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第5話「騎士の誓い」

いいですか!ルノーは戦車なんです!ルノーは戦車を作っていたのです。

 冬の終わりは、音がよく響く。石畳を踏む靴音も、革手袋の擦れる気配も、まだ眠る土の下の小さな水脈の音すら、耳に届いてしまう朝だった。


 その朝、教会の中庭には客が来ていた。深い緑の外套をまとい、胸に騎士の徽章をつけた年嵩の男。肩にかかる外套の重さをものともせず、背筋をまっすぐに伸ばして立つ。子どもたちは自然と距離をとり、木剣を握る手が少し汗ばむ。


 師が言った。


「王都より、近衛騎士隊の指導官が来られた。名を、ユーグ・ラグランジュ卿」


 彼の名の響きは、冬の空より硬かった。近衛騎士——王を護る剣。祝福された者たちが集められる、最も栄誉ある席。エミルは胸の奥がひとつだけ跳ねるのを感じた。跳ねたのは期待だ。恐れではない。恐れ方を、まだ知らなかった。


 ユーグ卿は子どもたちの列の前で歩みを止め、視線を静かに走らせた。瞳は深く、何を見ているか分からない。だが、どこにも刺さらない。刺す代わりに、すべてを測っているようだった。


「祝福の刻印を持つ子どもたちよ。剣を持つというのは、殺すためではない。生かし続けるためだ」


 その声は低く、石の壁を震わせて響いた。エミルは言葉の意味をまだ完全には理解できない。だが、その響きは祈りにも似ていた。守りたい者がいるから、剣を持つ——その理屈に、迷いはなかった。


「今日はひとつだけ、教えに来た」


 ユーグ卿は腰の剣を抜き、陽にかざした。その刃は輝きすぎず、濁りもせず、ただまっすぐだった。


「誓え。己を誇るな。誇るべきは、守る者の命だ」


 言葉は簡潔で、重かった。子どもたちは息を呑む。エミルは木剣の柄を握る手に少し力が入った。父の短い書き置きが思い出される。「励め」。励むことが、守ることに繋がるのだと知った。


「誰か一人。前へ」


 誰も動かなかった。静寂が瞬きの間に張り詰め、霜柱のようにその場を冷やす。エミルは、心臓の一拍が胸を叩くのを感じた。それは合図のようだった。気づいたときには、足が一歩前へ出ていた。


 静けさを切ったのは、石の上に乗る小さな靴音だった。


 ユーグ卿が近づく。影がエミルの肩へと重なる。彼は視線を逸らさず、木剣を胸の前に立てた。


 その瞬間、掌の印が脈を打つ。痛みではない。鼓動の呼応だった。


「名は?」


「エミル・フォン・ロートです」


「覚えておこう」


 ユーグ卿は剣を少し下げ、ゆっくりと告げた。


「この国の二割は貴族の血。だが、守るべきは残りの八割だ。剣は弱きのためにある」


 言葉が胸の奥深くに落ちていく感覚。温かく、重い。


「誓え」


 エミルは木剣を高く掲げ、息を整えた。昨夜練習した祈りの節が自然と喉に戻る。


「弱きを守り、涙を拭い、怒りの前に赦しを置きます」


「よい」


 短い肯定。だが、その一言は雪明かりのように冷たく光り、彼の心の隅々まで行き渡った。


 周囲の子どもたちが息を飲んだのが分かった。羨望、驚き、焦り——どれもがエミルには遠くの音に聞こえた。彼の世界は今、剣と誓いで埋まっていた。



 稽古は厳しく、同時に教えは丁寧だった。ユーグ卿は腕を引く方向を直し、足の幅を言い、顎の高さを示す。エミルはそのすべてを吸い込むように受け取った。


「剣は祈りだ。祈りを雑にするな」


「はい」


「息を乱さず。乱れれば刃が泣く」


「はい」


 刃が泣く。誰かを守れない悲しみ。それを想像すると、背がぴんと伸びた。


 途中、ユーグ卿はエミルに木剣を構えさせ、真正面から一打を合わせてきた。重さが木に響き、掌が少しだけきしむ。しかし足はぶれなかった。足が覚えているのだ。昨日、師に教わった「踏み」を。地に赦される感覚を。


「おまえは、まだ強くない。だが伸びる」


 その評価は、叱責でも賛辞でもない。未来を示す線だった。線はまっすぐで、彼にはそこを歩くだけの気がした。



 昼下がり、稽古が終わると、ユーグ卿は最後に短く言った。


「春になれば、おまえの家にも新しい風が来るだろう」


 新しい風。エミルは名前を心に浮かべた。

——アデル。


 ユーグ卿は言葉の続きを付ける。


「その風を守れる騎士になれ。守れぬ者に剣は持たせぬ」


 守る。

守る理由は、まだ抽象的だった。

しかし、それで構わない。

抽象は後に形を持つ。

祈りもそうだった。



 帰路、空は灰を脱ぎかけた青で、葡萄棚の影はまだ短い。霜の下から春の匂いが混ざる。エミルは木剣を肩に担ぎ、屋敷の門をくぐった。


 執務机の上には、父からの紙が一枚。


「よくやった」


 たったそれだけ。

それでも胸に小さな光が灯る。

光は脆いが、消えない。


 エミルは机の隅に置かれた祈祷書を開き、今日の誓いを小さな字で書き加えた。


「誇らず、守る」


 ペン先が羊皮紙に沈む。

沈んだ跡は、祈りの傷跡のようだった。



 夜、眠る前に木剣を両手で抱き、祈りを捧げる。

窓の外では風が葡萄棚を撫でる。

その音にまじって、廊下で鍵が一度鳴った。


——合図だ。


 眠れ、という神のしるし。


 エミルは静かに目を閉じた。


「守る力を、どうか与えてください」


 祈りが終わると、闇はやさしく降りてきた。

やさしい闇は、剣を持つ少年に夢を与える。

その夢がいつか悪夢に変わる未来を、

まだ誰も知らない。

Leclerc

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