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第8話 小さな嫉妬

アデルヤバイジャン

 春の陽が日に日に力を増すころ、屋敷のまわりには花の匂いが幾重にも重なり、青い空がただ静かに広がっていた。葡萄棚の若葉はまだ薄く、光を透かすと向こうが見えるほどだ。触れればひんやりとして、その冷たさが指先に名残を残す。

 朝の祈りを終えたエミルは、いつものように木剣を肩に担ぎ、訓練場へ向かった。胸の奥では、昼に訪れる客への小さな期待が灯っている。足取りは、この季節だけわずかに軽い。


 その日、訓練場の片隅に見慣れぬ影がひとつあった。腰ほどの背丈に、細い肩。顔立ちには幼さが残るが、目の奥は驚くほど落ち着いている。そこには不安よりも、静かな決意のようなものがあった。

 エミルの視線に気づくと、その少年は軽く会釈した。帯の下からのぞく革の端に、小さな刺繍がある。どこかで見覚えのある意匠で、手の込んだ縁取りが慎ましく施されていた。


 師が一歩進み、穏やかに告げる。


「本日より、ブラン家から見習いが来る。名はリュカ。施療の補助と、アデル様の身のまわりの雑務を務める見習いだ。屋敷での手伝いが主だが、ときおりこの場にも加わるだろう」


 リュカは一礼し、短く息を整えた。声は出さないが、その沈黙には怯えの影がなかった。むしろ、言葉を要しない慎重さがあった。

 リュカは口数が少なく、言葉は必要なときだけ、慎重に選んで発する。

 エミルは最初、その沈黙を無愛想なものだと思っていた。だが訓練が始まるとすぐに気づく。彼の動きは正確で、足の返しも、腰の回転も、まるで仕立ての良い布のように無駄がない。木剣が触れ合うときの音も、他の誰よりも静かだった。まるで世界の隅で、自分の輪郭をそっと置いているように見える。


 訓練の合間、エミルはその動きを目で追い続けた。

 やがて気づく。リュカがアデルの前では、別人のように穏やかになることに。屋敷へ戻ると、彼はそっとアデルの傍に寄り、包みを渡したり、椅子を引いたりする。仕草は自然で、どこか控えめだが、それがかえって美しい秩序を生んでいた。

 アデルはそれを受け取るたびに、短く微笑み、時折その手の甲に軽く触れた。

 その瞬間、エミルの胸に小さな刺がひとつ、確かに生まれた。


 刺は鋭くも熱くもない。ただ冷たく、静かに居座る。

 嫌悪ではない。むしろ、その感覚の誕生を自分の一部として受け入れている。

 胸の奥で何かが目覚め、それを喜ぶ自分がいることに、エミルは戸惑いを覚えた。


 昼になり、アデルは白い包布と施療具を携えて屋敷を訪れた。彼女は訓練を見守りながら、子どもたちの掌や膝を一人ずつ確かめる。リュカはその後ろを静かに歩き、必要なときだけ手を差し伸べる。

