアイに向ける。
ここに来てからは、くすんだ顔しかしない姉の、あの笑顔。
それを見れただけで、ほっと安堵する。
姉はアイに寄り、きょろきょろと辺りを見渡す。
「それで、どこに来てるの!?」
その笑顔は、疑いを持たない輝かしさだった。
罪悪感から、アイは頼りなさげに樹林の先を指す。
「あの……あっち。あっちの――海」
虚実を口にするが故に、その言葉は弱弱しい。
それでも姉は「わかった!」と言ってそちらへ向かい、その背をとぼとぼと追う。
獣よりも速く、全力で疾走し、姉がアイの嘘の元へと辿り着く。
姉は海をぐるりと見回し、
「それで、どこらへんだったの?」
その問い詰めに、アイは言葉で逃げる。
「あっち、だったけど……もう、いなくなっちゃったかも」
自分に非難がいかないようにすると、思惑通りに姉は失望をアイから逸らした。
「うん、しょうがないね……船、動くからね。同じ所にはいないね」
これまでの姉とは違う、柔らかな苦笑。
船が来たという希望の残滓が、姉に余裕をもたらしたのだろう。
姉はアイの髪に手を置き、くしゃくしゃにする。
「今度は私を呼ぶ前に、まずアイが助けを呼んでよ?」
「ど、どうやって? おねえちゃんがやってるみたいに、じめん、何かかくの?」
「うん、地面に書いたり、あと――」
姉は突然、服を脱ぐ。
ぎょっとして、アイは慌てて目をつぶった。
「こうやって、服を旗にして! おおきく、手を振るの!」
言葉に力がこもり、ばたばたと衣類がはためく音が響く。
「で、でもおねえちゃん……はずかしいよ……」
「何言ってるの!」
姉は、アイの額を指先で突いた。
「こうした方が、面積が大きくて、船の人の目に入る可能性が高くなるの。
それに、こんな生きるか死ぬかの状況で、恥ずかしいとかなんとか言えるものじゃないでしょ?
私だってやるんだからさ、ね?」
救援要請を教えこむ姉に、アイは彼女の袖をくいくいと引っ張った。
「ね、ねえ、それはいいから、なにかないの?」
「何があるの?」
「あるの! ほら、この海、キレイでしょ?」
アイに言われて、姉はぐるりと見回して、
「キレイでも、食べ物も何もないとねぇ……」
それだけで終わらせた。
「さ、戻らないと、また焚火が消えるよ。戻ろ、アイ」
「……うん」
結局、自分が一番に伝えたかったものよりも、嘘の方が姉のお気に召しているようだった。
アイは無力な己を確認して、姉の後ろをついていく。
「ねえ……」
「なに?」
姉の服の裾を握り、見上げる。
「おねえちゃん……すてないよね?」
「――――」
姉は無言で、一つの存在から縋られる重みに応えなかった。
「おねえちゃん……」
「戻ろ」
振り返らずに進む姉に、アイの胸に暗闇が広がる。
その暗闇を払う為の姉の笑顔を、アイは渇望するようになった。
「……船が来たよ」
翌日から、断続的な嘘は続いた。
「今度はちゃんと、アイも助けを呼んだ?」
嘘をつけば、その瞬間でも姉は元の姉に戻っていた。
「うん……でも、わたしだと気づいてくれなかったから」
当初こそ、姉はその足を動かしてくれた。
「じゃあ、行くね」
しかし、
「――船が、来たよ」
嘘は薬のように、定期的にアイの感情を慰める為の、手放せない道具になった。
「そう……それで?」
だが、効果が薄れていくのも薬のようだった。
「よんだけど……来なかった」
元の姉に戻る時間は次第に短くなっていき、ついには船が来たかどうかを、姉が歩いて確かめる事はなくなった。
「ふぅん……」
折角の報告を、チャイムのように聞き流される。
「こんどは……ちゃんと、がんばってよぶから……」
だから、嫌わないで。
「今度なんて、あるかな」
そして――。
人間は文明を着た獣だとされる。
「船が来たよ……」
「そう……」
文明を剥ぎ取られれば、他者にかける理性もまたなくなる。
「ねえ、おねえちゃん……」
「わかってる……」
アイは、未だ姉の愛を信じていた。
しかし、その信じ方は幼く、拙く、脆かった。
アイは、嘘で姉の希望を作ろうとした。
嘘は、何回言ったものか分からない。
忘れるほど数多吐いたというよりは、忘れるほど脳の栄養が欠乏しているという事が近い。
「船が――」
「うるさいっ、うるさい!」
姉が吠えた。
頭を掻き毟り、がんがんと頭を叩き、アイの嘘を苦痛と叫びで掻き消した。
「ご……ごめん……ごめ――」
「ねえ、あんたがさぁ、そうやって私に嘘ついてさ! 私を喜ばせようって、そう嘘つくのやめてくれない!?
