After Day〜千加の憂鬱
『晴れた日はベランダで』の後日談です。この話だけでも読めるように書いていますが…そういったのはちょっと、とお思いの方は避けてくださいませ。
最近はいつも憂鬱だ。
鈴木千加は、部屋の窓から空を見上げて大きな溜息をついた。
窓ガラスにつけた指先は細く白い。手首からして華奢で、力を入れて掴むと折れてしまうのではないかと心配になるほどだ。
肩まで伸ばした艶やかな黒髪は、白く肌理のこまかい肌と相まって、無垢な少女のようなうつくしさを引き立てる。
そして寝起きのために潤んだ瞳を長い睫毛がそっと覆う、憂えた横顔をクラスメイトが見たなら、なんと儚げだと思いながらも見惚れてしまうことだろう。
そんな千加には、夏にきらきらと煌めく太陽よりも、冬にしんしんと降る雪のほうが似合う。
どこまでも完璧な容姿だが、生まれついたもの以上に千加自身も努力している。
素直で真っ直ぐに見える髪は、実のところ癖っ毛気味で、今日のように雨の降りそうな湿気の多い日は外にぴょんぴょんと跳ねてしまう。
それをストレートドライヤーで必死に伸ばして、白い肌は日に焼けると真っ赤になるので日焼け止めも欠かせない。
コンタクトは体質的に合わないから、メガネも理知的に見えて、外観を損なわないものを選んでいる。
みんなはなにもしなくても千加はパーフェクトだと思っているが、本当は人一倍努力家だ。
努力を努力と見せない自然体が、プライドも高い千加が目指すところだ。
しかし、今日はどうも髪が真っ直ぐにならない。
他のひとが見てもわからない範囲内ではあるが、千加には気に入らない。
けれどまた直すにもそんなに時間がないし、これ以上したら髪も傷んでしまう。
「まあ、しょうがないか」
そう肩を竦めて呟くと、千加は制服に着替え始めた。
ちっ
教室に入り、その男の顔を見るなり千加は内心舌打ちした。
しかし表面上は柔和な笑みを崩さず、あくまで穏やかな雰囲気をまとっている。
誰ひとりとして、千加の本当の表情を読み取ることはできない。
「鈴木くん、おはよ〜」
「おはよう」
千加に話しかけるひとは男女関係なく、うっすらと頬を染めているのがその証拠とも言える。
顧問曰く、『人望だけで使えない』生徒会長と違い、美人で頭が切れる優等生でなおかつ人当りもよい生徒会副会長の千加は、クラスメイトだけではなく教師陣にも受けがいい。
そのため、どんなに不本意であろうとも、教師に頼まれれば笑顔で引き受けるしかないのだ。
千加はもう一度その男を見る。
彼は、幼馴染みが女性だと勘違いするほどのうつくしい人だ。
地毛だという明るめの色をした癖毛は肩までの長さがあって、日によって束ねたりおろしていたりする。
髪と同じように色素の薄い、光を浴びると金茶に見える瞳を縁取る睫毛は長く重そうだ。
心もち垂れた眼尻がやわらかい印象を与えている。
千加が氷のような透きとおったうつくしさに対し、彼は太陽の光が似合いそうなあたたかなうつくしさがある。
上背は千加より頭ひとつ分以上高いし、体のパーツのひとつひとつを見るに、近付けば男だと納得するが、なるほど遠目ではやわらかそうなふわふわの髪と、その甘い顔で微笑まれれば女性だとも思ってしまうだろう。
しかし見た目とは違って、小学生でもないのに、世話を頼まれた彼はどうやら教師には手の負えない人間であるらしい。
それは首筋に浮かんだ傷痕が原因らしいことは、聡い千加でなくとも察しがつく。
まだ疎らにしか登校していない教室の、自分の席ではない指定席に最近陣取っている彼が、千加の不機嫌の原因で、彼本人も気づいているだろうに、決してそこから退こうとはしない。
彼のネクタイは一学年下をあらわす濃緑であるのに、我がもの顔で教室に入り浸っている。
正確にいえば、彼は休学期間が長く出席日数が不足して留年しているため、本来は同じ年だが。
「お、千加!はよ〜」
千加に気づいた幼馴染みが、御飯を口に含んだもごもご声で呼んだ。
