表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/11

第9話 疑念の芽

ル・ベゾワールはいいぞ、線路と風化した感じがとてもいい

春の陽が日に日に強さを増すころ、屋敷の回廊には淡い花の匂いが重なり、青い空が果てしなく広がっていた。

葡萄棚の若葉は透けるほど薄く、指先で触れるとひやりとした冷たさが残る。

あ朝の祈りを終えたエミルは、木剣を肩に担いで訓練場へ向かった。昼にはアデルが屋敷を訪れる――その予感が胸にあり、歩みは季節のように軽かった。


 その日、訓練場の片隅に見慣れない小さな影があった。腰ほどの背丈、細い肩。顔立ちにまだあどけなさを残しながらも、目は静かで、迷いよりも決意の光を帯びている。少年はエミルを見ると、軽く会釈をした。帯の下から覗く革の端には、小さな刺繍が縁取りのように施されている。見覚えのある模様だった。


 師が短く紹介する。


「今日からブラン家の見習いが加わる。名はリュカ。施療の補助とアデル様の雑務を担う。主に屋敷内で働くが、時に訓練にも加わる」


 リュカは言葉少なで、必要最低限の受け答えしかしない。最初のうち、エミルはその沈黙を無礼の一種だと思った。だが訓練が始まると、その印象はすぐに覆された。足の返し、腰の切り返し――一つ一つが正確で、無駄がない。木剣が触れ合う音も、他の子どもたちより静かだった。まるで、自分の存在を遠慮深く世界に置いているようだった。


 稽古の合間、エミルはリュカを目で追った。気づいたのは、彼がアデルの前では少し柔らかくなることだ。屋敷に戻ると、リュカはそっとアデルの傍へ寄り、包みを差し出したり椅子を引いたりする。慣れぬ仕草でありながら、不思議と自然だ。アデルはそれを受け取りながら、時折リュカの手の甲に軽く触れる。その瞬間、エミルの胸の奥に、小さな刺が生まれた。


 それは鋭くもなく、燃えるようでもない。冷たいのに、確かな痛みを持つ。嫌悪ではなく、むしろ喜びに近い。自分の中に芽生えた何かを確かめるように、エミルは胸のざわめきを抱えた。


 昼になると、アデルは白い包布と小さな器具を携えて屋敷を訪れ、子どもたちの掌や膝を診る。リュカは彼女の後ろに立ち、必要なときだけ手を差し伸べた。アデルがエミルの指先の豆をそっと押さえると、彼は息を止める。リュカはその様子を静かに見守っていた。その見守り方には、責任の重さがあった。エミルはその「重さ」に憧れた。



 午後、師は「防御からの反撃」を教えた。二人一組で、受けから返しへと流れる。攻めるよりも、壊さず受けるための稽古だ。

 エミルの相手はリュカに決まる。二人は木剣を構えた。息が交じり合う距離。リュカの呼吸は一定で、驚くほど静かだ。観察を重ね、エミルは彼の癖を読み取った――左足を踏み出し、腰を沈めて受け、そのまま右へ返す。完璧な流れ。冷静さは、時に無力を覆う仮面だとエミルは感じた。


 速度が上がる。リュカが受けを外し、わずかにバランスを崩した。エミルは反射的に強めに返す。瞬間、木剣が相手の腕を打った。

 鋭い音。息が止まる。場が静まる。

 リュカは呻かず、剣を握り直した。腕には青い痕が浮かぶ。彼は体勢を整え、訓練を続けた。痛みを見せない落ち着き――それは、痛みの扱い方を知る者の姿だった。


 エミルの胸は重く脈打った。彼は自分の手の震えを見つめる。滑ったのか、力を入れすぎたのか――理由は分からない。ただ一つ確かなのは、リュカの痛みを見た瞬間、胸が締め付けられたこと。守るべきものは、自分の腕の内に入れたい。そう強く思った。


 稽古後、アデルがリュカの腕を診た。濡らした布で拭き、包帯を巻く。その手つきは柔らかく、祈りに似ていた。リュカは黙ってそれを受ける。アデルの指が触れるたびに、リュカの肩がわずかに上下する。そのやり取りは静かで、確かな信頼があった。

 エミルはそれを見つめながら、胸の奥に小さな炎を感じた。


 その炎は、すぐには燃え上がらない。芯に灯った火のように、じりじりと熱を貯めていく。誇りが燃料となり、光が差す。だが光があれば影も濃くなる。アデルの傍にいる誰かの影が、エミルの中へ入り込み、小さな黒点を残した。