あんたがそうやって嘘ついて、それが嘘だって分かるたびにさぁ、もう船なんて来ないんだって思い知らされるの!
あんたバカでしょ!」
「ご、ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい!」
アイは、殴られてもいないのに頭を抱え、姉のなじりを屈んで耐える。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
抵抗せずに、この罵倒を過ぎるのを待とうとするアイに怒りを煽られて、彼女を傷つける最大の言葉を突きつけた。
「あんたなんか、助からずに――海に沈んで――この嘘みたいに――いなくなった方が良かった!」
いなくなった方が良かった。
いなくなった方が。
いなくなった――。
その言葉を受けたアイは、心臓が冷たくなる錯覚を覚えた。
自分という存在そのものを否定された。
姉は明らかな憎しみの表情と声色で、アイに感情を注いでいる。
「う……うぁ……ああぁぁあああ! ああああああぁぁぁ!」
アイは泣き出し、樹林の中を突っ切った。
姉から少しでも遠くへ行きたかった。
しかし、一番に遠いところは、結局はこの狭い島の中にしか留まらない。
魔法の杖のある砂浜に来て、そこでへたりこむ。
どうしてそんな事を言うのか。
それは分かる。自分が嘘をついたからだ。
でも、その嘘は、姉を傷つけようという意図ではなかった。
姉に笑っていて欲しかった。辛い顔を見るのが嫌だったから。
アイは泣きながら、姉の言葉を反芻した。
「いなくなった方が……よかった……」
砂浜にそれを文字として書き出し、尚更わっと涙が出る。
しかし、それと同時に怒りが湧いてきた。
ごめんと、何度も謝ったというのに、何故許してくれないのか。
自分が悪いと思ってる。なのに、何度も何度も姉は責めた。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
いなくなった、いなくなった、いなくなった……。
言葉と共に、砂浜が文字で埋もれていく。
そうだ。なら、自分が姉を責めよう。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
姉が自分を傷つけた、一番の言葉を繰り返す。
姉がどう話しかけようとも、その言葉で返してやる。
姉が謝ってくるまで、この言葉を続けてやろう。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
そう、狂った「ふり」をしよう。
姉が自分を傷つけてしまったせいで、自分はこんな風になってしまったのだ。
そう思い知らせてやろう。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
一つの言葉だけを繰り返して、姉に罪を犯したという事を思い知らせてやろう。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
くすくすくすくす。
泣きながら笑い、笑いながら泣く。
感情と表情を歪ませながら、少女はオオカミの唸り声を上げた。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
経のように読み上げていくと、なんだかおかしくなってくる。
「いなくなった」の促音はウサギが跳ねるようであるし、「いなくなった」の「な」が二つあるのが奇妙で、脳を直にくすぐられたように笑ってしまう。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
砂を掻く感覚が愛おしい。
こうして同じ文字を綴っていると、意識が線に引きずられて、この「い」は本当に「い」の形をしているのか、この「な」は別の文字なのではないか、定かでなくなってくる。
学校での書き取りでは、同じ文字を何度も書き取りしていけば正しい文字を覚えられるものだったが、これは違った。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
書くに比例して理解が飽和し、ぼやけ、砂浜が文字に埋まるごとにぐちゃぐちゃの線になっていく。