そして、たったいま気づいたと言わんばかりの表情で、
「ああ、千加先輩。おはようございます」
男もにっこりと、あきらかに作り笑いであるが…で挨拶をしてきた。
「綱紀、上條くん、おはよう」
作り笑顔なら、自分のほうがよっぽど上手い。伊達に物心ついたときからしていない。
幼馴染みの橋谷綱紀は、そんな猫かぶりの千加を知っている、ほんのひと握りの人間だ。
千加自身も、綱紀にだけは本心を素直に表現していて、普段の鬱憤をかなり彼に発散していたりする。
小学生までは千加のほうが背が高くてしっかりしていたから、鈍くさくて手のかかる綱紀は弟のように思っていた。
けれど、いつの間にか身長は抜かれて、彼女ができてとなんとなく置いてきぼり感が否めなかった。
(でも、まだお子様だよな)
食べることに一生懸命で、しかもとても美味しそうに食べるのを見ると、自然と頬が緩んでしまう。
「ほら、また飯粒つけて…」
綱紀が頬につけた飯粒を取ろうとすると、横から上條縁がすっとそれを取って自分の口に含んだ。
千加は伸ばした手をぎゅっと握りしめた。
腹の底からフツフツと湧きあがる怒りは、しかし千加の外を纏うときには冷気となり教室を包み込む。
いままで、表現化していなかった内面がそうして少しずつ漏れてしまっていることも、千加には気に食わない。
千加の心の綻びすべては、上條が目の前に現れてからはじまっている。
そもそも、初対面からして最悪だった。
雨の日のゲーセンで、対戦相手のインチキにイライラしていたところをいきなり割り込まれ(いや、あれは結局助けてくれたことになるのか…)、圧倒的な強さをみせたところで、インチキ集団と乱闘騒ぎを起こし、なおかつ千加ひとりだけ残して逃げたのだ(これも綱紀が連れ出したのだけど)。
(綱紀も綱紀だ!幼馴染みで親友のおれよりも、上條を連れ出すなんて!)
…翌日、きっちりオトシマエはつけてもらったが。
けれど、綱紀が自分を選んでくれなかったという事実が、千加の心を傷つけた。
(結局はひとりなんだ)
遠ざかるふたりの背中を見送りながら、悔しいという怒りよりも寂しいという切なさを覚えた。
それがどうしても自分で納得がいかなくて、怒ったフリや綱紀に鉄拳を食らわす事態を引き起こした。
自分でも消化できない感情。その正体はなんだろうと考えたとき、あるひとつの可能性が頭をよぎったが、
(…ないない、あるワケないって)
と千加は想像を全否定した。
トキメキよりも手が出る感情が、『恋』だの『愛』などという甘ったるいモノのはずがない。
ファーストキスの相手だろうが、彼女ができればブチ壊したりするようなことをしていたとしても、自分が綱紀相手にそんなモノを覚えるなんてことは…決して、ない。
(そもそもキスは劇の上だし、あの女たちはただ単に彼氏が欲しかっただけで、綱紀じゃなくてもいいというのが判ったから、親友として…)
…言い訳染みている、とは思う。けれど、それ以上は考えたくなかった。
だから綱紀が『憧れの縁サン(彼を女性と勘違いしていたころ)』のことを相談してくれば、呆れならがもアドバイスしたりしてやっていたというのに。
一年の世話を頼むと生徒会の顧問に頼まれた職員室で、上條の姿を見たときに感じた予感は、残念ながら違うことはなかった。
上條が男と知っても、綱紀の彼を見る目はどこか浮ついている。上條もその気があるのかないのか、仲良く一緒に登校してきたかと思えば教室に居座り綱紀に構っている。
(その場所はおれのだったのに)
心の底に押し込めたモヤモヤが、知らずとあふれてきて吐き気がしそうだった。
実は方向音痴という上條を、特別棟にある図書室に案内する途中で、
「千加先輩」
見下したような口調で呼ばれ、先を歩いていた千加はぎゅっと拳を握って振り向いた。
「なに?」
朝のホームルーム前の忙しい時間の特別棟にはまだ人影はない。
人目はないが気に食わない相手でも、身に染みついている微笑みは自然と浮かぶが、次の瞬間には驚きに目を瞠った。
