第9話 疑念の芽
ル・ベゾワールはいいぞ、線路と風化した感じがとてもいい
春の陽が日に日に強さを増すころ、屋敷の回廊には淡い花の匂いが重なり、青い空が果てしなく広がっていた。
葡萄棚の若葉は透けるほど薄く、指先で触れるとひやりとした冷たさが残る。
あ朝の祈りを終えたエミルは、木剣を肩に担いで訓練場へ向かった。昼にはアデルが屋敷を訪れる――その予感が胸にあり、歩みは季節のように軽かった。
その日、訓練場の片隅に見慣れない小さな影があった。腰ほどの背丈、細い肩。顔立ちにまだあどけなさを残しながらも、目は静かで、迷いよりも決意の光を帯びている。少年はエミルを見ると、軽く会釈をした。帯の下から覗く革の端には、小さな刺繍が縁取りのように施されている。見覚えのある模様だった。
師が短く紹介する。
「今日からブラン家の見習いが加わる。名はリュカ。施療の補助とアデル様の雑務を担う。主に屋敷内で働くが、時に訓練にも加わる」
リュカは言葉少なで、必要最低限の受け答えしかしない。最初のうち、エミルはその沈黙を無礼の一種だと思った。だが訓練が始まると、その印象はすぐに覆された。足の返し、腰の切り返し――一つ一つが正確で、無駄がない。木剣が触れ合う音も、他の子どもたちより静かだった。まるで、自分の存在を遠慮深く世界に置いているようだった。
稽古の合間、エミルはリュカを目で追った。気づいたのは、彼がアデルの前では少し柔らかくなることだ。屋敷に戻ると、リュカはそっとアデルの傍へ寄り、包みを差し出したり椅子を引いたりする。慣れぬ仕草でありながら、不思議と自然だ。アデルはそれを受け取りながら、時折リュカの手の甲に軽く触れる。その瞬間、エミルの胸の奥に、小さな刺が生まれた。
それは鋭くもなく、燃えるようでもない。冷たいのに、確かな痛みを持つ。嫌悪ではなく、むしろ喜びに近い。自分の中に芽生えた何かを確かめるように、エミルは胸のざわめきを抱えた。
昼になると、アデルは白い包布と小さな器具を携えて屋敷を訪れ、子どもたちの掌や膝を診る。リュカは彼女の後ろに立ち、必要なときだけ手を差し伸べた。アデルがエミルの指先の豆をそっと押さえると、彼は息を止める。リュカはその様子を静かに見守っていた。その見守り方には、責任の重さがあった。エミルはその「重さ」に憧れた。
◇
午後、師は「防御からの反撃」を教えた。二人一組で、受けから返しへと流れる。攻めるよりも、壊さず受けるための稽古だ。
エミルの相手はリュカに決まる。二人は木剣を構えた。息が交じり合う距離。リュカの呼吸は一定で、驚くほど静かだ。観察を重ね、エミルは彼の癖を読み取った――左足を踏み出し、腰を沈めて受け、そのまま右へ返す。完璧な流れ。冷静さは、時に無力を覆う仮面だとエミルは感じた。
速度が上がる。リュカが受けを外し、わずかにバランスを崩した。エミルは反射的に強めに返す。瞬間、木剣が相手の腕を打った。
鋭い音。息が止まる。場が静まる。
リュカは呻かず、剣を握り直した。腕には青い痕が浮かぶ。彼は体勢を整え、訓練を続けた。痛みを見せない落ち着き――それは、痛みの扱い方を知る者の姿だった。
エミルの胸は重く脈打った。彼は自分の手の震えを見つめる。滑ったのか、力を入れすぎたのか――理由は分からない。ただ一つ確かなのは、リュカの痛みを見た瞬間、胸が締め付けられたこと。守るべきものは、自分の腕の内に入れたい。そう強く思った。
稽古後、アデルがリュカの腕を診た。濡らした布で拭き、包帯を巻く。その手つきは柔らかく、祈りに似ていた。リュカは黙ってそれを受ける。アデルの指が触れるたびに、リュカの肩がわずかに上下する。そのやり取りは静かで、確かな信頼があった。
エミルはそれを見つめながら、胸の奥に小さな炎を感じた。
その炎は、すぐには燃え上がらない。芯に灯った火のように、じりじりと熱を貯めていく。誇りが燃料となり、光が差す。だが光があれば影も濃くなる。アデルの傍にいる誰かの影が、エミルの中へ入り込み、小さな黒点を残した。
