第6話:確信への一歩(血の結果)
突然怒鳴り込んできたのは、ロミオ様の婚約者・エリザ様。 「泥棒猫!」と罵る彼女に対し、本来なら修羅場となるところですが……。 ここはヤンデレの巣窟。 常識的な「悪役令嬢」が勝てる相手ではありませんでした。
セイルさんの失踪――いや、あえて言葉にしよう、「死」から数日。
私は外界との接続を断つように重厚なベルベットのカーテンを閉め切り、薄暗い部屋の隅で膝を抱えていた。
豪華な食事は砂を噛むようで喉を通らない。
まどろみの中に逃げ込もうとしても、瞼の裏には血に濡れたセイルさんが立ち尽くし、うつろな瞳で「どうして?」と問いかけてくる。
その音のない糾弾に、私は自身の身体を抱きしめる腕に力を込めることしかできない。
そんな墓場のような静寂は、階下から響くヒステリックな騒音によって、唐突に破られた。
「退きなさい! 私が誰だと思っているの!?」
金切り声。陶器が割れるような鋭い音。
そして、絨毯を踏みしめる乱暴な足音。
私の部屋の扉が、ノックという礼節を無視して、乱暴に蹴破られた。
「見つけたわよ、泥棒猫!」
風と共に飛び込んできたのは、部屋の暗さを焼き払うような、燃える赤髪の令嬢だった。
豪奢なドレスを纏い、つり上がった瞳には激情の炎が宿っている。
彼女の背後には、武装した女性騎士と、あえて彼女を止めずに泳がせたような、冷ややかな表情のアステルが控えていた。
「……あなたは?」
「とぼけないで! 私はエリザ・フォン・ドラグーン。この国の公爵家の娘であり、ロミオ様の婚約者よ!」
婚約者。
記憶の隅で、ロミオ様が結婚の話を仄めかしていたことを思い出す。
だが、すでに相手がいたなんて。それも、これほど高貴な身分の女性が。
「ロミオ様からの手紙が途絶えたと思ったら……こんな貧相な平民を囲っていたなんてね! 恥を知りなさい!」
エリザ様が扇子を振り上げ、私の頬を打とうと踏み込む。
けれど、その白い手は空中でピタリと停止した。
氷のような手が、彼女の手首を万力のごとく掴んでいたのだ。
いつの間に現れたのか。ロミオ様がそこに立っていた。
その整った顔には、張り付けたような、凍てつく微笑みが浮かんでいる。
「……騒々しいな. 僕の屋敷で何をしているんですか、エリザ様」
「ロミオ様! 目を覚ましてください! こんな女、ただの遊びなんでしょう? すぐに追い出して……」
「遊び?」
ロミオ様の眉がピクリと動く。
彼はまるで汚物でも触ってしまったかのように、パッとエリザ様の手を離すと、懐から取り出したシルクのハンカチで、執拗に自分の指を拭った。
「言葉を慎みたまえ。この方は僕の『女神』だ。君のような塵とは、魂の純度が、存在の格が違う」
「なっ……!?」
「ちょうどよかった。婚約は破棄させていただく。君の実家(公爵家)には、後ほど正式に絶縁状を送っておくよ。二度と僕たちの視界に入らないでくれ」
エリザ様の顔が、怒りから屈辱へと歪んでいく。
プライドの高い公爵令嬢にとって、死よりも耐えがたい最大の侮辱だったはずだ。
「ふざけるな……ふざけるなぁぁぁッ!!」
「エリザ様!」
「殺してやる! おい、誰か! その泥棒猫を斬り捨てなさい! 今すぐにッ!」
エリザ様の絶叫に応じ、護衛の女性騎士が躊躇なく剣を抜いた。
迸る殺気。
アステルが動こうとする気配がしたが、距離がある。騎士の剣の方が速い。
「死ねぇッ!」
銀色の刃が、鈍い光を帯びて私の脳天めがけて振り下ろされる。
死ぬ。殺される。
恐怖で思考が真っ白に弾け飛び、私は反射的に――ただ身を守りたい一心で、頭上に腕をかざした。
ガギィィィィィンッッ!!!
