13話:交易都市の大喧騒(4)
石壁で四方を拵えられた小部屋。正確には牢と形容すれば良いか。兎角、コルクニクスは光輝く鎖に縛られ、その味気のない小部屋に幽閉されていた。
そこが嘗て、自分を閉じ込めていた独房によく似ている。コルニクスはそういった感慨に浸っていたのも束の間、ノックもなしに二人の騎士が牢の扉を開けて入ってくる。その二人とは言うまでもなく、翡翠卿と綴祈卿の二人である。
「ちょっと、そんなむさ苦しいもの着込んで入らないでよ。タダでさえ狭い独房がもっと狭くなるじゃないか」
コルニクスはそう吐き捨てる。
「ふむ、減らず口を叩ける程には元気そうだねぇ」
翡翠卿は彼の悪態を歯牙にも掛けず、そう言い放つ。そして、地べたに胡座をかいた彼と目線を合わせるように膝を着き、口を開く。
「さて、談判と洒落込もうじゃないか。尤も君の場合、弾丸の方がお好みかな?」
そう言いながら翡翠卿は懐から小柄な拳銃を取り出し、その銃口をコルニクスに押し当てる。
「僕の二つ名、知らないの?透け身鴉のコルニクスだよ?そんな銃が通用するわけ……」
その声を掻き消すように独房、その地下通路に響く轟音。銃の発砲音だ。弾丸は彼の膝を擦りその軌跡には確かに傷が残り血が微かに溢れ出す。
「虚勢を張るのはやめたまえ。その鎖、綴祈卿の術が君を縛っている間は君は魔法を使えやしない。仮に使えるのならこんな何の細工もない独房、君なら抜けるのは造作もないだろう?」
苦悶の表情を浮かべるコルニクスを上から見下ろし翡翠卿は窘める、或いは嘲笑するようにそう告げる。
「さて、君には聞きたいことがいくつもあるが、とりあえずはこれ」
そういいながら翡翠卿は白銀の指輪を摘んでそれをコルニクスに見せつける。東国由来の装飾の施されたそらはイグレリオの国宝、饕餮戒である。
「義賊ごっこに興じていた君が一体どういう風の吹き回しでこんなものに手を出したのかな?」
しかし、コルニクスは不敵に口元を緩めるばかりで、一向に答える気はないようだ。まるで、これ以上下手な脅しは無用だと言わんばかりの様相である。それを察してか、綴祈卿は眉を顰め、手を翳す。すると、コルニクスを縛る鎖が更に強く締め付き、彼は悲痛の声を上げる。
「まぁ待ち給え、我々が脅したところでたかが知れる。彼には自分の意思で話してもらおうじゃないか」
と翡翠卿は綴祈卿の術を手で制止する。綴祈卿はしかし、とたじろぐが、僅かな沈黙の後に、不本意な面持ちで鎖を緩める。
「随分と緩い尋問じゃないか、魔法省の時はこうはいかなかったよ」
「勿論だ、我々は背広の文官とは違って現場の人間だ。だから……」
途端、コルニクスは先程までの余裕は何処へやら、急に顔を強張らせる。それもそのはずである。翡翠卿の指には金属器具が二つ。一つは小さな轡のような器具で、その用途は推察するに、歯と歯の合間に差し込み口を開口させたままにする器具である。そしてもう一つ、コルク抜きのように螺旋上に伸びる針。しかし、コルク抜きの比にならないほど細く、鋭く長いそれが、何をするものなのか、コルニクスにとっては想像もしたくないものであることは明白だった。
「迅速さが命でね、半端な真似はしないのさ」
そう告げながら、翡翠卿はコルニクスの口に器具を取り付けようとする。
「ちょ、待……」
コルニクスは必死に抵抗するが、それも虚しく器具はコルニクスの歯に取り付けられ、彼は言葉を遮られてしまう。
「安心したまえ、こう見えて歯医者はお手の物だ。なぁに、昔取った杵柄さ……」
