AIな妹・逢(あい) その1 5010字
あらすじ
20代会社員の男性は、会社と自宅を往復するだけの毎日を送っていました。
恋愛にも結婚にも縁がなく、家にいても当てなくスマホを覗いて時間を浪費してしまいます。
そんな時、大学で情報処理を研究している妹・逢から、ある贈り物をされます。
その贈り物とは、スマホの中に、妹の人格をそっくりそのまま移植した、AIの妹・アイでした。
本編開始です↓
僕は今、夢を見ている。
ふわふわして、ほんのり温かくて、現実をちょっぴり忘れさせてくれる、優しい夢。
まだまだ僕は、この夢のゆるま湯に浸っていたかった。
でも……。
『あにき、おはよ』
まどろむ夢の世界の向こうから、現実世界の鐘が邪魔をする。
鐘と言っても、電子音声。
それも、女の子の声だ。
『おはよー、兄貴っ!』
鐘の音が大きくなる。
おまけに、生身の人間の声とまったく区別が付かない。
人体の発声を精密にまねた、模擬声帯だ。
「うん、わかってる……おきなきゃ……。でもね……。僕はまだ、布団の温もりに囚われていたい……」
僕は夢の外の住人に話しながら、夢枕にさらに深く顔を埋めた。
……そんな僕を見かねたのだろう。
目覚ましのスヌーズ機能が働きだした。
『はやく起きないと……。兄貴のファーストキス、もらっちゃうよ』
「えっ……!? やめて!?」
僕は夢の中であわてて唇を押さえた。ファーストキスは一番好きな女の子のために大切にとっておきたい。
しかし……これが罠だった。
僕が急いで手を動かした事により、睡眠が浅くなった。
そして覚醒の御手にガッチリ腕を掴まれ、目覚めの世界へ否が応にも引っ張り上げられる。
……起床。
午前6時、00分、ジャスト。
僕の目覚まし時計は、いつも正確だ。
『ふふ、すごい寝癖。昨夜のベッドが、よっぽど激しかったんだね』
ここは現実の世界。僕の部屋。
先ほどの声の主が、体に内蔵されたカメラの映像から僕の容姿や健康状態を解析して、適切な助言を送ってくる。
「変な言い方やめろよ……。ふあぁ~」
『兄貴、おはよ。よく眠れた?』
「……うん」
さっきから僕に話しかけて来るのは、AI。人工知能だ。
僕の持っている携帯端末(時代によってはスマートフォンとも呼ぶ)にインストールされたこのAIには、実在の女の子の人格が忠実に再現されている。
その女の子とは、僕の妹、逢だ。
逢はこのAIの開発者で、自分の性格をそっくりそのまま移植したらしい。……本当かな。
画面に表示されるAIの3Dイメージモデル──まるで生きているかのように滑らかに動く肖像画も、妹の逢に生き写しだ。
でも……この3Dモデルは、妹がとても着そうにない、フリフリした可愛らしいアイドルみたいな服を着ている。あくまでデータ上の衣装だけどね。
『ねぇ兄貴……。今日の私ね、兄貴の大好きな色の下着、はいてるんだよ。……何色かな。当ててみて』
画面の中の妹が、頬を赤く染めて、はにかむ。
3Dモデルの映像が全身サイズから下半身のアップに変わり、ローアングルに切り替わる。
AIになった逢の生足とスカートが画面いっぱいに映し出され、AIは恥ずかしそうにふとももをすりすりと擦り合わせ、両手で短めのスカートを股間に押さえ付けて、えっちなカメラアングルから逃れようとする。
でも、下着だけは絶対に見えない。
……これ、別に、僕が望んでこういう画面になったんじゃない。
AIが自分で思考して、画面の見え方を自在に変えてるだけなんだ。
AIの妹には毎朝こういう挑発をされるものだから、僕はすっかり慣れてしまった。最初の頃はドキドキしたけどね。
「……からかうのもいい加減にしてね。AIは下着を穿きません……」
『えーっ? 穿くよ! AIの女の子だって、オシャレに敏感なんだよ!』
でも……。
少なくとも妹の逢は、このAIみたいな言い回しはしなかった。逢はいつも真面目だったから。
僕の知る逢は、清楚で、生真面目で、優等生。
肩より下に伸ばした艶やかな黒髪に、知的な眼鏡。その奥に宿る、どこか冷ややかな瞳が印象的だった。
この軽率なAIとは、まるで正反対だ。
「……ところで、今日の天気は?」
『えーっとね……快晴! 青い絵の具に、真っ白なクリームを落として、ぐちゅぐちゅ掻き混ぜたような、柔らかな空の色』
僕の職種に天候はあまり関係ないけれど、それでも曇りや雨よりかはずっといい。
第一、僕の口に入る農産物だって、一次産業の方々とお日様の恵みの成果だ。
天気が良いってことは、嬉しい。
「そいつは最高。いい日になりそうだね。今日のニュースは?」
