8話:起伏と鈍重
ヴェマの街はひどく凋落と落魄を繰り返し、今やかつての面影もない。岩の国の南西部にあるヴェマはかつてゴールドラッシュで栄えた地だが、他の鉱区がそうであるように、掘り尽くしてしまえば、その栄光も鍍金がごとく剥がれるもので、横に伸びる岩がドームのように空を覆う様を擬えて、日の当たらぬ寂地。常曇天の町などと揶揄されて久しい。吠えるべき太陽もなくば、充てるべき情熱も何処へやら。町もその名に当てられてか知らぬが昼下がりだと言うのに、太陽は降り注いでいるはずなのに、この街の目抜き通りには活気のかの字も見られない。そんな廃都擬きにあって、その裏路地は無数の悪党悪徒が巣食う魔窟と化していた。
廃都と揶揄されてはいるものの、人も住んでいれば経済も回るし、それゆえに町も町としてのシステムが機能している。街角の食堂も開いていれば、そこで昼餉を摂っている旅人がいたとしてもなんら不思議ではないのだ。しかし、この旅人達もまた、異質と呼ぶ他なく食事中であるにも関わらず、身分を知られたくないかのように草臥れた外套を断固として脱ごうとしない。
「……──か?」
「い──、……と──」
か細く、囁くように会話をする二人。こんな辺鄙で身分を隠す必要のある存在、そんな彼らがやんごとなき身分の者たちであることを客たちは察知していた。お待ちと、二人の席に差し出されたのは、いや正確には突き立てられたのは無骨なヤタガンだった。
「あの……こんなもの、注文した覚えはないのですが……」
二人組のうちの若い方、相方に比べ華奢な体躯に加え高く穏やかな声、女性だろうか。彼女はきょとんとした様子で困惑し尋ねる。
「ご心配なく、こちら当店からのサービスでございます」
店員がそう言うなり、周囲の客々が彼らの卓を包囲する。どれも卑しい装いの無頼漢ばかりだ。
「なんのつもりですか⁉︎」
女性は叫ぶ。
「おっと、まさか想像してなかったのか?」
店員は悪びれもせず、むしろ嘲るように言う。
「こんな無秩序な魔窟にたった二人で来て無事で帰れると思ってんのか?」
「身ぐるみ全部剥いでから、男はすぐに女はゆっくり楽しんでから嬲り殺してやる……」
賊地味た男がうすら笑いを浮かべそう続ける。無頼漢たちは武器を手に取り二人を徐々に囲い追い詰めていく。店の外の民衆はお零れに肖ろうという魂胆なのか、助けるどころか賊たちの側にいるのは明白だった。女性の方は臨戦態勢を取ろうとしているが、相方の男は席に着いたまま微動だにしない。まるで、目の前で起こっている事態に一切の関心がないような様子だ。
「おい、聞こえねぇのか!」
微動だにしない男に賊の一人が、痺れを切らして彼の頭に銃口を突きつける。しかし男は動かない。
「よっぽど死にたいらしいな……」
男は激昂で震えながら引き金に指をかける。しかし、一向にその指が動くことはない。否、正確には指を動かすことができない。指だけではない、賊の身体は自身の意思では身動きひとつ取れなくなっていた。
「な、なんだこりゃ⁉︎」
叫ぶ賊を他所に徐に男は立ち上がると
「ジェーン・ブロンテ、邪魔だ。退いてろ」
とだけ吐き捨てる。それに少し戸惑いながら相方の女性は不服そうだが頷き、そして賊たちの間をお構いなしに通り抜けようとする。
「おいてめぇ!逃げれると……」
叫ぶ賊たちは次々と剣や銃を振り上げ、魔術を発動させようとするも、悉く、まるで駒人形のようにピタリと動かなくなる。彼らは必死に身体を動かそうと打ちひしがれるが、身体はピクリとも動かない。恐らく、男の魔術だろうか。
「さて、どうしてくれようか」
女性が店の端に退避したのを確認して、男はゆっくり口を開く。
「俺が探しているのはゴール・ヴェスヴィオ・デプレ、延いてはルボアの監獄から逃走した虜囚の情報だ。群級の囚人、ハードパンチャー並びに複数名の虜囚が潜伏しているという情報を……」