そうほくそ笑みながら翡翠卿は彼の額を抑えると、螺旋した針を彼の口に近づける。
「あぁ、もし君の口から言いたくなったらそうだな……首を縦に振るように。では始めようか……」
彼女の嬉々とした声と、綴祈卿の呆れた面持ち、そしてコルニクスの声にならない震え声。彼の首が縦に振られるまで、1秒と掛からなかったのは言うまでもなかった。
──
────
部屋の隅の小窓から差し込む斜光に炉から登る熱気が陽炎を孕む。鉄と油の馥郁とは呼べない臭気が部屋を覆うが、それを気にも留めない客人と店主の二人。はてさて、ここは夜の喫茶、Balkanの奥に処を構える薄汚い行商の店。しかして、顧客に貴賎なく、他者の命を奪う道具を売り与える死の商いに開けくれるのだ。小汚いくらいが格好がつくだろう。
「また随分派手にやったな」
小柄な老夫は拳銃の部品をつまみながら呆れ果てたように呟く。
「修理せそうですか……?」
そう尋ねるのは他でもないメルシェだった。彼女は一時は教会の支部に保護の名目で留置されていたが、あの一件から約一日半で開放、その内丸一日はそれなりに良いベッドの上で爆睡していたこともあり、実質半日で解放されたようなもので、メルシェにしてみればそこまで窮屈とも不便とも、感じてはいなかった。しかし……
「あの小僧が心配か?」
老父は部品を組み上げながら、メルシェに尋ねる。彼女はというと、部屋の隅の小窓から差し込む日光をぼうと眺めるのみで完全に上の空だ。
「別に心配なんて、ただ今回ルゥさんの暴走の一因は私にありますし……」
メルシェはそう言い口を噤む。僅かな沈黙が堆く積まれた箱や商品の櫛比する通路にまるでビル風のように一筋の風が疾りると、メルシェの髪を撫ぜる。さてと、と老父が小息混じりに呟き、慣れた手つきでチェンバーだけの姿からあっという間に拳銃に組み上げしてしまう。息を呑む間も与えず、目の前で繰り広げられる神業にメルシェが目を輝かせるのを意にも介さず、組み上がった拳銃を金床の上でスライドさせてメルシェに渡す。
「ありがとうございます」
マガジンを握り弾倉を下から覗く様にそれを眺めながら、メルシェは礼を言う。老夫はパイプを咥え
「次壊したらもう直せねぇからな」
と、まるで楽器でも吹くかのように、ヤニ臭い煙を細く吹き出しながらそう言う。
「何で⁉︎」
目を見開き愕然とするメルシェに老父は更に吐息を重ね
「メーカーが部品をもう生産してねぇからだ。お前さんのそのMercury automaticはとうの昔に絶版になった規格だって何遍言えばわかる?わかったら、もうちと丁重に扱え」
パイプで彼女の手中の銃を指しながら、老父はそう吐き捨てる。わかってますよ……と不貞腐れるメルシェに
「何故そうまでしてその骨董品にこだわる?今の規格の銃ならもっと軽量でお前さんにも扱いやすいものもあるだろうに」
そう言いながら老父はいくつかの種類の拳銃をメルシェの前に差し出す。メルシェは僅かにそれらを吟味するような素振りをするが、すぐに目を逸らし
「この銃だけなんです、オートマチック拳銃で45口径の魔弾に対応しているのが……」
「撃つごとにフレームをお釈迦にする時点で対応しているなんて言えるものか、修理する職人の身にもなれと言うもんだ。だから生産停止に陥るんだ。それに、欠陥武器を扱うのなら、それを補う練度ってもんがなけれりゃ話にもならんしな……」
老父の煙に巻くが如き捲し立てに、でもとメルシェは口を噤み
