【第16章】絶望の選択(第一部完)
泥を洗い流し、再び美しい「人形」へと戻された澪。 足には白金のアンクレット。心には人質という鎖。 逃走と抵抗の果てに、彼女が出した答えとは。 第一部、ここに完結です。
温かいお湯が、私の皮膚にこびりついた泥と悪臭を、過去の記憶ごと洗い流していく。
広すぎる浴室。視界を白く染める湯気。
鼻腔を麻痺させるほど濃厚な、甘い香油の匂い。
つい数時間前まで這いつくばっていた、あの暗く冷たい下水道の感触が、まるで悪い夢だったかのように遠のいていく。
「……背中も流すよ、澪」
「足の爪が酷く傷んでいるな。あとで丁寧に手入れをしよう」
ロミオ様が海綿のスポンジで私の背中を愛おしげに撫で、エリオット様が私の足先に跪き、汚れた爪先をハンカチで拭っている。
私は抵抗しなかった。
羞恥心や拒絶を示す気力さえ削ぎ落とされ、ただされるがまま、精巧な蝋人形のように視線を虚空に漂わせていた。
ここには「私」という個人の尊厳はない。
あるのは、彼らが崇め、磨き上げ、愛でるための「御神体」としての肉体だけだ。
徹底的に洗浄され、磨き上げられ、最高級のシルクのドレスを着せられた私は、再びあの豪華な客室――鳥かごの中へと戻された。
部屋の空気は変わらない。
けれど、以前とは決定的に、絶望的に違うことが一つあった。
カチャン。
冷たく、硬質な音が響く。
アステルが、私の左足首に、白金で作られたアンクレットを嵌めたのだ。
精緻な彫刻が施され、最高純度の魔石が埋め込まれたそれは、宝飾品としてあまりに美しい。
けれど、その冷たい重みが何を意味するか、私には痛いほど分かった。
「……これは?」
「『愛の鎖』ですよ、澪様」
アステルが、最高傑作を完成させた職人のように満足げに答える。
「転移魔法の完全阻害と、常時発動する位置情報の探知。そして、屋敷の結界から一歩でも出ようとすれば、即座に神経麻痺の毒が回る仕組みになっています」
「もう二度と、貴女が悪い人たちに拐われて迷子にならないようにね」
ロミオ様が、アンクレットごと私の足にキスを落とす。
物理的な拘束。逃走の否定。
もう、【身体能力MAX】で走って逃げることも、【賢者スキル】で隠れることもできない。
私は完全に、彼らの所有物になった。
「……キャス様たちは?」
私が喉の奥から絞り出した、一番聞きたかった問い。
その瞬間、部屋の甘い空気が一瞬だけ凍りついた。
エリオット様が、私の顎を指でくいと持ち上げ、覗き込む。
「解放したよ。皇女殿下と共に、無事に帝都へ向かったそうだ」
よかった。
私が戻った約束は、ひとまず守られたんだ。
安堵で力が抜けそうになる私に、エリオット様はとろけるような、砂糖菓子のように甘い笑顔で付け加えた。
「ただし――彼らがこれからも息を吸っていられるかどうかは、貴女次第だ」
「え……」
「貴女がここでお利口にしていれば、彼らは英雄として称えられるでしょう。ですが、もし貴女がまた逃げようとしたり、泣いて暮らしたり、あるいは絶望して自殺しようとしたりすれば……」
彼は言葉を切った。
でも、その続きは鮮血で描かれた文字のように明確だった。
キャス様も、皇女様も、マストルさんも、孤児院の子供たちも。全員が死ぬ。
彼らが生きていること。それ自体が、私を縛り付ける最強の鎖なのだ。
私が「幸せそうに」笑っていなければ、私の大切な人たちが殺される。
だから私は、一生ここで、心が壊れてもなお、幸せなフリをし続けなければならない。
「……わかりました」
私は頬の筋肉を総動員して、口角を持ち上げ、精一杯の笑顔を作った。
私の魂が死んだ瞬間だった。
「私はどこへも行きません。ずっと、あなたたちの傍にいます」
その言葉を聞いた瞬間、三人の男たちの表情がパァッと輝いた。
それは、世界で一番純粋で、無垢で、そして吐き気がするほどおぞましい笑顔だった。
「ああ、澪! 愛しているよ!」
「俺の女神、俺の命……!」
「やっと手に入れた……この温もりは、もう誰にも渡さない……」
三人が私に覆いかぶさるように抱きついてくる。
重い。苦しい。熱い。
彼らの体温が、質量を持った愛の言葉が、底なしの泥のように私を飲み込んでいく。
男たちの隙間から、鉄格子の向こうを見る。
切り取られた四角い青空が見えた。
あの空の下で、キャス様は今も生きているだろうか。私のことを案じてくれているだろうか。
ごめんなさい、キャス様。
私はもう、あなたの光にはなれない。あなたの隣で笑う「普通の女の子」には戻れない。
(――神様。これが、あなたがくれた最強能力の答えですか?)
私は心の中で問いかける。返事はない。
ただ、男たちの狂った愛の囁きだけが、終わらない子守唄のように響いていた。
逃げなければ、守れないと思っていた。
でも、逃げたら――彼らは世界ごと壊してしまう。
だから私は、この美しく残酷な鳥かごの中で生きていく。
目が合ったら人を狂わせる、この呪われた瞳を閉じて。
「……愛しています、澪」
誰かの、あるいは全員の声に、私は虚ろな目で微笑み返した。
「ええ。私もよ」
私は彼らの瞳を見つめ返す。
私の呪い(あい)が、彼らを永遠に狂わせ続けるように。
嘘の愛で、世界を守るために。
目が合ったら、終わり。
ようこそ、私の愛しい鳥かごへ。
(第一部 完)
『第一部 完』
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました! 逃げれば逃げるほど泥沼に嵌る……まさにこの作品のテーマ通りの結末となりました。
「嘘の愛で、世界を守る」 覚悟を決めた澪と、狂った男たちの鳥かご生活はここからが本番(地獄)かもしれません。
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