◇
夜、エミルは寝台で何度も目を覚ました。夢の端に、リュカの青痕とアデルの指先がちらつく。手を伸ばしても届かない。その届かなさが歯がゆく、同時に安らかだった。守るものがあるという安心と、届かない距離への不安。その両方が胸にあった。
翌朝、彼は師に早朝稽古を願い出る。師は頷き、静かに言った。
「力を振るうときは、理由を持て」
エミルは木剣を振り続けた。掌が痛むたび、現実に戻る。夢の痛みは曖昧だが、今の痛みは自分のもの。だが心の隅では、昨夜の影が形を持ち始めていた。
◇
昼、屋敷の回廊に蜂が唸る。葡萄棚の節が膨らみ、土は柔らかく靴に吸いつく。春の歩幅は半歩ずつ。足が知る季節。
その日、師は練習剣を手にしていた。潰し刃の実戦型だ。
「今日は“間合い”を教える。近すぎるのは危うく、遠すぎるのは怠惰だ」
エミルは剣を受け取り、祈りの印が脈打つのを感じた。落ち着く――恐怖ではない。
相手が交替で変わる中、彼は一人一人の癖を覚える。師が無言で通り過ぎる日は、まだ伸びる余地がある日。エミルはそう理解していた。
午後、リュカが加わる。昨日の痕はもう薄い。呼吸は静かで、動きに無駄がない。師の手の合図を逃さない。任務の目をしている――エミルはそう思った。
終礼の鐘が鳴り、師は剣を収めて言う。
「守るとは、届く距離に立ち続けることだ。届かぬ場所から石を投げても、それは守りではない」
届く距離。アデルの手が届く距離。祈りが耳に届く距離。
エミルは土を小さく踏みしめ、その感触を覚え込ませた。
◇
その夕刻、修道女とアデルが訪れた。読み書きの教導の日。エミルは筆圧を抑え、紙を傷つけぬよう注意した。傷んだ紙は、祈りを伝えられない。
アデルは子どもたちの手を導き、姿勢を直す。触れる指先は軽く、まるで祈りそのもの。リュカは机の端で紙のささくれを整える。余計なものを削ぐ手つきに迷いがない。
詩篇の朗読。「信と有為の働き」。
神は信じる者に時を与え、働きのうちで徳を整える。
アデルが読み、エミルが受け、修道女が閉じる。声が梁を伝い、薄く昇る。
修道女は本を閉じて言った。
「信は、時をまっすぐにします。曲がるのは、わたしたちのほうです」
子どもの笑いが小さく弾けた。エミルは笑わず、言葉を胸に沈めた。笑わぬことで、言葉が擦れずに入っていく。
◇
夜、見習い司祭が来た。“安寧の定期確認”――祝福印の検査である。
若い司祭の目は硬く、そこに落ちる言葉は砕けやすい。彼は問う。
「同じ夢を見ますか」
「剣で人を斬る夢を。最近は結び目を直す夢です」
「夢の中で笑いますか」
「わかりません。目覚めると、泣くことがあります」
「印は熱を帯びますか」
「祈ると温かいです。痛くはありません」
司祭は頷き、金属棒の先を印の近くでかざす。鈴のような音が一度だけ鳴る。
「澄んでいる。よい兆です」
よい、という一言は、砂糖よりも軽く、空気を少しだけ柔らかくした。
しかし問答の最後、司祭は小さく言葉を落とす。
「あなたは“守るべき者”を、どう数えますか」
数える――祈りには似つかわしくない語。
エミルは母、老女、師、仲間、そしてアデルを思い浮かべる。沈黙。
「皆です」と言う前に、司祭は言葉を切った。
「皆が正しいとは限りません。守る者は、選ぶときに強くなります」
その言葉は剣帯を締めるようだった。強く締めれば息ができず、緩ければ走れない。
司祭は祈りを終え、去っていく。廊下の端で、リュカが静かに頭を下げた。簡素な礼。神は簡素を好む。
数日後の午後、屋敷に細長い箱が届いた。王都の鍛冶職人から送られた訓練用の短剣だという。護身と儀式の双方に使える造り。柄には簡素な十字、鞘は革、刃は短く、重心は手元に寄っている。
師がひとつずつ検め、子どもたちに順に握らせる。エミルの掌に収まった短剣は、思ったよりも軽かった。軽いものは油断を呼ぶ。油断は、守りの敵だ。
「これは“誓い”の道具でもある」
師の声は穏やかだった。