「それでも、この銃は師匠の……」
俯く彼女を一瞥し、老父は今日一番の溜息と共に煙を吐く。縷縷と燻る白煙が部屋に充満し、部屋の小窓から差し込む光に、埃と煙が手を取り踊る。
「お買い物は済んだかな?」
その声に間髪入れず、老父とメルシェは声の方を振り向く。そこには、翡翠色の騎士、翡翠卿が佇んでいた。
「教会の人間てのはどいつもこいつも、俎豆も礼節もあったもんじゃない……」
老父は嫌みたらしく吐き捨てる。
「どうやって入った?マルクは何をしている……」
不思議そうに老父は尋ねる。マルクとは、店の前に構えるバー、バルカンのマスターのことである。
「あぁ、この店の前で怖い顔をしていた彼なら少し眠って頂いたよ。なぁに、野蛮な手は使っていない……」
彼女は両の手を挙げ無害をアピールしながらメルシェに歩み寄る。メルシェは少々身構える素振りこそするが、一歩もその場から動くことなく、翡翠卿と対峙する。
「ほう、私が怖くないのかい?随分と嫌われる様に接してきたつもりだったんだが?」
翡翠卿は不思議そうに僅かに首を傾げ尋ねる。
「確かに、ルゥさんのことをペットって言ったり、あまり良い印象はないですけど……それでも私との約束を守ってくれましたし、悪い人ではないと信じてます」
メルシェは彼女の目を、正確には兜で隠れた顔を見つめながらはっきりとそう答える。
「実に誠実な答えだ。敬意すら覚えるねぇ、それで君はこらから時間があるかな?なぁに、先の事件解決に協力してもらった礼をしたくてねぇ。勿論、君が良ければの話だ。あぁ、それと彼の話もしなければねぇ……」
翡翠卿はそうメルシェに言う。彼とは言うまでもなく、ルゥのことだろう。それはすなわち、メルシェに拒否権は無いという暗喩ともとれた。メルシェは僅かに考える素振りをするが、小さく頷き
「わかりました、お付き合いします」
と答えた。それを聞いて翡翠卿はクスクスと肩を揺らしながら笑い
「それでは坊や、彼女を借りるよ?」
と老父にそう言い残し一人、寂れた店内を後にする。メルシェも彼女の後を追うように、買った物資を懐やウエストバッグに納め、老父の前に置かれた巨大な金床の上に、その物資と、ツケにしてもらっていた分の額を置き、出て行こうとする。
「儂にしてみれば、お前さんがその銃をお釈迦にする程度には危険な旅をせにゃならんのか、理由を問い詰めたいところだが、そいつは不毛か?」
老夫はパイプを再び咥えて尋ねる。しかし、もう煙はあがっていない。メルシェは何をか言わんや僅かに立ち止まり踵を返そうと、足を半歩下げるが、途端に止まり。そして、やはり振り向くことなく無言のまま店を出てしまう。
やがて店内は伽藍を極め、炉の隅が燻る音が、宛らもう近々降りる夕日の赤を知らせるように。或いは、惜別を惜しむ憂鬱の青を含む藤色の黄昏の来訪を知らせるように。
「……たく、見てくれはちっとも変化しねぇ癖してなかなかどうして、顔の面ばかり大人びていきやがる……」
老夫はパイプから葉を炉に落とすと、寂しげな表情で、つまらなさそうにそう吐き捨てるのだった。
──
────
ロナムの黄昏は西側の広陵たる荒野に横たわる落陽に、街の隅々が照らされ宛ら、朱と黒の二色で描かれた風景画のように景観を変えるのだ。それでもそれは夕焼けの茜の照りつける外面であり、迷宮の様に入り組んだ、地下路や小径はその限りではないことは語るまでもない。それでも西に向く通路にはその斜陽が差し込み、それは、メルシェたちの歩いているプロムナードも例に漏れず、トワイライトがやけに鮮やかに通路を塗り上げるのだ。