 アデルがエミルの手を取り、血豆の上にそっと指を置くとき、リュカは少し離れた場所からその様子を見守った。

 その姿には、見習いという立場を越えた責任のようなものが宿っていた。

 エミルはその責任の形を、どこかで羨ましいと感じた。


 午後の稽古が始まるころ、師は「防御からの反撃」を教えた。

 二人一組になり、片方が受け、もう片方が流れるように返す。

 力でねじ伏せるのではなく、相手の動きを受け止めて返すことで、攻撃よりも深い守りを学ぶ。

 師は繰り返す。——目的は相手を壊さぬことにある。


 エミルの相手はリュカに決まった。

 二人は木剣を構え、向かい合う。間合いは短く、息づかいが剣の音と混ざる。

 リュカの呼吸は一定で、驚くほど冷静だった。その冷静さは、無力さを隠すものではなく、感情を澄ませた静けさに似ていた。

 エミルは彼の動きを観察し、ひとつの規則を見抜く。

 左足を踏み出し、腰を沈め、相手の剣を受けてから右へ流す——その反復。


 稽古が進み、速度が上がる。

 エミルはその瞬間、かすかな揺らぎを見た。

 リュカの手が滑り、木剣の柄がわずかに傾く。

 エミルは反射的に、強く返した。

 意図ではない。ただ感情が、手の速さを先に決めていた。


 木剣の先が弾くような音を立て、リュカの腕に当たる。

 短い音。刹那の沈黙。

 他の子どもたちの息が止まり、師の眉がかすかに寄る。

 リュカは顔をしかめもせず、握り直して立て直した。腕には薄い青痕が浮かんでいる。

 痛みを見せないことが、痛みの否定ではない。

 彼は痛みを正しく扱う術を知っていた。


 エミルの胸は波立った。

 そのざわめきは言葉にならず、ただ脈として残る。

 偶然だったのか。力が入りすぎたのか。問いを重ねても答えは出ない。

 けれど一つだけ確かだった。

 リュカが痛みに顔を歪めたその一瞬、胸が締めつけられたこと。

 締めつけられた感覚は、守りたいという思いに形を与えた。

 ——守るとは、手を差し出すことではなく、胸の奥に誰かを置くことだ。


 稽古が終わると、アデルは静かにリュカの腕を診た。

 布を濡らし、傷口のまわりを拭き、柔らかく包帯を巻く。

 リュカは黙って受け入れ、視線を落としたまま微動だにしない。

 アデルの指先が触れるたび、彼の肩はわずかに沈み、また浮く。

 それは痛みの動きではなく、信頼の呼吸のようだった。


 アデルはその不器用な少年を責めず、包み込むように手を動かす。

 その優しさを見つめるうち、エミルの胸の奥に小さな炎がともった。

 炎はすぐに燃え上がらない。

 芯からじわりと熱を蓄え、光を孕む。

 ——光が生まれれば、影もまた濃くなる。

 アデルの傍にある光が、エミルの中に黒い点を落とした。


 夜、寝台に横たわっても、眠りは浅かった。

 夢の縁に、リュカの腕の青痕と、アデルの指先が触れる所作がちらつく。

 目を閉じれば閉じるほど、その光景は鮮やかになる。

 胸の底で細い糸が引かれるように、彼は手を伸ばした。

 だが届かない。届かないことが歯がゆく、同時に安心でもあった。

 ——守るべきものがそこにある。

 その確かさは慰めであり、不安でもあった。

 不安はやがて輪郭を得て、名を持ちはじめる。



 翌朝、エミルは夜明けとともに目を覚ました。

 胸の奥に残るざらつきを払いきれず、師に早朝の追加稽古を願い出た。

 師は少しだけ眉を上げたが、すぐに頷く。


「朝の空気で心を洗え。ただし覚えておけ——力を振るうときは、理由を持て」


 エミルは黙って頷き、木剣を握った。

 振るたびに肩の筋肉が軋み、掌の豆が痛む。

 痛みは彼を現実へ引き戻す。

 夢の中の淡い影とは違い、この痛みは確かに自分のもので、逃げ場がない。


 けれど胸の一隅は、まだ昨夜の影で覆われていた。

 影は形を変えず、視界の縁に黒い点となって残る。

 点は小さい。だが、日ごとに濃くなっていくことを、彼はまだ知らなかった。


 夕方、屋敷の図書室では、アデルとリュカが並んで詩を読んでいた。

 低い声と高い声が交わり、ページをめくる音が室内に溶ける。

 エミルは少し離れた窓辺に座り、外の庭を見ながらその響きを聞いた。

 庭の端で雪割草がひとつ、白く光っている。

 彼は立ち上がりかけたが、足は止まった。

 ——ここではない。

 心のどこかが、そう囁いた。


 その夜の祈りは、いつもより長くなった。

 彼は神に、ただ一つを願う。


「どうか、私を強くしてください。守るために、目を見開く力をください」


 声は震えず、言葉は丁寧に置かれた。

 けれど祈りの最後に、ひとつだけ短い言葉が添えられた。


「——誰が手を伸ばしても、彼女の手は離させません」


 その響きは、誓いにも似て、微かに呪いの色を帯びていた。

 まだ純粋な音色を保っている。だが、その純粋さが折れたとき——

 何が現れるのか、神ですら答えを持たない。

 祈りはときに、自らを縛る縄となる。


 翌日の稽古の終わり、師は子どもたち全員を集め、静かに言った。


「——守るということは、相手の自由を奪うことではない。

 自由を守ること、それこそが真の守りだ」


 言葉は淡々としていたが、空気の奥に重みを残した。

 リュカは黙って聞いていた。腕の青痕はまだ薄く残っている。

 エミルはその言葉を胸に落とし、こっそりと拳を握った。

 掌の豆は固くなり、痛みは鈍い。

 痛みが消えることはない。けれど、痛みの残骸は痕跡となり、やがて何かを生み出す。


 日々はゆっくりと流れ、季節は淡く移ろう。

 エミルの胸の黒い点は、まだ小さい。

 けれど確かにそこにあり、息をしている。

 祈りは続き、木剣は磨かれ、アデルの訪問も絶えない。

 リュカは変わらず静かで、控えめで、だが存在の芯は強い。

 目立たないものこそ、ときに最も危うい力を宿す。


 エミルはまだ、自分が何に手を伸ばしているのかを知らない。

 ただひとつ理解しているのは——守るべき存在が増えたということ。

 そして守るという行為が、いつか自分に重すぎる荷を背負わせるだろうということ。


 夜が更け、葡萄の蔓が風に揺れる。

 エミルは布団の中で静かに手を握り、明日の朝も木剣を振るうことを思いながら眠りに落ちた。

 胸の奥の刺は鈍く、しかし確かにそこにある。

 それはいつか、矢となって彼自身へ返ってくるのかもしれない。

 ——その予感は、まだ暗く、けれどかすかに温かかった。

ブラン家はブランケットから名付けました。


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