第7話 婚約者
カナル・サンにあるLa Trésorerieって店はいいぞ。
春は、冬の続きをやめるときにだけ、春になる。
雪どけの水が畝のすきまに光の線を引き、葡萄棚の木柱が昼のあいだだけ薄く暖まる。
霜の名残りは朝の鐘といっしょに退き、屋敷の長い廊下には、目に見えぬ布のような静けさが敷かれた。
エミルは、その布を汚さぬように歩く練習を、毎朝欠かさなかった。
歩幅は小さく、足音はひそやかに。
祈りの言葉を胸の中で数え、息の形を確かめてから扉に手をかける。
掌の中央の印は痛まない。すこし温かいだけ。
それは痛みではなく、合図だった。
その朝は、いつもと違う衣を着せられた。
麻の肌着の上に薄い亜麻布、さらに白い礼服。襟は硬く糊が効き、肩に小さな重みが乗る。
胸元にはロート家の紋章のブローチ。鏡に映る自分は、少し背が伸びたように見えたが、目の高さは昨日と同じだった。
老女マルグリットが裾を整え、皺を指で伸ばし、埃ひとつ見逃さぬ目でうなずく。
「本日はお客様がお見えです。——大切な方です」
「どなたですか」
「のちほどご挨拶があります。まずは朝食を。祈りを忘れずに」
エミルは頷き、食堂の席についた。
銀の匙が皿の縁を小さく叩く音、温めた牛乳の膜を破る音、パンの表面が指で割れる音。
音のすべてが、今日は少し遠くに聞こえた。
胸の奥が、いつもより早く呼吸しているせいだ。
祈りを唱えると、呼吸は落ち着き、匙の動きはふだんの軌道を取り戻した。
食べ終えると、老女が小さな封書を差し出した。
薄紫の縁取り。王都の副紋章が白い蝋の中心に押されている。
「王都より。昨日のうちに届いておりましたが、今朝お渡しするようにとのことです」
封を切ると、端正な文字で短く記されていた。
> ブラン家の娘アデル・ド・ヴァランティーヌ、本日正午、訪問。——結びの準備
結び。
神父の説教の中で何度も聞いた語だ。
二つのものをほどけぬように繋ぎ、目に見えぬ約束を形にすること。
祈りと祈り、家と家、ひとりとひとり——。
どの結びを指すのか、エミルにはまだわからない。
ただ、「守るべき者が来る」と老女に言われてから、胸の中の空白にやわらかな重みが置かれていた。
重みは怖くない。
弱いものを抱くとき、腕に宿るあの重さに似ている。
祈祷書を胸に当て、彼は小さく唱えた。
——どうか、正しく迎えられますように。
祈りの最後の語を丁寧に置くと、息の角が丸くなった。
◇
正午より少し前、白い旗を掲げた四輪馬車が門に現れた。
布張りの側面には麦と葡萄の刺繍。御者台の横に修道女、後部には見慣れぬ家紋の櫛形。
砂利を踏む車輪の音は、庭のひらいたところでやわらぎ、やがて止まった。
執事が深く礼をし、扉が開く。
先に降りたのは慎ましい修道女。続けて、少女。
春の光に触れた淡金の髪は、糸の束のようにまっすぐで、白いリボンが結び目を小さくまとめていた。
青い瞳は水面の色。見開かず、細めず、ただ真っすぐ。
裾が石をかすめる音は、紙束の頁をめくる音に似ていた。
「エミル・フォン・ロート様でいらっしゃいますね」
声は高くも低くもなく、祈りの節の高さだった。
エミルは緊張で喉が少し乾きながらも、教わったとおりに礼を返す。
「はい。エミル・フォン・ロートです。お越しくださり、ありがとうございます」
「アデル・ド・ヴァランティーヌと申します。——本日のお招き、心より感謝いたします」
名を名乗られた瞬間、胸の内側で糸が一本、確かに結ばれる音がした気がした。
糸は見えない。だが、指先がその存在を知っている。
エミルは糸を強く引かぬように注意した。
結び目を、いきなり締めすぎてはならない。——師が剣帯の紐を教えるとき、何度も言っていたことだ。
客間での挨拶を終えると、老女の計らいで二人は庭を歩けることになった。
見張りの目は離れず、しかし距離はある。
春の光はまだ低く、葡萄棚の列は影を短く落としていた。
「この庭は、とても静かですね」とアデルが言った。
「風の音が、よく聞こえます」
「冬のあいだ、枝を落としました。甘くなるために、余分なものを切るのだそうです」
「——余分、ですか」
アデルは「余分」という言葉を内側で転がすように繰り返した。
エミルは、なぜかその言葉が彼女の口に似合っているかどうかを気にした。