「取り敢えず、先日の一件は見事だったよ」
翡翠卿は隣を歩く彼女を一瞥し、そう言った。メルシェは褒められ悪い気こそしないものの、ほぼほぼ初対面でさして旧知でもない彼女に賞賛されるのは些か不思議な感覚だった。二人は歩きながら会話を続ける。
「いえいえ……本当に偶然、偶々ですよ。運が良かっただけで……」
メルシェが謙遜めいた口調でそう辿々しく答えるのを見て、翡翠卿は僅かに口元を緩め
「全く以ってその通りだ」
と先程とは打って変わって辛辣な口調でそう吐き捨てる。その豹変ぶりに思わずメルシェは「えっ?」とあっけらかんとした表情を浮かべていた。
「定型句めいた賞賛はここまでとして、残念ながら私はこれから糞味噌に君を詰らなければならない……」
彼女は肩をすくめながら残念そうに告げるが、その実、彼女に一切の悲壮感も見受けられない。
「まず、君は馬鹿だ」
翡翠卿はそう言い切った。プロムナードなどと先程は大層に僭称したが、実際は少し大きめの暗渠の角にある通路であり、暗渠に彼女の言葉は谺する。
「もっと言えば天才寄りの大馬鹿だ」
さらに彼女はそう続け、ずけずけとメルシェを詰り始める。メルシェはというと二度も馬鹿と、それも真顔で言われ、動揺し、それなりに凹んでいるようだ。
「確かに、持ちうる手管を組み合わせて今出来うる最大の有効打を与える。そこはいい……だがその後はどうだ?君はその後について考えていなかったか?いや、考えていただろう。君はこの一撃で打ち勝てなければ、打つ手なしと諦めたんだ。その一撃が通用するかどうかを確かめる前に……」
図星だった。翡翠卿の言葉には辛辣でこそあるが、それ以上にどこかメルシェの真意の突いていた。
「でも……」
メルシェは不意に立ち止まり、口を噤む。
「あの時は、あぁするしか……」
それに、彼女の師ヤタも言ったのだ。自分より強い相手に立ち向かう時、立ち向かわざるを得ない時、どうしようも無い恐怖に苛まれるだろう。迷えば死ぬ、躊躇えば死ぬ、恐れれば死ぬ。なら考えるな。後悔や葛藤は生き残る可能性の先においておけと……
その様子を見てか、翡翠卿は立ち止まり何かを考え込むと
「君の師匠が何か言ったのかな?」
とだけ尋ねる。それにメルシェは無言で頷く。
「なるほど、やはり師弟か。確かに似ている。彼も愚かなほどに蛮勇だった……」
翡翠卿は懐かしむようにそう口遊む。そして、しかしと付け加える。
「が、血気の勇は往々にして戒めるものだ。それに、彼はその蛮勇に見合う実力を兼ね備えていた。君はどうだ?」
そう尋ねられて、再びメルシェは俯き口を噤む。数秒の沈黙が、黄昏の紅に塗り潰されてひどく緩慢に感じる。その沈黙に翡翠卿は小さく吐息を溢し
「では、質問を変えよう。もしこの先君たちの旅路の中で、君たちの前に今回の様な諸悪が、君達では土台太刀打ちのできない巨悪が現れた時、君ならどうする?」
翡翠卿はそう尋ねる。メルシェは難しい顔をし考え込む。その頬を撫ぜるように、砂塵が吹き付け彼女の栗色の髪の毛に絡みつく。
「あの時、怪物と化した彼を前にした時、どうするのが最善の選択だったのか、君にはわかるかい?」
メルシェは素直に首を横に振る。
「簡単さ、逃げればよかったんだ。逃げて、我々教会なり何なり、自分より腕の立つ人間に任せれば良かったのさ。君は官憲や正義の味方などではなくただの少女なのだから」
