【第15章】人質
逃げ込んだ先は、光の届かない地下下水道。 汚泥にまみれながらも、希望を捨てずに耐える澪たち。 しかし、地上にいる「彼ら」には、倫理観というブレーキが存在しませんでした。 最悪の放送が始まります。
地下下水道は、世界の裏側そのものだった。
どこまでも続く、粘り気のある深い闇。
鼻孔を突き刺す強烈な腐臭と、生活排水が淀みながら流れる不快な水音。
温室育ちの貴族令嬢であれば、一時間と持たずに発狂していただろう。
だが、極限状態の私たちには、これ以上なく心強い「光」があった。
「……足元、三歩先に段差があります。滑りやすいので気をつけて」
キャス様だ。
彼にとって、光のない世界こそが日常であり、庭だった。
地上では私たちが彼の手を引いていたが、この暗闇の迷宮では、彼が研ぎ澄まされた聴覚と白杖の響きを頼りに、私たちの目となり、道標となって導いてくれた。
「すまない、キャス。私が不甲斐ないばかりに……」
「いいえ、殿下。今は進みましょう。出口の風を感じます。近いはずです」
ノース皇女が悔しげに唇を噛み、泥に汚れた軍服の袖を握りしめる。
その凛とした顔立ちには、隠しきれない疲労の色が濃く滲んでいた。
私たちは一週間、泥水をすすり、足元を走り抜けるネズミに怯えながら、地を這うようにして生き延びてきた。
すべては、自由のため。
あの狂った男たちの支配から、逃げ切るために。
しかし。
そんな微かな希望を、無慈悲に粉砕する「声」が、頭上のマンホールから降ってきた。
『――ああ、愛しい澪。そんな汚い場所に隠れていないで、早く出ておいで』
拡声魔法だ。
通気口や排水溝、ありとあらゆる隙間を通じて、ロミオ様の甘く、とろけるような美声が地下道全体に反響する。
それはまるで、私の脳内に直接語りかけてくるようだった。
『かくれんぼは終わりだ。君が可愛い意地を張るせいで、関係のない人がとても痛い目に遭っているんだよ?』
ザザッ、という不快なノイズのあと。
別の音が、空気を震わせた。
鈍い打撃音。そして――。
『ぐっ……あ……! やめ……ろ……ッ!』
押し殺した、けれど漏れ出てしまった苦悶の悲鳴。
聞き覚えのある、ハスキーで力強い声。
マストル教官だ。
「マストルさん!?」
「静かに! 声を探知されます!」
キャス様が私の口を咄嗟に手で塞ぐ。
けれど、放送は止まらない。
肉が焼けるようなジュッという音。骨がきしむ音。
そして、あの強靭な精神を持つマストルさんが、獣のように泣き叫ぶ声。
『言え。澪はどこだ?』
『し、知らない……あぐぅッ!!』
『頑固な女だ。自慢の指を一本ずつ、ペンチで潰していけば喋るかな?』
エリオット様の、氷のように冷酷で楽しげな声。
私は震えが止まらなかった。歯の根が合わない。
私の師匠が。私に「生きるための戦い方」を教えてくれた恩人が、私のせいで、今この瞬間も嬲られている。
「行かなきゃ……! 私が戻れば、マストルさんは助かる!」
「ダメだ澪! これは罠だ!」
皇女様が私の腕を万力のように掴む。
「お前が出て行けば、奴らは味を占めてさらなる要求をしてくるだけだ! ここで耐えれば、いずれ本国の軍が動く!」
「でも、その前にマストルさんが死んじゃう!」
「耐えるんだ! 彼女は戦士だ、簡単に口は割らん!」
皇女様の言うことは、論理的には正しい。わかっている。
でも、放送は止まらない。
一晩中、地下道にはマストルさんの魂を削り取るような絶叫が響き渡った。
私は耳を塞ぎ、汚水の中でうずくまるしかなかった。
◇
翌朝。放送がプツリと止んだ。
死のような静寂が戻った地下道で、チャプ、チャプ、と何かが水を踏む音が近づいてきた。
「……誰か来る」
キャス様が白杖を構え、私たちを背に庇う。
暗闇の中から現れたのは、ボロボロになった幽鬼のような人影だった。
血と汚物に塗れた服。ドス黒く腫れ上がった顔。
そして、垂れ下がった右手の指は、ありえない方向へ折れ曲がっている。
「……マストル、さん……?」
彼女はよろめきながら、私の前で崩れ落ちるように膝をついた。
「すまねぇ……嬢ちゃん……」
マストルさんは泣いていた。
砕かれた指の痛みじゃない。もっと深い、魂の絶望のせいで。
「耐えるつもりだったんだ……自分の命だけなら、くれてやった……。でも、あいつら……」
彼女は、血の泡を吐き出しながら、震える声で告げた。
「孤児院の……私の子供たちを、人質に取りやがった……」
「……ッ!?」
「子供たちの指を詰められたくなかったら、お前を連れてこいって……。ごめん、ごめんな……!」
彼女は汚泥にまみれた地面に、何度も何度も額を擦り付けた。
私は言葉を失い、呼吸さえ忘れた。
ロミオ様たちは、最初から調べていたのだ。
マストルさんが元冒険者で、身寄りのない子供たちを私財で育てていることを。
そして、それを躊躇なく、一切の罪悪感もなく「材料」に使った。
「……ひどい」
怒りで視界が赤く明滅する。
もう、限界だった。
私の逃避行のために、どれだけの人を犠牲にすればいいの?