男の詰問の最中、壁を突き抜けてそれは急襲する。爆炎と衝撃をを巻き上げる渾身の右ストレート。三角筋に空いたマフラーから凄まじい蒸気を吹き出す、ゴテゴテしい鋼の義手。それがハードパンチャーと呼称された虜囚であることは火を見るよりも明らかであった。
「ハッハァー!オレサマの追手にたったの二人、それも片方は弱そうな女ときた!」
ハードパンチャーは店の隅で佇む女性を一瞥し汚らしい笑みを浮かべる。男の魔術にかけられていた賊たちも、ザマァねぇ!いいぞ!ぶち殺せ!と汚らしい歓声を浴びせる。
「いいねぇ!この歓声、リングに帰って来たみたいだぁ……」
ハードパンチャーは恍惚と話す。しかし……
「お前が帰るのはリングじゃないだろ?」
ハードパンチャーの義手をポンと触れ、男は話す。原理は不明だが、ハードパンチャーの渾身の右ストレートは男に届いていなかった。男は一歩も動くことなく彼の一撃をいなしていた。
「ほぉ、少しは骨がある……」
ハードパンチャーはニヤリとそう言いかけ、途端に戦慄する。正確には、男の外套が先程の一撃の衝撃で吹き飛び彼の容姿が露わになり、その姿に戦慄していた。銀髪の麗人、教会の紋章の刻まれた細身の獄吏コートそしてなにより首に下げられた輝く金十字。それが、何を意味するのか、彼が何者であるか、ハードパンチャーは悟り、途端に先程まで獅子のように勇ましかった巨漢が、まるで仔羊のように震え出していた。周囲で野次を飛ばしていた賊や民衆たちも事情が掴めず僅かな沈黙が酒場を包む。
「ス、スブラ……シルト⁉︎」
ハードパンチャーはそう叫びながら、初撃のあれとは比べ物にならないほど、弱々しく情けないパンチを打ち込む。
「伏せてろ」
シルトはそう呟くと、ハードパンチャーは地面に接吻する。さらに言えば大地に芋虫のように這いつくばっていた。
「な、なんでてめぇがぁぁぁぁ⁉︎」
ハードパンチャーの言葉は途中で悲鳴に変わる。彼の義手が付け根から粉々に粉砕されていた。義手だけではない、彼の左腕、果ては両足に至る四肢全てがまるでプレス機でスクラップにされたように血飛沫を滲ませすり潰されていく。石畳の床は大きく陥没し、彼の体躯は石畳にめり込んでいた。
「誰が開口を許可した?俺の質問に対する答弁以外の発言の一切を俺は許可した覚えはない」
シルト、この男はスブラ・シルト。数ヶ月前に崩壊されたルボアの監獄の監獄長であり、教会の金十字、その中でも三強の一角と謳われるほどの実力者である。重力を操る稀有な魔法を用い、錘秤卿の二つ名で恐れられている。シルトは這いつくばったハードパンチャーに歩み寄ると、彼を見下ろすようにしゃがみ込むと
「俺は面倒が嫌いなんだ、わかってくれるよな?」
と尋ねる。ハードパンチャーは必死に足掻こうとするが、体が上手く動かせないようだ。
「マグベリー、ルバ、ショニルタもこの町に潜伏しているはずだ。どこにいる?」
シルトは尋ねる。しかし
「……っは!誰が言うかよ。知ってるぜ、テメェらイゴールの情報を追っているから逃げた虜囚から情報を聞き出す為に殺せないってな!」
ハードパンチャーの言葉に僅かばかりシルトの眉が揺れる。
「俺は罪人だが、罪人には罪人の仁義ってもんがあるんだ!!」
ハードパンチャーは圧倒的敗者の立場でありながらそう叫ぶ。その時、カランと酒場の扉を開く音がする。入って来たのはこれまた教会の制服を着た長身と男で、腰には東国の刀を携えていた。ハードパンチャー、延いては周囲の賊は絶句する。彼の腕には先程シルトが所在を尋ねていた虜囚の一人であるルバの首が握られていた。
「イトウか」
「言われた通り、頭だけ回収しました」
イトウはそれをジェーンと呼ばれた女性に手渡す。ジェーンは怪訝な表情を浮かべるも、それを背腰に携えていた巨大な魔法瓶の中に詰める。
「貪り啜る海綿脳って知ってるか?他者の脳を食うことで他者の記憶を読み込む禁術。これは新鮮であれば死者の脳でも可能なのは検証済みだ」
