悪役令嬢の断罪は専門家にお任せください 婚約破棄の前に、消えた国宝の行方を調査いたします
「西方の公国で、婚約破棄騒ぎが起きたそうよ」
アリシアから渡された依頼書には、そう記されていた。
公爵令嬢が平民の少女をいじめたとして、王太子から婚約破棄を宣言された。
その直後、平民の少女は王太子から贈られた宝石を持って姿を消した。
さらに王家の宝物庫から、建国以来受け継がれてきた国宝までなくなっている。
いかにも、リディアが乗り出すべき事件に見えた。
しかし彼女は依頼を直接引き受けなかった。
「ルクシアで育てた調査官たちへ、依頼を引き継ぎます」
母セレスティアも、すぐに賛成した。
一人の英雄が世界中を駆け回らなければ問題を解決できないのなら、それは正しい仕組みとは呼べない。
リディアが目指していたのは、自分がいなくても証拠を調べ、権力者の命令へ異議を唱えられる人々を育てることだった。
こうして西方のベルクレア公国へ派遣されたのは、三人の調査官だった。
元王国法務院の若き書記官、クラウス。
商会の帳簿調査を得意とする女性監査官、メイベル。
そしてルクシア王国の地方出身で、身分の低い者からも話を聞くことに長けた調査官、ノア。
三人は帝国から与えられた正式な調査証を携え、ベルクレア公国の王都へ到着した。
街へ入った瞬間、彼らは奇妙な光景を目にした。
大通りの至るところに、一人の少女の肖像画が掲げられている。
柔らかな金色の髪。
澄んだ緑の瞳。
白い聖衣。
微笑む少女の下には、大きな文字が記されていた。
『聖女マリアンヌを救え』
「行方不明の平民少女というのは、彼女でしょうか」
ノアが尋ねた。
メイベルは依頼書を確認する。
「間違いありません。マリアンヌ・ベル。三か月前まで、王立学院で給仕として働いていたそうです」
「平民の給仕が、どうして聖女と呼ばれているのです?」
「王太子殿下が認定なさったそうです」
クラウスが眉を寄せた。
「王太子に、聖女を認定する権限があるのですか?」
「ありません」
「では、なぜ誰も止めなかったのでしょう」
大通りの先から、鐘の音が聞こえてきた。
人々が一斉に道の両側へ下がる。
白い馬に乗った青年が、騎士たちを従えて現れた。
ベルクレア公国の王太子フェリクスだった。
彼は馬上から民衆へ手を振りながら、声を張り上げる。
「安心してほしい! 聖女マリアンヌは、必ず私が救い出す!」
人々から拍手が起こった。
「マリアンヌは悪しき公爵令嬢によって連れ去られた! だが私は、どのような卑劣な妨害にも屈しない!」
クラウスたちは顔を見合わせた。
依頼書には、マリアンヌが自ら姿を消した可能性があると書かれていた。
公爵令嬢が誘拐したとは、どこにも記されていない。
「事件の調査前から、犯人が決められているようですね」
クラウスがつぶやく。
「いつものことなのでしょう」
メイベルが答える。
「だから、わたしたちが呼ばれたのです」
王太子の行列が通り過ぎた後、三人は宿へ向かった。
調査団の到着は事前に知らせてあった。
本来なら王宮から迎えが来るはずだったが、誰もいない。
その代わり、宿の前に一人の年老いた男性が立っていた。
「帝国からの調査官の方々ですな」
「はい。クラウスと申します」
「わたしはアーデル公爵家の家令、バルトでございます」
アーデル公爵家。
婚約を破棄され、マリアンヌを誘拐したと疑われている令嬢の実家だった。
「お嬢様が、皆様との面会を希望しております」
「現在、どちらに?」
「王都の地下牢です」
三人は言葉を失った。
「裁判は終わったのですか?」
「始まってすらおりません」
「では、なぜ収監されているのです?」
「フェリクス殿下のご命令です」
「法的根拠は?」
「ございません」
バルトは疲れ切った顔で答えた。
「殿下は、聖女を誘拐した悪女へ裁判など必要ないとおっしゃいました」
その日のうちに、三人は地下牢を訪れた。
しかし牢の番人は、頑として面会を認めなかった。
「王太子殿下の命令です。誰も通せません」
クラウスは調査証を示した。
「我々は貴族議会と帝国法務院から正式な許可を得ています」
「王太子殿下の命令が優先です」
「ベルクレア公国の法では、王太子が法務院の決定を一存で取り消せるのですか?」
「難しいことは分かりません。命令に従っているだけです」
「では、お名前をお願いします」
牢番が眉を寄せた。
「なぜです?」
「不当な監禁と調査妨害へ加担した者として、記録します」
「私は何も悪くない!」
「違法な命令だと知らなかったのであれば、今お伝えしました」
クラウスは記録簿を開いた。
「それでも監禁を続けるなら、ご自分の意思で加担したことになります」
牢番の顔色が変わった。
「少し、お待ちください」
彼は奥へ引っ込み、しばらくして鍵を持って戻った。
「面会は十五分だけです」
「調査に必要な時間をいただきます」
「殿下に知られたら、私が処罰されます」
「違法な命令へ従えば、法務院から処罰されます」
どちらが恐ろしいか考えたのだろう。
牢番は何も言い返さなかった。
地下牢の一番奥に、公爵令嬢イザベルはいた。
美しい黒髪は乱れ、青いドレスは汚れている。
それでも背筋を伸ばし、粗末な椅子に座る姿からは、公爵令嬢としての気品が失われていなかった。
「帝国から来られた方々ですね」
三人を見ると、イザベルは立ち上がった。
「面会に感謝いたします」
「お体に問題は?」
メイベルが尋ねる。
「大きな問題はございません。食事も水もいただいております」
「尋問で危害を加えられましたか?」
「いいえ。もっとも、毎日罪を認めろと言われていますが」
「認めるべき罪に覚えは?」