似合っていれば嬉しく、似合わなくても少し悲しいだけ。責める気持ちは生まれない。
彼女が言うことなら、すべてを赦せる気がした。
葡萄棚の端で、雪割草が咲いていた。
エミルはしゃがみ、指先で土の温度を確かめ、小さな白い花を示した。
「これ、母が好きでした」
「雪を割って咲く子……院の温室にも似た花があります。『最初の赦し』と呼ぶ修道女もいます。——冬の厳しさを、最初に赦すから」
赦し。
その言葉が彼女の口から出るとき、祈りの言葉とは違うあたたかさを帯びた。
エミルは頷き、花に触れた。
花弁は薄く、強く握ると壊れる。そっと近づけると、土と水の匂いが混じって鼻の奥に届く。
母の髪に塗られた祭日の香油の匂いとは違う、しかし同じように懐かしい匂い。
「エミル様のお母様も……?」
「はい。去年の冬に」
「存じ上げず、失礼いたしました。——神さまが、いっそう優しく守ってくださいますように」
アデルは胸の前で指を重ね、祈った。
祈るとき、彼女の顔は少し幼く見え、祈り終えるとまた凛と戻る。
その変化は、雲が光を通す瞬間に似ていた。
エミルは礼を言いたかったが、言葉が見つからず、かわりに短く頭を下げた。
◇
庭の次は温室、温室の次は書庫。
書庫に入ると、アデルの足取りはさらに静かになった。
古い紙の匂い。革表紙の乾いた手触り。窓越しの光に、埃が細かく漂う。
埃の踊りは、目に見えない小鳥が羽を動かしているようだった。
「読むのは好きですか」とエミルが尋ねると、アデルはうなずく。
「好きです。ただ、院では祈祷と施療の本が多くて……物語は、持ち込める日が限られていました」
「ぼくは、母の本で文字を覚えました。音の記号が並んで、誰かの心の中のことが、目の前に現れるのが不思議で」
「心の中のこと——」
アデルは棚から薄い詩集を取り出し、表紙の角を親指でなでた。
ページをひらくと、紙が小さく息を吸うように音を立てる。
彼女が読み上げる声は、祈祷の節よりもすこしだけ高い。
「——神は、沈黙の分だけ、言葉をお与えになる」
詩の一行が静かに書庫の空気に溶けた。
沈黙がその後に続き、沈黙が詩を完成させる。
エミルは、その沈黙の優しさを、彼女の読む声から初めて教わった。
「エミル様は、剣がお上手だと聞きました」
「まだ……始めたばかりです。守るための剣だと、ユーグ卿に教わりました」
「守るための——」
アデルは言いかけて、言葉を止めた。
“守る”という語は、ときどき重くなりすぎる。彼女はそれを知っている口ぶりだった。
けれど、それを言葉にしないのも、彼女の祈りの一部のように見えた。
「……わたくし、施療を学んでいます。怪我をした方の手当てを」
「ぼく、昨日、掌に豆ができました」
「見せていただけますか」
エミルはそっと手袋を外す。指の付け根の皮膚が盛り上がり、薄く剥けかけているところが赤くなっている。
アデルは驚かず、息も乱さず、視線だけをやわらかく落とした。
「痛みますか」
「少し。でも、痛いのは……悪くないです。立ち上がるときの、合図のようで」
彼女はうなずき、袖から清潔な布を取り出して軽く押さえる。
痛みは、触れられると別の形へ変わる。
冷たい水のなかで温かいものに触れたときのように、痛みの輪郭がやわらいでいく。
彼女の指先は小さい。
小さな指に自分の手の平が包まれると、守られているのは自分のほうだという気がして、エミルは少し戸惑った。
「傷は、弱さの証であり、強さの始まりでもあります。——院で、そう教わりました」
「弱さの、証」
「弱いから、祈ります。弱いから、手を伸ばします。弱いから、誰かの弱さに気づけます。……弱さは、恥ではありません」
言葉は静かに、しかし強かった。
エミルの胸の中に、その言葉のための空席が空き、そこへ言葉が座った。
椅子の脚が床をかすかに鳴らし、音はすぐに静まる。
——居場所を見つけた音だった。
◇
正午の少し過ぎ、簡略化された結びの儀が大広間で行われた。
白い布の上に花々、金の縁の小さな聖像、燭台に立てられた四本の蝋燭。
神父は祈祷書を開き、規定の節回しで文言を読み上げた。
老女マルグリットが控え、執事が見守り、修道女が背後で静かに手を組む。
誓いの言葉は長くなかった。
エミルは、胸の前で手を重ねる代わりに、アデルの手を取るように促された。
