第6話 弱さの証
いいですか!フランスではバゲットをさかさまにおくと不吉とされるんです!
冬が抜けきらぬ朝、霜の残る訓練場で、エミルは木剣を振っていた。
息を吐くたびに白がこぼれ、地面に落ちる。誰もいない。師も、仲間の子供たちもまだ来ていない。早すぎる時間だ。
彼はただ、自分の身体が思うように動くか確かめたかった。前夜、夢を見たのだ。大きな剣を握り、知らぬ男たちを斬り倒していく夢。
夢の中で、自分の口から笑い声が漏れていた。
目覚めたあと、怖くて泣いた。
◇
陽が昇ると同時に、師がやってきた。手に細い枝を持ち、いつものように静かに言う。
「今日の課題は“受け”だ。強さではなく、弱さを知れ」
エミルは頷き、構えを取る。師の枝が軽く空を裂き、頬をかすめた。
痛みはない。だが、わずかな赤が指に残る。
師は言う。
「傷を恐れるな。恐れるというのは、生きている証だ。だが、恐怖に支配されるな」
エミルはその言葉を胸の奥に刻んだ。
恐怖と信仰は似ている気がした。どちらも、見えないものに心を委ねる行為だ。
◇
昼になる頃、彼は初めて転んだ。相手の木剣を受け損ね、肩から地面に倒れ込んだのだ。
土の匂いが鼻を刺し、目に砂が入る。
周りの子どもたちの笑い声がした。
エミルは悔しさで唇を噛んだ。
「なぜ笑うの?」
問いかけた声は静かで、それが逆に怖かった。
笑っていた子どもが一人、すぐに黙る。
「転ぶのは恥ではない。立ち上がらないことが恥だ」
それは師の口癖であり、祈りの一節にも似ていた。
立ち上がったエミルは、木剣を拾い、胸の前で再び構える。
その姿を見て、子どもたちは何も言わなくなった。
◇
夕刻、手には血豆がいくつもできていた。
師はそれを見て、ひとことだけ言った。
「それが“弱さの証”だ。誇れ」
弱さを誇る。
不思議な言葉だった。
だが、痛みのある掌を見つめるうちに、なぜか心が静まっていく。
痛みがあることで、生きていることを確かめられる気がした。
◇
夜、祈りの時間。
燭台の炎が揺れ、壁に影が映る。
彼は膝をつき、手を組んだ。
「神よ。私は今日、弱さを知りました。
それは恥ではなく、証なのですね。
どうか、私の弱さを赦してください。
そして、次に倒れる者を起こせる強さをください」
その祈りは、静かで、幼く、まっすぐだった。
それでも、その奥底で何かが目覚めつつあった。
“弱さ”が“力”に変わる瞬間を、誰かが見ている気がした。
◇
翌朝、屋敷の玄関に一通の封書が届いた。
紅い蝋で封じられたその印には、王都の紋章が刻まれていた。
執事が手渡すと、母の代わりに養育を担う老女が言った。
「陛下より、ロート家の嫡男エミル様へ」
エミルは首を傾げながら封を切る。
中には、わずかな文。
“春を迎える日に、隣国の名門ブラン家との縁を結ぶ”
その文字の意味を、まだ理解しきれなかった。
ただ、“縁を結ぶ”という言葉に、どこか暖かい響きを感じた。
家の中がざわつき始める。
誰もが慌ただしく準備を始め、服や贈り物、花の話をしていた。
エミルはただ、静かに窓の外の空を見上げる。
春が来るのだ。
彼はまだ知らない——その春が、
永遠の別れを運ぶ季節になることを。
フランスのカフェでは、カウンターで立って飲むエスプレッソは1ユーロ台なのに、
同じものを席に座って飲むと3ユーロ近くになることが普通です。