「ございません」
イザベルは迷うことなく答えた。
「わたくしは、マリアンヌを連れ去っておりません」
「彼女をいじめたという告発については?」
「何をいじめと呼んでいるかによります」
三人は顔を見合わせた。
完全に否定すると思っていたからだ。
「説明していただけますか?」
「マリアンヌは学院の給仕でありながら、許可なく貴族用の図書室へ入りました。注意したことがございます」
「ほかには?」
「授業中の教室へ入り、フェリクス殿下へ菓子を渡そうとしました。退室するよう申し上げました」
「暴言や暴力は?」
「ございません」
「持ち物を壊したことは?」
「ございません」
「階段から突き落としたことは?」
イザベルは小さく息をついた。
「やはり、その話も広まっているのですね」
「事実ではないと?」
「その時間、わたくしは王宮で婚礼衣装の打ち合わせをしておりました。王妃殿下と仕立屋の方々が証言できます」
「その証言は調べられましたか?」
「王妃殿下は、余計なことを言えば息子に嫌われると考え、沈黙なさっています」
クラウスは記録を取りながら尋ねる。
「マリアンヌとの関係は、どのようなものでした?」
イザベルは少し考えた。
「彼女は、初めから悪意を持っていたわけではないと思います」
「お知り合いだったのですか?」
「学院へ来る前から、です」
意外な答えだった。
「マリアンヌは、アーデル公爵領の出身です。父親を早くに亡くし、母親と二人で暮らしていました」
イザベルは牢の小さな窓へ視線を向けた。
「十二歳の頃、彼女は公爵家が運営する学校へ入学しました。成績が良かったため、わたくしが推薦し、王都の学校へ送ったのです」
「では、あなたは彼女の恩人なのですね」
「そのように呼ばれることは望んでおりません」
イザベルは静かに首を横へ振った。
「学ぶ権利は、施しではありません。彼女自身が努力して得たものです」
「その後、なぜ王立学院の給仕に?」
「王都で学ぶ間の生活費を得るためです。公爵家から奨学金も出しておりましたが、彼女は母親へ仕送りをしたいと望んでいました」
「フェリクス殿下とは、そこで出会ったのですか?」
「はい」
フェリクスは美しいマリアンヌを気に入り、仕事中であっても呼びつけるようになった。
高価な服や宝石を贈り、授業へ同席させ、ついには貴族しか参加できない舞踏会へ招待した。
イザベルは何度もフェリクスへ注意した。
婚約者がいる以上、別の女性へ過度に近づくべきではない。
何より、王太子が特定の平民を特別扱いすれば、彼女が周囲へ受け入れられなくなる。
しかしフェリクスは耳を貸さなかった。
「殿下は、マリアンヌへ聖女という肩書を与えました」
イザベルが続ける。
「彼女に治癒魔法の才能があったからですか?」
「いいえ」
「神託を受けた?」
「いいえ」
「では、なぜ聖女に?」
「白い服が似合ったからだそうです」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
ノアが恐る恐る聞き返す。
「それだけですか?」
「殿下は、民衆が分かりやすい物語を求めているとおっしゃいました」
美しく心優しい平民の聖女。
彼女をいじめる傲慢な公爵令嬢。
身分の壁を越え、聖女を救う王太子。
フェリクスは自分が物語の主人公になったつもりで、都合よく役を割り振ったのだ。
「マリアンヌ本人は、どう思っていたのでしょう」
「最初は困っておりました」
イザベルの声が少し沈んだ。
「何度か、わたくしへ相談に来ました。王太子殿下から贈られた物を返したい。聖女という呼び名もやめてほしい、と」
「あなたは何と?」
「公爵家で保護すると申し出ました」
「それを断られた?」
「お母様の治療費を、殿下が負担していたのです」
三人の表情が険しくなる。
「断れば、治療費を止められると?」
「殿下が直接告げたわけではありません。しかし、マリアンヌはそう恐れていました」
「では、姿を消した理由は?」
「分かりません」
イザベルは首を横へ振った。
「ただ、いなくなる前夜、彼女から手紙が届きました」
「手紙はどこに?」
「王宮へ押収されました」
「内容は?」
「『これ以上、あなたを悪役にしたくありません。すべてを終わらせます』と」
ノアは牢の鉄格子へ手を触れた。
「国宝を持ち出したのは、彼女だと思いますか?」
「いいえ」
「なぜ?」
「マリアンヌは宝物庫へ入れません」
「王太子殿下に同行すれば可能では?」
「殿下にも、国宝を保管する最奥部へ入る権限はございません」
「では、誰なら入れるのです?」
「国王陛下、王妃殿下、宝物庫長。そして、国璽を預かる宰相です」
メイベルの目が細くなる。
「消えた国宝について、詳しく教えてください」
「建国王の冠に使われた『暁の星』という宝石です」
成人の拳ほどもある、深紅の宝石。
単に価値が高いだけではない。
ベルクレア公国の建国時、初代国王が諸侯との誓約を結ぶ際に用いたもので、王権の正統性を示す象徴とされていた。
それが消えたのは、フェリクスがイザベルへ婚約破棄を宣言した翌日だった。
同じ日、マリアンヌも姿を消した。
フェリクスは、イザベルがマリアンヌを誘拐し、彼女に国宝を盗ませたと主張した。
「随分と複雑な罪を、短時間で思いつかれたのですね」
メイベルが言った。
「殿下は国宝が消える前から、わたくしが盗ませたと口にしていました」
「消える前から?」
「婚約破棄の夜、殿下はおっしゃいました。『マリアンヌに国宝を盗ませた罪まで、すぐに明らかになる』と」
三人は同時に顔を上げた。
「そのとき、国宝はまだ宝物庫にあったのですね?」
「公式には、翌朝まで」