すなわち、首から上が無事なら後はどうとでもなるということ、つまりはハードパンチャーの持論は全くの見当違いだったのである。
「さて、芋虫はどういう声で鳴くんだ?」
シルトの不敵な笑みがハードパンチャーに大きな影を落とす。
「わ、わかった……話すだから俺の命だ……がぁぁぁぁぁ!!!!」
ハードパンチャーの言葉は人のものとは到底思えない絶叫に変わっていく。徐々に、徐々に、彼の腰から下が血と肉が石畳の上ですり潰されていく。ハードパンチャーは泡を吐きながら白目を剥き、やがて壊れたおもちゃ、或いは魚のようにビクンと体を退け反らせると、完全に動かなくなってしまう。
「随分安いうえに腐り切った仁義じゃないか、なぁ?」
シルトは果てたハードパンチャーの骸を見下ろしながら吐き捨てる。酒場に恐ろしいほど長い沈黙が訪れる。賊や民衆の目の前で起こったそれは、一方的な蹂躙だった。彼らは眼前のそれが最早自分たちの手には負えない怪物であることを理解せざるを得なかったのだ。
「あんた、本当に教会の人間か⁉︎」
「この化け物!」
「人でなし!」
先程まで野次を飛ばしシルトたちを襲おうとしていた賊や民衆たちが途端に被害者のように口々にそう叫ぶ。
「手続きを省略して死刑を執行しているだけだ。無論それはお前たちにも該当する」
シルトは初めにヤタガン剣をテーブルに突き立てた店員の男を睨みつける。男は短い断末魔ののち、血溜まりに変わる。臓腑や骨の区別もつかないくらいにぺしゃんこにすり潰されていた。
「私はいたく寛大だが、罪人とそれを匿う偽善者が大嫌いでな。さて尋ねよう。貴君らは善良な市民か?それとも愚鈍な罪人か?」
賊や民衆を縛り付ける魔術が一層強くなる。彼らはシルトの目前で血泡を吹いているハードパンチャーと同じように地面に這いつくばらされる。
「他の脱獄者どもは何処だ?────」
──
────
「えぇ、J・マルケジャーノ、通称ハードパンチャー。ルバ・ギリーの二名の死亡を確認。他二名は大人しく投降しました。はい、脳髄は無事回収。ミナ・ヘイカーの元にお贈りします……」
携帯型の伝声器を腰のポーチに戻すと、ジェーン・ブロンドは小さく溜息を吐く。場所はヴェマの街を出た街道の道駅、暗夜行路に十字紋の行軍が軍靴を響かせる。
「では、2名の身柄は一時的にセントレミントンの教会支部へ、そしてこちらの脳髄はミウルの教会本部、夜女王ミナ・ヘイカー様の元に。特に後者は鮮度が損なわれては有事です。早急にお願いします」
ジェーンの指令を受けた黒服の術師たちは無言で頷くなり、音もなく闇に溶けていく。
「まさか、街ぐるみで脱獄者を匿っていただけでなく教会を陥れようとしてたなんて……」
「教会の威光はお前が思っているほど偉大なものではない。水の国の周辺諸国、俗に言う水傘の連邦や、中小国は教会の恩恵を受けることができるが、岩の国のような列強大国は割りを食っている分教会に対する印象も良くない。特に、岩の国、焔の国の二国には教会の支部すら置かれていない」
ジェーンの独り言に、シルトはそう回答する。
「まぁ、その三国が教会に対して狐疑なのは数十年前の大戦の制裁が尾を引いてるってのもありますけどね」
イトウが付け加える。
「だからこそ連中はこの三国、特にルボア監獄から距離もそう遠くないカルダンに潜伏している可能性が高い。他の連中が何処に潜んでいるか、虱潰しに街を席巻してもいいが……時間は無限ではない」
シルトは吐き捨て、続ける。
「イゴールの追跡が最優先事項ということに変わりはない……だが脱獄者は皆必ず俺の前に引き摺り出してやる、例え陋屋に震え潜んでいたとしても必ず見つけ出して息の根を止める……」
