第4話 天国の階段
フランスパンボルグ
朝の鐘は三度。薄い雲の向こうで光が広がると、屋敷の廊下はやわらかな冷たさからほどけて、人の声より先に床板の匂いが目を覚ました。
食堂には温い牛乳と黒パン、冬越しの林檎を煮た甘いもの。湯気の向こうで侍女頭のマルグリットが銀の匙を置き、エミルの前に木皿をすべらせた。匙の腹に朝の光が映り、ゆらりと揺れる。
彼は掌を合わせるように胸の前で短く祈り、匙を取った。
「今日も、教会へ?」
「はい。午前は剣、午後は歌と文字です」
「よく学び、よく祈り、よく食べる。——奥様の口癖でございました」
言われて、彼はわずかに微笑んだ。
口に含んだ温かい甘さは、記憶のどこかで弦の音に変わる。クラヴサンの蓋、鍵盤の白、母の指先、楽譜の紙の匂い。すべてが朝の光の中に淡く浮かび、やがて湯気の向こうに沈んだ。
「殿は?」
「夜半にお戻りでしたが、また朝一番でお出立ちに。書き置きが机に」
マルグリットは短く首を傾け、小さな紙片を差し出す。粗い筆の走りで「励め」とだけ。
丸めた背骨に入った一本の鉄のような言葉だった。
彼はそれを読み、机に置き、布でふいた指を組んだ。
「励みます」
彼の声はよく通った。
祈りの言葉を毎日唱えるうちに、胸の中に一本の管が通り、そこを空気がすべらかに行き来することを覚えたのだ。
言葉は息の形。息は命の歩幅。歩幅が整うと、朝が始まる。
◇
教会の中庭は昨夜の霜をうすく残し、霜が陽のぬくもりでほどけて小さな水玉に変わっていた。水玉は石の目地で震え、すぐに見えなくなる。
修練服の子どもたちが輪になり、木剣の柄に皮ひもを巻き直し、結び目をほどき、また結ぶ。師は輪の外に立ち、鍵束を掌で押さえ、音を立てぬようにしていた。
合図は声で足りる朝だった。
「祈りの姿勢」
子どもたちは一斉に肩を落とし、下腹の前で柄を立てた。
エミルは眼差しを水平に置く。誰かを睨まず、誰かを見下ろさず、空を測る角度でまっすぐに。
「本日は『踏む』を覚える。腕の力ではない。足の裏が地の赦しを受け、膝がそれを通し、腰がそれを束ね、背がそれを渡し、肘がそれを細くし、掌がそれを剣に渡す」
師が石に足を置き、体の内側で波を作って見せる。
波は肩で止まらず、背骨の奥を通って指先まで届き、木剣の先で小さな円を描いた。
円は空を撫で、すぐに消えた。
誰かが小さく息を漏らし、輪の外のマロニエの影が微かにゆれる。
「では、祈りと踏みを合わせる。——『守りの節』」
エミルは足の親指と小指で石の目地を探り、片膝のばねを意識して師の声にあわせた。
声が低く降りるところで踵を置き直し、声が少し上がるところで肘の角度を薄く変える。
掌の印は、ほんの少しだけ脈を打つ。痛みではない。
数えるときの心臓の触れ。触れは間合いの合図で、今は充分に静かだった。
最初の一巡が終わると、二巡、三巡。
木と木が触れる音は薄い。
自分の音がとても小さいことに気づいた。
小さいことは、悪いことではない。
守ろうとすると音は小さくなる、と師が言っていた。
攻める音は響く。響く音は、やや危うい。危うさは、まだ彼の手には似合わない。
「——よい。エミル、いま、肘の緩みが形になった。忘れるな」
名を呼ばれ、彼は短く頷いた。
名を呼ばれることは、心にひとつ灯がともるようなことだ。
灯は熱を持たず、眩しすぎず、周囲の輪郭をやさしく示す。
輪郭があれば、怖がらずに歩ける。
小休止。木桶の水で指先を冷やし、布で押さえる。
水面が揺れて、空の薄雲を四角く映す。器の縁は木の匂い。鼻の奥に湿った土の匂いが混ざる。
遠くで鐘が一度だけ鳴り、街路の向こうで誰かが馬の鼻面を撫でる音がした。
「エミル、昨夜の手紙を見たか」
師がふと尋ねた。彼は頷く。
「はい。王都の院より」
「うむ。春には、ここにも院育ちの少女が二人来る。施療の作法と読み書きを広めるためだ。神の家は女の施しによって整う、と書かれていた」
女の施し。
エミルは、その言葉を胸の内で裏返し、置き場所を探した。
母は指先で音を置く人だった。置かれた音は、人の手の届かぬ場所で眠り、必要な時にだけ目を覚ます。
施すというのは、眠りの場所を用意することにも似ているのだろうか。
「おまえの家へも、ひとり訪うことになろう」
「院の方が、ですか?」
「祈りをよく知り、土の匂いを好む娘だと書かれていた」