クラウスは記録簿へ大きく印をつけた。
王太子は、国宝が消えることを事前に知っていた。
少なくとも、その可能性が高い。
「イザベル様」
クラウスは鉄格子を見た。
「まず、あなたをここから出します」
「殿下が許可なさらないでしょう」
「必要ありません」
クラウスは正式な文書を広げた。
「裁判を経ず、逃亡や証拠隠滅のおそれを示す資料もなく、公爵家の令嬢を収監することはできません」
「ですが、わたくしが出れば殿下は」
「怒るでしょうね」
メイベルが平然と答えた。
「だから何でしょう」
牢番が不安そうに近づいてきた。
「本当に出すのですか?」
「釈放命令です」
「殿下が兵を送ってきます」
アリシアならば、ここで剣へ手を置いただろう。
しかし三人は武人ではない。
クラウスは剣の代わりに、さらに一枚の文書を取り出した。
「イザベル様を再び不当に拘束した場合、国際調査の妨害と見なし、ベルクレア公国への法務支援を停止します」
「法務支援?」
「現在、公国の裁判制度は帝国から派遣された法務官によって維持されています」
メイベルが続ける。
「援助が停止されれば、裁判だけではありません。国境を越えた商取引の保証も止まります」
「では、商人が」
「公国との取引を避けるでしょう」
牢番はすぐに扉を開けた。
イザベルが地下牢から出たという知らせは、三人が公爵邸へ到着するより早く王宮へ届いた。
その日の夕方、フェリクスが兵を連れて現れた。
彼は公爵邸の玄関広間へ踏み込むなり、イザベルを指さした。
「誰の許しを得て牢から出た!」
「法務院の釈放命令によって」
「私が収監を命じたのだぞ!」
「殿下に、その権限はございません」
クラウスが答える。
フェリクスは初めて、三人の調査官を見た。
「お前たちは何者だ」
「帝国法務院から派遣された調査官です」
「リディア・フォン・アルヴェインを呼べ!」
「リディア様は休暇中です」
「なぜ来ていない!」
「我々が依頼を引き受けたからです」
フェリクスの顔に、あからさまな侮りが浮かんだ。
「無名の調査官ごときが、王太子である私に意見するのか」
クラウスは穏やかに答えた。
「事実を調べるのに、有名である必要はございません」
「私はイザベルの罪を知っている!」
「証拠を拝見できますか?」
「彼女がマリアンヌへ嫉妬していた!」
「証拠は?」
「何度も注意していた!」
「規則違反を注意することは、いじめではございません」
「マリアンヌが泣いていた!」
「なぜ泣いていたか、本人へ確認されましたか?」
「イザベルが怖くて言えないのだ!」
「それも本人が?」
「見れば分かる!」
クラウスは表情を変えず、記録を続ける。
フェリクスは苛立ちから声を荒らげた。
「とにかく、イザベルを牢へ戻せ!」
「お断りします」
「王命だ!」
「現在の国王は、陛下でございます」
「私は次の王だ!」
「未来の地位に、現在の法を無視する権限はありません」
「私へ逆らえば、お前たちを公国から追放するぞ!」
「その場合、調査妨害として正式に報告します」
「報告したら何だというのだ!」
メイベルが帳簿を開いた。
「帝国および周辺五か国との交易保証が停止されます」
「脅すのか!」
「手続きの説明です」
「同じことだ!」
「違います」
クラウスの返答は揺るがない。
「脅しとは、不当な害を加えると言って相手を従わせることです。我々は、殿下が法を破った場合に適用される正当な手続きを説明しています」
フェリクスは何か言い返そうとした。
だが、言葉が出てこなかった。
「マリアンヌを見つければ、私が正しかったと分かる!」
「ぜひ、見つけたいと考えております」
「彼女はイザベルに連れ去られた!」
メイベルが尋ねる。
「その時間、イザベル様は地下牢にいました」
フェリクスの顔が固まった。
「何?」
「マリアンヌさんの姿が最後に確認されたのは、イザベル様が収監された翌日の夕刻です」
「手下に命じたのだ!」
「誰に?」
「それを調べるのがお前たちの仕事だろう!」
「誘拐したと断言されたのは殿下です」
「私の言葉を疑うのか?」
クラウスは静かに答えた。
「すべての証言を疑い、すべての証拠を確認するのが我々の仕事です」
「私は王太子だぞ」
「だからこそ、発言には相応の責任がございます」
フェリクスはイザベルへ向き直った。
「お前が余計な者を呼んだのか!」
「国際調査団を招いたのは、貴族議会です」
「今すぐ調査を断れ!」
「わたくしに命令する権利が、まだ殿下にあるとお考えですか?」
「私はお前の婚約者だ!」
「婚約を破棄なさったでしょう」
フェリクスの動きが止まった。
「取り消してやってもよい」
イザベルは、しばらく彼を見つめた。
「お断りいたします」
「何だと?」
「マリアンヌさんを見つけるためにも、まず真実を明らかにする必要がございます」
「婚約へ戻れば、お前の罪も許す!」
「わたくしに罪はございません」
「強情な女だ!」
「無実の罪を認めることを、素直とは申しません」
フェリクスは顔を赤くした。
「後悔するぞ!」
言い捨て、彼は兵士たちを連れて去った。
玄関の扉が閉じられると、イザベルは小さく息を吐いた。
「以前のわたくしなら、殿下の機嫌を損ねないよう謝っていたかもしれません」
「今は?」
「不思議ですね」
彼女は静かに笑った。
「地下牢より、あの方の婚約者へ戻るほうが恐ろしく感じます」
その夜、調査官たちはマリアンヌの行方を追い始めた。
王都の門を通過した記録はない。
港から船へ乗った記録もない。
宿屋や馬車の利用記録にも、彼女の名はなかった。
しかし、消息を絶つ直前に一度だけ、薬師の店へ立ち寄っている。
ノアは翌朝、その薬師を訪ねた。
