episode35:行ってらっしゃい
次の日になった。
はっと目を覚まし、日付を何回か確認する。
今日は入学式だ……!
バサッと起き上がる。そわそわして落ち着かない。とりあえず、下に降りることにした。
庭を見ると、筋トレをしているアルゼ様がいた。
「おはようございます、アルゼ様」
「おう、チビおはよー」
私は庭に出て、ウッドデッキに座る。半裸で腕立てをするアルゼ様を見ていると、アルゼ様が視線をこちらに向けた。
「どしたんだ、チビ」
そう言いながらも、腕立てを続けているアルゼ様。なんだかその光景が面白くて、フフッと笑ってしまった。
「なんでもないです。どうぞ続けてください」
「チビもするか?」
「やめておきます」
入学式の朝から、筋トレはなぁ……と思い、断らせてもらった。
「ちゃんとヴェルディア行っても、筋トレはするんだぞ」
「分かってますよ」
しばらくボーッと過ごしていると、アルゼ様が立ち上がった。
「そろそろ飯食うか」
「了解です」
私は、先にキッチンに向かう。
焼いているパンを眺めながら不意に、しばらくこの生活から離れるのだと実感した。このキッチンも、この時間も当たり前じゃなくなる。
「いつもありがとなぁ」
ちょうどパンを焼き上げたところに、アルゼ様がやってきた。
「いいんですよ。ルーティンになってますから」
私はパンを食卓に並べる。
「いただきます」
手を合わせて口に入れた。
「いやぁ、こんな生活とは今日でお別れかぁ」
「ちゃんと朝ごはん食べるんですよ」
「うん……」
少し沈黙が流れる。
朝食をとり終わると、アルゼ様がココアを一杯入れてくれた。暖かいココアを飲んで一息つく。
先に飲み終わったアルゼ様は、椅子から立ち上がった。
「ちょっと、洗い物するわ」
「私しますよ」
「いいのいいの」
その言葉に甘えて、お願いすることにした。
時計を見ると、出発までまだ時間があった。
私は特に用もなく、ダイニングテーブルでアルゼ様の動きを目で追う。
「チビ。制服着替えないのか?」
まだ座っている私を見て、アルゼ様が尋ねてくる。
「んー、この貴重な時間を目に焼き付けておきたいなって思いまして」
「なぁんだ、チビも意外と寂しがり屋なんだな」
「……アルゼ様ほどではないですけどね」
そう返すと、アルゼ様は笑ってまた水音を立てる。
……この生活が続けばいいのに。
夢が叶って嬉しいはずなのに、そう思ってしまった。
制服に着替え、時刻は七時になった。
入学式は九時からだが、寮での準備もある。そのため、少し早めに出発しなくちゃいけない。
「アルゼ様。私そろそろ行きます」
ついに、この時間が来てしまった。
大きな荷物を持った私のところに、アルゼ様が来る。
「忘れ物ないか?」
「あはは、昨日あれだけ確認したじゃないですか」
「心配なんだよ!」
「……私はアルゼ様が心配です」
そう言うと、「それは確かに……」と返される。
「あ、アルゼ様。渡したい物があって……」
私はカバンの中を、ゴソゴソと探す。
「ん?なんだ?」
「あ、あった。……これです」
私はアルゼ様の手に、財布を握らせた。
カインと離れ離れになってからずっと持っていたお金。一回も使っていないから結構な額が入っているはず。
そんな私の財布を見て、一瞬アルゼ様の動きが止まる。
「……なんだ、これ」
「一年間住まわせてもらったので、お礼のお金です。全然足りないですけど……気持ちとして」
次の瞬間、財布は私の手に戻ってきた。
「いらねえ」
低い声だった。私は、ビクッとしてアルゼ様を見る。
「チビはさぁ……俺様が善意で一緒にいたと思ってたのか?」
「……え」
「勘違いしてるかもしんないけどさ……お前はもう俺様の家族なんだよ」
その言葉に、息が詰まる。
「家族に、金なんて取るかよ」
家族……
その言葉に胸がジーンとして、視界が滲む。そんな私を見て、アルゼ様は慌てて言う。
「おいおい、行く前に泣くんじゃねえよ」
「だって、アルゼ様が嬉しいこと言うから……」
「いやいや、当たり前だろうがよ」
私は目に滲んだ涙を拭いて、顔を上げた。
「ありがとうございます。アルゼ様がいてくれて本当によかった……」
「……なんだよ急に」
照れて、顔が赤くなっているアルゼ様。私はフフッと笑ってしまった。
「……んまあ、無理せず頑張れよ。なんかあったら、ここに帰ってきたらいいから。」
「……了解です。頑張ってきます」
「じゃあ……行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
拳を合わせると、私は家を出た。
家を出ると、朝の空気がひんやりと頬に触れる。
振り返ることはしなかった。あの日常を思い出すと、戻りたくなりそうだったから。
前だけ見て歩き、乗り場で馬車に乗り込む。
「ヴェルディア学園までお願いします」
「あいよー」
馬車がゴトゴト音を立てて、動き出す。私は揺れに身を任せ、目を閉じた。
数時間後、ついにヴェルディア学園の門が見えてくる。
身を乗り出すと、同じ制服に身を包んだ生徒たちが、次々と門をくぐっていくのが見えた。
「到着しましたー」
「ありがとうございました」
お金を払って馬車から降りる。
……今日から、ここが私の居場所になる。
胸の奥が少しざわつくのを感じながら、私は一歩、門の中へ足を踏み入れた。