「あんた、綱紀とどこまでいってんの?」
「は!?」
どこまで、ってとりあえず高校までは一緒だけど…って、相手はそんな答えを求めているわけではないだろう。
「どこまで、って…綱紀とは幼馴染みだし。そのまえにおれも綱紀も男だよ」
「優等生な回答だな」
上條がわざとらしく溜息をつくさまに、千加はカチンときて、つい眉間に皺を寄せてしまった。
そんな千加を見ても、上條はなんとも思わないらしい。
そもそも、上條は千加の本質を見抜いている節がある。だからといって、相手のペースに巻き込まれてはいままで培ってきた外面がガラガラと音をたてて崩壊してしまう。
(冷静になれ)
千加は自分を叱咤すると、さがってもいないメガネを中指で押し上げた。
「なにがいいたいのかな」
努めてにっこりと微笑みやわらかく問うと、上條はへぇ、と目を眇めた。
「はぐらかすんならそれはそれでいいが、綱紀は俺がもらうから」
(犬猫じゃあるまいし、もらうってなんだよ)
胸の奥から込み上げてくるモノに息がつまりそうだ。
綱紀が好きなら本人にアプローチすればいい。なのに、どうしてわざわざ自分にそんなことを宣言してくるのか。
「…おれがダメだっていったら、諦めるつもりでも?」
「それはない。俺は綱紀じゃないとダメだから。ただ…」
「ただ?」
「綱紀が、あんたはお袋みたいなもんだからっていうから、言っとこうかと。実際、綱紀への構い方はオカアサンだよな」
(なんだとーっ!?)
ああ、たしかに綱紀には何度か『オカンみたい』だと言われたことはあるが、この男にまで言われたくない!
半分以上揶揄が含まれていることは十分に承知している。
しかし、もうすでに沸点を超えてしまっていた感情はこれ以上抑えがきかず、ほとんど無意識に千加は上條に拳を振り上げていた。
「なるほど。美人は怒ってもきれいだ」
余裕で千加の拳を受け止めた上條は、怒りのあまり朱に染め上げた千加の顔をしげしげと眺めている。
上條の掌から逃れようと力をこめて引っ張っても、彼の手はびくともしない。
綱紀からはさんざんに馬鹿力と罵られてきたが、それは千加の華奢な姿とのギャップの差であり、本当に力比べをしたらやはり敵わないだろう。
女性のようにうつくしくても、その綱紀よりもさらに長身で、細身であるが決して華奢ではない上條に、生まれもって線の細い千加が抗う術はない。
「綱紀はどうにもきれいなひとに弱いらしいんだ。俺の顔もすごく気に入っているけど、あんたの顔を見る時もちょっと浮ついてるんだよな」
それがどうにも気に食わない、と上條は薄く笑った。
その表情に酷薄さが滲みだしているのを感じた千加は、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。
いつのまにか、千加の拳から手首へと移動した上條の指は、白い千加の手首に絡みついていた。
「…その気がないなら、邪魔をするな。綱紀にはもう唾をつけているし、あんたが出しゃばらなければ、俺のモノにできる」
「…つ、ば…?」
声が震える。
いつも強気な千加が同じ人間に対して、理由のない恐怖を覚えたのは初めてだった。
どうして彼がそこまで綱紀を想っているのか、千加にはまだわからない。
けれど、彼が本気で自分を綱紀の前から排除しようとしていることだけはわかった。
「そう、唾」
聞き返した千加に上條は悠然と笑ってみせて、千加のその震えた皮膚の薄い顎を指先で持ち上げた。
そして、ゆっくりと茶色味が強い瞳が近づいてくる。
明るい瞳の色、しかしその瞳の奥には深く昏い闇の色が潜んでいた。
彼の事情を知らない千加には、その闇の正体を察することはできない。
ただただ、本能的な恐怖で体がガクガクと小刻みに震えてしまい、どうすることもままならない。
(…い、や。怖い…っ)
もうこれ以上、彼の闇に吸い込まれてしまいそうな瞳を見ていたくないのに、目を逸らすことも閉じることもできなくて。