そう言いながら彼女を一瞥し踵を返す。その姿が逆光で影絵の様に照らされる。
「我々の様な人間は日頃、正義だの名分だのを掲げて仕事をしている手前、諸悪には命を賭して立ち向かう義務が生じる。だが、君はどうだ、違うだろう?」
彼女は、まるで自分たちを嘲る様にそう続ける。
「今回はたまたま上手くいったが、次は、その次は、一歩間違えれば死ぬ様な賭けを続けるのは懸命でも賢明とは言えないねぇ」
これまで彼女の言ってきたことは尽く正鵠を射た正論ばかりだ。そんなことはメルシェにもわかっている。しかし、それでも
「それでも、相棒を。ルゥさんを見殺しにする選択は絶対にしません。例え、それが今回のように死と二者択一の状況だったとしても、私は迷わないと思います」
格上の相手に、この少女はそうはっきりと言う。僅かに震える肩、目尻に混じる涙。しかし、その瞳には確かな意志が宿っているのは見るまでもない。彼女の顔を一瞥し、翡翠卿は僅かな沈黙を繕い、そして
「相棒か、また言ったね。私の部下の調査では彼と君はそこまで長い付き合いではないということだが?」
翡翠卿は不思議そうに首を傾げる。
「時間なんて些細な事です。出会って、一緒に旅をすればそれはもう一つの立派な奇跡です。師にそう教わりました」
メルシェの言葉に、翡翠卿は「そうかい」とだけ乾いた笑いと共に溢し、続けて尋ねる。
「何故君たちは旅をするんだい?」
メルシェは一呼吸置き、そして
「探し物をがあるからです。お互いに、私は師匠の足跡を、ルゥさんは過去の記憶を……」
と答える。
「なるほど、一緒に探そうという訳か」
翡翠卿はなるほどと、そう告げるものの、その口振りは明らかに納得してはいない様だった。
「いや何、気になっていただけだ。それで?君は彼の、君の師、ヤタの足跡は辿れているのかな?」
翡翠卿はそう尋ねる。
「いえ、それはあまり……」
メルシェが目を伏せそう呟くと、翡翠卿は「やはりね」と納得したように言った。
「どうやら実際のところ君の旅にとって、いや君にとって『師の足跡を辿る』という目的は建前に過ぎない。そうだろう?」
翡翠卿は悪戯に笑みを浮かべメルシェにそう尋ねる。
「そ、そんなことは……!」
彼女も必死に否定するが、翡翠卿はクスクスとその仕草をほくそ笑むように続ける。
「本当は君も気づいているんだろう?君が旅をする理由、彼と旅をする理由……」
翡翠卿にそう諭され、僅かに息を呑む。確かに、一人だけで旅を続けていたのなら、先程の質問にもハッキリと否定の意をとれた。しかし今は……
今は違う。今は……ただ彼と一緒に旅をするのが楽しいのだ。彼と共に旅をするという手段が、目的を上回っている。彼女自身も薄々そんな自覚はあった。しかし、他人にこうも他人に見透かされてしまうとなると正味、この上なく恥ずかしい。メルシェは頬を赤らめ顔を伏す。それを見て翡翠卿は口元を緩める。
「なぁに、恥じることなんてありはしない。人は皆本心を、本質を、本懐を建前で覆い隠す。そんなことをしたところで自分の魂は欺けないと知っていてもね」
彼女にそう言われ、顔を上げるメルシェは通路の先から滲む夕焼けに目をやる。黄昏よりさらに向こうから、藤色の夜が迫っているのがわかる。街ゆく人の喧騒と犇きが、二人の歩く暗渠にまで響いてくるのだ。
僅かに先を歩く翡翠卿は踵を返し、メルシェと向かい合う。
「君にばかり喋らせては公平じゃない。特別に私の秘密を一つ教えてあげよう……」