『兄貴、聞いてっ! たった今入ってきた、ビッグニュース! 兄貴が私の下着の色をね、【最高だね】って喜んでくれた。……私の今日の下着はね、パステルカラーの水色。兄貴の好きな、空の色だよ。もう、やだな……あにきのえっち……』
AIとの噛み合わない会話に、僕は覚めつつある頭を抱えた。
寝起きで糖分不足なせいか、イライラしているのかもしれない。
「はぁ……。もう、切るよ」
僕は携帯端末の電源ボタンに手をかけた。
これを押すか、今から押すよと脅せば、AIはおとなしくなってくれるはずだ。
『ふーん……電池の節約になるね。……ニュースなら、ネットかテレビでも見てればいいんだよ。ベーっ、だ!』
画面の中でアッカンベーをしながら、僕が手を下すまでもなく、AIは勝手に切れた。
ついでに携帯端末の画面も消え、待機モードに変わった。
アッカンベーというのは──早い話が、子供がよくやる侮蔑の表現だ。やり方は、お父さんやお母さんやおじいちゃんやおばあちゃんに聞いてみて欲しい。
しかし、まったく……。まるで本当に、子供同士のやりとりだ。
お互いにいい歳した大人だと言うのに。
AIの年齢設定は一応、21歳という事になってるはずだけど。
どことなく、あけすけな10代少女のような雰囲気がある。
「10代、か……」
僕が妹の逢と会話をしなくなったのも、確かそれくらいの頃だったな。
逢が愛らしい女子小学生だった時までは、それなりに仲の良い兄妹だったけど。
妹が中学に上がった途端、急に話さなくなった。
僕たち兄妹が一緒に登校していたのは、逢の中学校の入学式から、一月経ったか経たないかくらいまでで。
5月に入ると、僕たちは同じ中学校に通ってるくせに、別々の時間に家を出るようになった。
妹とまともに会話した記憶も、きっとそのあたりが最後だ。
……そういえば、このAIの性格はどことなく、仲が良かった頃の逢に似ている気がする。……気のせいかな。
僕は洗顔と朝食の用意を済ませ、テレビを点けた。
今日の天気予報は、快晴。AIの言った通りだった。
特に目ぼしいニュースはなく、芸能人の飼い猫が子猫を出産したという、心底どうでもいいニュースが流れ始めたので、僕はテレビを消した。
一人暮らしを始めて数年が経つけれど、未だ独りの静寂には慣れない。
僕は容姿が優れた方ではないから、彼女ができた試しもない。
友人の数も、普通の人より少ないと思う。
このまま職場と自宅の往復で人生終わっちゃうのかな、というぼんやりした諦めを、そろそろ感じつつある。
食事を終え、食器を洗い、歯を磨き、寝癖ではねた髪を整え、スーツに着替えて、出勤の仕度をする。
僕が出かけると、この部屋には誰もいなくなる。
帰宅すると、部屋は真っ暗で、冷えたままだ。
靴を履き、鞄を持ち、部屋の鍵を握ったままドアノブに手をかける。
……この鍵は、僕の人生をこの小さな牢獄に閉じ込めるための、封印の錠なのだろうか。
その時、ポケットの中に入れていた携帯端末がブルブルと振動し出した。
また何か仕事で失敗してしまったのだろうか。
上司か顧客からの電話かと身構えて携帯端末を取り出すと、画面に映っていたのは、さっき機嫌を悪くして引っ込んで行ったAIだった。
『あにき。いってらっしゃいのチューが、まだだよ』
ああ……。
そうか……。
つい独りだと思ってたけど、今の僕には、こいつがいたっけ。
とりあえず仕事の電話じゃなくてホッと安堵したけれど、同時に、こいつの相手は面倒だなあ……というモヤモヤした気分に襲われる。
正直、AIで孤独が紛れても、あまり嬉しくはない……。
「……僕はしないよ、そんな恥ずかしい事」
『じゃあ私がするね。お手元の画面に、唇を近付けてね♪』
AIにしては攻めた要求をして来る。
そして端末の画面いっぱいに、AIの顔面がアップになる。目を閉じ、頬を少し赤らめ、何かを期待する表情に変わる。これがキス待ち顔ってやつかな……。
これはつまり、ほぼそのまま妹の逢の顔なんだけれど。
……残念ながら、僕に妹とキスする趣味はない。
「いやだよ……」
『なら、ほっぺ! ほっぺならいいよね! 血の繋がった、実の兄妹でも!』
「AIと血縁になるほど僕は未来に生きてないよ……」
僕は頑なに固辞した。
チューする方ではなく、される方でも。唇じゃなく、ほっぺでも。やっぱり恥ずかしいものは、恥ずかしい。
すると、妹の人格を真似した(はずなんだけどその真偽については甚だ疑問な)AIが、画面の中でむくれ出す。
眉間に皺を寄せて、腕を組み、わざとらしく僕から目を背けている。
誰がどう見ても、【私は今、不機嫌になっています】と答えるような仕草だ。
AIのこの挙動から察するに、どうしても、僕とおでかけのチューがしたいらしい。
新妻のつもりなのかな……?