「いなくなった!」
やたらにおかしく思えてきた。
他者から見れば解読できない線の集合体だったが、アイはそれを見るだけで「いなくなった」の何文字目かが分かっている。
自分だけの呪文を発見したように、ただこの単語を無知な世界に出力していく作業が素晴らしく、飽きなかった。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
魔力のある行為だった。
喉が渇いても続行したい、太陽が浮沈しても敢行したい。
無意味だと知っていても、もうアイはこの行為を止めるという選択肢を落としていた。
「あ――」
心理の底まで「いなくなった」が沈みこんだ時、背後の樹林が声を上げた。
「いなくなった」の海から意識が浮かび、それを知覚する。
姉の声、だった気がする。
ずっと自分の声しか聞いていなかったため、深く絆した姉の声紋すら遠い記憶だった。
「いなくなった」
「なに……これ」
砂浜一杯の、訳のわからない文字の群れ。
書いているのは、「いなくなった」としか言わない妹の姿。
親しいはずの妹に向けた怖れの表情に、アイが首を傾げた。
何で、そんな風に怖がるのだろうか。楽しいのに。
「ねえ……」
「いなくなった?」
「ちゃんと……話してよ」
「いなくなった?」
「なんで! それしか言えなくなったの、アイ!」
そんな事を忘れてしまったのか。
お姉ちゃんのせいじゃないか。お姉ちゃんが、自分に「いなくなった」方が良かったと。
思っても、言葉にするのは、姉を追い詰めるただ一つの単語。
「いなくなった?」
くすくす笑うアイを、姉は恐れをもって見つめていた。
可哀想だな、と遠くから声が聞こえたが、それと同時に優越感が浮かび上がる。
自分の掌をころころと転がる姉を見て、更に近づく。
「いなくなった」
「な……何……」
後退る姉に、首を傾げる。
「いなくなった?」
頑なに会話を拒絶し、奇妙に言葉を繰り返すアイ。
彼女に畏怖を抱いた姉は、頭を抱えて手を払う。
「やああぁぁぁ! 来ないでよ! あっち行ってよ!」
「いなくなった!」
アイは楽しげに跳ねながら、より砂浜の奥へと走り出した。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった!」
娯楽もないこの島の中で、ただひたすら書き連ねる。
それが奇妙な安心感を覚える。自分で脳を空白に洗う、沼の儀式。
姉の悲鳴が遠ざかっていく。ああ、不純物がなくなって良かった。
儀式を繰り返している内に、喉の渇きも、胃の飢えも、最初っから無かった事として振る舞えた。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
繰り返す事そのものを生命活動にして、アイは儀式に没頭する。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
呟く事と書く事が、呼吸と同じほどに心身を蝕んでいた。
呼吸をしながら、物事を考える脳の余白が脳に生まれる。
そろそろ、お姉ちゃんが謝ってくるだろうか。
いや、そもそもお姉ちゃんは帰ってくるだろうか。
ちょっとだけ、針の先くらい怖くなる。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった」
止めてみて、お姉ちゃんを見てみようか。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった……」
……あれ。
止めようとしたのに。
「いなくっ、いなくなっ……」
…………。
「…………」
そう。これでいい。
ちゃんと止められた。
「いなくなった」
しかし、口を突くのは、やはりあの呪文だった。
「いなくなった」
自分の手が震える。
無意識の痙攣の一動作ですら、砂浜に「いなくなった」と綴る事ができた。
「……いなくなった」
自己洗脳から解けられず、アイは自分の頭を抱えた。
「いなくなった! いなくなった!」
自分が招いた結末から逃げるべく、虚空の姉に縋った。
砂浜の不気味な綴りを踏みにじり、手にある木の枝を放り投げ、樹林の中へと突入する。
