君がいることが僕の存在
「病める時も、健やかなる時も、死が二人を分かつまで、汝、これを愛し敬い、貞節を守ることを誓いますか?」
「誓います」
テレビドラマで流れてくる台詞に、私は大声で笑いたくなる。
そう。死が二人を分かつまで。
結婚という契約は、どちらかが死ねば白紙になるのだ。
足下には倒れ伏した夫。
顔はすっかり土気色で、物言わぬ物体に成り果てている。
私はほくそ笑んだ。後悔なんてしていない。寧ろ、爽快だ。
夫にこの手で引導を渡したのだ。すがすがしくなくて、何だというのだ。
元はと言えば、粘着質で独占欲の強い夫に、私はいい加減うんざりしていたのだ。
四年目の結婚生活は、傍目には順調に見えただろう。
二年目の半ばに買った一軒家は、中古とは言え、あちこちリフォームして居心地よく整えてあったし、子供がいなくても夫婦はいつも一緒だった。
休日のショッピングに映画。平日だって時間が合えば二人で外食。
町内会のイベントにも二人連れだって参加。
私達を見た大抵の第三者は、「いつも仲がよくて羨ましい」と言っていた。
仕事場は別々だったけど、夫は必ず駅で私を待っていてくれた。
「遅くなると危ないから」と言って。
だがそれはすべて欺瞞であり、虚構だ。
夫は昔からべったりくっついてくるタイプの男だった。
付き合っているときには、それが愛情なんだ、と考えていた。
私はこれほどに愛されている、と。
だが、結婚し、その束縛が生活全般に及ぶに至り、私は恐怖した。
興味があって検索した映画に連れ出されたり、たった一回「すてきね」と言った服を用意されたり、連絡もせずにどれだけ遅くに会社を出ても、必ず駅で待ち伏せされたり。会社の先輩と外回りをした日、「今日一日一緒だった男は誰?」と聞かれた時は、鳥肌が立った。もうダメだ、と感じた。
仲のよい夫婦を演じる裏で、私はずっと前から離婚したい、と告げていた。
彼のキャリアや私のキャリアがあるから、泥沼離婚は避けたかったのだ。
だけど、いま思えば、さっさと離婚調停でも何でも行うべきだったのだ。
余計な情をかけたおかげで、夫はさらに私を縛るようになり、彼の監視の目がない時間は欠片もなくなった。
私はいつの間にか辞表を提出され、妊活することになっていた。
驚きすぎて無言になった私の横で、夫はにこやかに私の上司に挨拶をした。
「今までどうもありがとうございました」と。
いつの間にか書いたことになっていた辞表を誰が用意したのか、わかった瞬間だった。
私が夫に衆目の中で怒りをぶちまけても、彼がたった一言「妻はいま、不妊治療で精神状態が不安定なんです」と言えば、誰もが納得してしまった。
私は家に連れ帰られ、家の中に閉じこめられるようになった。
「君が悪いんだよ? 分かれるなんて冗談でも言っちゃダメだ。僕たちは死が二人を分かつまで、ともにいることを誓ったのだから」
笑みしか見せないその顔に、私は背筋が震えた。
そして、どちらかが死ななければ、分かれることは無理だ、と悟った。
私の実家まで味方に付けた夫にあらがうすべはなく、家から出ることも許されずに淡々とすぎていく日々。
逃走する努力は、鎖で一週間つながれたあたりでくじけた。
離れることはできない。
分かれることはできない。
逃れることはできない。
死が、二人を分かつまで……。
自分の中に、これほどの暴力性が眠っているとは到底思わなかった。
五回目の結婚記念日に、私は持っていたベルトでうたた寝をする彼の首を思い切り締めた。
つけ爪が剥がれ、自前の爪も割れてボロボロになったが、気にしなかった。
足下で転がる夫を蹴ってみる。反応はない。
その大きく頑丈な手を踏みにじってみる。反応はない。
何をどうしても彼が動くことはなかった。
返事がない。どうやら、屍のようだ。
夜中のハイテンションのなせる技か、妙なジョークを頭の中に浮かべた私は、一時間以上も笑い続けるのだった。
体格のよい夫を運び出すのは一苦労だったが、幸い、ここは閑静な住宅地。
夜中に起きているような人間は皆無だ。
私は人目に付かないうちに、毛布で包んだ夫を車に積み込む。
そして、翌日の朝になってから、適当に走った先にあった人里しれぬ山林に遺体を埋めた。
よく、失ってから夫の愛に気づいた、とか、夫の遺品を見て後悔した、とか、二時間もののドラマで、夫殺しの妻が告白したりしていたけど、あれはナンセンスだ。
遺体を遺棄した後悔だってない。あんなのがいつまでも家の中にあったら、臭くなって困る。
惜しいとは欠片も思わない。
私は夫の辞表を郵送し、自分のスキルを生かせる職を探し出すと、自分の分の履歴書も郵送した。
新しい職はとんとん拍子で決まった。
近所の人には、夫は単身赴任になった、と告げた。
頃合いを見て、「遠距離だとうまく行かなくて」と離婚したことを告げるつもりだ。
そう。やることも、やらなければならないことも、山のようにあった。
だから、気づくのが遅れた。
最初はちょっとした違和感だった。
視界の端に、鏡の奥に、カーテンの影に、白い影を見る。
