一の四(一の終)
静まりかえった森に焦げるようなニオイが漂う。空高く伸びる木々が自由気まま好き勝手に立ち、日が届かぬ中で湿った空気が肌を撫でる。下生えがところどころに茂る足元には、動きをとめた巨大な化け物が転がっている。女騎士は傷だらけになった体を震わし、喜びを噛みしめる。
やった! やりました、父上! 課せられた使命を見事果たしてみせました!
幼いころに両親を亡くし行き場のなかった自分を、実の子のように育ててくれた養父のことが頭に浮かぶ。その養父を師とし磨いた剣技が、神に下された使命を成し遂げる大きな力となったことに誇りを感じる。
地面に伏している倒すべき敵だったものに目をやる。巨体を覆う毛は完全に焼け焦げてしまい、まだ火が残っているのか煙がほのかに揺れる。前のめりに倒れこんだ体はぴくりとも動かない。
お前も化け物にしてはよくやった。攻撃を咄嗟にかわす反応速度と瞬発力。攻め立てられても逃げ続ける持久力。最後の最後で宙へと飛びあがり、こちらを翻弄した知性のひらめき。どれも見事なものだ。その難敵を仲間と協力して打ち倒したことにこそ価値がある。
だが、やつがこちらの言葉に幾分か釣られなかったらもっと苦労していたかもしれない。
神の代弁者たる祭司長の言葉を思い出す。
――汝が対するものの見かけに惑わされてはいけない。人語を解するであろうそのものの言葉にも。
その助言を頼りに敵を罠にはめることができた。まさしく遠きを視ること神の御業。心の奥底深くから、胸を突き動かすものが湧きあがる気がした。
「遠くに倒れているルークの治療には無傷のわたくしが参りますので、そちらはご自身とラークの治療を」
騎士はカークの声に我に返った。忘れていた両肩の痛みがぶり返す。
高位の神官であるカークほどではないが、神に仕える騎士も治癒の術が使える。もちろん砕かれた両肩くらいどうということはない。自らの思いは一旦胸に秘め、早く自分と仲間たちの傷を癒そう。そして王都へと帰り、お伝えするのだ。すべて成し遂げたと!
晴れやかな気持ちでラークの方へ向かおうとしたとき、背中がぞくりとした。殴りつけるような剥き出しの敵意に襲われた。
「カーク!」
注意を発するべく叫んで彼に向きなおる。どうしたのかと驚いてこちらを見る彼の姿が見えた――と思った瞬間にその姿が消え、強烈な風があたりに吹きつける。一拍おいてから、ぐしゃりという潰れるような音と、何かが震えるような振動が伝わってくる。
そうであって欲しくないと願ったもの、信じたくはないものの姿が、そこにそびえ立っていた。
こちらを向いた巨大な体は毛が焼け落ち、皮膚は赤黒く変色し、腫れあがっている。ラークを弾き飛ばしたであろう握りしめたこぶしからは、血と体液が混じりあったものが滴り落ちている。顔は爛れ、表情を伺うことはできない。口のあたりから、ふしゅう、ふしゅうと空気が漏れる音が聞こえる。
「どうして!」
思わず意味のない言葉を口にする。化け物は生きていた、ただそれだけのことだ。カークは一撃のもと殴り飛ばされ、木にたたきつけられたのだろう。
「神の炎がお前を燃やし尽くしたはず!」
あふれる言葉とは裏腹に、目は冷静に相手を観察する。やつの背中は黒く焦げつき、その身の奥まで焼けていたはず。だが前面はそれほどでもない。大地に降り積もった葉が腐り、水を蓄え、炎を押しとどめたとでも言うのか。
「大人しく死んでいろ、この化け物が!」
言葉は千々に乱れるが、鍛え抜かれた騎士としての魂は騙せない。現状を把握し、彼我の力の差を推し量る。逃げる隙もなく、ゆっくりと片手を上げる化け物の姿を見て理解した。自分はここで死ぬのだと。
振りおろされたこぶしが鎧で覆われた胴を打つ。
「ごふっ――」
先ほどまでよりはるかに強力な一撃。口から血が吹き出し、大地とやつのこぶしのあいだで鎧は形をゆがめ、弾けとんだ。
続けざまに二発、三発と叩きこまれる。知性のかけらも感じられない荒れ狂うただの暴力。それゆえに手がつけられない。鎧の下につけていたものも乱れ飛び、傷だらけの体が外に晒される。ひんやりとした空気が、すでに熱く腫れあがった肌に心地よい。
さらに幾度となく殴りつけられる。体中の骨が砕けたのか何も対応することができない。胸の奥にあるという心の臓が破裂してないのが不思議なくらいだ。
生きているのか死んでいるのかも分からない状態で、ずぶずぶと夢の中に沈んでいくような温かさを下半身に感じた。腹を殴られたせいで尿を、それ以上のものを、漏らしているのだと気づいたが、恥ずかしさすらなかった。ただ眠りたかった。
それなのに見た。見てしまった。やつの下腹部で何かが頭をもたげるのを。一瞬にしてこの世に引き戻されてしまう。
「やめろ……」
なんとかして声をしぼり出す。
今や、やつの股間にはあまりにも巨大な怒張が天を衝くように伸びている。オスがメスを貫くための器官であると知ってはいたが、人が受け入れられるとは到底思えない大きさだ。
鼻息荒くのしかかってくる巨大な化け物を退けることなどできないと知りながら、ただ訴えかけるしかなかった。
「お願いだ、やめてくれ……頼む……」
人の言葉などまるで理解できないとでも言うように、止まることなくやつは――