「マリアンヌさんが購入した物を教えてください」
老いた薬師は不安そうに店の奥を見た。
「何も売っていない」
「店の記録には、彼女の署名があります」
「知らんものは知らん」
ノアは薬師の手を見た。
指先が震えている。
「誰かに、話すなと言われたのですね」
薬師は顔を上げた。
「何のことだ」
「あなたを罰するために来たのではありません」
ノアは声を落とした。
「マリアンヌさんが危険な状態にいるかもしれません。助けるために、何を買ったのか知る必要があります」
薬師は長い間、黙っていた。
やがて店の扉へ鍵をかける。
「眠り薬だ」
「誰に使うと?」
「母親が痛みで眠れないと言っていた」
「ほかには?」
「男物の外套。いや、あれはここで買ったのではない。店へ来たとき、持っていた」
「変装用でしょうか」
「分からん。だが、ひどく怯えていた」
「何に?」
薬師は声を震わせた。
「王太子殿下に見つかれば、母親が殺されると言っていた」
一方、メイベルは王家の宝物庫に残された帳簿を調べていた。
宝物庫長は、国宝が消えた日の勤務者全員へ疑いの目を向けている。
しかし帳簿を見る限り、扉が開かれた記録はなかった。
「最奥部には、魔法錠が使われているのですね」
「はい」
宝物庫長が答える。
「王家の印章を持つ者が二人そろわなければ、開きません」
「当日、印章を所持していたのは?」
「国王陛下、王妃殿下、王太子殿下、宰相閣下です」
「四人のうち、二人が共謀すれば開けられる?」
「理論上は」
「開閉記録が残らない方法は?」
「ございません」
メイベルは扉の周囲を調べた。
床にわずかな傷がある。
壁の一部だけ、ほこりが薄い。
「この保管庫は、いつ建てられましたか?」
「百二十年前です」
「設計図は?」
「王宮の記録室にございます」
設計図を取り寄せると、不自然な点があった。
最奥の保管室と隣の部屋の間に、図面上では存在しない空間がある。
壁の厚さは、ほかの場所の三倍。
メイベルは壁をたたいた。
一部だけ音が違う。
隣室へ回ると、そこは王太子専用の宝飾品庫だった。
壁を調べる。
棚に並ぶ箱の一つを動かすと、奥に小さな取っ手があった。
引くと、棚全体が横へ動いた。
隠し通路が現れる。
「これは」
宝物庫長の顔が青ざめた。
通路の先は、国宝を保管していた最奥部へつながっていた。
魔法錠を開けなくても、王太子の宝飾品庫から入ることができたのである。
床には赤い布の切れ端が落ちていた。
フェリクスが婚約破棄の日に着ていた、正装用の外套と同じ生地だった。
さらに棚の奥から、空の宝石箱が見つかった。
蓋には『暁の星』と刻まれている。
宝物庫長は、その場へ座り込んだ。
「殿下が国宝を?」
「まだ断定はできません」
メイベルは箱に触れず、証拠袋を用意させた。
「ですが、殿下がこの通路を知っていた可能性は高いでしょう」
同じ頃、クラウスは宰相へ面会していた。
王宮の執務室で待っていた宰相は、顔色が悪かった。
「国宝が消えた件で、確認したいことがございます」
「知っていることは、すべて法務院へ話した」
「その証言書には、イザベル様が盗ませたと思うと書かれています」
「王太子殿下から、そう聞いた」
「ご自分で確認したのですか?」
「殿下のお言葉だ」
「答えになっておりません」
宰相は机の上で両手を組んだ。
「君は若い。王家へ仕えるということが分かっていないのだ」
「王家に仕えるためなら、虚偽の証言も許されると?」
「言葉を選びなさい」
「では、質問を変えます」
クラウスは一通の記録を置いた。
「国宝が消える前夜、あなたはフェリクス殿下と宝物庫付近にいましたね」
「偶然だ」
「何をしていたのです?」
「覚えていない」
「三週間前のことですが」
「宰相は多忙なのだ」
「王国の象徴である国宝が盗まれた前夜の行動を、記憶していないと?」
「そう言っている!」
クラウスは別の書類を出した。
「では、こちらをご覧ください」
王都の商会が発行した換金証明書だった。
国宝が消えた翌日、宰相家名義の口座に十万金貨が振り込まれている。
「これは?」
宰相の唇が震えた。
「知らん」
「振込元は、サザランド商会です」
宰相の顔から血の気が引いた。
サザランド商会は、公国の西にある敵対国と取引を続けている商会だった。
「国宝を売った代金でしょうか」
「違う!」
「では、何の代金です?」
「投資だ」
「何への?」
「それは」
「契約書を拝見できますか?」
「ない」
「十万金貨もの投資に、契約書がない?」
「口約束だ!」
「宰相閣下ともあろう方が?」
クラウスは静かに宰相を見た。
「フェリクス殿下から国宝を受け取り、サザランド商会へ売却したのではありませんか?」
「違う!」
「では、口座を調べても?」
「私有財産だぞ!」
「不正に得た疑いがあります」
「王太子殿下が許可しない!」
「公国法務院の許可は得ています」
宰相が椅子を蹴り、立ち上がった。
「出ていけ!」
「調査は続けます」
「今すぐ公国から出ていかなければ、命の保証はできんぞ!」
クラウスは記録簿へ書き込んだ。
「調査官への脅迫も記録いたしました」
「違う! 忠告しただけだ!」
「何者かが私を襲う可能性をご存じなのですか?」
「そういう意味ではない!」
「では、どのような意味でしょう」
宰相は何も答えられなかった。
三人が情報を持ち寄ると、事件の形が見え始めた。
フェリクスは婚約破棄の前夜、隠し通路から国宝を持ち出した。
宰相が国宝を国外の商会へ売却し、その代金の一部を受け取った。
そして国宝の窃盗をイザベルとマリアンヌの罪にする予定だった。
しかしマリアンヌは、計画の一部を知ってしまった。