彼が僅かに力むだけで、周囲の木々が悲鳴を上げるように撓い、幾つかの幹はパキンと音を立てて砕ける。さらに、その数秒の後、ヴェマの街の方角からけたたましい轟音が響きわたり、後に地鳴りと怒号にも似た瓦礫の瓦解する音が夜に劈く。驚いたジェーンがヴェマを振り返ると土煙を上げて街は跡形もなく崩れ去り瓦礫の山と化していた。
「錘秤卿!今のは……⁉︎」
ジェーンは絶句したような面持ちで尋ねる。
「罪人を匿い我々を欺こうとした罪の報いは、受けてもらわなければならない」
「しかし、あれでは余りに酷では……」
「では問おう」
ジェーンにシルトは切り返す。
「我々が守るべきものはなんだ?」
「正しい心、道徳や良心……」
「違う」
シルトはあっさりと吐き捨てる。
「我々が遵守すべきは法だ。良心や道徳などといった曖昧な概念で多くを救うことは決して出来ない。正邪、善悪の沙汰ですらその基準は千差万別に及ぶ。故に人はその営みを乱さぬよう法に縋る。ペンや剣では法は守れない。人のは救えない。教会の法が絶対でなければ、我々は神やその代理人でもない。だが、諸国の法の下において罪を犯した諸人を己が利益の為に匿う行為の何処にお前の言うところの正しい心や道徳が潜む余地がある?」
シルトは崩壊していくヴェマの街に目をやりながら続ける。
「でも……」
シルトの詰問にジェーンは口を噤む、確かに彼の言う通りだ。彼らに自分の言う、道徳心や良心があったとは思えない。しかし、しかしだからといって……ジェーン僅かに、しかし確かに彼の意見に気色ばんだように
「確かに、先程の彼らにそのような心があったとは思えません。しかし、良心を持たない人間なんて存在しません……」
「一抹の激情と、その残滓にお前は期待しすぎだ」
一抹の反論すらジェーンには叶わない。しかし彼女はそれでも引かずに
「それでも、良心は決して誤ったりしません」
とだけジェーンは、はっきりと言い返した。シルトは僅かに閉口し
「そうだといいがな……」
とだけ吐き捨てた。彼が脱獄者やイゴールに対して見せる怒気は明らかに常軌を逸しており、その並々ならぬ執念にジェーンは苦慮とも悲哀ともとれない表情を浮かべていた。
「安心しな、あの街は既に教会に接収されて住人は全て退去された、ただの廃墟だ」
「先の脱獄事件で、卿は自身の留守中に部下の大半を殺されてんだよ。まぁ、だからと言ってどうだって話じゃないんだけどな……」
イトウはジェーンの横でシルトの後ろ姿を臨みながら続ける。
「どっちにしろお仕事だ、卿だって公私混同を履き違えたりはしないだろうよ。多分。もし仮に何かあれば、そこから先は俺たち部下の務めってこった」
イトウの話を聞きながらジェーンは小さくなっていくシルトの背を一瞥する。その姿がひどく寂しいものにジェーンは思えてならなかった。
──
────
時を同じくして風が立つ、夜の風だ。慟哭の薫りを運ぶ科戸の言の葉に諸々は何を思う。深く切り立つ錆色の絶壁に囲まれた町、見上げればひどく狭い空が臨む狭都市、風の邦、焔の国と雪の邦に跨る小国である。
イグレリオとスニークルズの間には神々の断崖と称される巨大な峡谷があり、その底に櫛比する都市がアイモネである。この国には魔窟洞と呼ばれる魔術師御用達の金庫があるが、それはまた別のお話で……
かくあれそんな深い谷の底に構える街の小径を男が歩いていた。大柄な体躯に黒いオーバーコート、顔には大きな傷があり小さな銀眼鏡をかけている。不意に立ち止まると男は何を思ったのか大きな通りから脇道にそれ小径を進む。人通りも絶え、ひどくがらんどう路地裏の静寂感に蛍光灯の灯りが男の影を黒く映す。
「そろそろ出てきたらどうだ?怪物」
男は火の宿っていない、虚とも呼べる双眸を闇に向け虚空へそう囁く。しかし帰ってくるのは無言のみ。
「尾行ていたつもりなら滑稽な話だ、さっさと姿を現せ……」
男がそう叫んだ刹那、男の背後から無数の影が男に襲いかかる。男はそれらを躱しながらその影の主まで駆け抜け強力な蹴撃を与える。しかし影の主は身を翻し鉄柵の上に飛び乗る。常夜灯に照らされるその素顔はあろうことか麗しい女性であった。
