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FREEKS  作者: 空原 梨代
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18話:白灰を踏む者

「我は我が愆尤(とがめ)を知る。故に我が罪は常に我が前にあり──」


 年季とシミによって黄ばんでしまったページに綴られたその文字を老兵が指でなぞっている。


「わかっている……わかっているとも……」


 老兵は囈言(うわごと)の様にそう繰り返す。軒先の雨垂れが沓脱石を穿つ様に、計り知れない年月は万象を風化させてしまう。人の感情や魂も雨風に晒され幾星霜の月日を経てしまえば、擦り減り形状を変えてしまうものだ。それが自尊心や、驕り、或いは敬虔さ、羨望や、尊敬と言ったあらゆる感情が変容してしまう。だが、一つ、決して変わることのない感情がある。

 それは憎悪を焚べられた怒り。憎悪は常に延々、炎炎と燃え続け、薪を焚べ続けそのが火種が尽きることを許さない。その炎は最早当人の魂すら侵食し、我怒る故に我ありと言わんばかりにレゾンデートルとして機能するに至る。やがては、何に怒っていたのかも思い出せなくなるほどに、焼かれ続ける魂はどうしようもなく壊れてしまうことだろう。

 それでも、今男は自身の怒りの所在を理解できている。

 そう、男は理解出来ているのだ。この炎がもたらす、己が結末と、その筋書きも──


「手筈は整ったか?」


 廃墟の仄暗い部屋の隅に視線を向けて、老兵は尋ねた。視線の先には草臥れた椅子に腰掛ける老人が腰掛けていた。


「あぁ、あのいけ好かない灰冠りの賢者の予想通りカルダンとオリボンボルト、イグレリオの国境沿いの龍脈なら十中八九、アレを叩き起こせる……」


 老人はそう話す。彼は老兵よりさらに老け込んでいるようで、その顔には年月という拭いきれないほどの疲弊の皺が積み重なっていた。


「なぁ、イゴールよ」


 老人は老兵に語りかける。


「俺はもう、疲れちまったよ……」


 老人は力無くそう告げ


「どうして、お前は未だ歩みを止めないで進んでいられる?」


 と物悲しげに尋ねる。老兵イゴールは老人を僅かに一瞥するする。睥睨か、老人がイゴールを見るその目には憐憫に近いものが潜んでいるのは容易に理解できた。イゴールの目もまた酷く草臥れ濁っている。それが年季によるものか、あるいは……


「立ち止まればそこで終わる。何もかも。それだけの話だ……」


「本当にそんな理由か?俺は知っているぞ。あんたが、真摯に敬虔(けいけん)(あらた)かな男でもあることを、決して己が欲望の為だけに世界を混沌に陥れる様な男ではないことを、何よりも……」


 老人は言葉を詰まらせる。何故ならそれを聞くイゴールの手は静かにしかし激しく震え、彼のの周囲は無意識に溢れ出る彼の熱気で焼け焦げ火の粉を巻き上げていたのだ。「皆まで言うな」その炎は無言で物語っていることを老人は察した。


「──今が最良のタイミングでないことくらいお前もわかっているだろう……まだ目的のものの所在だってわかっていないんだ。それに、お前がどれだけ強くとも他の白金十字が出てきたらどうするだ?連中はお前と違ってブランクもない正真正銘の暴威だ。尤も俺に言わせればあんたも十分すぎるくらいには化け物だが……」


「問題ない。墓の在処(・・・・)は解らずとも今は憂慮する必要はない。他の白金十字や教会、魔法省の妨害も想定して先手を打つ手筈も整っている。それに何より、今教会は各所に散らばった脱獄囚やカルダンとドラゴニアの国境沿いのいざこざの対処に追われている。今が最良のタイミングでなくとも、今を逃せばあの小娘に接触できる機会は限りなく皆無と化すだろう……」


「そこまで、過去に縋るのか……」


 イゴールの言葉に、老人は窘めるようにそう尋ねる。


「俺には過去しかない……」


「哀れだ……かつての英雄が、世界を敵に回して止まれぬ進撃を続けてなお、向かう先が今や未来でなく過去。帰ることの、変えることのできない結末だなんて……あまりにも哀れじゃないか……」