彼女はイザベルへ手紙を送り、男装して姿を消した。
問題は、どこへ逃げたのかだった。
「母親のもとでは?」
メイベルが尋ねた。
「すでに確認しました」
ノアが答える。
「母親は王都の施療院にいます。マリアンヌは来ていません」
「王太子の兵が見張っているのでしょうか」
「はい。娘が戻れば知らせろと命じられています」
クラウスは地図を見た。
「王都を出た記録がないのなら、まだ都の中にいる可能性があります」
「あるいは、正式な門を通らずに出た」
メイベルが指摘する。
「地下水路ですね」
王都の地下には、百年以上前に作られた水路が通っている。
一部は城壁の外へ続いていた。
現在は使用されていないが、学院の古い倉庫から入ることができる。
三人は騎士団の一部を伴い、地下水路へ向かった。
奥へ進むにつれ、小さな足跡が見つかった。
泥の上には、男物の靴の跡。
しかし歩幅は狭く、片足を引きずっている。
血の跡も残されていた。
「怪我をしています」
ノアが足を速める。
地下水路の出口近く。
崩れた石壁の陰で、人が倒れていた。
男物の外套。
短く切られた金色の髪。
マリアンヌだった。
意識はなかったが、まだ息がある。
ノアが抱き起こすと、彼女は固く握っていた右手を開いた。
中に、小さな赤い宝石の欠片があった。
「医師を!」
マリアンヌはすぐに公爵邸へ運ばれた。
イザベルは彼女の姿を見ると、顔を青くした。
「マリアンヌ!」
使用人たちが寝室を整え、医師が治療を始める。
足に深い傷があった。
剣か短刀で切られたものだという。
三日後、マリアンヌは意識を取り戻した。
最初に見たのは、寝台の横に座るイザベルだった。
「どうして」
かすれた声が漏れた。
「どうして、わたしを助けたのですか」
「助けない理由がありますか?」
「わたしは、あなたを裏切りました」
マリアンヌの目から涙が流れた。
「殿下に言われて、あなたにいじめられたと嘘をつきました」
イザベルは黙っている。
「最初は、お母さんの治療費を払ってくださると言われただけでした。殿下へ笑いかけ、イザベル様に注意されたら泣けばいいと」
「それから?」
「殿下は、皆がわたしを聖女だと信じ始めたと喜んでいました」
マリアンヌは震える手で毛布を握った。
「次は階段から落ちろと言われました。でも怖くなって、できませんでした。だから殿下の従者が、わたしを突き落としました」
イザベルの表情が変わる。
「あなたは、本当に怪我をしていたのですね」
「はい。でも、イザベル様に押されたと言わなければ、お母さんを施療院から追い出すと言われて」
「なぜ、わたくしへ相談しなかったのです?」
「何度も助けていただいたからです」
マリアンヌは泣きながら答えた。
「これ以上、イザベル様へ迷惑をかけたくありませんでした。それに、殿下は次の国王です。誰も逆らえないと思いました」
イザベルは目を伏せた。
善意を与えた側は、助けを求めてほしいと思う。
しかし、与えられた側は迷惑をかけてはいけないと思い、苦しみを隠すことがある。
そのすれ違いが、王太子につけ込まれる隙となった。
「マリアンヌ」
イザベルは彼女の手を取った。
「あなたが嘘をついたことは、正しいとは申しません」
「はい」
「ですが、脅されていたことも事実です」
「許してくださるのですか?」
「それを決めるのは、すべての真実が明らかになってからです」
優しいだけの言葉ではない。
しかし、突き放す言葉でもなかった。
マリアンヌは何度もうなずいた。
クラウスたちが部屋へ入る。
「国宝について、お話を伺えますか?」
マリアンヌは小さく息を吸った。
「殿下が持ち出すところを見ました」
婚約破棄の前夜。
フェリクスはマリアンヌを王宮へ呼び出した。
翌日の舞踏会で、イザベルを断罪するための打ち合わせだった。
その帰り道、マリアンヌは王太子が宰相とともに宝物庫から出てくるところを目撃した。
フェリクスの手には、赤い宝石があった。
見つかったマリアンヌは、その場で計画を聞かされた。
国宝はすでに国外の商会へ売る約束ができている。
盗難の罪をイザベルへ着せ、彼女を処刑する。
そうすれば、アーデル公爵家の領地と財産を王家が没収できる。
マリアンヌには、その証人になるよう命じられた。
「従えば、わたしを王太子妃にすると言われました」
「断ったのですね」
「はい」
「なぜ?」
マリアンヌはイザベルを見た。
「イザベル様を処刑してまで、欲しいものではありませんでした」
マリアンヌは逃げ出した。
王都から出ようと地下水路へ入ったが、フェリクスの従者に追いつかれた。
抵抗する際、従者が持っていた国宝入りの袋へしがみついた。
そのとき宝石が壁へぶつかり、欠片が割れた。
マリアンヌは欠片だけを握って逃げたが、足を切られ、水路の奥で動けなくなった。
「国宝は、まだ国外へ出ていない?」
メイベルが尋ねる。
「従者は、夜明けに西門で宰相の使者へ渡すと言っていました」
その夜明けは、三日前だった。
すでに国宝が運び出された可能性は高い。
しかし、国境の検問所に記録はなかった。
「正規の道を使っていないのでしょう」
「密輸経路ですね」
ベルクレア西部には、廃鉱を利用した地下道がある。
かつて敵国との戦争時に使われ、現在は封鎖されていることになっていた。
三人は西部へ調査隊を送った。
廃鉱の入り口から、複数の馬車の跡が発見された。
さらに鉱山内部で、国境へ向かおうとしていたサザランド商会の一団が拘束された。
馬車の底に作られた隠し箱。
その中に、『暁の星』があった。
宝石の一部が欠け、マリアンヌの持っていた欠片と完全に一致した。