「刃そのものではなく、“向き”が誓いを示す。自分に向けるか、他者に向けるか。その向けた先が、おまえの誓いだ」
エミルはそっと刃を自分の胸に当てた。痛みはない。ただ、確かな重さだけが残る。
リュカは少し離れた場所で、短剣を受け取り、刃を鞘に戻した。向けるでも、振るうでもなく、まずは“納める”。静かな刃は、時に最も速い。
儀式の祈りが終わると、休憩が入った。エミルは庭の葡萄棚の影に腰を下ろす。汗が首筋を伝い、風が冷たく撫でていく。影の縁を踏むと、乾いた土が靴底に薄くついた。
影は日ごとに形を変える。変わるたび、別の生き物のように見える。影という言葉を、エミルは嫌いではなかった。けれど、好きになるにはまだ早いと思った。
そのとき、アデルが現れた。袖を少しまくり、小瓶を胸の前に抱えている。リュカは数歩後ろを歩き、道具袋を持っていた。
アデルはエミルの隣に膝をつき、ためらいなく彼の手を取った。掌の印の赤みを光にかざして確かめる。
「今日は少し熱いですね」
「短剣の“向き”のことを考えて、緊張していました」
「向きは、いつでも変えられます。誓いも祈りも。——変えないと決めた人だけが、変えられなくなるのです」
その言葉に、老女の忠告と司祭の言葉が重なった。
老女は「固くなると折れる」と言った。司祭は「選ぶときに強くなる」と言った。どちらも正しい。正しいもの同士は、時にぶつかる。ぶつかった音は遠い雷のように低く、やがて雨になる。雨は悪くない。葡萄は雨を飲んで甘くなる。——甘くなりすぎるのも、良くはない。
アデルは瓶の蓋を開け、香草の抽出液を掌に垂らした。冷たさが印の周りを撫で、皮膚の下の熱が静かに薄まる。
エミルは息を整え、視線を落とす。リュカの靴が土を軽く刺し、その跡を土が覚えている。覚えられた土は、しばらくの間そこに“誰かがいた”ことを黙って伝える。
「ありがとう」とエミル。
「どういたしまして」とアデル。
リュカは言葉を足さず、静かに頷く。その沈黙の形に、エミルはなぜか安堵を覚えた。
◇
夜、廊下の向こうから柔らかな声が聞こえた。老女と執事、それに誰か。扉は閉じているが、声は布越しのように響く。争いではない。告白でもない。――報せの声。
翌朝、老女が説明した。
近隣の村で、祝福者ではない子どもが夜に熱を出し、奇妙な夢を見たという。夢の中で“赤い果実”を食べ、目が痛んだと。神父は巡回に出ており、戻らない。
赤い果実――その言葉に屋敷の空気がわずかに重くなった。赤は祭の色でもあり、禁忌の色でもある。色に罪はないが、罪は色を好む。
アデルの眉がわずかに寄る。リュカは視線を落とした。
エミルは言葉を探したが、見つからず、祈りの姿勢を取った。祈りは言葉の代わりになる。けれど、使いすぎれば鈍る。
「その子はどこの生まれですか」とエミル。
「国境近くの集落だそうです」と老女。「戦が近づくと、噂も増えます」
噂は風に乗る。風は祈りも運ぶ。祈りと噂は同じ速さで屋敷を巡り、同じ窓辺で揺れる。
揺れているものを見分ける目を、エミルはまだ持たない。持たないことは恥ではない。だが、それは痛みの種になる。痛みの種は疑念の芽とよく似ている。
◇
その日、エミルは訓練の合間に一度だけ短剣の“向き”を変えた。
自分へ向けていた刃を空へ、そして土へ。
空は神を、土は現実を。神と現実は、よくぶつかる。
ぶつかったとき、刃の背で受ければ仲裁できる。刃先で受ければ血が出る。――血は、まだ早い。
◇
夕刻、アデルが再び温室に寄った。エミルは扉の外で待つ。
中では、瓶が擦れる音。アデルの声。
「この根には、もう少し土を足して」
「はい」とリュカ。
扉が開く。アデルの微笑みには、薄い疲れが混じっていた。疲れは悪くない。働いた証。だが、疲れを他人に預けるのは難しい。信が要る。信は、回数で固まる。
「エミル様、少し歩きませんか」とアデル。
三人は庭を歩いた。葡萄棚を過ぎ、石塀の影へ。影の冷たさが、昼の熱を指先から連れ去る。
アデルが言った。
「院の子が昨夜、長い熱を出しました。——夢の中で、海を見たと」