 老人は物悲しそうに瞠目し、その手で目頭を覆った。イゴールは彼の言葉に何も返さなかった。イゴールは部屋を後にし、部屋には老人と、建て付けの悪い扉の鳴らす不快な音のみがこだましていた。

 その沈黙が意志の、不退転の証左であることを老人は知っていた。だからこそ、老人は無頼な両手を合わせ柄にもなく祈った。老兵の、イゴールの迎える結末が、せめて安らかなものである様に──


 ──

 ────


 ようこそ初めまして。そして、お久しぶりです。闇はそう語りかけるようにメルシェを優しく包み込んだ。仄暗い泥濘に溺れるような感触が全身を覆っていく。息が出来ない。悠揚の取り留めもないこの郷愁にメルシェは自ずと察し、それが確信に変わるまで幾許もかからなかった。

 ここは死と生の先に溟し(ところ)、これなるが淵源か。私はきっとここから来たのだと、彼女は本能的にそう察した。ようやく見つけた。私の故郷……ここが……

 土の匂いにも似た馥郁に、闇の心地よさに耽溺し、瞼がするりと落ちていく。


 ──ジグ♪ジグ♪ジグ♪


 ピアノの鍵を叩く音が微睡みの中、心地よく響く。デジャブか、この観覚確かに前にも何処かで……

 閉じかけた重い瞼をゆっくり開けると、闇の中真っ白い人影が鍵盤を叩いていた。誰、何故、どうして、などと言った疑問よりが浮かぶより先に、メルシェはその音色にひたすら耳を傾けていた。そうする他にないほどにその音色は寂しくも魅力的だったのだ。

 万感を携えた茫漠無量たる闇の靉靆が、押しつぶす様に、或いは包み込む様にメルシェを取り巻く。

 覚束ない意識と、朦朧とする精神の中にあってメルシェは判然とはせずとも理解する。私は。否、我々はきっと『ここ』から来た。そして我々はきっと『ここ』へと還る。故にこそ、私が再びこの寂寥に足を踏み入れることになんの謬見があろうか、なんの躊躇いがあろうか。

 やがてメルシェはその瞼の開き方も、声の発し方も、音の聞き方も、四肢の動かし方すら意中より抜け落ち、文字通り人形となって暗い水底にただひたすらに十二と九つの精神の範疇に沈んでいく。


「耳と目を閉じ、口を噤んだ人形になった気分はどうだ?」


 音の聞き方を忘れかけたメルシェの鼓膜に不意にそう囁きが響いた。景色の刻み方を忘れかけた網膜が、閉じかかった瞼の狭間から眩い光が差し込んだ。夢現の最中、メルシェは目の前の光の光源が、彼女の首元にあることを理解した。視線を下ろすと、燦然とした輝きを纏っていたのは、ルゥに手渡された真鍮の首飾りだった。


「尤も、人形とは往々にしてそういうものであるか……」


 声が聞こえる。優しい女性の声だ。不意に頬を何かが触れた。それは柔らかい手のひらのようで、それは優しくメルシェの頬を何度も撫でるのだ。


「おい同胞よ、起きよ」


 半覚醒の思考と視野が徐々に明瞭になっていく。そしてメルシェは彼女の目の前に着物姿の少女の姿を見た。


「あ……たは……」


 うまく声が出ない。メルシェは吃る自分の喉を思わず摩る。夢の中では声が思うように出せないと聞くがこれがそうなのだろうか。


「まぁ、声の出し方は追々思い出せば良い。それよりも(うぬ)や、早う四肢の感覚を取り戻せ。その手足は元より、指の端部に至る遍く隅々まで(すべから)く汝の所有するところだ」


 少女は自身の腕を指でなぞりながらそう語る。彼女は雅な振袖から球体関節を覗かせる。彼女はいつの日かルゥに看取られた人形の付喪神、ルゥに託した真鍮の首飾りに残ったその魂の残滓とでも言うべきか。彼女の名を我楽多の女王と言い、卑しい我楽多の小さな長だった付喪神だ。