「千加先輩って、なんか…嗜虐心をそそらせる」
上條の吐息を唇に感じて、とうとう千加の瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。
だが、上條は容赦なかった。
血の気の失った千加の唇を、執拗なまでにねっとりと、その赤い舌で舐め上げたのだ。
「綱紀に近づくなとまでは言わない。が、もっと関わりを控えてくださいね、千加先輩?」
カクンと膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちた千加の頭上から、冷たい上條の声が降り注いだ。
登校したときには小降りだったが、いまは窓ガラスに激しく打ちつけるほど雨足が強くなっていた。
「…加、千ぃ〜加!」
「え?あ…なに?」
千加がはっと我にかえって顔をあげると、綱紀が目の前で手を振っていた。
「なに?じゃないっつーの。次、移動だぜ」
机の上にはまだ現国の教科書が開いたままだった。
しかも、授業が始まったときに開いたページのままで、どうやらいまの授業は完璧に上の空でいたらしかった。
一目瞭然な千加の様子に、さすがの綱紀も眉根を寄せる。
「どうしたんだ?朝からずっと様子がおかしいよな?」
いきなり図星をつかれて、千加は珍しくも言葉につまった。
どんなに動揺していても、決して表に出さない千加がそんな醜態を晒すほど、今朝の上條とのやり取りは千加の心に大きな負荷をかけていた。
「…正確に言うと、縁を送りに行ってから、だよな」
(そんなところで察しがよくならなくてもいいのに…っ)
きゅっと唇を引き結んで、千加は机上に視線を落とした。
平静さを取り戻そうとすればするほど、手は不自然すぎるほどゆっくりと教科書を机の中にしまいはじめる。
「…そんなことない。ただ、ちょっと調子が悪くて」
うろうろと忙しなく動く瞳が、余裕のなさを示していることに、そんな経験をしたことがない千加は気づいていない。
そんな千加に、綱紀は盛大な溜息をついた。
「あのさ、何年の付き合いだと思ってるんだ。おまえがそんな風になるの、オレはじめてみたぜ?」
「本当に、なんでもないって言ってるだろ!」
ガタンッ
勢いよく立ちすぎて、椅子が後ろに倒れてしまった。
幸いにも、次が移動教室のため、教室にはふたりのほかには誰もいない。
思わず血の気が下がって教室を見渡す千加を、綱紀はゆっくりと両腕で抱きしめた。
「なにも怖がることないさ。オレがいるって」
そうしてぽんぽんとあやすように頭を撫でてくれて、思いのほか広い綱紀の胸に、千加は無意識に縋っていた。
あたたかな日向の馴染んだ匂いが鼻腔を掠めると、うっすらと涙がこみ上げてくる。
(…怖い?そっか、怖かったんだ…)
上條の瞳の奥に、人間の闇を垣間見た千加は、知らずと恐怖に震えていたらしい。
綱紀をどうこう、の話よりも、その闇に引きずり込まれそうになったことに、心が悲鳴をあげていたのだ。
「…綱紀のクセに生意気な…」
「なんだよそれ」
ひでぇなあ、と笑う綱紀の声にまぎれて、千加は小さく鼻を啜った。
昨日の雨が嘘のように、雲ひとつない青空が広がっていた。
夏休みを一週間後に控えたこの季節に相応しい、カラッとした暑さと照りつける太陽がきらきらと眩しい。
昼休み、誰もいない生徒会室で書類を片づけていた千加は、トントンと軽い音をたてて紙束を整頓すると、ふと窓際に歩み寄った。
南側にあるこの部屋には、いまの時間には熱いほどの陽光が差し込む。
ブラインドの隙間から入り込む眩さに目を眇めていると、コンコンとドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
生徒会の人間がノックをして入ってくることはないから、どこかの部の部長でも予算の融通を頼みにきたのかと思っていたら、入ってきたのは意外な人物だった。
「…上條くん」
認めたくないが綱紀のおかげで心は軽くなったが、やはり無意識の畏れから声がかたくなってしまう。