「影疾……不死、吸血鬼か……」
男は吐き捨てるようにそう呟く。
「見つけたぞ、イゴール・ベスピオ・グリンデルワルド……!」
男を睨みながら女性は叫ぶ。イゴールと呼ばれた男はしかし、何故一人でこんな街中を闊歩していたのか。それも気になるがなにより、そう叫ぶ彼女の瞳には憎悪と怒りの色が宿っていた。
「夫の仇……!」
彼女はそう叫び手にした黒刃を振り翳し瞬く間にイゴールとの距離を詰める。そして、渾身の力を込めイゴールの体躯に刃を突き立てる。しかし、イゴールは倒れるをどころか不敵な笑みを零し、徐に彼女の首を片腕で掴み持ち上げる。
「仇討ちか……そうかお前、先の吸血鬼の番の片割か、成る程……」
イゴールは吐き捨てながら腕の力を強める。女性は悶絶しながらも必死に踠き
「なんで!死なない……くそが、死ね……裏切りの聖職者……!貴様の様な絶滅主義者が聖職者を名乗っていたこと自体、高慢も甚だしぃ……!」
と牙を剥き出しに叫ぶ。
「黙れ、怪物が人語を介すな。お前たち、我らはただ滅ぼされる存在であればいい。かつて、我々のみがそうであったように。なぁ怪物よ、お前達に問おう。何故我らは弱いものを蹂躙する?力を持てばのさばり、失えば被害者を取り繕う……貴様は、否我々はそうだ、全ては御都合主義を尊ぶ三門文士の書き綴る行線と韻律の駒だ。故に我らは祈りを捨てた、矜持を捨てた、慈善を捨てた、では我らに何が残る?」
イゴールは彼女を睨みながらそう吐き捨てる。
「知るか……死ね……!」
イゴールは徐々に力を強めていく、彼女は唾液を零しながら必死に踠き、イゴールの身体に幾度となく蹴りを浴びせるが彼は全く気に留めず、そして、ゴキン。と大きな音が路地裏に響き渡る。彼女は幾度か痙攣を繰り返し、締められた魚のように完全に動かなくなった。イゴールは手に持ったそれを、まるでものを扱うように投げ捨てる。
「エゴンはどうなった?」
イゴールはひとりでに薄闇に尋ねる。するとコツリ、コツリと小さな足音と共に少女が姿を表す。緑衣の外套ですっぽりと顔を覆い隠しその全貌は見えない。彼女は薇の意匠の入った大杖を手にイゴールに近づく。
「山の国にて、標的と遭遇。対峙しましたが、第三勢力により壊滅的被害を受けた模様、エゴン本人も重症です」
薄闇より現れた少女はそう語る。
「第三勢力……教会か?」
「いえ、詳細は不明ですがエゴン曰く剣士だそうです」
彼女は淡々と語る。そしてその声に感情はない
「まぁいい。では行軍むとしよう、絶望を振りまき怨嗟を纏い。一木一草根絶やしに、虱を潰すが如く進むとしよう……」
炎翁の行軍は止まらない、かの怪物を絶やすまで男の戦いは終わらないのだから。
──
────
「それで、イゴール卿の所在は掴めた?」
静謐な大伽藍に響き渡るのは青年の声。ステンドグラスから差し込む斜光で顔は見えない。質素な玉座に座すその青年はチェスの駒を摘み、それを指で捏ねながら尋ねる。
「只今、捜索中でございます。ですが脱獄した虜囚の一部がオリボンボルト付近で目撃されたと報告が……」
彼と同い年、いや彼より少し上くらいの青年が額ずきそう答える。
「山の国ねぇ……、ねぇラファL君どう思う?」
玉座の青年はそう尋ねる。
「はっ、現状から推測するにイゴールはオリボンボルトには今のところいないのではないかと。理由は分かりませんが、周到な奴がルボアで解放した虜囚を各地に拡散させいます。連中は略奪や殺戮に興じ各地で混乱と戦乱を招いています。彼がそれを姿を眩ませるためのデコイや囮に使うと仮定すれば、今現在イゴールがオリボンボルトに潜伏している可能性は低いかと……」
ラファLと呼ばれた青年がそう答える
「素晴らしい推理だ!流石は白金十字の頭目!」
玉座の青年は手を鳴らしながらそう言うと