彼は隣の石を見た。石は、やはり石のままだった。
何か特別なことが起きる手触りは、まだここにはない。
ただ、言葉が胸の白い場所に置かれ、そこだけ少し温かい。
「アデル、という名だ」
師の口から出た名は、昨日、父の口から出たそれと同じ音の具合だった。
彼は一度だけ胸の中で繰り返し、そこに短い祈りを重ねた。
——良い友でありますように。
◇
午後は堂の側廊で歌の稽古。壁際のベンチに並び、油灯の小さな火が譜面の上で揺れる。
師は黒板に音の段を引き、古い祈りの一節を書き写した。
今日の題は「階段の賛歌」。罪の重さを軽くするため、天へ向かう段の数を指で数えるように歌う。
子どもたちは息を揃え、伸ばす音の長さを指先で示す。
エミルは前列の右端に座り、符の小さな頭をたしかめ、喉の奥で音を響かせ、鼻へ抜く量を少し減らした。
「よい。——では、言葉を置け」
文字が音に乗り、音が言葉を運ぶ。
運ばれた言葉は紙より重たく、舌より軽い。
彼は隣の子の息が浮ついているのに気づき、肩をひとつ落として合図を送り、途切れそうなところで自分の声を少しだけ長くして支えた。
支えるというのは、目に見えぬ布をひらりと差し出すことに似ている。
布は落下の痛みをやわらげ、布自体の傷は小さい。
祈りは人に見えぬところでこそ働く。師はそう言っていた。
歌い終えると、側廊の隅で紙を切る音がした。
若い修女が細い手で羊皮紙を等分に裁ち、紐でまとめる。
襞を作る音は、遠い波のように規則正しい。
彼女らは春から来る院の娘たちのための教材を用意しているのだという。
文字の筆順、祈りの順、手洗いの順。
順というものは心を落ち着かせる。落ち着くと、神の声がよく聞こえる——と師は言う。
彼はその言い方が好きだった。声が遠くても、順があれば待てる。
「エミル」
名前を呼ばれて顔をあげると、師が筆を置いてこちらを見た。
「祈りの最後の語を、昨日より少し丁寧に」
彼は頷き、口の中で「赦し」をひとつ転がす。舌の側面でやさしく支え、唇の端をわずかに開いて息を細く送り出す。
最後の子音が空気に溶け、音はきれいに消えた。
消える形が整っていると、人はその後に沈黙を置きやすい。
沈黙は祈りの一部で、そこに神が降りてくるのだ——師はそう教えた。
廊下の向こうで、鍵の音が一度だけ鳴った。
誰かが扉を開け、閉める。扉は音を立てず、鍵だけが約束を確かめるように鳴った。
彼は視線を動かさず、譜面の余白に小さな十字を描いた。
描きながら、胸の奥で一段、階段を上がる気がした。
足元は軽く、空気は薄いのに苦しくはない。
薄い空気は心の輪郭をくっきり見せる。
見えた輪郭に沿って祈ると、言葉がよく届く。
屋敷へ戻る道は、葡萄棚の列を斜めに切るように続いていた。
冬芽は褐色の小さな指で、指先に春の匂いをほんのわずか溜めている。
畝の間の土は、人の靴の幅が一本ずつ残した記憶のように固く、表面だけが乾き、指で掘ればまだ湿って重い。
エミルはひとつ屈んで、土を爪の腹に取った。
匂いは甘く、古いパンの芯に似ている。
遠くで、牛が鈴を鳴らし、粉挽き小屋の臼がゆっくりと回る低い音がした。
丘の向こうから、四輪の軽い馬車がふたつ、列をなして現れた。
先頭は白い布をかけ、後ろは麻袋を積んでいる。
御者台の横には修道帽をかぶった若い修女がひとり座り、馬車の側板に刺繍の袋を括りつけていた。
刺繍は麦と葡萄と水差し。
遠目にも、丁寧な手だと分かる。
マルグリットが門前まで迎えに出て、馬車は中庭で停まった。
修女は軽やかに地に降り、礼をしてにこやかに言う。
「春の施療の品と、院からのご挨拶、それに巻物を少し——」
彼女は袋の口を探り、細長い包みをひとつ取り出した。
淡い青の布に包まれ、白い糸で簡素に結ばれている。
布の隅に、小さく「A.V.」の刺繍。
「アデル・ド・ヴァランティーヌ様より。ご挨拶の印でございます」
エミルは一歩前に出て、受け取ってよいのかと目で問う。
マルグリットが頷く。
彼は両手で包みを受け、糸の結び目をほどいた。
ほどいた先に現れたのは、小さな祈祷書と、薄い羊革の鞘に収められた木の短刀だった。
短刀は刃ではなく、細く丸い先がつき、柄には畑で使う小型の鍬の図が焼印されている。
祈祷書の見返しには、細い字で短い言葉。
畑を守る人へ。
いつか、いっしょに葡萄の葉の影で祈れますように。
A.V.