昨日はおろしていた髪を、後ろでゆるやかに纏めた今日の姿のほうが、なんとなくやわらかい雰囲気がする。
「また、なんか牽制にきたわけ?」
逃げようとする弱い部分を押しつけて、キッと鋭く睨む千加に、上條はすっと睫毛を伏せた。
そのまま上條は後ろ手でドアを閉めると、再び目を開いて窓側にいる千加へと歩いて行く。
カシャン
びくっと跳ねた千加の肘がブラインドに当たった。
強気でいても、昨日の今日で恐怖が消え去ったわけではない。
「…千加先輩」
手を伸ばせば互いに触れられる距離まで近づいて、上條は薄く唇を開いた。
こちらを見る瞳の色は光に当てられて金茶に輝き、畏れるような闇の昏い色は滲んでもいない。
それにほっと小さく息をついた千加は、日本人離れした色彩をした彼をぼんやりと眺めた。
(きれいなひと…)
少し惚けたような表情になった千加に、上條はいきなりガバッと頭を垂れた。
「すみませんでした!」
「え?…え…?」
最敬礼で謝る上條に、千加はなにが起こったのかわからずに、ぱちくりと瞬きする。
そうして目の前に差し出された、白と淡いピンクのバラで纏められた花束を、腕の中に押しつけられた。
「俺のしたことがこれで済むとは思わないけど、お詫びのしるしです」
高価そうな花々は、彼が育てたものらしい。
どちらかというと、千加には百合のほうが似合いそうだが、上條の印象で可愛らしく可憐なバラのほうが千加に似合うと踏んだようだ。
可愛い、と言わんばかりの穏やかな表情で千加と花束を見つめる上條の眼差しに、花束など受け取った経験もない千加は困惑と気恥ずかしさに頬を染め上げた。
「…っ!な、なにコレ…どう、して」
「だから、昨日のお詫び。…どうも、雨の日は情緒不安定でダメだ」
苦く笑った上條に、千加は小さく首をかしげた。
「綱紀に殴られた。『千加になにをした』ってすごい剣幕でさ」
そう言った上條の頬が少し赤くなっているのに気づいた。
(…そう言えば、今日は朝教室に来なかったっけ)
上條は殴られた時はどうして、と思ったが、翌朝太陽の光を浴びたところでようやく自分が行った凶行を悔やんだ。
綱紀を想う気持ちが暴走して、言ってもやってもいけないことの自制もきかず、千加を傷つけてしまったのだと、本当に反省しきった表情で綴った。
いつも自信満々な彼がここまでヘコんでいるからには、かなり本気で綱紀が怒ってくれたのだろう。
綱紀は人当りがよくて誰にでもやさしいけれど、誰かを守るためには強くなれるひとだということを千加は知っている。
『オレがいる』
綱紀の言葉とやさしさがじんわりとあたたかく千加の心を包んだ。
(…やっぱりおれ、綱紀が好きなんだな)
ただ、それは狂おしいほど、彼のすべてが欲しいと思うような強烈な欲望を含んだモノではなく、ただただずっとその傍いられたらという、あたたかくやわらかい気持ちだけだ。
「じゃあ、綱紀を諦めたら赦してあげる」
色に見合った仄かな甘い香りのする花に鼻を埋めて上目遣いで言うと、上條はその端正な顔からサアッと血の気を引かせて硬直した。
彼はきっと自分とは違う意味で綱紀を好きなんだろう。綱紀に許してもらいたければ、そのまえに千加に赦されなければならない。
しかしその条件が『諦めたら』では、なんの意味もない。八方塞だろう。
しゅん、と肩を落とした情けない上條の姿がおあずけを食らった大型犬のように見えて、急に笑いが込み上げてきた。
「あはははは!なんか、ようやく自分が戻ってきたかも」
高らかに笑う千加に、上條は顔を引き攣らせた。
目を眇めて唇の端を釣り上げた千加の表情は、上條には悪魔に見えたに違いない。
「綱紀にはおれにキスしたことは伝えてないんだろ?」
上條はその問いには答えなかったが、黙秘が事実を物語っている。
正確にはキスではなかったけれど、あれはそれ以上にいやらしいと千加は思う。
あれを綱紀もされたのかと思うとかなり複雑だ。