「くだらない……あんな老害ちゃっちゃと殺しちゃえばいいじゃない」
そう言い放ったのはラファLの背後から現れたのは厚着姿の女性だった。歳はラファLと同じくらいで薄く明るい栗色の髪を腰まで下げる淡麗な美女だ。
「しかし、彼には尋問しなければ……」
「あの頑固じじいが尋問なんかで吐くわけないでしょ、そんなこと考えるだけ時間の無駄よ、それになんなのよ、白金十字の会合だって聞いて川の国から駆けつけてみれば、水と光と豊穣しかいないじゃない!」
ゲルダが不満を爆発させていると
「まぁまぁゲルダちゃん、怒っても皆んなは集まらないんだから〜お菓子食べる?」
そう告げるのは彼女達より少し年上の女性、そこはかとなく膨よかな彼女は微笑みながらゲルダにクッキーを差し出す。彼女の醸し出す間の抜けたような朗らかな雰囲気が、陽の光様にゲルダを包む北風を相克してしまう。
「……」
ゲルダは何も言わずそれを受け取ると黙り込んでしまう。
「ナタリアちゃんの言う通り、皆んな色々忙しいんだよ。ねぇ、ラファL君」
青年はラファLに目を向ける
「風は漣の国の防衛、土殿は山籠り中とのこと、闇は巫山戯る道化共商会の動向を追跡中、音は舞台、鉄に関しては消息不明だ」
ラファLは溜息を吐きながら呟く
「ちょっと!半分くらいおかしいのがいたけど!」
思わずゲルダが叫ぶ
「エルンストとミナはわかるわよ、けど他はどう考えてもおかしいでしょ、なんで私用で会合サボってんのよ彼奴ら!アダシノに関しては論外、て言うかなんであいつが白金十字の徽を冠してるのよ、そもそも……」
ゲルダの毒付きは止まることを知らずラファLは面倒くさそうに頭を掻しながらひこひこしている。
「おい、代理人の前で毒付くのはやめろ!」
ラファLがそう叫ぶとゲルダは玉座の青年を一瞥し渋々黙り込む。
「二人とも本当に仲がいいねぇ、同い年だもんね?」
その言葉に怪訝な表情を浮かべる二人に微笑むナタリアと玉座の青年、青年はそれはそれとしてと加えて続ける。
「卿の動向も気になるけどそれと同じくらい気になるのは彼の行動始動とほぼ時を同じくして現れた人狼の生き残り。彼の動きも注視したいねぇ、彼には監視を……」
「そのことですが、非正規ですが我が栄光に所属している術師が彼と行動を共にしているようです」
青年の言葉に、思い出したかのようにラファLが告げる。
「へぇ、なんて子かな?」
「部下の報告では、メルシェ。メルシェ=エルゴ=アポストル。墓師、ヤタ=ダルタニャンの弟子の人形少女だとか……」
その言葉を聞いた途端口を綻ばせ、クスクスと微笑むが、やがて声をあげて笑い出す。
「そっか、そっかぁ!それは素敵だねぇ、人形の少女と怪物の青年か、まるで絵物語みたいじゃないか……」
青年はうっとりと摘んだ駒を愛おし気に目をやりながら話す。
「はてさて、これからは多角的な作戦が並行して実行されるだろう、ここにいる白金十字以外のみんなにも動いてもらうことになると思うしね、そういうこともあってラファL君とゲルダちゃんには二人組で仕事をしてもらうこともあるかもねぇ」
「……⁉︎」
ゲルダは明らかに不満そうな表情だが何も言わずラファLを睨む。
「緞帳は既に上がった。役者も舞台に揃った。後はなるようになるさ。さぁ、我々はかくあるよう進めるとしよう、物語を語り部の如く進めるとしようじゃないか……」
玉座の青年は楽しそうににやけながらそう言い放つ、盤面の駒はまるで意思を持つかのように一人でに動き回る。
「「「……全ては御身の書き綴るが侭に」」」
ゲルダとラファL、そしてナタリアの三人は額ずきそう告げるのだった。
──
────
暗い……。冷たい。寒い。痛い。痛い。痛い。身体を迸る痛痒と寒気にルゥは目を覚ます。辺りは真っ暗で何も見えない。まるで暗い穴の底にいるような感覚だ。
「ここは……」
そう呟こうとした刹那視線を感じる。
