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第3話 祈りは剣となる

なんでも語尾にヌをつければフランスっぽくなる説

 春の手前で、土はまだ冷たく、空気はガラスのように薄かった。午前の鐘が三度鳴ると、白光教会の中庭に子どもたちが集められる。祈りと文字と数の稽古に続いて、今日は木剣の持ち方を習う日だと師が言った。

 祈りは心の形、剣は祈りの腕である——それが教会流の教えである。細い枝を束ねて編んだ的に向かい、間合いを測る。冬の名残の風が、的の端をふるふると震わせた。


 エミルは列の真ん中に立っていた。背の高い子ではない。だが足元は静かで、指先が石の目地を探すように柔らかく拡がり、すぐに戻る。師はその立ち方を遠目に見て、何も言わなかった。良いときには褒めず、悪いときにも叱らない——それが彼の教え方だった。


 木剣が配られていく。乾いた木の匂い。新しいものほど樹皮の甘さを残している。

 エミルの手に来たのは、先が少し丸く削られた、柔らかな色の柄のものだった。握ると、掌の薄い曲線がわずかに疼く。疼きは痛みではない。呼吸のような合図。彼は柄を持ち直し、右足を半歩前へ出す。


「祈りの姿勢で立ちなさい」


 師が言う。子どもたちの肩がすっと下がる。胸の前で手を組むかわりに、木剣を立て、刃のない先を空へ向ける。柄の根元は心の真下——骨の広がる場所に軽く触れている。

 息を吸い、数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。息を吐き、また吸う。数は静けさを作る。


「よし。では、『入門の祈り』」


 師の声に合わせ、子どもたちは唱えた。


——光の子は、弱きを守る。

光の子は、怒りより先に赦しを選ぶ。

光の子は、剣に祈りを結び、

自らの血よりも他人の涙を選ぶ。


 言葉は冷たい空気で研がれ、エミルの胸の奥にきれいに収まった。

 祈りを終えると、師は木剣を横に構える動きをゆっくり示す。肘と肩の高さ、手の開き、足の向き、目の置き場を一つずつ整えさせた。

 エミルは目の端で、他の子の肩が緊張で上がっているのに気づく。肩が上がると腕は早く疲れ、手が暴れる。暴れる手は誰かを傷つける。

 彼は自分の肩をひとつ下げ、足の親指に軽く力を入れ、膝を柔らかく保った。


「よい」


 師がそっと言った。褒められたのだと気づくまで、少し時間がかかった。

 胸の内側に小さな温かさが落ちる。温かさはすぐ形を持たず、からだの空洞で安定した。

 彼は木剣を握り直し、的へ一歩寄る。的の編み縄の隙間から、冬の白い光がこぼれていた。


「打ち込みを——十。声を出して、数えなさい」


 子どもたちの声が重なる。エミルも声を出した。ひとつめは軽く、ふたつめは真っ直ぐ、みっつめは音を聴くための打ち込み。木と木が触れる澄んだ音がする。音は短く、中庭の石に吸われて消える。

 数を重ねるごとに、掌の印の疼きが、かすかに間合いの合図のように動く。押し出し過ぎるな、足が先だ、視線は落とすな。

 彼は教えられたわけでもないことを、理屈ではなく身体で知った。


 打ち込みが終わると、師は静かに頷く。


「祈りの腕が、形になってきた」


 エミルは木剣を下ろし、胸の前に立て直した。祈りのときと同じ姿勢。

 彼の中では、祈りと剣は矛盾しなかった。剣が祈りの延長であるなら、斬ることは救いのためだ。誰かを守るために剣はある。神はそれを好まれる。そう教わり、そう信じた。


 列を離れ、縁の石に腰を下ろすと、指先が少し震えていた。疲れは悪いものではない。きちんと使った証だと、母は言っていた。

 母の言葉を思い出すと、胸の中が柔らかくなる。空は薄く晴れ、ステンドグラスの破片のような光が中庭の水栽に散っていた。

 師は堂内へ戻るところで、腰の鍵束を軽く押さえた。金属が布に触れる小さな音がする。音は冷たく、しかし嫌ではない。あの音は教えの合図——祈る時間、学ぶ時間、食べる時間、眠る時間。音が来るたび、今日の自分を知る。