ほかにも大量の金貨、王家の宝飾品、軍事機密を記した文書が見つかった。
宰相は国宝だけでなく、国の情報まで売ろうとしていたのである。
すべての証拠がそろった翌日。
王宮の大広間で、公開審理が開かれた。
フェリクスは、自分がイザベルを断罪したときと同じ壇上に立っていた。
ただし今回は、彼が罪を問われる側だった。
国王と王妃。
有力貴族。
法務院。
商人組合。
学院の教師と生徒。
そして王都の市民代表が見守っている。
イザベルが広間へ入ると、フェリクスは彼女を指さした。
「悪女め! すべてお前が仕組んだのだな!」
「何をでしょう」
「マリアンヌを隠し、偽の証拠を作った!」
「国宝は廃鉱で発見されました」
メイベルが告げる。
「あなたの従者と、宰相の使者が護衛していた商会の馬車から」
「従者が勝手にしたのだ!」
拘束された従者が叫んだ。
「殿下の命令です!」
「黙れ!」
「イザベル様を処刑すれば、公爵領の鉱山も港も王家のものになるとおっしゃったでしょう!」
広間がざわめく。
フェリクスは顔を赤くした。
「嘘だ! お前は宰相に雇われたのだろう!」
宰相が立ち上がった。
「すべて王太子殿下の計画です!」
「貴様!」
「殿下が国宝を持ち出し、売却を命じました! 私は逆らえなかった!」
「十万金貨を受け取っただろう!」
全員が黙った。
自分で宰相への支払いを認めたことに、フェリクスは気づいていない。
クラウスが記録を確かめる。
「フェリクス殿下。宰相が十万金貨を受け取ったことを、なぜご存じなのです?」
フェリクスの顔が固まった。
「それは」
「送金は匿名口座から行われました。当事者以外、金額までは知らないはずですが」
「宰相に聞いた!」
「聞いておりません!」
宰相が即座に否定する。
「殿下が、ご自分の取り分は二十万金貨だと笑っていたのです!」
「裏切り者!」
「最初に私へ罪を押しつけたのは殿下でしょう!」
二人は互いを指さし、口論を始めた。
国王は玉座の上で頭を抱えている。
王妃は扇で顔を隠した。
クラウスが手を上げると、証拠が順番に並べられた。
王太子の宝飾品庫から見つかった隠し通路。
国宝の空箱。
フェリクスの外套と同じ赤い布。
宰相家の口座に振り込まれた十万金貨。
商会の馬車から見つかった国宝。
マリアンヌが持っていた宝石の欠片。
従者たちの証言。
そしてマリアンヌ自身の証言。
白い服を着た彼女が広間へ現れると、人々が息をのんだ。
「マリアンヌ!」
フェリクスの顔に希望が浮かんだ。
「無事だったのだな! すべてイザベルに命令されたと言えば、私はお前を許す!」
マリアンヌは彼を見た。
「許す?」
「ああ。お前はイザベルに脅されていたのだろう?」
「わたしを脅したのは、殿下です」
「違う!」
「母の治療費を止めると言いました」
「お前のためだった!」
「階段から落ちるよう命じました」
「物語を盛り上げるためだ!」
広間に、重い沈黙が落ちた。
フェリクスは自分の失言に気づいていない。
「お前が傷つけば、民はイザベルの悪辣さを信じる! そうすれば私はお前を救う英雄になれた!」
マリアンヌの目から涙が一筋流れた。
「わたしは、殿下の物語の道具だったのですね」
「何を言っている! お前を王太子妃にしてやろうとしたのだぞ!」
「わたしは望んでいません」
「平民のお前が王太子妃になれるのだぞ!」
「わたしが望んだのは、母が安心して治療を受けられることです」
「ならば私に従え!」
フェリクスは手を伸ばした。
「私が王になれば、お前の母親を一生養ってやる!」
「お断りします」
「なぜだ!」
「殿下が王にならなくても、母が治療を受けられる制度を作るお手伝いをします」
マリアンヌはイザベルの隣へ立った。
「誰か一人の機嫌を損ねれば、病人が追い出されるような国にはしたくありません」
イザベルは驚いたように彼女を見た。
マリアンヌは深く頭を下げる。
「イザベル様。わたしがついた嘘を、なかったことにはできません」
「ええ」
「どのような判決も受け入れます。ですがその前に、すべてを証言させてください」
「分かりました」
「許しては、くださらないのですか?」
イザベルは少し考えた。
「わたくしが許せば、あなたの罪が消えるわけではありません」
マリアンヌはうつむく。
「ですが」
イザベルは続けた。
「あなたがこれから何をするか、見届けたいと思っています」
マリアンヌは顔を上げた。
「やり直す機会を、いただけるのですか?」
「その機会を与えるかどうかは、裁判所が決めます」
イザベルはかすかに笑った。
「けれど、もし与えられたなら、無駄にしないでください」
「はい」
マリアンヌは何度もうなずいた。
フェリクスは二人の姿を信じられないように見ていた。
「なぜだ」
彼はイザベルへ尋ねる。
「なぜ、その女を責めない!」
「罪を認め、証言したからです」
「私はお前の婚約者だったのだぞ!」
「過去形です」
「ならば私にも、やり直す機会を寄こせ!」
「殿下は、何を悪かったとお考えですか?」
フェリクスは即座に答えた。
「国宝を売る相手を間違えた!」
大広間の全員が、言葉を失った。
イザベルさえ、しばらく何も言えなかった。
「違うのですか?」
フェリクスは周囲を見回した。
「もっと信頼できる商会を使えば、発覚しなかった! 宰相へ多く渡しすぎたのも失敗だった!」
宰相が怒鳴る。
「私への支払いを惜しむのか!」
「お前が裏切らなければ、すべて成功していた!」
「殿下が無能だったからだ!」
「誰のおかげで宰相になれたと思っている!」
「先王陛下です!」
責任を押しつけ合う二人を前に、イザベルは小さく息を吐いた。
「殿下」
「何だ!」