そう言うと彼女は、徐にその珍妙な嘴兜を手に取り脱ぎ始める。その所作、立ち振る舞いの悉くが、それはそれは壮麗たる様相であり、そして、その所作を経て露になった彼女の素顔もまた、筆舌に尽くし難く優美なものだった。
黄昏の錦に照らされてもなおよくわかる。翡翠の瞳と髪色、瞳は文字通り翡翠の玉宝、髪は細くしなやかで絹糸のように輝いてみえる。それらは彼女の二つ名が、鎧の色から来たものではないことをありありと物語っていた。
「綺麗……」
メルシェは思わずそう溢す。翡翠卿は僅かに彼女を一瞥し「よく言われる」と不敵に答えた。彼女のその浮世離れした美貌にメルシェはある推測が浮かんだ。
「森人、ですか……?」
思わず口をついたそれをメルシェは辿々しく取り繕いでいると翡翠卿はクスリとほくそ笑み
「そうとも、私は教会に所属する唯一、エルフの騎士だ」
と答えるた彼女は、兜の中に窮屈そうに束ねていたその髪を紐解く。東風に靡くその髪をメルシェが恍惚と眺めていると不意に彼女の髪に隠れていた耳が目に入る。それは、彼女の端正な容姿に似合わない、歪なものだった。いや、より正確に言えばそれは歪に人の手で削がれ無理やり今の形に繕われたようなものだった。翡翠卿はメルシェの表情で察したのか、「あぁこれかい?」と髪を捲り上げて見せる。
「これは私の故郷の掟さ。エルフは里を抜ける時自分の耳を削ぐんだ。連中、未だに自分達が高貴、高等な種だと信じて止まない。だからこそ、このご時世に外界との交流を村を悉く禁じている。時代錯誤も甚だしいと思わないかい?」
「聞いたことはありましたけど、でもどうして……」
メルシェは訝しげに尋ねる。
「自分達の血が文化が多種族のそれで濁るのが恐ろしいのさ。全くもって傲慢な話だよ。だからこそエルフの流浪者は往々にして掟に叛き故郷を追われ、帰ることを赦されない者なのさ。そして、故郷を出る際にエルフは必ず耳を削がれる。それは何処で惨めに野垂れ死んでも、その遺体がエルフであると悟られないように、種の醜態を晒さない為に……」
「じゃあ、貴女も……」
「いや、私は追放されたわけじゃないよ?」
翡翠卿は先程まで自分でそう説明しておいてあっさりとそれを否定する。あっけらかんとしたメルシェを他所に翡翠卿は続ける。
「君はソニの血族というものを聞いたことがあるかい……?」
翡翠卿にそう尋ねられメルシェは首を横に振る。翡翠卿は僅かに口元を緩める。
「ソニとは翡翠鳥のことを指し、ソニの血族とは翡翠の如き髪色と瞳を持つエルフの一族だった……」
翡翠卿はそう言い、僅かに口を噤む。
「それって、もしかして……」
そう口を開いたメルシェにご明察と翡翠卿はほくそ笑む。
「エルフは総じて美貌を持つ種族として有名だ。その中でもソニの血族はとりわけ一等美しかったと称され、その髪や瞳には価値があった。その結果どうなったと思う?」
そう尋ねられたメルシェは言葉を黙み息を呑む。「そのまさかさ」と翡翠卿は髪の毛を捲り上げ、長い前髪で覆われていた左眼を露にする。それを見て、僅かにメルシェの表情が強張る。それはあまりに痛々しく、醜いものだった。爛れたケロイドの肌に幾つもの古傷、そして極め付けはすっぽりとくり抜かれた左目。陥没したそこからは内側の肉がひどく歪に見え隠れしている。顔の反面と反面で美醜が帰結している。彼女の美貌があるいはその反面をなお一層醜く感じさせるのだろうか……
「醜いだろう?故郷の隠里が人間に襲われ、この面にされた当時、私はまだ武器も握ったこともなかった17の乙女だった。そして、私を残してソニの血族は私を残して絶えてしまった。もう300年も前の話になる……」