 午後の教室では、紙と羽根ペンが配られた。新しい紙の硝子のような白さ。端を指で押すと、少し弾力が返る。

 師は黒板に短い節を二つ書き、音の上がりと下がりを文字の線で示した。


「今朝の『入門の祈り』を、歌にする練習だ。文字の読み書きと同じだよ。音にも形がある」


 エミルは羽根ペンを持ち、師の示す線の上に細い線を添わせた。

 ペン先の震えが紙の繊維に吸われ、安定する。息を吐き、音節ごとの高低を指の腹で数えた。掌の印の脈が近く、指先に小さな鼓動が伝わってくる。鼓動に合わせて音の形を置くと、自然と節が整った。


 左右の席の子が、エミルの紙を覗き込む。師は見て見ぬふりをし、教室の後方で鍵束を置いた。

 鍵の音はくぐもっていた。きっと布の上だ。布の上の音はやわらかい。やわらかい音は、胸を緊張させない。


「——よい。声にしてみよう」


 師が合図すると、子どもたちはおそるおそる声を合わせた。

 最初はばらばらで、誰かの声が外れ、誰かの声が遅れた。

 エミルは自分の声を小さくして、音を聴く。前列の子が少し高く取りたがる癖を見つけ、右隣の子は息が浅い。彼はひとつ息を吸い、目で「ここ」と知らせた。

 声が重なり、音がひとつになる。背の低い子の心臓の速さと、背の高い子の呼吸の深さが混ざっていた。混ざったまま、なめらかに流れた。


 歌の最後の語が落ちると、師は短く拍手した。


「合格だ」


 エミルは驚き、顔を上げた。合格——という言葉は、彼にとってまだ遠い場所のものだった。

 遠い場所から、温かいものが届く。届いた温かさが胸の奥でほどけ、少しだけ涙になりそうになる。

 涙は悪いものではない。だが、今ではない。彼は瞬きをして、ペン先の黒を紙へ戻した。



 稽古の終わった子らは中庭で少し遊ぶことを許された。鬼ごっこ。跳躍。石蹴り。

 エミルは端のベンチに坐り、靴紐を結び直す。紐の端が冷たく、指で暖めると柔らかくなる。

 ふと見上げると、聖堂の外門に白い旗を掲げた馬車が停まり、修練服の若い修女が二人、院内へ荷を運び入れていた。

 馬車の旗には王家の紋章に似た意匠が入っていたが、色が少し違う。正しい王の色より淡い——枝家か、聖域で育てられる少女たちの所属だろうと、子どもながらに思った。


 馬車の車輪が砂利を踏む音に、隣で跳ねていた少年が気づく。


「あれ、王都からの使いだよ。春の施療の経巻が届くって」


「経巻?」


「怪我をした兵士に読む、癒やしの章。神さまが聴いてくれるように、きれいな文字で書いてあるんだって」


「きれいな文字は、神さまに届きやすいの?」


「知らない。でも、師はいつも『形はこころを助ける』って言うよ」


 少年は跳ねながら言い、また遊びに戻った。

 エミルは馬車の白い布が揺れるのを見た。布の縁に縫い込まれた細い赤糸が、光の加減で時折、燃えるように見える。

 赤は炎の色であり、王国の色であり、祭礼の色でもある。母は祝いの日にだけ赤いリボンを髪に結んだ。赤は温かく、危険で、美しい。

 エミルは赤を怖れなかった。怖れの形をまだ知らなかったから。



 夕方、屋敷へ戻ると、玄関の卓に封蝋の手紙が置かれていた。白い蝋、薄い紫の縁取り、中央には王国の副紋章。

 母が生きていたなら、まずそれを手に取り、香りを確かめ、紙の厚さから差出人の慎重さを当ててみせただろう。