きっと姉は、あの焚火の砂浜にいるはずだ。
樹林を走る間、アイの心は木々を歪ませて認識する。
あの葉脈は「いなくなった」と読み取れる。
この切株は「いなくなった」幹を暗喩している。
その木蔦は存在しない。「いなくなった」。
どの物体も、「いなくなった」を示唆している。
「いなくなった!」
存在の空虚な樹林を抜けて、海岸に辿り着いた。
「いなくなった……」
姉は、いない。
恐らく、妹の姿に畏怖したのだろう。アイに見つからないどこかに隠れているのかもしれない。しかし――。
頼りの綱である姉もなく、アイは立ち尽くした。
もしかしたら、
「いなくなった……?」
自分のこの言葉が、本当になってしまったのではないか。
「いなくなった」と、姉の事を思い浮かべて呟き続けたから、本当に姉はいなうなったのではないか。
いや、馬鹿げている。
「いなくなった……」
いや、馬鹿げているのはこの口だ。
口にできるのは、最早一つの呪文しかない。
姉がいなくなったら、どうなるだろうか。
食べるものも分からない。泳ぐ事も、イカダを作る事もできない。どうしようもない。
いるのは、「いなくなった」としか口にできない無力な一匹。
アイは、最初に来た船に向かって書いた、姉の「SOS」を見て、指を砂に突き立てた。
「いなくなった……」
言いながら、砂を掻くのは「いなくなった」の六文字。
姉が書いた文字を真似て、どれだけ何かを書こうとしても、砂浜に書かれていくのは六文字、六文字。
「いなく、なった……いなくなった……いなくなった、いなくなった……!」
少女の願いは、嘘な言葉と共に紡がれる。
砂浜が埋もれていく。
端から始めて、終端まで、「いなくなった」で埋もれていく。
「いなくなった……! いなくなった……いなくなった!」
いなくなったを口にしながらも、その裏にあるのは船がある事の欲求。
嘘は重なる。
嘘は連なる。
何時間、何日、儀式は続いただろうか。
「いなくなった……!」
一心不乱に書き連ねる。
自分が飲まず食わずでも儀式を続けられる事に気づきもしないくらい、ただただ救いを求め続ける。
「いなくなった」に願いをかけて、昼夜を問わずに口と手を動かした。
砂浜が全て書き切れば、今度はあの樹林である。
「いなくなった、いなくなった、いなくなった……!」
船は木の傷を見ない。
船は葉の裏を見ない。
船は土の陰を見ない。
整合性を考慮せず、ただ願望だけを世界に押し付ける。
島中を囲う「いなくなった」の文字は、一つの魔法陣になって繋がった。
嘘が繋がる。
嘘が曲がる。
島の全てを埋め尽くして、やがて砂浜に回帰する。
嘘が、現になる。
「いなくなった――!」
刹那、周囲が白濁した。
やけに冷えた濃霧がアイを中心に渦巻き、脅えて見回す。
やがて、霧の中から巨体が姿を現す。
その巨体は、アイが望んでいた船の形をしていた。
だが、アイが思い描いていた船の形ではなかった。
船の意匠は竜。表面には水色の鱗が覆われ、白銀の翼が船体から生え、舳先には竜の頭が備わっている。
そして、それは現実のものではなかった。
金属質な翼はゆっくりと上下し、エメラルドの瞳は瞬いている。
在り得ざるものが、自らの願いで来た。
茫然とし、脱力した脚が崩れ、砂浜に座りこむ。
ただ、視線だけが、その船から離す事ができない。
数分だろうか、あるいは数時間、はたまた数日。しまいにはもう数年も経っていたかもしれない。
その船は翼をはばたかせて砂浜に乗り上げ、船梯子が下りてきた。
船梯子から姿を現したのは、一人の白髪の男。
黒い外套に、黒い杖を持ち、黒いローブに身を包む。
絵本で見た事のある、「わるいまほうつかい」のようだった。
男はアイに近づき、口を開いた。
「お前の嘘は、現になった。
さあ、立て。船はすぐに離れる」
そう言って茫然とするアイを立たせ、確認する。
「他に、乗せるべきものはあるか?」
そうだ。
もしかしたら、この魔法のようなこの男の人は、魔法のように消えた姉を見つけてくれるかもしれない。
アイはぱあっと顔を明るくし、快活に答えた。
「いなくなった」
泣きじゃくるアイは、男に手を引かれ船へと乗りこんだ。
そこに、姉の姿はない。
ゆっくりと島から離れ、やがて全てが霧の中へと消えていった。