 夜、エミルは寝台で何度も目を覚ました。夢の端に、リュカの青痕とアデルの指先がちらつく。手を伸ばしても届かない。その届かなさが歯がゆく、同時に安らかだった。守るものがあるという安心と、届かない距離への不安。その両方が胸にあった。


 翌朝、彼は師に早朝稽古を願い出る。師は頷き、静かに言った。


「力を振るうときは、理由を持て」


 エミルは木剣を振り続けた。掌が痛むたび、現実に戻る。夢の痛みは曖昧だが、今の痛みは自分のもの。だが心の隅では、昨夜の影が形を持ち始めていた。



 昼、屋敷の回廊に蜂が唸る。葡萄棚の節が膨らみ、土は柔らかく靴に吸いつく。春の歩幅は半歩ずつ。足が知る季節。

 その日、師は練習剣を手にしていた。潰し刃の実戦型だ。


「今日は“間合い”を教える。近すぎるのは危うく、遠すぎるのは怠惰だ」


 エミルは剣を受け取り、祈りの印が脈打つのを感じた。落ち着く――恐怖ではない。


 相手が交替で変わる中、彼は一人一人の癖を覚える。師が無言で通り過ぎる日は、まだ伸びる余地がある日。エミルはそう理解していた。


 午後、リュカが加わる。昨日の痕はもう薄い。呼吸は静かで、動きに無駄がない。師の手の合図を逃さない。任務の目をしている――エミルはそう思った。


 終礼の鐘が鳴り、師は剣を収めて言う。


「守るとは、届く距離に立ち続けることだ。届かぬ場所から石を投げても、それは守りではない」


 届く距離。アデルの手が届く距離。祈りが耳に届く距離。

 エミルは土を小さく踏みしめ、その感触を覚え込ませた。



 その夕刻、修道女とアデルが訪れた。読み書きの教導の日。エミルは筆圧を抑え、紙を傷つけぬよう注意した。傷んだ紙は、祈りを伝えられない。


 アデルは子どもたちの手を導き、姿勢を直す。触れる指先は軽く、まるで祈りそのもの。リュカは机の端で紙のささくれを整える。余計なものを削ぐ手つきに迷いがない。


 詩篇の朗読。「信と有為の働き」。

 神は信じる者に時を与え、働きのうちで徳を整える。

 アデルが読み、エミルが受け、修道女が閉じる。声が梁を伝い、薄く昇る。

 修道女は本を閉じて言った。


「信は、時をまっすぐにします。曲がるのは、わたしたちのほうです」


 子どもの笑いが小さく弾けた。エミルは笑わず、言葉を胸に沈めた。笑わぬことで、言葉が擦れずに入っていく。



 夜、見習い司祭が来た。“安寧の定期確認”――祝福印の検査である。

 若い司祭の目は硬く、そこに落ちる言葉は砕けやすい。彼は問う。


「同じ夢を見ますか」

「剣で人を斬る夢を。最近は結び目を直す夢です」

「夢の中で笑いますか」

「わかりません。目覚めると、泣くことがあります」

「印は熱を帯びますか」

「祈ると温かいです。痛くはありません」


 司祭は頷き、金属棒の先を印の近くでかざす。鈴のような音が一度だけ鳴る。

「澄んでいる。よい兆です」


 よい、という一言は、砂糖よりも軽く、空気を少しだけ柔らかくした。

 しかし問答の最後、司祭は小さく言葉を落とす。


「あなたは“守るべき者”を、どう数えますか」


 数える――祈りには似つかわしくない語。

 エミルは母、老女、師、仲間、そしてアデルを思い浮かべる。沈黙。

 「皆です」と言う前に、司祭は言葉を切った。


「皆が正しいとは限りません。守る者は、選ぶときに強くなります」


 その言葉は剣帯を締めるようだった。強く締めれば息ができず、緩ければ走れない。

 司祭は祈りを終え、去っていく。廊下の端で、リュカが静かに頭を下げた。簡素な礼。神は簡素を好む。


 数日後の午後、屋敷に細長い箱が届いた。王都の鍛冶職人から送られた訓練用の短剣だという。護身と儀式の双方に使える造り。柄には簡素な十字、鞘は革、刃は短く、重心は手元に寄っている。