「やり直す機会とは、同じ悪事を次はうまく行う機会ではございません」
広間から笑いが漏れた。
「笑うな!」
フェリクスは怒鳴った。
「私は次の王だぞ!」
そのとき、国王が立ち上がった。
「もうよい」
低く、疲れ切った声だった。
「フェリクス。お前の王位継承権を剥奪する」
「父上?」
「国宝を売り、忠実な臣下に罪を着せ、罪のない女性を処刑しようとした者を王にはできぬ」
「ですが、私は王家の唯一の後継者です!」
「だからといって、国を滅ぼす者へ王冠を渡す理由にはならぬ」
「では、誰が王になるのです!」
国王はイザベルを見た。
「アーデル公爵家には、王家の傍系の血が流れている」
フェリクスの顔が青ざめる。
「まさか、イザベルを?」
「いいえ」
イザベルが即座に断った。
国王が目を瞬く。
「わたくしは王位を望みません」
「だが、そなたほど国政に通じる者は」
「王になる適性があることと、王になりたいことは別です」
「では、この国を見捨てるのか?」
「見捨てません」
イザベルは広間に集まる者たちを見た。
「一人の王へすべてを任せる仕組みを、改めます」
その言葉に、クラウスたちはリディアを思い出した。
リディアもまた、王位を求めなかった。
自分がいなくても動く制度を残すことを選んだ。
国王は長い間、考え込んだ。
やがて玉座へ座り直す。
「分かった。貴族議会、法務院、市民代表による改革会議を設置する」
「陛下の権限も、制限することになります」
イザベルが念を押した。
「承知している」
「王家の財産と国家予算も分離します」
王妃が声を上げた。
「それでは、王家が自由に使えるお金が減るではありませんか!」
全員の視線が王妃へ向いた。
国王は額を押さえた。
「そなたは少し黙っていてくれ」
「ですが」
「国宝が売られた審理の最中だ!」
王妃は不満そうに扇で口元を隠した。
フェリクスと宰相は拘束された。
二人は国宝の窃盗、公金の不正利用、国外への軍事情報売却、イザベルへの虚偽告発、マリアンヌの母親を利用した脅迫などについて裁かれることとなった。
連れていかれる直前、フェリクスはイザベルへ叫んだ。
「私を助けろ!」
イザベルは振り返らない。
「お前は私の婚約者として、何年も国政を学んだ! 私が王になれなければ、その努力が無駄になるぞ!」
イザベルの足が止まった。
フェリクスの顔に希望が浮かぶ。
だが、彼女が向けたのは冷たい視線だった。
「殿下を王にするためだけに、学んだのではございません」
「何?」
「国と民を支えるために学びました」
「私が王にならなければ、お前は王妃になれない!」
「それが何でしょう」
「王妃だぞ!」
「王妃になれなくても、わたくしの知識と経験は失われません」
イザベルは静かに告げた。
「殿下は、わたくしの努力にご自分の王冠ほどの価値しかないとお考えだったのですね」
「違う!」
「もう、どちらでも構いません」
「待て!」
「殿下は国宝を売り、わたくしは殿下を見限りました」
イザベルは優雅に一礼した。
「お互い、大切ではないものを手放しただけでございます」
大広間から拍手が起こった。
フェリクスは衛兵に引きずられながら、何度も婚約破棄を撤回すると叫んだ。
しかし、誰も彼の言葉に耳を傾けなかった。
裁判で、フェリクスには王族特権の剥奪と終身労働が言い渡された。
戦争で壊れた国境の砦を、自らの手で修復することになったのである。
宰相は爵位と財産を失い、横領した金を返済するまで鉱山で働かされることとなった。
二人は最後まで相手が悪いと主張した。
「宰相が裏切らなければ!」
「殿下が国宝を傷つけなければ!」
「お前が商会を選んだのだ!」
「売ると決めたのは殿下です!」
作業場でも言い争いを続けたため、監督官は二人を別々の場所へ送った。
しかし離されると今度は、近くにいる作業員へ同じ話を繰り返した。
誰も興味を示さなかった。
マリアンヌも、自らの虚偽証言について裁判を受けた。
脅迫されていた事情と、自ら戻って証言したことが考慮され、実刑は免れた。
その代わり、三年間の社会奉仕と、聖女という虚偽の称号を公に訂正することが命じられた。
マリアンヌは王都の広場へ立ち、大勢の前で告げた。
「わたしは聖女ではありません」
人々がざわめく。
「治癒の奇跡も使えません。王太子殿下に愛された、特別な女性でもありません」
彼女は一度だけ深く息を吸った。
「わたしは、母を守りたいという気持ちにつけ込まれ、嘘をつきました。その嘘によって、無実の方を傷つけました」
群衆の一部から、厳しい声が上がった。
「悪女ではなく、あなたが嘘つきだったのか!」
「公爵令嬢を牢へ入れたのは、お前のせいだ!」
マリアンヌの肩が震える。
それでも逃げなかった。
「はい」
彼女は認めた。
「わたしにも責任があります」
広場が静かになった。
「ですが、誰か一人の言葉だけで人を罪人にしないでください。聖女という肩書だけで、人を正しいと思わないでください」
マリアンヌは顔を上げた。
「その人が何をしたのか、証拠を確かめてください。わたしのような者が再び現れたとき、同じ嘘にだまされないでください」
イザベルは群衆の後ろから、その姿を見ていた。
謝罪だけで過去は消えない。
しかし責任を認め、同じことを繰り返さないよう働くことはできる。
広場での告白を終えたマリアンヌは、公爵家が運営する診療所で働き始めた。
最初は掃除と洗濯だけだった。
やがて読み書きの能力を生かして、患者の記録を整理するようになる。
さらに医療事務を学び、貧しい者が無料で治療を受けられる制度作りに加わった。
王太子の気まぐれへ頼らなくても、母親が治療を受けられる国を作るために。