「…俺にどうしろと」
唸るように低く掠れる上條の言葉に、千加は『勝った』と内心ガッツポーズをした。
どうしようかな、と思ったけれど。綱紀もきっと彼と仲直りしたいに決まっている。
(おいおいいじめていくとして、今日のところは罰ゲームをこなしてもらうってことで)
千加は意地の悪い表情を引っ込めて、自分の中でいちばんきれいだと思う微笑みを浮かべた。
千加の笑顔を見慣れた綱紀ですら目を瞠る微笑は、すれた上條にも有効なようだ。
コクン、と喉を鳴らした彼をそれはもう楽しそうに眺めて、千加は提案した。
「綱紀の前で、『千加、一緒に遊園地に行かない?』って誘ってよ」
「はあっ!?」
なんでそんなこと、と口を開きかけた上條を人差し指一本で黙らせる。
「うんと甘く、ね。おれだけを誘うの。上手くいけば、綱紀がヤキモチ妬いてくれるかもよ?」
(どうだかね。綱紀のことだから、美人同士がくっつくなら目の保養になるじゃんとか思うだろうな)
心の中でぺろっと舌を出しつつ、もしかすると結構単純かもしれない上條が乗り気でいることが可笑しくて、堪えきれずに千加は花に顔を埋めて笑った。
そして、少し元気になったような上條の様子に、小さく息を吐いて胸を撫で下ろした。
夏休みに入ってすぐの快晴の日、千加は上條との遊園地デートを強行した。
そもそも場所を遊園地にしたのは、父親がもらってきた無料券があったからで、しかも期限は今日までとなんとも言えずタイミングが良い。
もともと三枚あったチケットで、あまり関係が芳しくない上條をどう誘おうか思っていただけに、一番千加らしく効果的な意地悪で誘うことができて内心ほくそ笑んだ。
「ふたりじゃ恥ずかしいから一緒にきて」
綱紀は上條がいなくなってから、こっそりと気恥ずかしげに振舞って誘った。
千加の芝居により、綱紀の目には『上條は千加に気があって、千加もまんざらじゃない』という具合に映っていることだろう。
綱紀は色恋に鈍い。なんとなく上條に惹かれていたとしても、それを恋だと認識するまでに時間がかかる。
(そのまえに、潰す)
千加の不穏な思惑に気づかず、上條はしきりに綱紀が嫉妬しているかチェックしているようだけれど。
残念、綱紀は微笑ましいというか『ふたりとも可愛いなあ』という、ほわんとした笑みを浮かべている。
「縁、次はあれに乗ろうよ」
ぎゅっと上條の腕に縋って、日本でも三本の指に入る恐さのジェットコースターを指差した。
途端に顔色をなくす彼は、先ほどの絶叫マシーンでしばらく放心状態になっていたほど苦手らしい。
「ダメ?」
可愛らしくねだって見せつつ『作戦失敗するよ』と、目で圧力をかけると、上條はうっと言葉に詰まった。
「付き合ってやれって」
綱紀にも満面の笑顔で肩を叩かれ、彼がどんどん沈んでいくのが手に取るようにわかる。
(あー、楽しい!でも、少し可哀想かな)
早く、と手を引いて走り出す千加にしぶしぶついてきた彼に、千加はそっと耳打ちした。
「今度、雨の日の事情ちゃんと聞かせてよ」
「…なんで」
急に険しくなった表情に、しかし千加はもう怯まない。
「友達、だろ?」
ね?とウインクすると、上條は盛大な溜息をつき、千加に捕まっている手を逆に掴んだ。
そしてグイッと乱暴に手を引いたことにより、グラッとよろけた千加を、上條は横抱きにして抱きあげる。
「! ちょ…っ」
公衆の面前で軽々と抱きあげられた恥ずかしさに、千加の顔はみるみる紅潮していった。
妹の洋服を借りて着てきたから、男には見えづらいだろうが、やはり抱き上げられるのは屈辱だ。
上條は仕返しをしたつもりだろうが、しかし結果は残念なことにしかならない。
「ふたりとも、仲良くなったよな」
もはやカップルを見守るような表情でしみじみと呟く綱紀の言葉に、
「どこがっ!?」
過ぎた動揺のために、最初の思惑を頭から吹き飛ばしたふたりの声が見事にハモった。
ちょっと、千加に思い入れがすぎました…。
主人公、影薄いなあ…(遠い目)。