 メルシェは彼女と面識こそなかったが、当時崩壊しかけた異界からの脱出を幇助してもらっていた。


「目は見えておるな、自分の掌を見てみてぃ」


 彼女に促されるまま、視線を手に落とす。手には痺れて感覚が通わず、まるで自分のものではないものの様だったが、その掌、正確には左手の中指に光の糸が結びついていた。


「あの慇懃無礼な坊主に感謝するんじゃな」


 彼女に言われてメルシェは思い出した。この指に結びついた光の緒は地の底、龍穴の封印の間で、克行に結ばれたものであることを、糸は彼女の小指から彼女の前に茫漠と広がる闇の先へ伸びている。


「──ルシェ、メルシェ!」


 不意に声が、メルシェを呼ぶ声が彼女の耳に届いた。


(私を呼ぶのは……一体……)


 付喪神の彼女とは違う低く、酷く焦燥とした声。よく聞き馴染んだこの声……

 覚束ない思考の中で、それでもこの糸の先の先、暗澹のその先に、声のする方に確かに光差していることをメルシェは感じた。


(あぁ、そうだ……この声を私は覚えている……)


 メルシェが無意識に糸を手繰ると、糸もそれに呼応するように、弱くしかし確かに引きつける。虚空に何度も響き渡るその声の正体にメルシェが気づきかけた頃、途端に光の糸が彼女を強く引きはじめる。

 メルシェは思わず振り返りそうになるが、躊躇い振り返りきれずにいた。


「それでよい。振り返るべきではない」


 付喪神の彼女は穏やかな口調でメルシェにそう諭し、メルシェの背後から彼女の頭を優しく撫でた。


「貴女は一体……どうして私を助けてくれるんですか?」


 メルシェは思わず尋ねる。


「ふふっ、何……ただの気紛れ、もしくは──」


 付喪神は何かを言いかけるが、何を思ってか言い淀んでしまう。


「──兎角、これからも(うぬ)らのこと、見ておるからな……」


 彼女がそう言った刹那、暗闇が一気に開けた様な感覚に陥った。半覚醒した意識の中、伸ばした手を誰かが掴んでくれた気がした。耳元に何度も何度も彼女を呼ぶ声が聞こえてくる様で、その声がどこか心地よくもあった。夢現の中でも、自分を読んでいるのが誰なのか、彼女は気付いていた。そして、それに今すぐにでも応えるべきだと言うことも……