 今は侍女頭のマルグリットが、主家に相応しい所作で執務机へ運び、辞を低くして言った。


「侯爵様からでございます。殿は今夜遅くお戻りの由」


 机の上で紙は静かに待っていた。エミルは文字の輪郭を思い出しながら、封蝋の艶を見るだけで、その内容を想像しようとした。

 想像は祈りに似ている。正しく想像すれば、正しい未来に近づける気がするから。

 紙の端に、細い筆で「院へ」と書かれているのが見えた。修道院へ——誰かが来るのか、あるいは送られるのか。

 彼は自分の年齢を指で数えた。まだ幼い。修道院は少女たちの学校でもある。


 侍女頭は彼の視線に気づき、穏やかに微笑んだ。


「良い知らせでございますよ、坊ちゃま」


「どんな?」


「それは……殿がお帰りになってから」


 良い知らせ。良い知らせは塩に似ている。少し舐めると口の中に水が湧く。飲みすぎれば渇く。

 彼は胸の中に、塩をほんの一粒だけ落とし、台所から香ってくるスープの匂いに身を委ねた。

 にんじんと玉葱と骨の匂い。骨の匂いは嫌いではない。命が形を変え、別の命を支える匂いだから。



 夜、父が戻った。軍服の上に埃のついた外套を掛け、髭の根にうっすらと白い粉(道中の霜の名残り)がついている。

 エミルは玄関の柱の陰でその姿を見て、少し背筋を伸ばした。

 父は彼を見ると短く頷き、机の前に座った。侍女頭が封蝋の手紙を差し出す。

 父は封を切り、目を走らせた。紙から紙へ、意味から意味へ、迷いなく飛ぶ。

 やがて唇の端をわずかに上げ、視線をエミルに移した。


「立派だったと聞いている。教会での稽古のことだ」


「はい」


「祈りは剣の柄を温め、剣は祈りの形を守る。そう習ったか?」


「はい」


「よろしい」


 父は短く言い、手紙の内容を淡々と告げた。

 王都より、院育ちの少女のうち、特に操行と信仰に優れ、家柄も申し分ない者が、各地の名家と結びを受ける候補として送られてくる。

 今年はそのひとりがロート家にも巡るという。

 それは婚礼ではない。子ども同士の約束、未来に向けたつなぎ——許嫁。

 父は言葉を選ばず、事務のように言った。言いながら机上の鍵を指先で動かす。鍵の歯が木に軽く当たり、小さな音を立てた。

 その音は、今まで聞いてきた合図の音と同じ色だった。


「彼女は良い娘だと聞く。祈りをよく知り、畑の土の匂いも知っている。王家の枝家の養い子で、院で育った」


 エミルは瞬きをした。祈りを知る娘。土の匂いを知る娘。どちらも、良いことに思えた。

 彼女が来たら何を見せよう。母が弾いたクラヴサンは今も白く、埃を払えば光る。葡萄棚の芽ももうすぐ開く。

 あれを見せたい。見せたら、彼女は喜ぶだろうか。喜んだら、神は見て笑うだろうか。

 そう思うと、胸の内側がひとつ温かく動いた。動きは痛みではない。未来の形を撫でる指のようなもの。


「名は……」


 父は紙をもう一度見て、短く告げた。


「アデル。アデル・ド・ヴァランティーヌ」


 口に出すと、なめらかな音だった。アデル。

 言うとき、舌が上顎を柔らかく撫で、最後に空気が軽く鼻へ抜ける。

 ヴァランティーヌ——冬を越す草の名のように響く

フラペチーヌ

フトウカイコーヌ

サビザンヌ

オ・パンティ―ヌ

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