 師がひとつずつ検め、子どもたちに順に握らせる。エミルの掌に収まった短剣は、思ったよりも軽かった。軽いものは油断を呼ぶ。油断は、守りの敵だ。


「これは“誓い”の道具でもある」

 師の声は穏やかだった。

「刃そのものではなく、“向き”が誓いを示す。自分に向けるか、他者に向けるか。その向けた先が、おまえの誓いだ」


 エミルはそっと刃を自分の胸に当てた。痛みはない。ただ、確かな重さだけが残る。

 リュカは少し離れた場所で、短剣を受け取り、刃を鞘に戻した。向けるでも、振るうでもなく、まずは“納める”。静かな刃は、時に最も速い。


 儀式の祈りが終わると、休憩が入った。エミルは庭の葡萄棚の影に腰を下ろす。汗が首筋を伝い、風が冷たく撫でていく。影の縁を踏むと、乾いた土が靴底に薄くついた。

 影は日ごとに形を変える。変わるたび、別の生き物のように見える。影という言葉を、エミルは嫌いではなかった。けれど、好きになるにはまだ早いと思った。


 そのとき、アデルが現れた。袖を少しまくり、小瓶を胸の前に抱えている。リュカは数歩後ろを歩き、道具袋を持っていた。

 アデルはエミルの隣に膝をつき、ためらいなく彼の手を取った。掌の印の赤みを光にかざして確かめる。


「今日は少し熱いですね」


「短剣の“向き”のことを考えて、緊張していました」


「向きは、いつでも変えられます。誓いも祈りも。——変えないと決めた人だけが、変えられなくなるのです」


 その言葉に、老女の忠告と司祭の言葉が重なった。

 老女は「固くなると折れる」と言った。司祭は「選ぶときに強くなる」と言った。どちらも正しい。正しいもの同士は、時にぶつかる。ぶつかった音は遠い雷のように低く、やがて雨になる。雨は悪くない。葡萄は雨を飲んで甘くなる。——甘くなりすぎるのも、良くはない。