「300年……⁉︎」
メルシェは目を見開く。エルフは長命というのは聞いていたが、彼女の言ったことが嘘でなければ、目の前にいる妙齢の麗人が齢300を超えることを意味する。そして、彼女が嘘をつく理由もないことから、それがほぼ間違いないことは自明である。
「君はいちいちおもしろい反応をする……まぁいいさ。私はたまたま教会の人間に保護されたから辛うじて片目は残ったが、散々嬲られてねぇ……」
彼女は何処か恍惚とそう振り返る。メルシェは目を伏せ「ひどい……」とだけ溢す。
「君が憐憫の念を抱く必要も、私を犯した連中を詰る必要もないよ。何故なら彼らは相応の報いを受けてもらったからねぇ」
「報い……?」
そう尋ねるメルシェに、翡翠卿は舌を廻らせる。
「そうさ、私にした様に目玉をくり抜いてぶち殺してやったんだ。世界中を探し回ってね。30年くらいかかったかな?最後の奴なんてすっかり老け込んでてねぇ、目玉くり抜いただけであっさり死んじまったんだっけなぁ……」
「でも、そんなことしたら教会に……」
メルシェは不安そうに尋ねる。
「勿論捕まったよ。計8人、うち3人は既に足を洗った堅気紛いだったこともあって相応の罪状を与えられたよ。でもね……」
僅かに呼吸を置き、翡翠卿は続ける。
「当時の教会は今以上に野蛮、よく言えば武力的な組織だったんだ。当時の世界情勢は今の様に四海波静かなものじゃなくてね、あちこちで戦火が燻っていた。そんな訳もあって、教会は常に腕の立つ人間を集めていた。私はそのお眼鏡に適ったってわけさ……」
翡翠卿はロナムの街々を臨みながらそう語る。空は完全に藤色の夜に傾き、夕星が無数の星屑の中に一際輝いてくのだ。見よや、あれなる星々の煌めきを。
「さぁ、与太話はこのくらいにしておこう……あぁ、最後に一つ、個人的に聞いておきたいことがあったんだ」
翡翠卿は思い出したようにそう切り出す。
「君の師、ヤタが棺桶を背負っていたのを見たことがあるかい?」
そうメルシェに尋ねた。しかし、メルシェは首を傾げ
「いえ、師匠はいつも十字架を背負ってました。私も十字架を、ただ今は諸事情で置いてきちゃってるんですけど……」
辿々しくメルシェはそう答える。それを聞いて翡翠卿は訝しむ様に顎に指を据え僅かに考え込むが、すぐに
「そうかい。あぁそうだ、もう一つ忘れていたよ」
と言い、懐をまさぐる。そして一枚の紙切れを差し出す。魔法陣の綴られたをメルシェは受け取る。
「防護結界のスクロールさ、翳して魔力を注げば簡単に発動できる。大抵の攻撃を防いでくれるだろう、あとは……」
そう言いながらさらに、翡翠卿はメルシェに碧い宝石の粒のはめ込まれた指輪を手渡す。
「そっちはただのお守りさ……」
それらを受け取ると、メルシェ不思議そうに
「どうしてこんなに……」
と尋ねる。
「最初に言ったろう?礼だと。尤も話が逸れて私も忘れかけていたがね……」
翡翠卿の言葉を聞き、納得したのかメルシェは「ありがとうございます」深々と頭を下げそう言う。
「命知らずな人形娘になら事欠かないだろう?まぁ精々死に急ぐのなら死なない程度に留めるんだね……」
とメルシェに釘を刺し、翡翠卿はようやく再び歩き始める。それに釣られてメルシェも足を動かす。
「長話しに付き合わせて悪かったね、さてお待ちかねの彼に会わせてあげよう」
僅かに口元を緩め、翡翠卿はそう嘯くのだった。