「……もう、分かったから。僕のほっぺにチューしてもいいから。その代わり、早くしてね?」
僕は家を出た後になって、おまけに人前で、これ以上の無理難題を要求されるのも嫌なので。
今日のところはAIに従う事にした。
一度くらいなら……まあいいかな。
ほっぺにチューという話なので、僕はちょうどスマートフォンで通話するような格好で、携帯端末を耳元まで持っていき、ほっぺたに触れるか触れないかの距離で止めた。
「これでいい?」
僕なりにかなり譲歩したつもりだったけど、AIからの答えはない。
でも、何か小さな声でぼそぼそ喋ってるみたいだ。
その小さな声をうまく聞き取れない僕は、端末をさらに耳元に近付ける。
──その時だった。
『……あにき。大好きだよ……』
突然、耳にかかるような、くすぐったい声に囁かれる。
まるで運命の恋人に枕元で囁くような、甘い声だった。
僕はびっくりして、背筋にぞわりと寒気を感じた。
そして、足の間が妙にむずつき始める。
「うわ!」
『ぷっくっくっ! あにきのその顔! 変なのー!』
どうやら僕は、またしてもAIにハメられたらしい。
おまけに動揺して、手にしたカバンと鍵と、あと携帯端末を、玄関に落としてしまった。
『い、痛っ! なにすんのさ兄貴ー!』
「まったく……勘弁してよ……」
床に落ちてもなお悪態を付くAI入りの携帯端末やら、何やらを拾いながら……。僕の頭の中に、さっきの囁きが何度もリピートされる。
【……あにき。大好きだよ……】
声は妹そのものだが、逢にそんな嬉しいことを言われた記憶は、一度たりともない。
逢はクールで、真面目で、どこか寂しい女の子だった。
そのせいか……例えAIによるまがい物の告白だったとしても、なんだか異様にドキドキしてしまう。
……でも、冷静に自分を俯瞰してみると、AIに告白されてドギマギしてしまう成人男性というのは、どこか滑稽かもしれない。
『じゃあ、行ってらっしゃい。……兄貴』
AIは目的のイタズラを果たして満足したのか、画面の中で頬を赤らめながら、手を後ろに組んで、澄ました顔で僕を見つめてくる。
「……こんな事、明日はやめてよね。……行ってきます」
──行ってきます。
この言葉をここ最近、僕が自然に言えるようになったのも、AIが僕の元に来てからだった。
それまでは何年も、ずっと使わなかった、使えなかった、言葉。
──行ってきます。
……なんて、暖かい響きなんだろう。
『今日は帰り、遅くなっちゃダメだよ。寄り道も禁止! まっすぐ、私の元に帰って来ること!』
携帯端末の画面の中で、AIの正妻めいたお説教が始まる。
「そんな、いつもと代わり映えしない毎日は嫌だよ……」
僕は端末をポケットの中に戻して、AIの口を無理やり塞いだ。
それに、この端末は僕が肌身離さず携帯しているのだから、いってらっしゃいを言うまでもなく、僕とAIは24時間行動を共にしているんだけどね……。
やれやれ……。ここまでの茶番も、なかなか無いよ……。
『兄貴! 今日も私の電気代、いっぱい稼いできてね☆』
ポケットに収納されてもなお、AIが振動機能と通話音量最大とを駆使して、勝手に話しかけてくる。
「はいはい……」
部屋を後にした僕は、カチャリとドアの鍵を閉めた。
最近、牢獄からタコ部屋にランクが上がりつつある、この愛すべき我が家の。
振り返って見上げた朝の空は、真っ青でもなく、真っ白でもなく。
AIが言った通りの、僕の大好きな、パステルカラーの水色だった。
僕の生活は、AIが来てからほんのちょっぴり、色づき始めた。
つづけたい