 アデルは瓶の蓋を開け、香草の抽出液を掌に垂らした。冷たさが印の周りを撫で、皮膚の下の熱が静かに薄まる。

 エミルは息を整え、視線を落とす。リュカの靴が土を軽く刺し、その跡を土が覚えている。覚えられた土は、しばらくの間そこに“誰かがいた”ことを黙って伝える。


「ありがとう」とエミル。

「どういたしまして」とアデル。

 リュカは言葉を足さず、静かに頷く。その沈黙の形に、エミルはなぜか安堵を覚えた。



 夜、廊下の向こうから柔らかな声が聞こえた。老女と執事、それに誰か。扉は閉じているが、声は布越しのように響く。争いではない。告白でもない。――報せの声。


 翌朝、老女が説明した。

 近隣の村で、祝福者ではない子どもが夜に熱を出し、奇妙な夢を見たという。夢の中で“赤い果実”を食べ、目が痛んだと。神父は巡回に出ており、戻らない。

 赤い果実――その言葉に屋敷の空気がわずかに重くなった。赤は祭の色でもあり、禁忌の色でもある。色に罪はないが、罪は色を好む。


 アデルの眉がわずかに寄る。リュカは視線を落とした。

 エミルは言葉を探したが、見つからず、祈りの姿勢を取った。祈りは言葉の代わりになる。けれど、使いすぎれば鈍る。


「その子はどこの生まれですか」とエミル。

「国境近くの集落だそうです」と老女。「戦が近づくと、噂も増えます」


 噂は風に乗る。風は祈りも運ぶ。祈りと噂は同じ速さで屋敷を巡り、同じ窓辺で揺れる。

 揺れているものを見分ける目を、エミルはまだ持たない。持たないことは恥ではない。だが、それは痛みの種になる。痛みの種は疑念の芽とよく似ている。



 その日、エミルは訓練の合間に一度だけ短剣の“向き”を変えた。

 自分へ向けていた刃を空へ、そして土へ。

 空は神を、土は現実を。神と現実は、よくぶつかる。

 ぶつかったとき、刃の背で受ければ仲裁できる。刃先で受ければ血が出る。――血は、まだ早い。



 夕刻、アデルが再び温室に寄った。エミルは扉の外で待つ。

 中では、瓶が擦れる音。アデルの声。

「この根には、もう少し土を足して」

「はい」とリュカ。


 扉が開く。アデルの微笑みには、薄い疲れが混じっていた。疲れは悪くない。働いた証。だが、疲れを他人に預けるのは難しい。信が要る。信は、回数で固まる。


「エミル様、少し歩きませんか」とアデル。


 三人は庭を歩いた。葡萄棚を過ぎ、石塀の影へ。影の冷たさが、昼の熱を指先から連れ去る。

 アデルが言った。


「院の子が昨夜、長い熱を出しました。——夢の中で、海を見たと」


「海……?」

「この地方では海は遠い。けれど、あまりに鮮やかだったので、神父様は“影”かもしれないと」


 影――

 その言葉を、エミルは今日いくども聞いた。影は悪ではない。だが、影を見つめすぎると、目は暗さを好む。暗さを好む目は光に弱くなり、弱くなると誰かの手を必要とする。

 手が差し出されるたび、祈りの糸は強くなる。強くなりすぎれば、固くなる。ぐるりと同じ思考が戻ってきた。


 アデルは立ち止まり、石塀越しに空を見上げた。雲は薄く、形を変えやすい。

 変わる前に、ひとつ言葉を落とす。


「——エミル様は、怖くなったら“怖い”と言えますか」


 怖いと言うことは勇気だ。勇気は戦場だけのものではない。祈りにも、施療にも、日常にもある。

 けれど、怖いと口にして誰かを怖がらせるなら、言わないほうがいい。エミルは沈黙を選んだ。沈黙は答えの形にもなる。


「言えるように、なりたいです」


 アデルは微笑んだ。その微笑みは小さいが、確かだった。

 リュカは空を一度見上げ、すぐ地面に視線を戻した。地面は嘘をつかない。空はときどき嘘をつく。青く見せたり、広く見せたりして、人の胸を惑わせる。惑った胸では、祈りの言葉を探すのに時間がかかる。



 夜、祈祷室。

 エミルは紐に結んだ短い祈りを窓辺に吊るした。風は弱く、紐はほとんど揺れない。揺れない祈りは、重くなる前触れ。

 重くなる前に、言葉を削る。


「守るための目をください」

 →「目をください」


 短くすると、息がしやすい。息がしやすい祈りは長く続く。続けることが、徳の半分だ。


 胸の空洞を意識し、息を整える。空洞は崩れていない――が、ふちにひびがある気がした。ひびは痛まない。だが、音を立てる。音はまだ本人にしか聞こえない。


「神よ。

 もし疑うことが罪なら、

 どうか、それを小さくしてください。

 疑わないことが罪なら、

 どうか、それを教えてください。

 わたしは、間違えたくありません」


 間違えまいとする誓いは固くなりやすい。固くなると折れる。老女の声が、祈りの後ろで薄く笑った気がした。

 エミルは灯を落とす。廊下の鍵が一度鳴る。――眠れ。明日のために。



 眠りの底で、海が一度だけ見えた。

 波が寄せ、引く。砂に誰かが文字を書く。風が消す。誰かがまた書く。

 書く手は幼く、その隣に大きな手が置かれる。影が文字を覆い、すぐに退いた。

 砂に残る凹みだけが、そこに“手があった”ことを示していた。


 目覚めると、胸は静かだった。だが、その奥で小さな芽が息づいていた。

 芽はまだ色を持たず、名もない。けれど、土は覚えている。昨夜そこに“何か”が置かれたことを。


 エミルは窓を開けた。冷たい朝の匂いが頬を撫で、紐に吊られた短い祈りが微かに揺れる。

 揺れがあるということは、まだ黴びていないということ。黴びない祈りは長く残る。


 今日も訓練がある。今日も文字を書く。今日も守るべき者が屋敷を訪れる。

 リュカは静かに道具を整え、老女は湯を運び、師は短く言い、司祭は遠くで誰かに石を投げる。

 そして、芽は土の下で伸びていく。


 疑念の芽――それはまだ誰にも見えない。見えるのは、土の表面のわずかな盛り上がりだけ。

 盛り上がりは悪ではない。けれど、放置すれば根が深くなる。

 根が深くなれば、抜けない。抜けないものは、折るしかない。折れば痛む。痛みは弱さの証。弱さの証は、強さの始まり。

 ――この循環のどこで止まるのか、少年はまだ知らない。


 ただ一つだけ信じている。

 祈りは、風に揺らすと良いということ。

 彼は紐の結び目を指で撫で、固くなっていないかを確かめた。――固くない。よかった。

 固くなければ、まだ結び直せる。


 朝の鐘が鳴る。

 エミルは木剣を肩に担ぎ、回廊を歩き出した。

 歩幅は昨日と同じ。足音は祈りの拍に合わせて静か。

 胸の中の芽は、まだ音を立てない。だが彼は知っている。

 芽は葉より先に、根で音を立てるのだと。

 ――その音がどれほど大きな樹へ育つのかを、春の空だけが知っている。


ノルマンディーはいいぞぉ、


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