どれだけの血が流れれば終わるの?
カツ、カツ、カツ。
マストルさんの背後の闇から、乾いた、規則正しい足音が響く。
三つの影が現れた。
泥一つ、塵一つついていない磨き上げられた革靴。
この汚濁の世界にはあまりに不釣り合いな、完璧に仕立てられたスーツと鎧。
ロミオ様、アステル、エリオット様。
彼らは汚水の上を歩いているはずなのに、汚れていないように見えた。
悪魔だからだ。
「やあ、澪。迎えに来たよ」
ロミオ様が、まるで日向の公園でピクニックに来たような爽やかな笑顔で、両手を広げた。
「ひどい顔だ。泥だらけじゃないか。さあ、帰って温かいお風呂に入ろう。最高のスープも用意してある」
「……条件は?」
私は、感情を殺した震える声で尋ねた。
「マストルさんと子供たち、それに皇女様とキャス様。……全員、手を出さないと約束して」
「もちろんさ。僕たちが欲しいのは世界でたった一つ、君だけだ。君さえ戻ってくれば、他の有象無象に興味はない」
エリオット様が、冷たい瞳で補足する。
「ただし、もしこれ以上拒否するなら……まずはこの女教官の首を刎ねる。次に孤児院を燃やす。最後に、そこの神官の四肢を切断して、ダルマにして街広場に飾ろうか」
嘘じゃない。
彼らはやる。今日の天気を語るように、息をするように、それを実行する。
「……わかった」
私は一歩、前に出た。
「ダメです、澪様!」
キャス様が私の泥だらけの裾を掴む。
「行ってはいけません! 彼らの元に戻れば、貴女の心は殺されてしまう! 私たちはまだ戦えます! 道はあるはずです!」
「ありがとう、キャス様。……でも、もういいの」
私はキャス様の手を、そっと、一本ずつ指を剥がすように解いた。
これ以上、私の唯一の光である彼を、傷つけさせたくない。汚させたくない。
「逃げなければ、守れないと思ってた。でも……逃げたら、もっと多くのものが壊れる」
私は涙を袖で乱暴に拭い、精一杯の笑顔を作って振り返った。
キャス様には見えないかもしれないけれど、最後の、人としての強がりを見せたかった。
「さよなら、キャス様。……どうか、お元気で」
私は三人の美しい悪魔の元へと歩き出した。
ロミオ様が満足げに私を抱きしめる。甘い薔薇の香りが、腐臭を上書きしていく。
アステルが「二度と離しません」と囁きながら、冷たい手錠を私の手首にかける。
エリオット様が勝利の凱歌を上げる。
私は振り返らなかった。
背後で、キャス様の魂を絞り出すような絶叫と、皇女様の押し殺した嗚咽が聞こえていたけれど。
振り返ってはいけない。
もう二度と、彼らのいる眩しい世界へは、帰れないのだから。
「孤児院の子供を人質に取る」
悪役の教科書のようなムーブを、主人公を愛するヒーロー(?)たちが満面の笑みでやってのけました。 マストル教官の心も、澪の心も、彼らにとっては「愛の障害物」でしかありません。
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