自分の片づけた覚えのない皿が食器棚に収まっていたり、髪も乾かさずに寝てしまった時は夢見心地にドライヤーの音を聞いた。
忙しさにかまけてトイレ掃除を一ヶ月さぼっているのに、何故かいつもピカピカだ。
夜中には、自分を抱き込むたくましい腕を感じて、驚いて飛び起きた。
もちろん、誰もいはしなかった。
気のせいだと自分に言い聞かせても、家の中のどこかにある息づかいが感じられてたまらない。
一晩中、視界の隅の何かを探しても、もちろん何も見つからない。
精神の緊張はピークに差し掛かっていた。
私は、気分転換に、と大学の頃の友人を招き、家に泊めることにした。結婚以来、ご無沙汰だった友人だ。
彼女のことを、夫はどうしても好きになれなかった。自分よりも私と親しい彼女に嫉妬したらしい。
付き合っていた最初の頃にそのことに気づいた私は、緩やかに彼女からフェードアウトしていた。
だから、彼女をこの家に招くことは、夫への決別宣言であり、まだ付きまとってくる気配への宣戦布告でもあったのだ。
二人っきりの生活に水をさされ、アレがどう動くのか興味もあった。
諦めていなくなってくれればいい、そんなことも考えていた。
何本のビールを二人で空けたのか。
思い出話は尽きることがなく、酒のつまみは尽きた。
私はすっかりいい気分になって、友人を居間に残し、トイレに立つ。
戻ってくると、友人がニヤニヤして私を待っていた。
「どうしたの?」
尋ねると、彼女は天井を指差した。釣られて天井を見てみるが、何も異変はない。
「何よ、はっきり言って?」
「旦那さん、いい人だね。ここを片付けて、ごゆっくりって言ってくれたよ。
結婚してから付き合い悪いの、旦那さんのせいだと思っていたんだけど、違ったんだね」
にこやかな彼女の表情に反して、私は青ざめていたはずだ。
まさか、と思った。同時に、やってくれた、とも思った。
夫は大人しく死んでいてくれるつもりはないらしい。
私はいらだち、吐き捨てるように「夫がここにいるはずがない」と主張したが、どれほど言葉を尽くしても、友人は照れ隠しだと思い本気にしない。
「またまたぁ。喧嘩でもしたの? だから旦那を二階に閉じこめてるのね。
夫婦喧嘩は犬も食わないっていうんだから。
さっさと仲直りしちゃいなさいな。
あ、でも、今仲良くなりすぎると、私の居場所がなくなるか……。
明日、私が帰ってからゆっくりやって」
すぐ目の前にいるのに、彼女に私の言葉は届かない。
あぁ、やっぱりだ。今まで通り、夫は私からすべてを奪い、私を囲おうとする。
私は力なく笑い、そうだね、と友人に相づちを打った。
明方、いつの間に寝ていたのか、私は動く者の気配に重い瞼を薄くあける。
酒臭い部屋の換気をし、私と友人にタオルをかけてくれる人影。
二日酔いの頭でそれをぼーっと見つめる。
人影は何もいわない。音を立てない。ただただ、私の世話をする。
私から何もかもを奪おうとしておいて。
自分のそばに縛り付けようと。
死んだ後まで!
滑るように絨毯の上を移動し、白い人影は私の前に立ち尽くす。
白い手が伸びて、私の頭を、髪を撫でる。
背筋に悪寒が走った。
白い手が私の頬を撫でようとしたその時、私は意を決してその白い手首を掴んだ。
瞬間、驚いて手を離しそうになる。
白い手は、当たり前だが冷たかった。
体温があって当たり前の手が、触れたところから痛さを感じるほど冷たい。
確かに死んでいるのだ。……でも、ここにいる。私の目の前に。
私は白い手をぎりぎりと握りしめ、白い腕をたぐり寄せて、目も鼻も口もない、のっぺらぼうの白い顔に向かってつばを飛ばした。
「私はあんたを許さない。そんなのは愛情じゃない! 独占欲と所有欲よ!
うんざりだわ! 消えてよ!」
私が精一杯声を殺して吐き捨てた台詞に、白い手は一度ぶるりと震えて見せ、私に捕まれた状態のまま、朝露のように薄明るい光に解けていった。
私は全力疾走の後のように、疲れきって肩で息をしていた。
まだ手の中に残る生々しい感触。もう片方の手でその手を包み、嗚咽を漏らす。
何故か、無性に泣きたかった。
あの朝の対峙で、夫の姿が目の前で消えたから、私は奴に勝ったのだと思った。
だから涙も出たし、幾分すっきりもしたのだ。
ところが、生前の奴のように、いやもっと始末が悪いことにパワーアップして、夫は私の周りをうろちょろする。
一度姿を見られたからか、隠すつもりもないらしく、あからさまに白い影が家中に出没する。
映画を見ていると寄り添ってくる。
皿を洗っていると、横で拭いてくれる。
出勤のために靴を履いていると、額にキスされる。
夜は当然のようにベッドに滑り込んでくるし、シャワーを浴びていると不埒な手が身体の奥に火をつけてくる。
怪しげなお守りや、祈祷師も頼んでみたがまるで効果がない。
私は疲れきって、ソファに沈み込む。
すると、キンキンに冷えたビールとつまみが、テーブルの上に用意された。
「プッ、クククッ……」
笑いがこみ上げてくる。
私の背中を撫でる、優しくて大きい、冷たい手。
「アーハッハッハッ!」
笑いが止まらない。
これが笑わずにいられようか?