彼女の手は温かい。温かさは怖くない。
——手を離してしまうほうが、ずっと怖い。
「エミル・フォン・ロート。汝は、この娘を守り、その命と尊厳を——」
「守ります。何があっても」
神父の言葉が終わるより先に、エミルは言ってしまった。
誰かが小さく息を呑む気配。神父の目が、ほんの一瞬細められる。
アデルは驚いたのち、薄く微笑み、うなずいた。
神父は続けた。
言葉は決して乱されない。
神は殴られても、沈黙で答える——神父が昔、笑って言っていたことを思い出す。
指に細い紐が結ばれ、紐の端が短く結ばれる。
結び目は硬くはない。だが、解こうと思わなければ解けない。
エミルは結び目を見た。
見ていると、胸の印がほんの少しだけ脈を打つ。
祈りの脈。痛みの脈ではない。
だが、脈の真ん中は空洞で、空洞は音をよく響かせる。
彼は、その空洞の在りかを初めて知った。
守ると誓うとき、人の胸には空洞が生まれる。
そこへ、守るべき者の声や涙が入ってくる。
——からっぽにするのは、少し、怖い。
儀が終わると、庭で小さな茶会が設えられた。
焼き菓子、薄い蜂蜜、泡立てた牛乳。アデルは甘いものを口にしても、声の高さを変えない。
ただ、喉の奥の音がすこし柔らかくなる。
エミルは何度も言葉を探し、それからようやく言えた。
「ぼくは、剣を学びます。守るために。——あなたのことも」
アデルはうなずいた。
春の風が彼女の髪をほどき、リボンの結び目がいちど緩み、すぐに元へ戻る。
見えない誰かが、結びを結び直したかのように。
彼女は小さな包みを取り出した。薄い青の布に包まれ、白い糸で簡素に結ばれている。端に「A.V.」の刺繍。
「院で作った祈りの短刀です。施療のとき、布を裂いたり、紐を切ったりするためのもの。刃は丸くしてあります。危なくないように」
鞘は淡い羊革、握りは木。小さな鍬の印が焼かれていた。
エミルはそっと握る。掌に収まり、重くない。だが、確かだ。
掌と木のあいだで、何かが居場所を見つけた。
彼はうなずき、祈祷書と並べて大事にしまう。
「ありがとう。大切にします」
「どうか、誰かを守るとき、——自分も守ってください」
“自分を守る”という言い方は、彼にとって新しかった。
自分は守られる側にいるように思えない。守りたい、のほうが先に出る。
けれど、その言葉は心の空席の別の椅子に座った。そこに座る言葉は、長く居着く気がした。
◇
茶会の間、客人たちのあいだで小さな行き違いがあった。
遠方から来たブラン家の従者が、アデルの肩に外套をかけようとして、老女マルグリットに静かに制される。
「こちらの屋敷でお世話いたしますので」
従者は礼をし、すっと下がった。
ほんの短い一幕。
けれど、エミルの胸にだけ、小さな刺のように残った。
——外套をかけるのは、ぼくの役目だ。
思ってはいけない。そんなことは、言葉にすべきではない。
だが、胸は先に思ってしまう。
思いは、すぐに恥に変わり、それから細い痛みに変わる。
痛みは、誰にも言わなければやがて血に混ざる。
彼は自分の内側に初めて、目に見えぬ傷を見つけた。
見つけたと言っても、目では見えない。印のまわりが少し熱を帯びただけだ。
アデルは気づかない。
気づかないことを、エミルは責めない。
責めないことを、恥じない。
ただ、小さな棘の存在だけを、胸の布の裏に縫い付けておく。
縫い付けておけば、失くさない。
失くさないでいれば、いつか意味がわかるかもしれない。
意味が分かるまでは、祈る。祈りは意味を急がない。
◇
午後の終わり、修道女が「院へ戻る支度を」と声をかけた。
別れの挨拶は形式どおりで、丁寧で、短い。
短い別れは、後の長い再会のための隙間だと、神父はよく言った。
「また来られますか」とエミル。
「春の間に、何度か。施療の手ほどきと、読み書きを広める役目で参ります」とアデル。
「そのとき、——庭を案内させてください」
「ぜひ。葡萄の葉が大きくなったら、その影の中で祈りましょう」
彼女は笑い、祈祷書を胸に抱いた。
馬車の扉が閉じ、砂利の上でゆっくり回る車輪。
白い布がひらりと揺れ、ベール越しに見えた手が小さく振られた。
エミルは手が見えなくなるまで、門のところに立っていた。
風が頬を撫でる。少し冷たい。
冷たさは、涙の代わりになる。
泣いていない。泣く理由はまだない。
