第十話
気を失ったレンを抱え、イリナは兵舎のトタン屋根の上を疾駆していた。
(どんなに見張りの足が速くたって、普通の人間である限り、兵舎に着いて将軍にこの事を伝えるまでに少なくとも十分はかかるはず……なら、それまでに追いついて、見張りの記憶を消す!)
姿を見られた相手がホムンクルスでは無かったのが不幸中の幸いだった。
先ほど見た見張りの兵士の顔を強く思い浮かべながら、イリナは辺りを眺め渡す。魔力で紅く染まった視界の、右斜め前方に濃い反応があった。
やはり、まだそんなに遠くには行けていないようだ。複雑に入り組んだ道を勝手知ったる様子で走る見張りの兵士を、屋根から屋根へと跳び移って上空から追いかける。
(誰かの為になんて事、今まで考えもしなかったのにね……)
そんな自分が、レンを守る為に必死になって動いている事が少し可笑しかった。
ようやく前方に、狭い兵舎の間を走り抜ける見張りの背中が見えた。もとより人間の足でホムンクルスに敵うわけが無いのだ。
今は足を止め、ちょうど兵舎から出て来た兵士に声をかけて、大仰な手振りで慌ただしく会話をしている。報告する上官の居場所でも聞いているのだろうか。
──絶好のチャンス。
「少しだけ待ってて。すぐに戻るから」
レンをそっ、と屋根の上に横たえ、 イリナはきっぱりした口調でそう宣言した。まるで眠っているかのように、安らかな表情で気を失っているレンにその声が届くはずは無かったが、何故だかイリナは無性にそうしたいと思えた。
レンは必ず私が守って見せる。だってレンは、レンのお父さんは──
止めだ。今はそんな事考えてる場合じゃない。自分の思考を断ち切るように首を左右に振り、そしてイリナは、一気に屋根の上から文字通り『飛び』出した。
見張りの兵士の背中はもう目前にまで迫っている。
レンと私の事を上官に報告すれば、きっとこの見張りは大手柄と褒め讃えられるのだろう。ひょっとしたら二階級特進くらいはあるかもしれない。だけど──
(そんな事は、させないっ!)
記憶の消去を行う為にはその作業の間中、対象の人間と視線を重ねなければならない。全部消してしまうのならば一瞬で済むが、記憶の一部分だけをピンポイントで消すにはそれなりに時間がかかる。
でも、決して出来ないわけじゃない。白陵宮の研究室で『金縛り』と『記憶消去』の同時干渉の実験が行われていた事をイリナは知っていた。
より効率的に対象の記憶を消す事を目的としたその実験では、ホムンクルスが一度に複数の魔法を使えなかった為に、実験は何人ものホムンクルスを使用してようやく成り立つという非実用的な結果で終わったが、新型の私には魔術の重ねがけが備わっている。
一瞬だけでもこちらを向かせる事ができれば『後ろに誰かがいた』という記憶ごと消し飛ばし、それで全てが上手くいくかもしれない、そう思った時だった。
カシャァァン。
小さな、けれどはっきりとした金属音。それはレンに出会う少し前から、肌身離さず身につけ始めた物──手の平に収まるくらいのサイズの銀の十字架が地面に落ちた音だった。
「おい、誰かいるのか?」
見張りの兵士が怪訝そうに後ろを振り返り、私は慌てて上空から屋根の影に隠れる。
「おいおいどうしたんだよ突然」
「いや、屋根の上から何かが落ちてきた気がしたんだよ。多分これだ」
そう言って見張りの兵士は銀の十字架を拾い上げ、会話相手のもう一人の兵士に見せた。
「へぇ、こんな高価そうな物が路上にねぇ……ま、確かにこれは、偶々落ちてたって訳じゃなさそうだな……」
イリナは己の失態を呪った。自分でも気づかないうちに、ついつい気がはやってしまっていたのだろう。
唇から血が滲むのが分かったが、後悔しても事態は何も好転しない。
二人の記憶をいっぺんに消去する事は出来ないのだ。今顔を出せば、どちらか一人の記憶は消す事ができるが、代わりにもう一人に逃げる隙を与えてしまう。
仮に逃げられなかったとしても、警戒されてしまえば次に記憶を消す機会は無い。速やかに兵士の上官にへと情報が伝わって、それで一貫の終わりだ。
迷っている間にも、足音は近づいて来る。もはや躊躇している暇は無かった。
そしてイリナは──消し飛ばした。二人の兵士の記憶の、その全てを、跡形も無く。
拾い上げた銀の十字架の、その表面に刻まれた精緻な薔薇の紋様をいたわるように撫で、イリナはその場を後にした。兵舎と兵舎の間にある狭い路地には、記憶を無理矢理消去された所為で廃人と化した二人の兵士が残された。
ようやっと『銀の十字架』のお出ましです!