彼から逃げるために、離れるために、私は夫を殺したのだ。
断末魔の悲鳴を聞き、泡を吹いてもがくのも構わず、この手に力を込めたのだ。
もし捕まったとしても、一欠片の後悔も持たない覚悟で、それをやり遂げたのだ。
その結果がこれだ。
夫は私の世話を続ける。
私が文句を言ったところで、聞く耳もない。
もう一度殺してやろうと思ったところで、掴むたびに手の中で砕けていく。
粉々に。
その一瞬だけ、私の否定によって、存在が保てなくなったかのように。
私に何とも言えない徒労と罪悪感だけ残して。
そして彼はまた復活する。何事もなかったかのように。
私の中に、降り積もるやりきれなさ。
私はそれを消すすべを知らない。
私は何のために彼を殺したのか。
すべては茶番だ。何の意味もない行為だ。観客のない喜劇がそこにはあった。
砂時計のように、緩やかに時が降り積もっていく。
見慣れぬものも、日々繰り返せば日常となる。
物言わぬ夫がそばにいることは、気づけば当たり前の光景になっていた。
ささくれだった私の神経は、白い夫が日常にとけ込むに従って、落ち着いていった。
夫はかいがいしく私の世話をする。だって、それ以外にやることは何もないのだから。
私は夫との生活に飽きれば外をぶらつき、一人で映画を見て、ショッピングをして、適当なホテルに泊まった。
何となく気持ちが落ち着いたら、また家に帰る。
相変わらずあちこちに現れる白い影に、もはや苦笑しか出ない。
当初は、殺す前と同じ生活だ、と感じていたが、その考えも徐々に変化してくる。
夫には声がない。だから、「どこに行っていたのか」とか、「誰と会っていたのか」とか、「必ず連絡しろ」だなんて口うるさいことを決して言わない。
夫には顔がない。だから、泣きそうな顔になって私を見つめたり、いらだちを押し殺して作り笑いを浮かべたり、凶器をはらんだ目で愛を囁いてくると言った、私の神経を逆なでする表情を浮かべない。
私はふらっと家出をして、また家に戻る。そこに白い影がいることを必ず確認する。
「まだ、いる」は、いつしか「あ、いた」になり、影との生活も数年に及んでくると、「いたいた」となる。
私の生活に白い影がいることは当たり前になり、むしろ、かつてのように口喧しくないだけ、かえって快適になったと感じた。
夫は何も喋らない。喋ることができないのか、それとも喋りたくないのか、そこのところは不明だが、今のところ、死んだ後の夫が喋っている様は見たことがなかった。
だからだろう。
かつては一々の詮索にいらついていた私なのに、今では一日にあった出来事を率先して夫に教える癖がついていた。
余計な口を挟まれることがないから、私は思いつくまま、感じたままに夫に説明する。
白い影は、うんうん、とうなずき続ける。
かつてよりも遙かに穏やかで、満ち足りた日々。
私はふとした拍子に考える。
本当に、殺すしかなかったのか、と。
夫が黙って私の話を聞き、私が言葉を惜しまずにいろいろと話しかけていれば、私が殺す決意をすることはなかったのではないか、と感じた。
同時に、あの時は殺すしかなかったのだ、とも考える。
今、このように気づくことができるのは、私が彼を殺したからなのだ。
もし殺さなければ、あのままの生活が続けば、やはり彼を殺すか、もしくは、私が死ぬか、していただろう。
時折、彼の手が私を柔らかく、大切なものででもあるように、静かになで回す。
私はその冷たい手に身をゆだね、暫し時を忘れる。
愛とは何なのか、と考えながら。
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山林から見つかった遺体について、その妻に任意聴取を求めた警察は、彼女の告白に戦慄した。
彼女はその殺人をあっさりと認めつつ、死んだはずの夫とずっと暮らしてきた、というのだ。
確かに、彼女の家には二人分の歯ブラシ、食器、衣服に靴などが揃っていて、定期的に補充もされていた。
だが、夫用の物品はほとんど新品同然だ。そこに妻以外誰も住んでいなかったのは、一目瞭然だった。
警察は、妻が殺人という罪の重さに耐え切れず、深く心を病んでいるのだ、と判断した。
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「ねぇ、いるんでしょう? 私疲れちゃったの。
あなたのそばにいきたいわ……」
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独房の監視カメラに彼女は確かに一人だった。
しかし、死因は扼殺とされた。