彼は文字をなぞる指先に、ふっと風が触れるのを感じた。
畑、葡萄、影。
祈りの場所としての影——それは恐れではなく、休息のかたちだった。
影がなければ、葉は焦げる。
焦げた葉からは、甘いものが採れない。
守るというのは、光を遮ることでもある。
彼はそのことに、初めて気づいた。
「ありがとう、と伝えてください」
修女は微笑み、荷を降ろす手を止めずに頷いた。
マルグリットは祈祷書をそっと拭き、短刀の鞘を革布で磨いて机に置いた。
彼は木の短刀を握ってみた。
柄は掌にちょうどよく、指が自然に巻きつく。
押す力でなく、支える力が伝わる形。
押しつけるのではない。
そこに、ある。
あることで守る。
それは剣とは別の祈りだった。
◇
晩の食卓はいつも通り静かで、椅子の数の方が声より多かった。
スープの鍋が温かな湯気をあげ、それだけで部屋の隅の影がやわらぐ。
彼はスプーンを持ち、短い祈りを心の中で繰り返した。
言葉を口にしない祈りは、音のない歌に似ている。
聞こえないが、確かにある。
あるとわかるのは、息が整い、肩が下がるからだ。
食後、執務室の机にもう一枚、父の書き置きが増えていた。
昼の間に戻り、また出て行ったのだろう。
紙は薄く、端がわずかに乱れている。
読みやすい字で短く、「剣の足を忘れるな」とだけ。
彼は二度読み、紙を重ね、鍵の前に小さな石を置いて飛ばぬようにした。
鍵の歯が月の光で白く光り、窓の外で風が葡萄棚を撫でる。
蔓は静かで、木の柱は冷たい。
春が来る前には、必ずいくつかの枝を落とす。
落とすことは弱さではない。
甘さのための節制。
母の声が、遠い部屋の白さの向こうでそう言った気がした。
彼は頷き、祈祷書を開いた。
小さな文字が灯の下で紙の繊維に吸い込まれ、やわらかな影を持つ。
「——階段の賛歌」
昼の歌を口の内でたどり、言葉を一つずつ丁寧に置く。
高すぎず、低すぎず。
届く場所と、待つ沈黙。
祈りは、段を一段ずつ上る練習のようだった。
足裏に板の感触が増えるたび、胸の中が軽くなる。
軽くなることは、天に近づく印。
近づくほど、地の匂いが恋しくなる。
彼は短刀の柄を指で撫で、畑の匂いを思い出した。
——いつか、影の下で。
◇
床に入る前、彼は窓を少し開けた。
夜気は細く、頬に触れてすぐにどこかへ行く。
空には星が少なく、雲が薄く一枚、庭の上にかかっている。
マルグリットが扉のところに立ち、「風邪を召しませんように」と囁いた。
彼は窓を半分だけ閉め、祈祷書を胸に置いてベッドに横たわる。
目を閉じると、今日一日の白い面がゆっくりとめくれた。
中庭の霜、木桶の水、鍵の控えめな音、師の「よい」、修女の刺繍、短刀の焼印、祈祷書の細い字、葡萄棚の指、父の短い言葉。
すべてが薄い紙のように折り重なり、軽い手触りのまま胸の上に積もる。
積もったものは重くない。押し潰さず、ただ温かい。
——神さま。
呼ぶ。呼ぶと、どこかで小さな返事があった気がする。
言葉ではなく、階段の上の空気のやわらぎ。
次の段へ足を置く前に、そこが確かだと知れる一瞬。
彼はそこに足をのせ、肩の力を抜いた。
「守るために、強くなります」
声に出さずに言った。
言葉は胸の骨に触れ、骨から背へ、背から枕へ、枕から静かな夜へとしみていく。
夜はそれを拒まない。
拒まない夜に身を預けると、眠りは自然にほどけ、今日という布を静かにたたむ。
たたまれた布の上に、明日という白が置かれるだろう。
その白の端に、彼はもうひとつ小さな言葉を書き添えた。
——アデル。
名は音であり、祈りであり、約束だ。
彼はその名の上に指を軽く置き、灯を消した。
闇は黒ではなく、休息の色だった。
休息の中で、心臓は静かに働き、掌の印は痛まず、ただそこにあった。
そこにあるものは、いつでも祈りに変わる。
◇
夜半、廊下で鍵の音が一度だけ鳴った。
扉の開く音はせず、すぐに静かになった。
合図——眠りの階段をひとつ降りる合図。
彼は目を覚まさず、合図だけを夢の底で受け取った。
白い息をひとつ吐いて、さらに深いところへ沈む。
夢は穏やかで、何も起きなかった。
ただ、丘を越える風の音があり、葡萄の葉はまだ小さく、影は薄く、土の匂いがほんの少し強いだけだった。
彼はその匂いを吸い込み、置き場の定まった心を胸に、静かに眠り続けた。
祈りは階段。階段は天へ。天は遠く、同時に近い。
彼がそのどちらも信じられるあいだは、世界はまだやさしい。
やさしい世界は、剣を持つ子どもに、守るべきものを教える。
彼はそれをひとつ、またひとつと胸に置き、夜の白に身をあずけた。
ジャンヌダルクってなんかダンケルクみたいだよね