「海……?」
「この地方では海は遠い。けれど、あまりに鮮やかだったので、神父様は“影”かもしれないと」
影――
その言葉を、エミルは今日いくども聞いた。影は悪ではない。だが、影を見つめすぎると、目は暗さを好む。暗さを好む目は光に弱くなり、弱くなると誰かの手を必要とする。
手が差し出されるたび、祈りの糸は強くなる。強くなりすぎれば、固くなる。ぐるりと同じ思考が戻ってきた。
アデルは立ち止まり、石塀越しに空を見上げた。雲は薄く、形を変えやすい。
変わる前に、ひとつ言葉を落とす。
「——エミル様は、怖くなったら“怖い”と言えますか」
怖いと言うことは勇気だ。勇気は戦場だけのものではない。祈りにも、施療にも、日常にもある。
けれど、怖いと口にして誰かを怖がらせるなら、言わないほうがいい。エミルは沈黙を選んだ。沈黙は答えの形にもなる。
「言えるように、なりたいです」
アデルは微笑んだ。その微笑みは小さいが、確かだった。
リュカは空を一度見上げ、すぐ地面に視線を戻した。地面は嘘をつかない。空はときどき嘘をつく。青く見せたり、広く見せたりして、人の胸を惑わせる。惑った胸では、祈りの言葉を探すのに時間がかかる。
◇
夜、祈祷室。
エミルは紐に結んだ短い祈りを窓辺に吊るした。風は弱く、紐はほとんど揺れない。揺れない祈りは、重くなる前触れ。
重くなる前に、言葉を削る。
「守るための目をください」
→「目をください」
短くすると、息がしやすい。息がしやすい祈りは長く続く。続けることが、徳の半分だ。
胸の空洞を意識し、息を整える。空洞は崩れていない――が、ふちにひびがある気がした。ひびは痛まない。だが、音を立てる。音はまだ本人にしか聞こえない。
「神よ。
もし疑うことが罪なら、
どうか、それを小さくしてください。
疑わないことが罪なら、
どうか、それを教えてください。
わたしは、間違えたくありません」
間違えまいとする誓いは固くなりやすい。固くなると折れる。老女の声が、祈りの後ろで薄く笑った気がした。
エミルは灯を落とす。廊下の鍵が一度鳴る。――眠れ。明日のために。
◇
眠りの底で、海が一度だけ見えた。
波が寄せ、引く。砂に誰かが文字を書く。風が消す。誰かがまた書く。
書く手は幼く、その隣に大きな手が置かれる。影が文字を覆い、すぐに退いた。
砂に残る凹みだけが、そこに“手があった”ことを示していた。
目覚めると、胸は静かだった。だが、その奥で小さな芽が息づいていた。
芽はまだ色を持たず、名もない。けれど、土は覚えている。昨夜そこに“何か”が置かれたことを。
エミルは窓を開けた。冷たい朝の匂いが頬を撫で、紐に吊られた短い祈りが微かに揺れる。
揺れがあるということは、まだ黴びていないということ。黴びない祈りは長く残る。
今日も訓練がある。今日も文字を書く。今日も守るべき者が屋敷を訪れる。
リュカは静かに道具を整え、老女は湯を運び、師は短く言い、司祭は遠くで誰かに石を投げる。
そして、芽は土の下で伸びていく。
疑念の芽――それはまだ誰にも見えない。見えるのは、土の表面のわずかな盛り上がりだけ。
盛り上がりは悪ではない。けれど、放置すれば根が深くなる。
根が深くなれば、抜けない。抜けないものは、折るしかない。折れば痛む。痛みは弱さの証。弱さの証は、強さの始まり。
――この循環のどこで止まるのか、少年はまだ知らない。
ただ一つだけ信じている。
祈りは、風に揺らすと良いということ。
彼は紐の結び目を指で撫で、固くなっていないかを確かめた。――固くない。よかった。
固くなければ、まだ結び直せる。
朝の鐘が鳴る。
エミルは木剣を肩に担ぎ、回廊を歩き出した。
歩幅は昨日と同じ。足音は祈りの拍に合わせて静か。
胸の中の芽は、まだ音を立てない。だが彼は知っている。
芽は葉より先に、根で音を立てるのだと。
――その音がどれほど大きな樹へ育つのかを、春の空だけが知っている。
ノルマンディーはいいぞぉ、