「よぉ、蒙昧な敗者のお目覚めだ」
視線の主はまるで嘲るようにそう言い放つ。
「っ⁉︎、なんで……」
ルゥは思わず目を見開きそう言うことしか出来なかった。何故なら──
「あっ!目を覚ましました、モナドさん!」
「っ……」
聞き慣れた少女の声に思わず我に帰る。ルゥはベッドに横になっていた。全身に包帯とガーゼで手当てを施された身体は何故か妙に軽く痛みも無い。ルゥは徐に起き上がるが目の前の状況をイマイチ理解できていない様だった。
「俺は、どうして……」
「あれ?覚えてないんですか?ルゥさん先生と稽古して半殺しにされて帰ってきたんですよ、正確には連れ帰られたが正しいかもしれませんが……」
メルシェは苦笑してそう告げる。
「稽古……あぁ、そうか俺はエドヴァルドに稽古をつけてもらいに行ってそれから……」
それから……、何度も思い返すがそこから先が思い出せない。だが自分の包帯塗れの体躯を見てすぐ察しがついた。
「また暴走れたのか……」
ルゥは悔しそうな顔を浮かべる。
「まぁまぁ、これからこれからですよ。急いてはこと仕損ずと言いますし 」
彼女は励ますようにそう言うが、ルゥはそうは思わなかった。
「身に余る力を持つ者には二種類いる」
声がする方を振り向くとエドヴァルドが立っていた。
「一つは、その力に耽溺し暴れ狂い、いずれ身を滅ぼす者、もう一つはその力で誰かを傷つけることを怯懦し、力をひた隠しにする者だ。お前は間違いなく後者に当てはまる。どちらにしろ向かう先は破滅だ。」
ルゥとメルシェを一瞥し、エドヴァルドは続ける
「お前達がどうあり、これからどう旅をしていくのか、そんなもの俺には毛頭関係ないことだ。だがこれだけは忘れるな、悲壮は、狂気は、鬱屈は常にお前達の中に潜んでいる。お前達は己と戦いながら自分を探さねばならない。まぁ、皆まで言う必要はないだろう」
エドヴァルドはそう告げ踵を返す
「雪の国へ向え、其処にお前達が会うべき女がいる」
「私達が会うべき人……?」
メルシェは首を傾げ尋ねる。
「北の魔女だ」
エドヴァルドは振り返りそう返すと部屋から出て行ってしまった。エドヴァルドが出ていって暫くの沈黙、ルゥとメルシェは互いに思いを交錯させていた。
(……俺はこのまま彼女の旅に同行し続けてもいいのだろうか……?また暴れ出し彼女を傷つけるかもしれない……)
(……先の黒騎士との戦いで痛感した、私は弱い……。これから先の旅で、私の在り方が見つかる保障はどこにもない、寧ろ見つかることなく果てる可能性のほうが高いのかもしれない……)
((……けれど……、それでも……))
──まだ、立ち止まるには早すぎる。
二人は互いが互いに顔を見合わせ、意見が合致したことを悟ると、苦笑する。
「スニークルズですか……最後に訪れたのは数ヶ月前でそこから南下してきたのでもんどりを打つことになりましたね」
メルシェは少々辟易としたような口調で喋る
「汽車や車は人目につく。あまり街中を彷徨くと連中に付け狙われる可能性があるから移動するのにも少々勝手が悪いな……」
「それなら山脈を沿って進みましょう。オリボンボルトの山脈を抜けて焔の国に出て、そこからまたイグレリオの山脈を超えて風の邦に、そこからスニークルズにという算段で。国境沿いを進み続けると拮抗状態の前線や戦地が幾つもありますし……」
「お前はその身体でどうするんだよ?」
ルゥは右腕がなく左足の動かない身体のメルシェを一瞥し尋ねる。
「やだな〜、また背負ってくださいよ〜」
メルシェはそう言いながら自分の小さな体躯を白く大きな背囊に納めひょこりと顔を出す。どうやらこれで運べという事だろう。
「十字架は流石に無理だぞ……」
ルゥは頭を掻きながら渋々そう告げるのだった。
ここまで読んで頂けて幸いです。
イラストのご依頼を頂いたので暫く投稿が滞りますが、ご了承ください…