◇
夕方、教会の鐘が低く三度。
屋敷に戻ると、机の上に父の手による短い書き置きが一枚、増えていた。
> 誇るな。結びは己の栄ではない。守るべき者の息の温かさを覚えよ。
父の言葉は砂糖ではなかった。甘くない。だが、熱はあった。
火ではなく、鉄の熱——鍛えるための温度。
エミルは紙を折り、祈祷書の間に挟んだ。
祈祷書は、言葉と言葉の間に新しい言葉を挟んでも、形を崩さない。
崩れない強さは、弱さを否定しない強さだ。
今日、アデルに教わった言い方で言えば、そうなる。
そのとき、ふと指先にちくりとした。
庭で摘んだ薔薇の棘が薄く刺さっていたらしい。
棘は小さく、血はほとんど出ない。
それでも、痛みは確かだった。
エミルは、痛みを嫌わずに受け入れた。
——弱さの証。
証は、祈りの印と同じところで静かに脈を打った。
◇
夜の祈りは、いつもより長くなった。
ろうそくの炎が、部屋の角の影を浅くする。
影は黒ではない。灰でもない。休息の色。
膝に祈祷書を置き、言葉をひとつずつ丁寧に、息を整えて置く。
置くたびに、胸の空洞が言葉の形に合うように広がっていく。
「神よ。
わたしは今日、結びを受けました。
わたしのものではない結びです。
家と家の結びであり、祈りと祈りの結びです。
しかし、胸の奥で、確かに糸の音がしました。
その糸を、どうか強く引きすぎないよう、わきまえをください。
わたしは守ると誓いました。
守ることは、ときに、わたしを空っぽにすることだと知りました。
空っぽは、少し怖いです。
空っぽの場に、彼女の声と涙が入ってくるのだとしたら、
どうか、わたしの器が割れませんように。
割れぬよう、火加減を教えてください」
言いながら、掌の印を祈祷書に軽く当てた。
紙のざらりとした繊維が、皮膚の薄さを思い出させる。
薄いものを守る仕事は、厚いものを積むより難しい。
厚い壁は簡単だ。薄い膜で覆うのは難しい。
守るというのは、きっと、薄いほうの仕事だ。
「それから、神よ。
もし、わたしが至らないとき、
どうか、あなたが彼女を守ってください。
わたしが眠るあいだ、
わたしの知らないところで、
あなたの手が、そっと、外套をかけてくださいますように」
“外套”という語を口にしたとき、昼の小さな棘が、あらためて胸の内側で光った。
恥ずかしいほど小さな嫉妬だ。
けれど、祈りに入れてしまえば、嫉妬は溶ける。
溶け残ったものだけが、心に薄い色を残す。
その薄い色は、明日の判断を少しだけ変えるかもしれない。
——それでも、今は、赦す。
エミルは、自分にそう言い聞かせた。
◇
灯を落とし、寝台に身を横たえると、今日という布が静かに折りたたまれていく。
折り目は滑らかで、角は欠けず、皺は残らない。
——よく折られた布は、明日また広げやすい。
老女がよく言った言葉だ。
広げたとき、今日の続きの上に、薄い新しい白が重なる。それが日々。
眠る直前、瞼の裏で、馬車の窓から振られた小さな手が揺れ、その向こうに広がる白い布が風で波打った。
布は結び目を真ん中に持ち、ほどけないようにわずかに引かれている。
糸の一本いっぽんが昼の光を記憶して、夜のなかでも薄く光る。
——アデル。
名を心の中でひとつだけ呼ぶ。呼びすぎてはいけない。呼びすぎは祈りの形を壊すから。
ひとつだけ。それで十分だ。
眠りが降りてきたとき、廊下で鍵が一度鳴った。
合図。眠れ、という神の言い方。
エミルは、それに従い、息のかたちをほどき、胸の空洞のふちをそっと撫で、薄い毛布の重さのなかへ沈んでいった。
◇
夜の底で、夢が一度だけ、彼を試した。
広間の床に落ちた赤い紐、結び目、切れ端。
だれかが呼ぶ声。
だが、それは血の声ではない。
赤は祭の色。赦しの色。葡萄の色。
彼は夢の中で、赤い紐を拾い、結び直し、結び目を強く引かず、余らせ、指にかけ、祈りの節をひとつ置いた。
目覚めたとき、胸は静かで、印は痛まなかった。
——春は、冬の続きをやめるときにだけ、春になる。
やめることは、痛まない。
痛むのは、やめた先で、新しく持ちはじめるもののほうだ。
エミルは、春をひとつ、新しく持ちはじめた。
それは、守ると誓った相手の名であり、祈りの最後に置かれる一語であり、
胸の空洞に初めて宿る、やわらかな重みだった。
あ、生活雑貨のお店です。




