episode30:理想が咲く丘
チチチ……。
小鳥のさえずりが耳に届き、私はゆっくりと目を開けた。時計を確認すると、まだ六時前だった。
……そういえば今日は、八時から鍛錬だったな。
つい、いつもの時間に起きてしまった。
下へ降りると、アルゼ様の姿は見当たらない。まだ眠っているのだろう。
起こすほどでもないし、外で少し身体を動かしてこようか……。
動きやすい服に着替えて家を出る。
外に出た瞬間、ひんやりとした朝の空気が頬に触れ、思わず小さく息を吸い込んだ。
周囲は静まり返っていて、小鳥のさえずりと、どこかで水が流れる音だけが響いている。
私はゆっくりと走り出した。地面に落ちた葉を踏むたび、サクッ、サクッと軽い音がする。風が髪を揺らし、眠っていた頭が少しずつ冴えていくのが分かった。
やがて朝日が姿を現し、街の輪郭が淡いオレンジ色に染まっていく。
市場の近くまで来たところで、少し汗ばんだ額を拭い、空を見上げた。
……そろそろ戻ろうかな。
来た道を引き返しながら、身体が心地よく温まっているのを感じる。
私は息を整え、家へと足を向けた。
「おいチビ!どこ行ってたんだよ!」
家へ戻ると、中から慌てたようにアルゼ様が飛び出してくる。
その顔にはただただ焦りが浮かんでおり、昨日見せた悲しげな表情は消え去っていた。
「走りに行ってただけなんですけど……」
何でそんなに焦ってるんだろ……
「……起きたらチビがいないからびっくりしたわ」
「それはすみませんでした。いつもと同じ時間に目が覚めちゃって……」
アルゼ様は一息つくと、キッチンの方へと向かう。
「早いが飯にするか」
「そうですね」
そうして一日が始まった。いつものようにご飯を食べたら鍛錬を始める。
試験後ということもあり、いつもよりは楽な内容だったが、それでも疲れるものは疲れる。
へとへとな私に、時計を見たアルゼ様が言う。
「……おし、ここまで!昼ご飯食べるぞ!」
「やった!」
午前中に鍛錬を終え、昼休憩を取る。
今日の昼ごはんはサンドイッチだ。ハムと卵を挟んで食べる。
「今日はどっか出かけるか?」
急にアルゼ様が尋ねてきた。
「鍛錬はこれで終わりですか?」
ふと聞くと、呆れたようにアルゼ様が言った。
「あのなぁ、昨日試験が終わったんだぜ。俺様が今日鍛錬するっつったけど、お前はもっとゆっくり過ごすべきなんだよ。」
「いやぁ、そうなんですけど、鍛錬以外にやること思いつかなくて……」
そう言うと、アルゼ様がうーんと考え込む。
「丘でも行くか……」
「丘?」
「めっちゃ綺麗な丘があんだよ。午後はそこに行こう。いいな?」
「はい、いいですけど……」
「おし、決まり!」
半ば強引に押し切られたが、急遽午後の予定が決まった。
食器を片付けると、私は出かける準備をする。
「チビー準備できたかー?」
「今行きまーす!」
上着を羽織って下に降りると、すでに準備を終えたアルゼ様が待っていた。
「遅くなりました」
「いいや、大丈夫だ」
「ところでどうやって行くんですか?」
……シェルフィーネは嫌だ。
心の中で念じていると、それに気付いたのかアルゼ様が苦笑いをした。
「さすがに俺様もしんどいわ。馬車で行くぞ。」
「わかりました」
ということで、馬車に乗って丘へと向かう。
馬車の中から窓の外を眺めていると、王都の建物が少しずつ減り、代わりに草原が広がっていった。涼しい風が吹き込んでくる。
「アルゼ様。気持ちいいですね」
「そうだな。たまにはこういうとこもいいだろう」
何もしていないのに時間が過ぎていく感覚に、少しだけ落ち着かなさを覚える。しかし、このゆったりとした時間が、レーゲルトにいた頃を思い返させて、なんだか懐かしい気持ちになる。
しばらくして馬車が止まった。
着いたのは、王都の外れ。それは、王都でありながら、王都の息が届かない場所でもあった。
「うわあ……」
馬車を降りた瞬間、視界いっぱいに花が広がった。
丘一面が、色とりどりの花で埋め尽くされている。
風が吹くたび、花々が揺れ、甘い香りがふわりと漂ってきた。
思わず、息を忘れて立ち尽くしてしまう。
「行くぞ」
アルゼ様に連れられて丘を登る。
「綺麗ですね。連れてきてくれてありがとうございます」
「この場所、ずっと昔に見つけたんだ。誰も来ないから秘密基地にしてたんだけど、チビには見せようと思って」
「……ありがとうございます」
丘の中央には、ひときわ目を引く白い花が咲いていた。花弁の奥に、淡く金色の光を宿している。
「綺麗……」
「……ノスタルジアだ」
アルゼ様が、珍しく静かな声で言った。
「この花はここでしか見られない。理想を捨てなかった土地にしか、咲かねぇ花だ」
「理想を捨てなかった土地……?」
その言葉が胸に引っかかった。
この花は王都では見たことがない。理想とは何だろう……。
風が吹き、ノスタルジアがフワリと揺れる。それを見ながらアルゼ様は言った。
「大昔な、魔法による戦争で世界が滅びかけたことがある。その時、初代の魔法使いたちは魔法を完全に封じた」
「……完全に?」
「あぁ、一切残さずにな」
はるか昔、この世界─アイディールで魔法による大戦争が起こったのは知っていた。しかし、魔法を封じるというのはどういうことだろうか。私たちが今魔法を使えるのはなぜ?
だが聞く間もなく、アルゼ様は続ける。
「彼らは完璧な世界を作ろうとしたわけじゃねぇ。ただ……二度と、奪い合わなくていい場所を残したかっただけだ」
その声は、どこか祈るようだった。
誰かに向けてというより、過去の自分に言い聞かせているような──そんな切なさを帯びている。
風に揺れるノスタルジアが、淡く光を返した。
……まるでその言葉を、静かに肯定しているみたいに。
私は、アルゼ様の横顔から目を離せなくなっていた。胸の奥が、理由もなく少しだけ苦しくなる。
「アルゼ様……」
「……何だ」
「この花摘んで帰ったらダメですか……?」
「殺されるぞ」
「ひえっ」
少し張り詰めていた空気が、ふっとほどけた。
「……ということで、俺様はちょっと昼寝する。少し経ったら起こせ」
そう言って、アルゼ様はごろりと寝転がった。
「ちょっ!アルゼ様!」
私は悲鳴に近い声を上げる。
「今から寝るんだ。黙りなさい」
「ノスタルジア潰してますって!」
「……やべ」
慌てて身体をずらし、ノスタルジアから距離を取るアルゼ様。
「ったく、だから花畑は落ち着かねぇんだよ」
「……今さらじゃないですか」
「うるせぇ」
そっぽを向いたまま、アルゼ様は腕を組む。そして、それ以上は何も言わず、アルゼ様は目をつぶった。
その横で、ノスタルジアは何も語らずに揺れている。けれどその姿が、アルゼ様の言葉と重なって見えた。
理想を捨てなかった土地にしか咲かない花……
いつか私も、この花の意味をちゃんと理解できる日が来るのだろうか。