イザベルは改革会議の代表となった。
王家の私有財産と国家予算を分け、重要な支出は議会の承認を必要とする制度を整えた。
法的根拠のない収監を禁止し、身分に関係なく裁判を受けられる権利も明文化した。
そして三年後。
ベルクレア公国は、王家一人の意思ではなく、議会と市民代表によって国政を監視する国へ生まれ変わった。
その報告書は、クラウスたちからリディアのもとへ届けられた。
休暇を終えたリディアは、帝都の自宅で書類を読んでいた。
「無事に解決したようですね」
彼女は最後のページを閉じた。
アリシアが向かいの椅子から身を乗り出す。
「本当に途中で手を出さなかったのね」
「必要ございませんでしたから」
「少しくらい、様子を見に行きたくならなかった?」
「なりました」
「では、なぜ行かなかったの?」
リディアは報告書の表紙へ手を置いた。
「わたくしが現れれば、皆はわたくしの判断を待ってしまいます」
クラウスたちは自分で調べた。
証拠を集め、自分たちで考え、権力者へ問いを突きつけた。
イザベルもまた、誰かに救われるだけではなく、自ら国を変える道を選んだ。
マリアンヌも、自分の罪をほかの誰かへ押しつけなかった。
「母やわたくしだけがいなければ解決できないのなら、何も変わっていないことになります」
リディアは微笑んだ。
「ですが、もう大丈夫です」
セレスティアが部屋へ入ってくる。
「何が大丈夫なのです?」
「第三の悪役令嬢が、自分の国を立て直しました」
リディアは報告書を母へ渡した。
セレスティアは内容へ目を通し、満足そうにうなずく。
「イザベル様は、ご自分の道を見つけられたのですね」
「はい」
「では、わたくしたちの出番はありませんね」
アリシアが不満そうに頬杖をつく。
「悪人を追い詰める場面くらい見たかったわ」
「観劇ではございません」
「姉様も以前は、ずいぶん楽しそうに請求書を出していたでしょう?」
「必要な手続きです」
「笑っていたわ」
「微笑みは外交の基本です」
セレスティアが声を立てて笑った。
「それで、次はどちらへ?」
リディアが尋ねる。
「どこへも」
「お母様が?」
「失礼ですね」
セレスティアは窓の外へ目を向けた。
庭では、ユリウスが届いたばかりの書類を整理している。
「しばらくは、家族で穏やかに過ごしたいと思っています」
アリシアが疑わしそうに母を見る。
「どのくらい?」
「半年ほど」
「短いわ」
「三か月しか休まなかったリディアに言われたくありません」
母娘が顔を見合わせる。
そのとき、扉が控えめにたたかれた。
家令が一通の封書を持って入ってくる。
「リディア様。北方連合から、緊急のご依頼です」
アリシアが笑った。
「半年は無理そうね」
「お断りしてください」
セレスティアが即答した。
リディアは封書を受け取り、表書きを確認する。
『氷の公爵令嬢が、春を盗んだとして処刑を宣告された』
意味の分からない一文だった。
さらに封書には、北方全域で雪が解けず、作物が育たなくなっていると記されている。
処刑を宣告された公爵令嬢は、自分の魔力が異常気象を起こしたと告発された。
告発したのは、太陽神の祝福を受けたと称する神官。
その神官は公爵令嬢を処刑すれば春が戻ると主張し、各国から莫大な献金を集めていた。
「どうするの?」
アリシアが尋ねる。
リディアは封書を最後まで読む。
今回は単なる契約や横領だけではない。
本当に魔力による異常気象なのかもしれない。
もしそうなら、これまでとは異なる知識が必要になる。
「気象学者と魔術師へ依頼を回します」
「自分では行かないの?」
「専門外のことを、知ったふりで判断するつもりはございません」
セレスティアが満足そうにうなずいた。
「正しい判断です」
「ですが」
リディアは封書の末尾を見た。
神官が集めた献金の総額が記されている。
五百七十万金貨。
気象対策費として集められたにもかかわらず、避難所や食料支援には一金貨も使われていない。
「帳簿を確認するため、監査官は必要でしょう」
アリシアが立ち上がる。
「結局、行くのね」
「帳簿を確認するだけです」
「請求書は?」
リディアは机の引き出しを開けた。
未使用の請求書が、きれいに束ねて保管されている。
「念のため、持ってまいりましょう」
セレスティアは額へ手を当てた。
「半年の休暇は?」
「お母様は、どうぞお休みください」
「娘たちだけで雪国へ行かせられると思いますか?」
「お母様」
「リディア」
同じ青い瞳が見つめ合う。
先に笑ったのはセレスティアだった。
「防寒着を用意しなさい」
アリシアが嬉しそうに剣を持ち上げる。
「今度の相手は神官ね」
「まだ悪人と決まったわけではございません」
リディアは答えながら、請求書の束を旅行鞄へ入れた。
けれど五百七十万金貨もの献金を集め、その一部すら困窮する民へ使っていない時点で、確かめるべきことは山ほどある。
北方では、春を盗んだとされる公爵令嬢が処刑の日を待っている。
太陽神の使者を名乗る神官は、人々の恐怖を金へ変えている。
そして歴史上初めて、異常気象そのものが悪役令嬢の罪とされた。
リディアは窓の外を見た。
帝都には暖かな春の日差しが降り注いでいる。
しかし北方では、今も雪が降り続けているという。
「参りましょう」
「どこへ?」
アリシアが尋ねる。
リディアは新たな依頼書を手に取った。
「春を取り戻しに」
その翌朝。
アルヴェイン家の馬車が、雪深い北方へ向けて帝都を出発した。
馬車に積まれていたのは、防寒着、調査器具、魔力測定装置、気象記録。
そして、五百七十万金貨分の責任を正しく取り立てるための請求書だった。