「メルシェ!!!」


 目を開いて、真っ先に視界に入って来たのは深刻な表情で何度もメルシェの名前を呼び続けるルゥの姿だった。


「あぁ、やっぱり……」


 メルシェは思わず安堵の声を溢した。


「メルシェ!気がついたか……⁉︎」


 ルゥはそう言いながらすぐさま起きあがろうとするメルシェの肩を支える。


「私、どれくらい眠ってましたか……?」


 寝起きのやや間の抜けた声でメルシェはルゥに尋ねる。


「丸二日ですよ。その間、彼は一睡もすることなく貴女の側を離れずにいたのです」


 ルゥの後ろに佇んでいた魑魅(すだま)波山(バザン)がそう言いやる。言われてみれば、確かにルゥの顔に僅かな隈が見て取れた。


「ごめんなさい、私が目覚めるのが遅かったばかりに……」


「気にするな、あの猪の神様の話じゃ場合によっては何年も昏睡状態、最悪の場合、もう目覚めることがない可能性もゼロじゃないって話だったからな」


 ルゥは沼の方を一瞥してそう話す。沼には沼茸尊(ぬまくさびらのみこと)が気持ちよさそうに泥浴びをしていた。


「だからまぁ、寧ろよく早く戻ってこれたなってくらいだ」


 ルゥは不恰好に笑って見せた。彼は基本的に何処か悲観的で、滅多に笑わない。そんな彼が笑っているところを見ることができて、メルシェの顔も思わず綻んでしまう。


(まっこと)、よぅ戻って来タの……」


 先程まで泥浴びをしていた沼茸尊が沼を上がり、メルシェの側までその重い体躯をのしのしと揺らしながら近づいてくる。


「あの、では龍穴は……」


 不安そうに辿々しく尋ねるメルシェ。そんな彼女に沼茸尊は満面の笑みで


「そりゃぁモう、お前サんの仕事は文句なしの仕上がリよ」


 と明朗にそう語る。その言葉を聴いてメルシェは無でを撫で下ろしてみせた。そんな彼女にルゥは徐に手を差し出した。


「改めて、おかえり。メル」


 メルシェは躊躇うことなく、その手を取った。


「ただいま、ルゥさん」


 互いが互いに固く手を握り合うその様は何かの契りにすら見えた。いやその実、契りの様なものなのかもしれない。しかし、そこに堅苦しい言葉は必要ない。目を見合わせて、この握手の意味を確かめ合うのだ。周囲に飛び交う鴉天狗達もやれ祝賀だ、やれ酒を持て、やいのやいのと囃し立てて、まるで婚姻の席のような雰囲気に近いものすら感じた。

 しかし、そんな和やかな空間にあって突如として、沼茸尊は全身の毛を逆立てる。そして、ルゥとメルシェの前に立つと、鬱蒼と茂る森の先を凄まじい唸り声と剣幕で睨みつけるのだ。

 それに連れて周囲の魑魅、鴉天狗達も何やら慌てふためく様に忙しなく、右往左往に飛び交いだす。波山が沼茸尊の耳元で何かを言っているようだが、メルシェには聞き取れない。だが、ルゥは波山の耳打ちの内容がしっかりと聞き取っていた。いや、ルゥはその野生の獣の並みの危機察知能力により、沼茸尊や周囲の魑魅たち同様、気付いていたのだ。

 この木々の先より恐ろしいものが、少なくとも彼がこれまで遭遇して来た何よりも恐ろしいものが迫っていることを、彼は気付いていたのだ。

 それは瞬きの間隙であった。その一瞬、熱風が吹き荒んだ。白い熱雲を含んだそれは正しく火砕流にも似て、瞬く間に森を駆け抜けるそれは一瞬で鴉天狗達の羽を、青々としていたはずの木々を焼き焦がし、メルシェ達の背後にあったはずの大沼を干上がらせてしまう。メルシェとルゥは図らずも沼茸尊の背後にいたこともあって、熱風の直撃を避け、尚且つ、いつぞや翡翠卿に譲ってもらっていた防護結界のスクロールをメルシェが咄嗟に発動させていた為、火砕流に巻き込まれないでいたのだ。

 やがて、あたりに立ち込めていた熱雲が消えて周囲の景色がようやく露わになり、メルシェたちは絶句した。そこはつい先程まで緑豊かな沼泉の岸辺が広がっていたはずが、今は見渡す限りを灰が埋め尽くし、その様は正に地獄の様相を呈していた。


「こんな……こんなことって……」


 メルシェは困惑と恐怖の色を隠せず声を震わせる。ルゥも見えない何かに怯えるように依然呆然と佇んでいる。すると、火砕流が吹きつけて来た方角、既に焼き尽くされ炭と化した木々の先の暗澹から、小枝を踏む音がした。それは初めは1人の小さなものだったが、やがてゾロゾロと足取りの揃わない数多の跫音となって沈黙の森に響き渡る。

 足音の主は老兵だった。銀縁の丸眼鏡をかけた老兵。しかし、屈強な体躯は老いてなお、年季を偽るには余りあり、そして何よりその闘気に目を合わせただけで2人は悟ってしまう。これが、この漢が、イゴール……イゴール・ヴェスヴィオ・デプレであることを。彼を前にして、メルシェは、ルゥは絶望した。絶句した。あぁ、自らを人間と称す者たちの何と人外染みたもか……私たちを怪物と嘲る彼らの方がよっぽど怪物ではないか──

 イゴールの背後に次々と影が揺らめいている。それが、近づきつつある彼の配下の軍勢であることは容易に想像できた。

 抵抗しなくては──メルシェは咄嗟に剣の柄に手を添えイゴールを精一杯睨みつけるが、突然、目を見開きその威勢すら一瞬で消し飛んでしまう。


「どう……して……?」


 声を震わせ、わななく様にイゴールの真横に佇む男をメルシェは見つめていた。


「し、しょう……?」


 彼女の双眸の先には、そこには、彼女の師であるはずのヤタが立っていたのだった。





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