鼓膜をつんざくような、硬質な破砕音。
私の腕が斬り落とされる痛みも、骨が砕ける衝撃も、来なかった。
代わりに、目の前でキラキラと美しい銀色の粉が舞っていた。
「……は?」
女性騎士が、柄だけになった剣を握りしめ、幽霊でも見たように口を開けている。
鍛え上げられた魔鉄鋼の剣身は、私の細腕に触れた瞬間、まるで飴細工のように粉々に砕け散り、ダイヤモンドダストとなって宙を舞っていたのだ。
私の腕には、赤い筋ひとつ、傷ひとつない。
「ひ、ヒィッ……!?」
エリザ様が腰を抜かし、尻餅をつく音が響く。
彼女の目に映る私は、か弱い恋敵ではない。人の皮を被った、得体の知れない人外の化け物だ。
違う、私はただ、怖くて……。
「……素晴らしい」
凍りついた静寂の中、ロミオ様の陶酔しきった声だけが朗々と響いた。
彼は床に落ちた砕けた刃の欠片を拾い上げ、最高級の宝石でも鑑定するように、うっとりと見つめている。
「剣すら通さない、聖なる肉体……。やはり君は、人が触れていい存在ではないんだ。神々しいまでの拒絶だ」
「ば、化け物……! 覚えてらっしゃい! お父様とお兄様に言いつけて、こんな伯爵家、地図から消してやるわ!」
エリザ様は震える声で捨て台詞を吐き、護衛に引きずられるようにして、逃げるように去っていった。
嵐が去った部屋で、私は自分の腕を見つめる。
また、やってしまった。
人間相手に、物理法則を無視した人外の力を見せつけてしまった。
ロミオ様とアステルが、私の背後で無言の視線を交わし、深く頷き合っていることに、今の私は気づく余裕すらなかった。
◇
翌朝。
さんさんと降り注ぐ陽光が眩しい朝食の席で、ロミオ様が焼きたてのパンの香りに包まれながら新聞を広げた。
さも天気の話でもするように、彼は穏やかな声で言った。
「悲しい事件があったようだね」
「……え?」
「エリザ様だよ。昨日の帰路、馬車が『不運な賊』に襲われたそうだ。護衛も含めて、全員無残に殺されたらしい」
カチャン。
私の指から力が抜け、フォークが皿にぶつかって甲高い音を立てた。
賊? そんなわけがない。
この領地周辺の治安は、アステルが「害虫駆除」と称して徹底的に掃除していたはずだ。
それに、タイミングが良すぎる。
私が彼女と敵対したから。
私が彼女の剣を折り、彼女を恐怖させたから。
だから――ロミオ様たちが、彼女を「処理」したのだ。
「う……うぅ……っ」
「おや、可哀想に。優しい澪は、あんな失礼な女の死さえ悲しむのかい?」
ロミオ様が立ち上がり、涙ぐむ私を抱きしめるように手を伸ばす。
アステルもまた、「警備をさらに強化しましょう」と言いながら、頼もしい笑みを浮かべて近づいてくる。
怖い。
血の匂いがする。洗っても落ちない、濃密な血の匂いが彼らから漂ってくる。
この人たちの優しさが、笑顔が、注がれる愛が、全部、誰かの死体の上に積み上げられている。
「いや……っ!」
私は椅子を蹴って立ち上がり、後ずさった。
「来ないで! 私に触らないで! もう誰も殺さないでよぉッ!!」
喉が裂けるほどの叫びだった。魂からの拒絶だった。
けれど。
ロミオ様は、泣き叫ぶ私を見て、愛おしそうに目を細めただけだった。まるで、駄々をこねる幼児をあやすように。
「ああ、なんて可愛いんだろう。そんなに怯えなくていいよ」
「そうだ、澪様。貴女がそこまで怯えているのは、まだ害虫が外の世界に蔓延っているからですね」
「大丈夫。僕たちが世界中から敵を消してあげる。そうすれば、君は安心して、心から笑ってくれるはずだ」
言葉が、通じない。
人間としての言語は同じはずなのに、意味が共有できない。
私の「拒絶」さえ、彼らは「もっと守ってほしいというサイン」だと解釈する。
私は絶望して、その場に崩れ落ちた。膝から力が抜け、冷たい床に手をつく。
もう、誰が敵で誰が味方かもわからない。
確かなのは一つだけ。
私がこの場所にいる限り、私のために築かれる死体の山は、天に届くほど高くなり続けるということだ。
「悲しい事件があったようだね」
どの口が言いますか、ロミオ様。 婚約者だろうと公爵令嬢だろうと、澪に牙を剥くなら即座に「不運な盗賊(という名の私兵)」に襲わせる。 その判断の速さと実行力、さすがは狂信者です。
剣を折った澪の防御力もすごいですが、ロミオ様の倫理観のなさも相当なもの。 この救いのない展開にゾクゾクした方は、 ぜひ下にある【☆☆☆☆☆】から評価、ブックマーク登録をお願いします!




